思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

今年の重大ニュースと、家族が1人減った報告

2013-12-28 00:00:00 | 普段の生活(日常)
大きくは2つあるが、まずは重大ニュースのほうを。今年はベスト10では多すぎるので減らして、ベスト5にした。

●重大ニュース

1 『あまちゃん』
2 田中将大、レギュラーシーズンで24勝0敗
3 三陸復興国立公園指定
4 ダイオウイカ
5 ファミコン30周年

1、やはり今年は全国的に盛り上がったのはこの朝ドラでしょう。ただ、僕個人的には今年のユーキャン新語・流行語大賞にも選ばれた「じぇじぇじぇ」よりも劇中で印象深いセリフは、大向大吉(杉本哲太)の「第三セクターなめんなよ!」で、これはまだ放送前半の北三陸編の頃で、モータリゼーションや過疎化が懸念される街に生きる住民からの切実な声で、現実にも過疎化の地域は全国的によくあるため、その経済的に疲弊? している地域の住民たちを北三陸駅駅長という街の玄関口の責任者の立場からまさに代弁して鼓舞した、良いセリフだと思う。その後仕掛けていった町興しの起爆剤としての「潮騒のメモリーズ」が当たって良かったね。また、大吉さんは後半の震災直後に鉄道を動かす場面も、まさに地元の底力を感じさせる描写で、後半に通じる前半の伏線の回収? も多く見られて良かった。そのため、この作品の出演者の知名度は軒並み上がったが、僕個人的には特に(これまでは憎まれる立場の刑事役や犯罪者役のような日陰の役柄が多かったがこのコメディーによって新境地を開拓できた)杉本哲太の株が最も上がったと見受けられる。ほかには、天野春子(小泉今日子)の「はぁ!?」も、腹の底から全力で驚嘆と疑義が入り混じった感情を同時に表現していたのも印象的。
2、今季のプロ野球は2000本安打も含めて節目の記録が多く、もちろんバレンティン(東京ヤクルトスワローズ)の60本塁打の日本新記録も凄いのだが、これは過去にも55本の日本記録に並んだのは数人いたのでいつかは破られるだろうとは想像できたが、“マー君”の年間24勝と、しかも0敗というのは想像できない大記録だと思う。24勝のみならばなんとか想像できるが24勝+0敗というのがなんとも。今後もこの記録はもう出ないだろうなあ。それで彼は今週にようやくメジャー移籍容認となり、来季はどの球団で投げるのかねえ。
3、東日本大震災を忘れないためにも、三陸復興国立公園の制定は善いと思う。海沿いをつなぐ長距離自然歩道「みちのく潮風トレイル」もゆくゆくはより多くの人に活用されることを期待する。
4、録画や別番組を再見して今ではすっかり見慣れたが、今年1月のNHKの放送の初見では驚いた。このほかにもまだまだ未知の生物がいるのだろうなあ、と想像を掻き立てられもした。
5、7月の月末ネタでも触れたが、家庭用テレビゲームという玩具を生活家電の一種として浸透させたこれも誕生から30年の節目の年で。僕は今も、最近の進化した3D画面のゲームよりも、(先日も『笑っていいとも!』でタモリと久米宏がパックマンやインベーダーゲームの話をしていたが)それこそゲームセンターでできたようなゲームをファミコンに移植させた2Dというか平面な感じの(今となっては安っぽい)ゲームのほうが好き。『ドラゴンクエスト』シリーズで喩えるとVIあたりまでは楽しめるが、それ以降は拒否反応が……、という感じ。僕は持っていないが最近もスマートフォンのアプリでIが出たら大人気だそうだが、今後、再ブームが来るといいなー。


