皇女和宮の遺骸が芝の増上寺から発掘された時、
歴代の将軍の遺骸もミイラとなって発見されました。
その中で、徳川家二代将軍秀忠の発掘遺体が
多くの学者たちを感動させました。
秀忠は忠実な性格で意志も強かったのですが、
上田城攻略に手間取って肝心の関ヶ原の合戦に遅れるなど、
愚直であまり頭は良くなかったされています。
そんな少々鈍いと言われた男を、
なぜ家康ほどの人物が世継ぎとして二代将軍に据えたのか
長い間疑問視されていました。
しかし、秀忠の遺骸が示す事実によって、その答えがハッキリ出たのでした。
まず、血液型はO型。
体が実にしっかりしていて、骨太で頑強な骨格。
歯が全体に平均して擦り減っており、
どんな固い物でも平気でバリバリ食べて、胃腸も丈夫だったことが判明。
驚いたことに体には数カ所の鉄砲傷があり、
将軍でありながら秀忠自らが将兵の先頭に立ち
勇猛果厳に闘ったという証拠が残っていたのでした。
家康は知略に長けて権謀術数型の底知れない男で、
譜代の家臣からは疑心暗鬼で見られ、
外様大名から見たら親しみや温かさが感じられない、
全く隙のない人物でした。
三代将軍家光も利口で政略的なタイプでしたから、
秀忠が二代目になったことは緊張と緊張の間の緩衝剤となり、
徳川家280年の確かな基盤を築いたといえました。
「質素な生活」「律義さ」「人間的温かさ」「初代の方針をよく守り家臣を敬い大切にする」姿勢によって、親藩、譜代、外様、家臣の関係を自然に上手く捌いていたと言われています。
いつの世も、人を敬い大切に思う心を基底として生きる姿勢こそ、組織を安定させ、発展させるに違いありません。
お客さまを敬い、大切に思う心
仕事をしていて、一番気を付けなくてはならないことですね。
歴代の将軍の遺骸もミイラとなって発見されました。
その中で、徳川家二代将軍秀忠の発掘遺体が
多くの学者たちを感動させました。
秀忠は忠実な性格で意志も強かったのですが、
上田城攻略に手間取って肝心の関ヶ原の合戦に遅れるなど、
愚直であまり頭は良くなかったされています。
そんな少々鈍いと言われた男を、
なぜ家康ほどの人物が世継ぎとして二代将軍に据えたのか
長い間疑問視されていました。
しかし、秀忠の遺骸が示す事実によって、その答えがハッキリ出たのでした。
まず、血液型はO型。
体が実にしっかりしていて、骨太で頑強な骨格。
歯が全体に平均して擦り減っており、
どんな固い物でも平気でバリバリ食べて、胃腸も丈夫だったことが判明。
驚いたことに体には数カ所の鉄砲傷があり、
将軍でありながら秀忠自らが将兵の先頭に立ち
勇猛果厳に闘ったという証拠が残っていたのでした。
家康は知略に長けて権謀術数型の底知れない男で、
譜代の家臣からは疑心暗鬼で見られ、
外様大名から見たら親しみや温かさが感じられない、
全く隙のない人物でした。
三代将軍家光も利口で政略的なタイプでしたから、
秀忠が二代目になったことは緊張と緊張の間の緩衝剤となり、
徳川家280年の確かな基盤を築いたといえました。
「質素な生活」「律義さ」「人間的温かさ」「初代の方針をよく守り家臣を敬い大切にする」姿勢によって、親藩、譜代、外様、家臣の関係を自然に上手く捌いていたと言われています。
いつの世も、人を敬い大切に思う心を基底として生きる姿勢こそ、組織を安定させ、発展させるに違いありません。
お客さまを敬い、大切に思う心
仕事をしていて、一番気を付けなくてはならないことですね。
谷川先生から、寒中見舞いをいただきました。
施術をして戴いていつも感じるのですが
とても丁寧にしてくださいます。
「あ・・ちょっと風邪気味ですか?」なんて微かな変化に気付いてくださり
いつも時間オーバー、大サービス!
律儀、忠実って言葉
谷川先生そのものです。