長田百合子と谷川栄子の健康ブログ

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小笠原流礼法・マナー食事会を終えて(長田ゆり子)

2014-08-05 11:19:07 | 礼法
さて、キャッスルホテルのクラウンで「食事会」を兼ねたマナー教室がありました。
そんな名古屋城の素晴らしい思い出に
ほんの少しばかりの知識を加えて、
より一層素晴らしい思い出になれるように飾ってみたいと思います。

家康は関ヶ原の合戦後、東海道の要塞である尾張国の領主だった福島正則を、
五十万石に加増して安芸国に移しました。

そこへ封じた忠吉は若くして死に、
その後を九男義直が継ぐことになりました。

1610年、豊臣家の二大巨頭といえる福島 正則と加藤清正は、
徳川義直の城、
つまり名古屋城の建築を「手伝う」よう家康から命じられました。

天下普請の 公共事業と言いながら、
手伝えば手伝うほど外様大名の財力を消耗させることになる・・・
名古屋城の建築は正に家康の「真綿で首を絞める策」といえました。

最も働いたとされる加藤清正は、
この後に京の二条城で家康と秀頼の会見に立ち会った帰りの船の中で、
あまりにも呆気ない突然死を遂げます。
まるで謀殺させたようなミステリーによって、
清正は50歳の生涯を閉じることになりました。
やがて息子の代で、幕府の取り潰しにあうことも知らないで。

福島正則も同様、
豊臣家の滅亡後に武家諸法度に違反したと何癖をつけられて
50万石を2万5千石に減封、転封され、
その後に取り潰しにあいました。
幕府がとった処置で少しばかり納得がいくことを上げるなら、
正則 の子どもの正利に旧領から3112石を与えられ
旗本 として生きられたことくらいでしょうか。

そんな悲惨な未来など知る由もなく、
二人の巨頭は、自らの財力を惜しみなく削って名古屋城の建築に精を出しました。

そんな天下の巨城を前にして
徳川将軍家の公式礼法を学んでいる私が
とても静かで平和な時に包まれて
贅沢な料理をいただくことができている・・・

悲しみや苦しみが土台となって創り上げられた「歴史」や「平和」の重さを、
切ないほどの感慨の思いでに浸ったとき
私は今までに味わったことのないような
感無量の思いで満たされていました。

不満など言えるはずもない恵まれた時代に生きられていることに心から感謝して
いついつまでも誰かのお役に立てるように努めなくてはならない・・
そんな使命感でいっぱいになっていました。

尊敬する山本先生や、仲間のみなさまと
貴重な思い出ができたこと・・
平和な時間を共用できましたことに心から感謝し
小笠原流礼法の学習に改めて意欲を持つことができました。

こんな素晴らしい機会をつくってくださった山本先生に
心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。



そして、改めまして皆様、
どうぞ末永くよろしくお願い申し上げます。