●個人的に泣けたこと

1 ダイエー志木店閉店
2 『風立ちぬ』
3 消費税率8%が決定
4 山田暢久が20年在籍した浦和レッズと契約終了
5 父逝去

1と2は今年すでに触れている。スタジオジブリの今年にもう1本で高畑勲監督の『かぐや姫の物語』も今月上旬に観たが、これも良かった。『風立ちぬ』は特に戦争の扱いに関して賛否が分かれたが、こちらは今のところは批判的なことは聞かないなー。まあすっかり浸透している(しかし謎は多い)伝統的な古典だしなー。翁役の地井武男の、生前の声の出演だけでも泣ける。
3、来春から、別の意味で泣けてくる。税率を上げたぶん、その税金はちゃんと社会保障にまわるのかねえ。身近なところでは郵便料金の、はがき52円と封書82円への値上げも痛い。
4、浦和レッズでJリーグ2年目から20年ずっと活躍してきた山田暢久(“ヤマ”もしくは“ノブヒサ”)が今年で浦和を去る、というのもとても寂しい。まあプロスポーツ選手であれば致し方ないことはわかるけれども。浦和一筋で同い年で活躍してきた、僕にとってはJのなかでも最も身近な選手なので。
先月下旬から去就が注目されているが、三浦知良の46歳ほどまでは厳しいだろうが(“カズ”は今も現役なのは凄いことだ)、体力的にはまだまだいけるはずなので他チームで現役続行を切望する。


そしてようやく、ここの5がこの投稿の主題。思い出話も含めて以下に長めに。


べつに報告する義務はないが遅まきながら報告すると、8月下旬に父が亡くなった(享年72)。直接の死因は肺癌(による呼吸不全)らしい。

親しい友人には春から埼玉県川越市内の病院に入院しているとは話していたが、その後の経過を殊更に吹聴することでもないと思ったし、ほかの人付き合いでも香典・香典返しなどのやりとりが面倒で同情もされたくなかったので、あえて秘密にするほどでもないが黙っていた。身内のみの葬儀を済ませて、そんなにお金もかかっていないし。
それになぜか今年は、僕の周りの友人知人は結婚・出産・栄転・起業・出版など(比較的?)喜ばしいことが例年以上に相次いでいたので、その良い流れと雰囲気を壊したくなかったから、ということもある。まあこれらはなるべくその場の情報を受け流せば済むことなんだけど。心から祝いたい気持ちはあっても、今年はそういう場は精神的にちと辛かったなあ。


川越市、伊佐沼。右奥が入院していた病院。まあ県内でも特に大きな設備のところで。僕も4月から毎月、様子を見に行っていた。

死は夏前からある程度は覚悟はしていたし、今春の東京都・築地の国立がんセンターでの癌の発覚から入院前のあいだに、俺(父)が死んだあとのことを(お金=遺産のことを中心に)しっかり考えろ、と珍しく真剣な家族会議のようなものも開かれたりしたので(いわゆる「終活」の一環みたいな)、今後のことを考え始めていた。しかし、8月に入ってから病状が急速に悪化したのは予想外。でもまあこれは「家族」を持っているひとであれば遅かれ早かれ経験することなので。
今は生活は落ち着きを取り戻しているが、これを機に父と母の遠い親戚を含めた人間関係や実家の土地やお金のことなど、今年になって初めて知らされた(僕としては衝撃的な)事実や家族の珍しい感情を垣間見た回数も結構多く(えっ、そんなことを考えていたとは初耳、と驚くことしきり)、それらを踏まえて今後どうしたものかと今も戸惑い続けている最中ですけど。


父の最期は、危篤状態から半日経った朝に病室で家族全員で看取ることができた。全員揃うというのは一般的には幸いなほうなのだろうか。(今年で言うと『救命病棟24時』のような)テレビの医療ドラマでは見慣れた、心拍モニターの数値が徐々に下がって0になるのを今年に体験するとは……。

で、父の死因が「肺癌らしい」(肺癌と断定し難い)というのは、60歳頃の「退役」まで主にフリーで舞台演劇の照明(だから一応は芸能関係の仕事か。裏方で)の仕事を長らく続けていてこの分野というか日本照明家協会のなかでも古株で、たまに専門学校に講師として招かれるくらいの大ベテランの部類だったが、タバコは一切吸わなかったものの(ウチはタバコを吸わない家庭)、1年の半分以上は家を空けて舞台の地方公演に帯同することが多かったので、家から通える東京近郊の現場もたまにあったが大半は出張というよりも全国を巡る旅みたいな不規則な生活であった。国内に限らず、アメリカや中国などへ巡業したこともあったそうで。仕事で47都道府県すべてに行った、と豪語してもいたなあ。

