山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

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「黒いハト」の時代の終焉

2003年09月25日 | 政局ウォッチ
小泉純一郎氏を首班とする小泉政権とは、「橋本派」や「森喜朗」に代表される従来型自民党政治を打破するために生まれた「国民政権」のはずだった。

清和会(森派)会長時代、森政権擁護の急先鋒として橋本派と闘った小泉氏が、森政権に批判的だった国民世論の後押しを受け、同じく森政権に批判的だった田中真紀子氏や石原伸晃氏らを閣僚に任命、盟友の山崎拓氏を党幹事長に迎えて発足したのが小泉政権だった。

その小泉政権が、今回の総裁選を経て、かつて森政権を支えた「ある政治構造」に依拠しはじめているようだ。その政治構造こそは、故竹下登元首相以来の「早稲田大学雄弁会」である。

★理念なき談合集団

竹下氏と青木幹雄参院幹事長が早大出身であることは有名だが、旧竹下派の「数の支配」が、同時に「学閥支配」であることは、あまり知られていない。

竹下氏の傀儡(操り人形)と呼ばれた海部俊樹首相は早大雄弁会OBだった。野党時代の自民党総裁だった河野洋平氏や、元首相の故小渕恵三氏も同じく雄弁会OBである。

さらには、小渕首相の急死を受けて、急きょ青木氏らに担がれた森喜朗首相も、同じく早大雄弁会の卒業生であり、その間の自民党は「竹下派支配」であると同時に「雄弁会支配」だったのだ。

旧竹下派の本流は、常に早稲田大学雄弁会が占めてきた。彼ら雄弁会閥こそが、ある時は自ら政権を握り、ある時は傍流派閥の雄弁会出身者を首相に担ぐことで、直接的・間接的に日本の最高権力を独占し続けたのだ。

その旧竹下派にあって、もう一つの流れが野中広務、鈴木宗男、村上正邦の各氏に代表される「ハト派」グループだった。「反戦」「沖縄」「福祉」などを重視するこのグループは、90年代の連立時代になって急速に台頭してきた。

早大閥の派閥内主流派に対し、このグループは高卒であったり、拓殖大卒であったりと、比較的大衆に近い視点から政治行政に挑んでいたのが特徴だ。その意味では、竹下派の前身に当たる田中派の首領・田中角栄元首相の系譜を継ぐ集団と言えるかも知れない。

慶応卒の橋本竜太郎氏も「沖縄」と「福祉」では野中氏らに近い位置にいたと言えるだろう。事実、野中、鈴木両氏らは橋本政権下において最も急速に活躍の場を広げていったのだ。

社民党や公明党を連立相手にすることで政権を死守してきた自民党にとって、「反戦」「沖縄」「福祉」を旗印とする野中氏らのグループは、確かに利用価値の高い存在だった。

しかし、そうした旗印のほかに、彼らにはもう一つの隠れた関心事があった。それは「利権」である。道路、建設、郵政、中小企業・・・。遺族会という戦争犠牲者遺族の互助会までもが強固な利権団体に改造されていった。

国内だけではない。彼らは日本外交をも利権ツールとして活用した。中国や北朝鮮、ロシアなど旧東側諸国へ公式、非公式に接近する中で、ODAや賠償金などの国費が「投資金」として利用されてきた。

それらは「平和外交」「友好外交」と賞賛される一方で、「謝罪外交」「土下座外交」と批判されてもきた。

つまり、自民党橋本派とは「早大雄弁会人脈」と「黒いハト派」が結び付いた、理念なき談合集団だったのだ。(ちなみに自民党を去った小沢一郎氏は、雄弁派の竹下氏と、黒ハト派の金丸信氏の双方に重用されていた)

★小泉首相と雄弁会人脈

「密室4人組」の談合によって生まれた森内閣は、明らかに雄弁会人脈主導の政権だった。森氏の後を襲った小泉首相は、この「談合」体質を徹底的に批判して国民の喝采を浴びた。そして、小泉氏は首相就任後、この「談合」体質の矛盾を最大限に利用して、天敵である橋本派の分断に成功したのである。

