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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(5)

2014年03月14日 11時33分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(5)

 さて一方、御台様は、長男重範が討たれた事を知る由も無く、弟若を連れて、乳母の紅葉(もみじ)一人を供として、下道を落ちて行きました。やがて、御台達は、肥後国の高瀬浦に着きました。(熊本県玉名市高瀬)御台様は、ここから、便船を乞おうとお考えになりました。しかし、なんとも哀れな事ですが、水際には沢山の舟が並んでいると言うのに、事もあろうに、紀州に隠れ無い、人商人の源太夫という者の舟に乗ってしまったのでした。源太夫は人々を見るなり、

 『へへ、これは天のお恵みじゃ。この人々を売り飛ばせば、これから楽に暮らせるわい。嬉しや嬉しや。』

 とほくそ笑むのでした。やがて、人々を舟に乗せると、艫綱をほどいて、出港させました。二三里も、漕ぎ出た頃に、源太夫は、

 「さあさあ、皆さん。良くお聞きなさい。皆様のお姿をお見受け致しますと、何やら訳ありのご様子ですが、幼い子供を連れて、何処へいらっしゃるのですかな。お名前をお聞かせ下さい。私は、情け深い人間でありますので、何処へとも、お送りいたしましょう。」

 と、情け顔をして、騙すのでした。御台所は、

 『もしかして、兵部の一味かもしれない。きっと騙しているのに違い無い。怖ろしや怖ろしや。名乗らない方が良い。』

 と思っていたのですが、情け深い人間だと聞くと、安心して、

 「それでは、名乗りましょう。我々は誰あろう、恥ずかしながら、安口の判官重行の妻子です。」

 と言うなり泣き崩れてしまったのでした。かの源太夫というのは、実はその昔の若い頃、判官殿に仕えていたことがありました。御台の名乗りを聞いた源太夫は、飛び上がって驚き、

 「やや、これは夢か現か。浅ましいことではありますが、私は、その昔、判官殿にお仕え申しあげた、柏原の竹王丸のなれの果てでございます。」

 と言うなり、畏まって涙をぬぐうのでした。源太夫は続けて、

 「さてもさても、判官殿の機嫌を損ねてから、行く当てもなく、人商人となり、この浦に棲み、柏原の源太夫と名乗って、過ごしておりました。今日、御台様達がこの舟にお乗りになったのを、良い売り物が乗ったと喜んでおりました。どうか、お許し下さい。」

 と言うなり、櫓櫂を捨てて、号泣するのでした。御台所は、夢心地で、

 「ええ、お前は、昔の竹王丸なのですか。ああ、それは懐かしいことです。」

 と、又さめざめと泣きました。源太夫は、

 「さて、それにしても、どうしてそのようなお姿をして、何処へ行こうとされているのですか。」

 と尋ねれば、御台様は、

 「実は、こんなことがあったのです。重行殿が、御門の御番で都へ上がられたのですが、ご病気なされて亡くなりました。すると、後を任されていた兵部太夫が、国を横領し、その上、私や若達を殺そうとするのです。そこで、夜半に紛れて、国を逃れました。これから都へ行って、この事態を奏聞するのです。兄の太郎重範は、右近と共に、上道を行かせましたので、なんとか都へ辿り着くことでしょう。さあ、都まで案内しておくれ。竹王丸。」

 と、事の次第を涙ながらに話すのでした。源太夫は、

 「むう、これは、なんとも口惜しい。兵部太夫といえば、判官殿の正しく譜代相伝の家臣ではないですか。そんなことをしたなら、天命からは逃れられませんぞ。ええ、それはともかくも、私は、どこまででもお供を申しあげます。どうぞ、ご安心下さい。」

 と言うと、櫓櫂を立て直し、風に任せて、舟を走らせるのでした。そうして、源太夫は、

 「此の度の、心づくしに、浦々島々、名所旧跡をご案内申しましょう。どうぞ、お心をお慰み下さい。」

 と語るのでした。

 《以下道行き》

 豊後豊前の潮境

 さて、その末に続きしは

 あれこそ、本国、筑前の浦ぞかし

 さぞや恋しく思うらん

 漕がれ(焦がれ)来ぬれば程も無く

 土佐の国に聞こえたる高岡(土佐市高岡町)、幡多(高知県幡多郡)の浦を過ぎ

 心細くも、阿波の鳴門を余所になし

 淡路の島山、漕ぎ来る舟ぞ、面白や

 風に任せて行く程に

 これぞ、播磨の国なれや

 室山降ろし(兵庫県たつの市御津町室津港)激しくて

 波に揺らるる、釣の舟

 思わぬ方に、漕がれける

 御身の上に、思い合わせて

 いとど、哀れを、催うせり

 名は、高砂の浦ぞかし(兵庫県高砂市)