そのなかで、まあ例えば演劇やコンサートなどの大きな催しが可能な1000人以上入れて集客力のある大ホールもあれば、やや古めで小規模の市民・町民会館や学校の体育館みたいな小さなハコでも舞台を設けることが多く、そういった普段は舞台の裏側を開ける機会が少ない場所では埃っぽくて空気の循環も悪く(体育館の舞台袖や下の物置場みたいな、換気し難い空間を想像するとわかりやすいかも)、それに古い建物であればアスベスト(石綿)の影響もそれなりにあるだろうから、空気の悪い場所で長時間の作業に携わり続けていたことが癌を患った大きな原因ではなかろうか、つまり職業病だろうね、という見解で家族はだいたいまとまっている。ほかにも父方の家系は癌に罹りやすいとか、遠因はいくつかありそうだけど。
これは地方へ巡業中の移動と宿暮らしの続く生活の不規則さよりも致し方ない労働環境の問題だが、今となっては労災でなんとかなる話でもないし、父は好きでそれらを受け容れながら従事していたわけだし。ちなみに、元々旅好きの父は「移動と宿暮らし」は旅の要素の最たるものなので、その点はいつも嬉々として(その費用は経費なので無料で)楽しんでいたようで。

ただ、癌細胞が肺の前に(原発巣が)発症したのは大腸ではないか、との見方もあり、でも実は父が今年の年始からの体調不良で自覚症状として最初に顕著だったのは背骨の痛みで、日を追うごとに階段昇降が辛くなって杖が必要なくらい二足歩行が難しくなってきておかしいぞ、と疑ってがんセンターに行ってみたら背骨の節のひとつが溶けて? 減っていたのが痛みの原因だと発覚し(これはいわゆる「脊椎腫瘍」のせいか?)、ここが原発巣かもしれないし。しかし最期には肺をやられたので、結局は肺癌なのか。診た医師でも特定できないのだから、僕ら家族もいまだによくわからない。このような、どこか特定の部位にひとつの大きな癌細胞が巣食うよりも、複数の部位に小規模の癌細胞が付くというか徐々に(転移巣が)転移してゆく症例も年々増えているそうで。
今年というか最近も世間で目立ったところでは、樹木希林が冗談半分の「全身がん」の告白で話題となったが、まあ症状はそのような感じか。希林さんは放射線治療でまだいくらか先延ばしできるようだけど。

それで、これはホントに偶然で僕も最初に知らされたのは10年ほど前だが、父はその希林さんとは小学校の同級生で(東京都・雑司が谷で)、以前から父以外にも身内と仕事面で薄くだが付き合いもあるにはあり、今年のこのニュースはなんの因果か! ととても驚いた。だから、希林さんもあと何年いけるかはわからないが無理しない程度にやりたいことを続けてほしいと、陰ながら数多の芸能人のなかでも特に応援している。

父の仕事面を少し触れておくと、舞台照明の仕事は厳密にはフリーというか、フリーの何人かの仲間が集まって共同で会社を創って活動していた感じ。「取引先」と言うとおかしいが、依頼主として特に深くかかわっていた仕事先は演劇界の老舗の文学座の公演が多く、だから(故人の)杉村春子をはじめ、ここ出身の多くの役者と付き合いがあった。今も家のどこかにサイン帳があるはずだが、どこに消えたかなあ。
ひとつ衝撃的な思い出を挙げると、太地喜和子が1992年10月13日(火)の静岡県伊東市でクルマで海に突っ込んで事故死したが(僕は高校3年の頃)、そのときの地方公演の照明班を率いる立場で父も帯同しており、太地さんの葬儀のために伊東だったら近いからとウチに喪服を取りに一時帰宅して伊東へとんぼ返りしたこともあった。太地さんの公演に付くことは事前の日程表で当然知っていたので、ニュース番組でこの一件を知ったときは、芸の世界って……、と戸惑いながらも芸能人の光と影について考えたりもした。身近に関係者がいると、余計に気になるものだ……。

ちなみに、先に挙げた希林さんは主に映像のほうで活躍しているため、舞台演劇とは分野が異なるので仕事で一緒になることはなかった、はず。ああでも若い頃は文学座関連で多少はかかわりがあったのだろうか。

また、仕事とは別に学生時代から、というか父方の家系は(フェイスブックに最近書いた叔父のことも含めて)全員だが旅や登山についても強いこだわりがあって、僕もその影響を受けているのは以前に書いたが、60歳をすぎたあとの「退役」後は国内外の旅とそれに関するウェブサイトの更新に夢中だったなあ。

