山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

小泉自民は保守政党か?

2006年03月06日 | 政治のかたち
「改革一辺倒の小泉首相率いる自民党は、もはや保守政党とはいえない」――。郵政政局の頃から一部で囁かれ始めたこんな言説が、広く一般に流布されるようになったのは、皇室典範改正の動きが本格化した昨年暮れ頃からだろうか。

秋篠宮家の慶事で典範改正は見送られ、保守派の政権批判もひとまず沈静化した感があるが、火種はくすぶったままだ。この間、「皇室の問題を政争の具にしてはならない」と過度の対立を諌める議論も聞かれたが、王位継承問題が政争に火をつけた例は、歴史上珍しいことではない。

たとえば17世紀後半の英国。清教徒革命後に即位したチャールズ2世には嫡子がいなかった。そこでチャールズの弟ジェームズが次期国王と目されたが、しかしながら彼はカトリック教徒で、英国国教会のイングランド王としての適性が議論になった。

議会はジェームズの即位を容認する勢力と、認めない勢力に分裂し、前者はホイッグ党、後者はトーリー党と呼ばれるようになった。のちの自由党、保守党の源流である。王位継承をめぐる議会内の意見対立が2大政党制の基礎を築いたのだ。

結局、ジェームズの即位は認められて王位に就くが、それはジェームズに嫡子がおらず、「カトリックの国王は一代限り」と予測されたからだった。したがって1688年にジェームズの王妃メアリーが王子を産むと事態は一変する。

名誉革命と呼ばれる政争で、ホイッグ、トーリー両党は一致協力してジェームズを国外追放。代わりにオランダからジェームズの娘メアリーとその夫ウイレムを招き寄せ、相次いで即位させた。しかし、メアリーの妹アンが死去すると王朝は断絶。新たにドイツから新国王ジョージ1世が迎えられた。現在の英国王室は、このジョージ1世を起源としている。

さて、「万世一系」を誇る我が天皇家も、直系で遡った場合は、江戸時代末期の第119代光格天皇にたどり着く。光格天皇は、先代の後桃園天皇が皇子のないまま崩御したため、傍系の閑院宮家から養子に迎え入れられる形で即位した。

こんにちの皇室後継問題は、後桃園天皇の崩御以来200年ぶりの事態といえる。2000年の皇統の歴史を重視する論者は、この光格帝即位の経緯などを根拠に「直系男子が途絶えた場合は、傍系から後継者を受け入れるのが従来の慣習」と主張する。

これに対し、戦後60年の「開かれた皇室」を尊重する論者は、「過去の慣習にとらわれることなく、男女を問わず直系で継承すべきだ」と反論する。これが現在の皇室典範改正をめぐる基本的な構図だろう。

そうした対立は「カトリック教徒の国王即位を認めるか、認めないか」という17世紀英国の論争を想起させる。即位容認派のホイッグ党を、女系を認めるべきとする小泉首相ら政府の立場とすれば、反対派のトーリー党は、男系維持を主張する保守系超党派議員団となろうか。

ホイッグ党はその後、産業革命が生んだブルジョワジーの支持を受け、自由放任政策をとり、規制を撤廃し、自由貿易を促進した。また、19世紀には都市労働者の支持を背景に自由党として2大政党の一角を担ったが、労働党の台頭によって衰退した。

19世紀の英国政界では、近代化を進める改革政党が自由党であり、その反対勢力がトーリーの流れを汲む保守党であった。当時の保守党が「保守」する対象は「近代以前の古き良きイングランド」だった。彼らは変化を嫌い、国内産業を保護し、対外的には「名誉ある孤立」を好んだ。

その意味で、現在の小泉首相のスタンスは「トーリー党=保守党」よりも「ホイッグ党=自由党」に近い。小泉首相は保守主義者というよりも、近代主義者であり、自由主義者だ。だから小泉氏の支配下にある自民党が保守政党であったとしても、その「保守」すべき対象は「明治以来の近代国家としての日本」なのである。

20世紀の社会主義の台頭は「保守党の自由党化」を促した。復古志向の強い保守勢力は、社会主義革新勢力に対抗するため、近代化を進める自由主義勢力と手を組む必要があったからだ。したがって、80年代後半から90年代前半に冷戦構造が緩やかに崩壊を始めると、保守党内では「保守主義者=復古主義者」VS「自由主義者=近代主義者」の対立が次第に顕在化していった。

英保守党では80年代に自由主義者が権力を握り、サッチャー首相の新自由主義政策(規制緩和と市場開放、行政改革)を支えた。日本では同じ頃に中曽根首相が自民党総裁になったが、行政改革に着手したのみで、主導権は保守主義者、保護主義者が握ったままだった。

55年体制の崩壊後、支持政党を持たない無党派層が増加したのは、細川政権から森政権に至る政界再編が、相変わらず「保守主義」VS「社民主義」を対立軸とし、規制緩和と市場開放、行政改革を主張する「新自由主義」の勢力が育たなかったことが一因だった。

森政権の頃、規制緩和と市場開放を標榜する民主党が無党派層の期待を集めた時期があった。しかし、その後に登場した小泉政権はこの民主党の政策を横取りし、保守党である自民党を「改革推進政党」に衣替えすると宣言した。

(小泉首相は改革の過程で、反対勢力との譲歩を繰り返したため、無党派層の期待は再び民主党に向かったが、昨年の郵政政局でまた逆転する)

結局、この5年間の自民党内の政争は、同党が保守主義者と自由主義者とに内部分裂し、最終的に自由主義者が主導権を勝ち取るまでの過程だったのではないか。

「小泉自民党はもはや保守政党ではない」という言説も、こうした政争の結果として読み解けば分かりやすい。皇室典範をめぐる論争も、自由党VS保守党の古典的路線対立である。「近代的で開かれた皇室」を守ろうとする小泉自民党に対し、保守勢力が守ろうとしているのは「近代以前から続く伝統的皇統」である。

王位継承をめぐる対立が生んだ英国の2大政党制は「自由貿易」VS「保護主義」の政策対立へ発展していった。同じように皇室典範改正問題は、日本の政界を「女系容認派」と「男系維持派」に分化し、やがて「自由党」VS「保守党」の2大勢力に再編する契機となろう。

その場合、新自由主義者に対抗する勢力を統合するのは、「伝統と調和」「思いやり」「暖かい政治」といったキーワードだ。ここに国民新党と民主党との共闘の可能性が浮上する。迷走を続ける民主党が進むべき道は、実は「改革競争」ではなく「保守再結集」なのかもしれない。無論、「ポスト小泉」の動向次第で、自民党が再び保守党に回帰する可能性は十分あるが。〔了〕


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