 夜は、ほのぼのと、明石の浦(兵庫県明石市)

 そのいにしえの人丸(柿本人麻呂)の

 昔語りと、打ち過ぎし

 ようよう行けば、これやこの

 津の国に聞こえたる(摂津:大阪)

 兵庫の岬、難波潟、須崎(不明)に寄する波の音

 沖の鴎に、浜千鳥の

 友呼ぶ声は、我を問うかと、哀れなり

 急がせ給えば、程も無く

 日数積もりて、今は早

 津の国に聞こえたる、難波の浦に舟が着く。

 さて、人々は、無事に大阪に到着し、喜び勇んで意気揚々と、更に都を目指したのでした。都に着くと、一行は、とりあえず貧しい者が泊まる木賃宿に暮らしました。太郎重範は、もう既に都のどこかにいるだろうと、都中を捜し回りましたが、見つかりません。明け方から夕方まで、あっちこっちを捜しますが、もう既に死んでいますから、見つかるはずもありません。今日も、疲れ果てて宿に戻ると、御台様は、

 「これほどに、毎日捜し廻ってみつからないのであれば、おそらく追っ手の手に掛かって殺されたに違いありません。ああ、可哀想に。」

 と、泣き崩れました。主従四人の人々の心の内の哀れさは、何とも言い表す言葉もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(4)

2014年03月14日 09時45分09秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あぐちの判官(4)

  さて、嫡子重範は哀れにも、旅の装束を調えて、右近一人を共として、上道を落ちて行きました。

 一方、兵部の太夫は、子供達を集めて、

 「厳重に秘密としたにもかかわらず、どうした訳か、我等の企てが漏れ聞こえたらしく、御台達は逃げたぞよ。なんとも、不思議な事だ。きっと、都へ向かうのに違いない。御門に奏聞されては、我が身の一大事じゃ。直ぐに、追っ手を差し向けよ。」

と言えば、式部の太夫を大将として、強者五十騎ばかりが、人々を追いかけたのでした。

  さて、若君達は、ようやく芦屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)に辿り着きましたが、式部一行も直ぐに追いついてしまいました。式部は若君を見つけると、喜んで、

「そこを、落ち行くのは、判官殿の御嫡子、重範殿とお見受け申す。何処に落ちようとしておられるのか。早く、自害をなされなさい。さあさあ。」

 と迫るのでした。右近は、重範に

 「やや、もう討っ手が掛かったのか。しかし、予てより、想い設けていたことですので、そんなに驚きなされるな。」

 と言うと、立ち戻り、

 「何だ、そう言うお前は、式部か。珍しい雑言を聞く。昨日までは、正しき譜代相伝の郎等であるのに、なんたることか。天の神の報いは、必ず訪れるぞ。」

 と、対峙しました。式部太夫は、これを聞いて

 「何と、そう言う前は、右近だな。お前こそ雑言を吐く。昔は、そうであったかもしれないが、時と共に、世の中は変わって行くものよ。判官殿は、ご運が尽き果て、命も縮まったのよ。無駄な抵抗をして命を落とすよりも、「名付き」を下げて降参せよ。そうであれば、昔のよしみで命だけは助けてやる。」

 と答えるのでした。その時、嫡子重範は小高い所に立ち上がって、大音声に名乗りました。

 「我を誰だと思うか。安口の判官重行が子、重範とは、私のことだ。郎等の心変わりを恨んではいない。只、我等の善根が少なかったということだ。日頃のよしみに、今一度見参。」

 ところが、式部の太夫は、返事もせず、

 「ええ、無益の論はいらぬわ。いざ、掛かれ、討て。」

 と下知するのでした。寄せ手の軍勢が一度にどっと押し寄せました。右近は、これを事ともせず、達を抜いて応戦しました。ここを最期と、奮戦し、敵の強者二十騎余りを、薙ぎ伏せましたので、残りの軍勢は驚いて、四方へぱっと、退きました。しかし、良くみると、右近も沢山の傷を負っています。流石の右近も、太刀を杖にして、よろよろと、若君の所へ戻りました。右近は、