ウェブサイト「中高年バックパッカーの旅

ホントに家族が呆れるくらいにほぼ毎日書きまくりで。「退役」後に旅に出ない在宅中は主夫業のほかに、庭いじりと、情報を出したところで一銭にもならないこのサイトの更新(HTMLで)ばかりやっていたから。その影響でテレビ番組(しかもNHK)や雑誌の取材もいくつか受けていたけど。ちなみにこのサイトは、具体的にいつになるかは未定だがいずれ閉鎖する予定なので、情報が欲しい方はお早めに。
まあ近年は外国の(パックツアーではない個人旅行としての)世界遺産巡りに特に力を入れていたが、それよりも家族のひいき目抜きで出色だと思うのは「21世紀日本の旅」にある、05年上半期の「坂東三十三ヶ所霊場巡り」と06年春の「西国三十三ヶ所(西国三十三所)霊場巡り」の記録だな。四国八十八ヶ所と秩父三十四ヶ所の遍路の記録は経験者が多くて一般的にも数多く出回っているが、坂東と西国はそれらに較べると情報量は10分の1以下の気が。それぞれの全行程を日記調で詳しく公開しているので、かなり参考になると思う。

このほかにも父との思い出は人並みにいろいろあるが、例えば7月の月末ネタで「ドラクエII」について触れたが、調べると1987年1月26日(月)が発売日だったがこの日は父の仕事が途切れた時期で運良く空いていたので、それを平日の発売日に手に入れるためにビックカメラ池袋北口店(現在はビックカメラは全国各地に支店が拡がっているが、まだ池袋東口と北口に2店舗しかなかった頃ね)に朝から並んでもらって買ったりもした(その出費は僕が貯めていたお年玉)。普段から毎月の小遣いも含めて殊更に甘えていたわけではないが、ここぞというときにはそういう頼り方もしていた。
ただ、幼い頃から仕事と旅で家を空けることが多くて居ないことのほうが当たり前の状態だったので(その影響でサラリーマン家庭よりは収入および生活が不安定で、裕福な家庭ではなかったが)、精神的にそんなに依存することはなかったんだよなあ。今年も亡くなる直前まで、今後の生活の助言を受けながらも思ったよりも冷静に考えることができたし(たまたま亡くなる2日前に病院に様子を見に行ったときも話をしていて、だから昏睡状態になる前に最後に父とまともに会話したのは僕らしい)、最期の死亡確認のときも泣き崩れたり取り乱したりすることもなかった。僕は病院での最期から葬儀までとにかく写真を撮っておく「記録担当」だったし。

ちなみに経験のある方はわかると思うが、最期、父の担当医が別件ですぐに駆け付けることができなかったので心拍停止から死亡確認まで25分近くかかったが、これは医師がやらないと終わらないので、最期にその「待ち」の時間があったのはむしろ辛かった。まあそういうこともあるのか。

思い出というともっと大きいのは、やはり登山で。ウチから近い飯能や外秩父や奥多摩や丹沢へ行くことが多かったが、とりわけ強い記憶があるのは、まだ小学校低学年の頃に飯能の天覧山へ行ったときに、ここは昔から奥武蔵のなかでも比較的ラクに行ける低山だが、現在は触るには許可が必要な山頂直下の岩場で軽くだが岩登りの練習をさせられたことか。まだこの頃の僕はキャンプは好きでも登山はどちらでもない感じだったので(だから僕が小学生時代に毎年、家族全員で年末年始にテント泊で山へ初日の出を見に行くという催しを頑なに拒否して留守番した年もある)、この練習は当時はべつに楽しくもなんともなかった。でも大きくなってから役に立つから、と断言していたのはよく憶えていて、ああそういうものなのか、となんとなくは受け入れていた。
ふたりの兄も入っていた流れで僕も小学2年から(ウチとしては子どもの義務教育期間中の坊主頭とともに家庭の方針のひとつとして積極的に)かかわっていたボーイスカウト活動も、全般的には好きだったが野外活動の一部分としてたまにある(今月上旬に京都でも少々問題のあった)登山というかハイキングだけは苦手なほうだった。
しかしまあ、僕も高校時代からは自ら好んで積極的にそういうことをやるようになってしまったが。


