団塊世代の人生時計

 団塊世代として生きてきた「過去」、「現在」、そして「未来」を、自分自身の人生時計と共に綴り、「自分史」にしてみたい。

國前寺・無縁仏

2014-06-20 20:03:41 | 趣味

國前寺・無縁仏

2011年9月3日(土)                                                    

  広島市東区山根町に立派なお寺があります。國前寺。

 1340年、日蓮の弟子日像が、尾長山の麓で草庵を営んでいた僧暁忍に出会い、この時暁忍が日像に師事して寺(暁忍寺)を開いたのが始まりであるといいます。その後、1656年に広島藩の二代藩主である浅野光晟とその妻満姫の菩提寺となり、寺名を國前寺に改称しました。(看板より)


 このお寺が立派なのは、その歴史や建物だけではありません。
 このお寺には、「無縁仏」を祭ってあるのです。無縁仏を引受けてくれるお寺なんて、そうそうありませんから。





















 本堂の中です。



 鐘楼も立派です。




 ここに無縁仏を祭ってあります。



 2011年8月22日撮影。




(ある無縁仏の記録)

 高山正敏(仮名)は、1942年3月18日、山口県都濃郡櫛濱町で出生した。
 正敏が45歳の時に父が、62歳の時に母が死んでいる。
 姉と妹が一人ずついるが、姉の方は非嫡出子であり、正敏とは父親が違う可能性が高い。

 正敏は、中学校卒業直後から、山口県のキャバレーでボーイとして働いている。22歳頃広島のキャバレーに移り、バンドを務めていた。

 35歳の頃、友達に誘われ左官に転職している。キャバレーのバンドと左官ではあまりに職種が違い過ぎることを考えると、キャバレーの経営が思わしくなく、それを契機に転職したのかもしれない。

 47歳の誕生日に結婚したが、子どもはいない。後に、妻は脳梗塞で身体障害者手帳3級を取得して施設に入所し、自らの年金で生活維持していた。一方、正敏の方は自らの左官の収入で生活維持していた。公的支援を受ける直前に離婚しているが、以前から生活維持は別々だったもので、事実上婚姻関係は破綻していたのかも知れない。

 公的支援を2007年12月から受け出した。直前まで左官の仕事をしていたが、65歳と高齢で身体の無理がきかなくなったことを理由に11月に退職し、12月12日に最後の給料約9万円を受給している。
 若い頃から年金にも加入せず、自営業的な仕事で雇用保険もなく、公的支援を受けるに至るまでの社会保障の「網」は正敏の場合全く機能してこなかった。
 現在のワーキングプァという層が高齢者になった場合、正敏のような道筋を辿るのではないかと懸念される。

 2008年3月、慢性肝炎、脳梗塞でH病院へ入院した。しかし、夜間徘徊などの症状が出るということで、同年5月、精神病院のK病院へ転院になった。
 K病院の記録によると、「2007年11月以降は、飲酒量が増えた。」とある。
 仕事を辞め、家族もおらず、寂しさを紛らわすため、酒に溺れたのだろうか・・。

 2008年6月、病状悪化し肝硬変になり、再びH病院へ転院している。同年7月には姉・妹が見舞っているが、正敏はすでに姉妹を認識することができなくなっていた。精神的にも譫妄(せんもう)がみられ、「お母さーん」と叫んでいたという。意識混濁・幻覚様状態でどのような母が出現していたのであろうか。「母親の死亡により精神病を発症する人が多い。」というある精神科医の言葉が思い起こされた。
   注 譫妄は急性脳症候群の主型であり、意識混濁・幻覚・不安などが加わった特殊な意識障害である。

 その後は病状が改善されることなく、寝たきり状態でおむつを使用していた。
 病状管理のため必要だったのか、個室に入っておりその支払に姉妹が苦労していたようである。 

 最後の記録には、次のように記述されている。
 高アンモニア血症・慢性肝不全状態が続き肝不全に伴う妄想、不穏状態があり時々意識障害も出現する状態が続いていた。肺炎も繰返している。2010年6月21日気管切開術施行後、気管切開部の処置も継続。現在、経口摂取は困難で高カロリーの点滴で加療中であるが、栄養状態は不良。

 2010年10月1日午前7時16分、永眠した。享年68歳。
 
 入院中、時々正敏を見舞った姉妹であるが、遺骨の引取りを行う意思はなく、国前寺への無縁仏となった。



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