 「若君様。先ず、この隙に、一足も早く、落ち延びましょう。」

 と促しました。若君は、忝くも右近を肩に掛けて、力の限り逃げて行きます。しかし、式部の太夫は、怖じ気づいて、さっさと館へ逃げ帰ってしまっていたのでした。

  逃げ帰ってきた式部の太夫を見て、兵部太夫は、激怒して、今度は、次郎を大将として追っ手の軍勢を差し向けました。さて、幼い若君は、心は焦りますが、足は進みません。無残にも。右近の尉は深手を負っていたのです。最早、一歩も歩けなくなり、とうとうとある道端に倒れ伏してしまいました。若君は、右近に取り付いて泣くばかりです。そうこうするうちに、既に次郎の軍勢も追いつきました。次郎は、

 「そこを、落ちて行くのは、判官殿の御嫡子、重範殿とお見受け申す。兵部太夫の次男、次郎が見参。どこへ、逃げるつもりか。早く自害されよ。さあさあ。」

 と迫りました。労しい事に、若君が、

 「追っ手が来ましたよ。自害いたしましょう。」

 と、右近を揺すりますが、既に返事もありません。仕方無く、若君は、父の重代の刀をするりと抜くと、先ず、右近の首を切り落とし、返す刀で、自分の腹を切りました。享年十二歳で、明日の露と消えたのでした。かの若君の心の内の哀れさは、なんとも言い様がありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(3)

2014年03月13日 18時21分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(3)

  兵部の太夫時成(ときなり)は、表には嘆く様子を見せながら、その下には喜悦の眉を開くのでした。そして、兵部は、御台所や兄弟の若君にも劣らない程に、供養をして、七日七夜どころか、百日に至るまで、篤く法要を行ったのでした。人々は、これを見て、

 「神を祀る時は、神の威を増す様に行い、死に仕える時は、生に仕える様に仕えるのだな。」

 と、愚かにも感心するのでした。

 その年も暮れ過ぎて、1月を越して、2月の半ばの頃のことです。兵部太夫とその子供達は更にかさねて密談をするのでした。兵部太夫が、

 「やあ、子供どもよく聞け。昔も今も、敵の子孫を助けておいて、良いことがあった例しは無い。可哀想には思うが、御台所と若君達を殺してこい。」

 と言うと、嫡子の太郎は、

 「父の仰せはご尤も。夕暮れ時に、山遊びと言って、花園山(福岡県東峰村小石原)に誘い出して、密かに切って捨てましょう。父上様。」

 と、答えるのでした。兵部太夫は、よしよしと喜びましたが、三男式部の三郎は、心の中でこう叫んでいました。

 『なんと、情け無い。無念にも急死された判官殿を、世にも不憫と思うのに、その上、兄弟の若君までも殺そうとするとは、なんと無念なことか。親兄弟を刺し殺して、自害する外ないはと思うが、いや待て暫し。親に敵対するならば五逆罪を犯すことになる。こうなっては、この事を御台様に知らせて、何処へでも落ち延びさせる外は無い。』

 心の優しい三郎です。それから、三郎は急いで御前に進み出でて、畏まると、何も言わずに只、さめざめと泣くのでした。御台所や若君が、

 「いったいどうしたのですか。三郎。」

 と問いかけると、三郎は、涙を押し留めて

 「さて、その事です。私の親である兵部太夫は、乱心いたしました。御台所や若君を討ち殺そうと企んでおります。余りに不憫でありますので、この事をお知らせして、何処へとも落ち延びていただくために、是まで参りました。」

 と、言うのでした。御台所も若達も、答える言葉も見つからず、只々、泣く外はありませんでしたが、御台所は、若君達を近づけて、涙ながらに、

 「さてさて、夫の判官殿が、兵部に万事頼むと、所領を加増したその恩賞をも忘れて、早くも心変わりをして、このような悪巧みをするのですか。まだ幼いお前達や、何の力も無い私を殺して、栄華を独り占めにしても、必ず因果は報うものです。その上、三代相恩の主君を何と思っているのか。頼りにしていた家臣に裏切られるような世の中で、どこに落ちて行くにも、頼む当てもありません。ああ、これと言うのも、前世からの戒行(かいぎょう)が、足りなかったのですから、嘆くのはやめなさい。」