慶大卒の小泉氏は、橋本首相と同じエリート二世議員だ。しかし彼は橋本氏のように「弱者救済」のイデオロギーにほとんど関心を示さない。権力政治を否定しないそのスタンスは、野中氏らの「黒いハト」よりも、青木氏らの「雄弁会」に近いものだった。

小泉氏は、政権維持のために、しばしば雄弁会人脈を利用した。首相後見人を自負する森氏の存在が、それを容易にした。橋本派を「抵抗勢力」と名指しで批判してきた小泉氏は、その裏で青木氏らに代表される橋本派雄弁会グループと密かに連携を強化していったのだ。

今回の自民党総裁選と、その後の一連の人事は、そうした小泉首相と雄弁会との戦略的提携が完成段階を迎えたことを意味している。

総裁選の過程で、橋本派は首相を支持する青木氏らと、それに反発する野中氏らのグループに分裂。結果として野中氏を引退表明に追い込んだ。

総裁選後の人事では、青木氏の要求を容れて山崎拓幹事長を更迭する一方で、「国会議員中心の内閣を」と訴える野中氏を尻目に、竹中平蔵金融相と川口順子外相を留任させた。

北朝鮮に対する強行路線で「タカ派」の呼び声高い安倍晋三氏を党幹事長に据えたのも、10年間にわたって対北朝鮮外交を歪めてきた野中氏らのグループに対する最大限の「あてつけ」だろう。

さらに、党政調会長に就任した額賀福志郎氏は、青木氏の秘蔵っ子として育てられた人物であり、野中氏に目をかけられていた藤井孝男氏のライバルだった。また、小渕内閣、森内閣で官房副長官を努めた額賀氏は、2人の首相と同じく早稲田大学OBである。

★勇退した「影の首相」

こうした華やかな内閣改造人事の影で、ひっそりと官邸を去った人物がいる。官僚トップの官房副長官(事務)として10年近くにわたり日本の行政を指揮してきた影の首相・古川貞二郎氏である。

古川氏は東大法学部というエリート官僚の登竜門を経ていない。九州の農家に生まれ、苦学して九州大学を卒業。その後、自治体勤務を経て旧厚生省に入省した「苦労人」である。

古川氏が官房副長官に就任したのは1995年、村山富市内閣の時だった。「弱者のための行政」を志し、厚生省時代には水俣病や薬害エイズ問題の解決に尽力した彼は、自社さ連立政権の実権を握っていた野中氏らによって重用されたのだ。

苦労人で、弱者救済に思いをかける-。古川氏の生い立ちと政治姿勢は、確かに田中角栄氏からの系譜を継ぐ野中氏らと相通じるところがあった。

同時に古川氏には、官房機密費などの疑惑を一身に抱え、行政による内閣のコントロールを維持しようとあがく「もう一つの顔」があった。そうした行政官僚としての「闇」の顔は、野中氏らの「利権」と表裏一体をなすものだったと言えるだろう。ここにも、行政と政治の「談合」が成立していたのだ。

その古川氏が官邸を去り、後任に東大法学部卒の元自治事務次官が就任した。政界での橋本派分裂騒動と時期を同じくしての古川氏の退任は、自社さ以来の「黒いハト」時代の終焉を示唆するものだ。

小泉氏が目指す政治とは、かつて岸信介や福田赳夫が首相だった頃の政治。言いかえれば「保守が保守らしくあった時代」の政治である。政官界で進行している「静かなる構造変化」は、その目的が徐々に達成されつつあることを証明している。

しかし、この10年をふり返って見るならば、こうした政治構造の転換も、野中氏や鈴木氏によって壟断されていた日本の保守政治が、ようやく本来の姿に戻りつつあるだけとも言えるかも知れない。

それは、ある意味で歴史的必然なのだろう。しかし、「日本の保守」が保守らしく変わることは、同時に「保守」と「リベラル」を内包した自民党政治の終幕をも意味している。

この先の3年間、小泉政権は、内政における「強者の論理」と、外交における「タカ派路線」を一層強化していくことだろう。そうした保守化が、大衆煽動の新たな衆愚政治を招かないためには、健全な反対党がどうしても必要になる。

新しい民主党に求められているのは、小泉政治と対峙し得る「本来あるべきリベラルの姿」を早期に確立することだ。(了)

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