形見となってしまった、10年近く前のモデルのカシオ・プロトレック。ソーラー発電仕様なのでまだまだ使える。父は1990年代のこのブランド発足当初からプロトレックユーザーで、僕もお下がりをもらって使っていたことも一時期あった。実は22日(日)の天覧山の登山は、僕が最も思い入れの深い山なので父の追悼登山の目的もあった。

それで今後は、来年は遺産相続や遺品整理も進めてから、まだ計画段階だが僕個人的にも再来年にやや生活環境を変える予定。でもまずは来年の「家庭の事情」の進み具合次第だなあ。ちなみに、9月に触れた長野県松本市内の墓へ行った件は解決済み。
ひとまず僕個人的には、来年の8月の一周忌までは喪中のやや落ち込んだ感覚なので(だから今年は『風立ちぬ』とか『あの花』とか医療ドラマとか、先日観た『かぐや姫の物語』もか、ヒトの生死にかかわる作品に触れる機会が例年よりも多かった気がするので、余計に沁みる。というか例年よりもフィクションに逃避しがちだったのは、そのせいか……)、この間に周りで今年のようにおめでたいことがあっても積極的には参加しませんので、あしからず。ツイッターとか他所では出さないように努めていたがこれでも一応、今年の下半期はそれなりに落ち込んでいたのであるよ。
でも、登山や旅はぼちぼち本格的に再開しようかと。

そういえば、命日から今日までの約4か月間にもテレビ番組などで父子の関係を取り上げるニュースやドキュメンタリーを注視するようになり、友人知人に子どもができたり、の影響も多少あって、これまではあまり意識してこなかった家族の(子ども以外の)何かを「受け継ぐ」ことや自分の行く末についてようやく真剣に考えるようになった。
で、ウチの男3人兄弟のなかで、長兄は芸能関係で表方も裏方もできるし(ウチの身内には父も兄も含めて舞台芸術学院の出身者が3人いる)、次兄はウチで唯一の(まともな?)会社員なのでPCやお金に関する事務的なことに向いていて(父の、仕事とは別の収入源だった株の売買も、高校時代からデータ分析を手伝っていたこともあって好きらしい)、三男の僕は登山や旅を、と父がすべて持っていた3つの要素をそれぞれ分配して継いでいる感覚はあるので(親戚からもその三者のバランスが取れている、と近年よく言われる)、僕は引き続きこの面を伸ばしてゆけばよいのかな、と思っている。今の校正の仕事もなるべくそちらのほうへ進めたいものだ。

父も登山や旅関連の本が大好物で、特に野田知佑ファンだったので僕が中学生頃から野田さんの本や記事を読むようになったのも父の影響だったりする。入院前まで住んでいた部屋と押し入れ・倉庫にある遺品も登山道具と本の類が大半なので、やはり当面はそのへんを「受け継ぐ」意識も多少ありながら、その方面にこだわりたい。殊更に仕事や家や古道具を継げとか遺言っぽいことは言っていなかったが、今となってはお宝モノの本や雑誌もあるかもしれないから、家族のなかで最もその価値がわかる僕が、今年に父からの今後への助言をあえて遺言と受け取って引き継ぐべき部分だと思っている。たとえ葬儀のときであっても写真を撮りまくる記録魔ぶりも継いでいるなあ(でもこれを身内以外のほかの場でもやると大問題なので、さじ加減はもちろん考慮するけど)。よく考えるとこのほかにも、これまでに得たもので利潤を追求することもなく自分の書きたいことを書きまくる本ブログとか、無意識に継いでいることは結構多い。なんか改めて「血筋」を痛感しちゃうなあ。

と、長くなってもこれを書いておかないと来年以降に先へ進めない気がするので、なんとか年内に振り返ってみた。
とにかく、そろそろ先へ進まなければ。


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2 コメント

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親父さんのご冥福をお祈りいたしやす (出がらし紋次郎)
2013-12-31 17:25:53
出がらしです。
話は先輩から聞かせて頂きました。

読ませていただきやした。
ええ親父さんでござんしたね。
今はただ、ご冥福をお祈りさせていただきやす。
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まあ (わたる)
2013-12-31 18:45:39
こういうこともあります。

ファミコンのほかに、ゲームウォッチやタミヤのラジコンカーや(鉄ちゃんというほどでもない)鉄道の話とかもあるのですが、しつこくなるのでそこは省きました。

今年は泣けることが多かったですねえ。
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