 と、健気にも言うのでした。それでも、涙は止まりません。落ちる涙の合間に、御台所は三郎に向かって、

 「三郎、お聞きなさい。嘲斎坊(ちょうさいぼう)が害に遭うのも、相手を騙す心が無いからです。世の中は、笑いながらに、その後ろで刀を抜いているものです。人の心ほど、分からないものは有りません。それにしても、私たちを殺そうとするのは、お前の親なのに、それを知らせに来るとは不思議なことです。お前も、我々を騙しているのではありませんか。本気で殺しに来るのなら、何処へ逃げようと、逃げ切ることなどできないでしょう。卑しい者の手に掛かって殺されるくらいなら、いっそ、今ここで、お前の手に掛けて、若君の首を刎ねて、父に見せなさい。」

 と、迫るのでした。三郎は、これを聞いて

 「仰る通り、ままならないのは人の心です。その様にお考えになるのも無理なことではありませんが、もし、これが偽りであるなら、宇佐八幡の御法度を被り、弓矢の冥加は永遠に失われるでしょう。お疑いあるならば、今此処で自害いたします。」

 と、涙ながらに答えるのでした。これを聞いた御台所が、

 「それでは、どのようにしたら良いですか。」

 と、問うと、三郎は、

 「先ずは、何処へとも、落ち延び下さい。私も、お供をしたいのは山々ですが、親の不興を受けることは間違いありませんので、出家を致します。」

 と言うと、直ぐに諸国修行の旅に出たのでした。かの三郎の心の内を、褒めない者はありません。

  それから、御台所は、乳母の右近を呼ぶと、事の次第を話しました。右近は驚いて、

 「これは、なんと、口惜しいことでしょうか。しかし、どうこう言っている場合ではありません。討っ手が攻めて来る前に、一刻も早く、逃げましょう。」

 と答えます。御台所が、

 「何処へ落ちれば良いのでしょうか。」

 と問えば、右近は、

 「むう、先ずは、都へ参りましょう。御門へ奏聞申し上げて、兵部の罪を訴え、兵部の首を討つのです。」

 と、頼もしく答えます。御台はさらに、

 「お前の言うことは、確かに尤もですが、落ちたことが知れれば、直ぐに追っ手が、掛かるでしょう。皆が一所に落ちるならば、一人も生き残れないでしょう。お前は、太郎を連れて上道を通って行きなさい。私は、次郎を連れて、下道を通って行きます。お互いに、無事、都に辿り着いたのなら、再び対面いたしましょう。もしも、討たれる様なことがある時は、今が別れの時と思って、来世で又巡り逢いましょう。」

 と、言うのでした。御台所は、心の中で、

 『南無筑紫宇佐八幡。あなた様は、氏子を百代百王に渡ってお守り下さると聞いております。どうか兄弟の若達の行く末をお守り下さい。』

 と、深く念じて旅立ちました。親子の人々の心の内の哀れさは、何とも言い様もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(2)

2014年03月13日 16時06分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(2)

 さて、僧正は、甥の頼みに、困り果てていましたが、仕方無く、壇の飾りを荘厳にして、安口の判官の調伏を始めました。まったく怖ろしいことです。僧正は、初め三日のご本尊には、来迎の阿弥陀三尊を立て、六道能化の地蔵菩薩を兵部太夫の所願成就の為に祀りました。

 「判官重行殿の二つと無き命を取り、来世にては、観音勢至よ、蓮台を傾けて、安養浄土にお導き下さい。地獄には落とさない様お願いいたします。」

 と、余念無く祈ると、五七日の本尊には、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)、金剛童子、五大明王の利験をありがたくも、四方に飾り、紫の袈裟を掛けて、様々に壇を飾りました。僧正は、再び肝胆を砕いて祈るのでした。昔が今に至るまで、仏法護持の御力は、絶大でありますから、七日の満行の寅の頃に(午前4時)明王不動の剣先が、元気いっぱいの重行殿の首を貫くのが見えました。そして、剣は、壇上に落ちたのでした。僧正は、

 「さては、威厳が現れたな。」

 と言うなり、祭壇を壊しました。なんとも怖ろしい有様です。

  これはさて置き、可哀想なのは、奈良の都の警護に当たっている安口の判官重行殿です。判官殿は、そんな調伏がなされているとは、夢にも思わず、春日大社に参籠することになりました。それは、もう夏も終わろうとする頃のことです。重行は、峰々に重なる木々の間を吹き下ろしてくる風に当たって、突然病気になってしまったのでした。家来の侍達は、驚いて、様々手を尽くして、治療に当たりましたが、回復する様子も見えません。安口の判官は死期が近付いた事を悟って、家来を集めてこう言いました。

 「さて、皆の衆。私は、娑婆に別れて、これより冥途の旅に赴く。国元に、形見を届けてくれ。膚の守りと鬢の髪を、御台所に、太刀を太郎に、刀は次郎に、それぞれ取らせよ。何が起こるか分からないという世の習いを今こそ、思い知ったぞよ。若達が、さぞ嘆くことであろうが、今生において、縁が薄くとも、来世に於いては、必ず巡り逢うと、伝えてくれ。頼んだぞ。」

 安口の判官は、さめざめと泣きながら、さらに続けました。

 「さて又、兵部に伝えてほしいことは、急いで太郎を参内させて、重行の跡目相続を奏聞してほしいということだ。そして、これまでと変わらずに国を治めていってもらいたい。まだ若達は幼いから、万事は、兵部に頼んだと、懇ろに伝えてくれ。ああ、名残惜しいことじゃ。」

 安口の判官重行は、そう言うと、西に向かって手を合わせ、念仏を四五遍唱えました。そして、まったく惜しいことに、四十三歳の生涯を閉じたのでした。家来達は、判官の死骸に取り付いて、

 「おお、これは、夢か現か・・・」

 と、嘆き悲しみましたが、もうどうしようもありません。やがて、多くの僧を頼んで、野辺送りをするのでした。人々は、涙ながらに骨を拾い形見とし、国元へと帰って行きました。

  さて、安口の判官の遺骨を携えた、人々は、筑前の国へと帰り着きました。まず、兵部太夫に事の次第を報告すると、涙ながらに形見を取りだして、渡しました。兵部太夫は、『さては、祈祷の甲斐あって、判官は死んだのか』と、心の中で喜びながらも、驚き悲しむふりをして、形見を、御台所に取り次ぐと、空泣きをするのでした。突然の訃報に御台所は、泣き崩れる外はありませんでした。やがて、御台は心を取り直して、

 「もうすぐ、都の御番も終わり、目出度い御下向を、今や遅しとお待ち申して、あなた様からの便りを何よりも楽しみにしていたのに、形見の物とは、いったいどういうことですか。ああ、今になって、思い返してみれば、都へ立たれるその時、名残惜しげにされていたのを、目出度く出立させようと、勇め申し上げましたが、このような事になると知っていたなら、樊籠(ばんろう)の涙をもってしても、お止め申しあげたのに。今更ながら、神でないこの身が、なんと浅ましいことでしょう。」

 と口説くと、再び、流涕焦がれるのでした。若君達も、共に涙を流して悲しみましたが、兄の太郎重範は、気丈にも、

 「のうのう、母上様。そんなに悲しまないで下さい。それよりも、我々兄弟を刺し殺して、あなたも御自害なされて、もう一度父上様に会いましょう。」

 と言うのでした。母上は、これを聞いて、

 「おお、大人のように優しく、言う事は確かに尤もなことではありますが、人間、誰しも死よりも、生きることが大切であり、受けたこの身を尊く思い、最期まで尽くすことこそ、親孝行というものですよ。今、お前達が死んだならば、草葉の陰の父上様は、返って、悩み苦しむことでしょう。死んで父に会うことよりも、生きて跡目を継ぐ事こそ親孝行になるのではありませんか。今より後は、雲居の満月のように出世をする為にも、心も身も献げて、会稽の恥を濯ぎなさい。」

 と、懇ろに諭すのでした。若君達は、これを聞くと、

 「父上様の御諚にも、母上の仰せに従う様にとありましたから、必ずそのように致します。」と答えて、泣く泣く立ち上がると、父、安口の判官重行殿の冥福を弔うのでした。親子の人々の心の内の哀れさは、何にも譬えようもありません。

 つづく

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忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(1)

2014年03月12日 09時50分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

古浄瑠璃正本集第1の(4)は、「ともなが」である。相模の国の「和田の判官朝長」のお話である。残念ながら、前半三段分の正本しか発見されていない。
 古浄瑠璃正本集第1の(5)は、「あぐちの判官」である。寛永十四年(1637年)山本久兵衛の板である。この物語も、「ともなが」と同様に、主君の死後に、その郎等が、国盗りを企む趣向となっている。但し、「朝長」の死が、鬼人の祟りが原因であるのに対して、「安口」の死は、郎等の調伏であるのは、大きな違いに映る。しかし、人売りが介在したり、春日大明神が助けに入ったりして、まだ説経の匂いが残っているような所もある。 

あぐちの判官(1)
 

その昔、奈良の都の継体天皇の御代のことです。(507年~531年) 

筑紫筑前の国には、安口(あぐち)の判官重行(しげゆき)という、文武両道に優れた、有名なお方がいらっしゃいました。その一族は大変に豊かに栄え、子供が二人おりました。嫡子、太郎重範(しげのり)は九つ、弟に次郎重房(しげふさ)は七つです。 

ところが、思いも寄らぬ事が起こる物です。判官殿に、御門の御番の役が命じられたのでした。判官殿は、御台所に 

「さて、この度、御門の御番を命ぜられ、三年の間、都の警護に当たらなければならなくなった。二人の若の養育を、宜しく頼む。」 

と、涙ながらに語るのでした。北の方も、悲しみますが、晴れの門出を祝うために、 

「ご無事に御下向下さい。二人の若君は、しっかりしておりますから、ご安心下さい。」 

と、気丈にも答えるのでした。安口の判官は、安心すると、家臣の兵部の太夫にこう命じました。 

「さて、兵部。よく聞け。私が都の警護に出ている三年の間、領内の事どもは、すべて御前 

に任せる。御台や若君達によく仕える様に。当座の褒美として、二百町を加増する。」 

と、御判を賜わるのでした。兵部は、 

「ありがたや。」 

と、三度礼拝して、御判をいただき 

「都では、ご安心して、警護に御当たり下さい。」 

と、さも頼もしそうに答えるのでした。やがて、安口の判官は、二百余騎を引き連れて都の警護の御番に着きました。 

 さて、国元に残った兵部太夫は、三年の間、国を預かることになりました。兵部は最初、 

兄弟の人々によく仕えていましたが、家来の侍に対して、やがてこんなことを言う様になりました。 

「皆の者、良く聞け。わしは、この国を三年の間、預かる者である。どのような訴訟であれ、 

わしが、事の理非を判断するように言われておる。もしも、異議などを申したてるならば、それなりの処遇をするから、覚悟しろ。昼も夜も、精勤せよ。」 

急に偉そうになった兵部に、家来の人々は、 

「なんとも、悔しい事だか仕方無い。短い間のお当番であるから、ここは、我慢しよう。」 

と思い、兄弟若君を差し置いて、兵部太夫を判官殿同然に崇めるようになったのでした。 

まったく、口惜しい次第です。 

 こうして、二年の月日が過ぎた頃、兵部太夫は、思いのままに国を操って、私腹を肥やしていましたが、こんな事を考える様になったのでした。 

「来年の春の頃には、判官重行が、当番を終えて帰国してくる。そうしたら、この栄華もおしまいだ。又元の兵部に戻って、判官に仕えなければならない。ええ、なんとも口惜しい。なんとかならないものか。」 

兵部太夫は、散々に考えあぐねて、子供達を集めて、こう話しました。 

「よいか、主君の判官殿を討ち取って、この国を横領するぞ。そして、我が一族は、上を見る鷹の様に栄えるのだ。どうだ。」 

長男の式部太夫、次男兵部の次郎は、その義ご尤もと尻馬に乗りますが、三男式部の三郎は、 

「これは、父のお言葉とも思えません。今、このように栄華を得ているのも、全て、判官殿のご恩に寄るものですぞ。このご恩情を忘れるとは、なんたることですか。例え、御門の宣旨によって、国を下されても、主を重んじるのが、賢人の振るまいと申すものです。故事を 

引くならば、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽という二人の王がおります。国争いも既に八年も経った頃、高祖が負け戦をして、自害しようとした時の事です。ある家臣は、主君の命に替わる為に、主君の馬に乗って、『高祖は降参いたす。』と、大音声で飛び出して行ったのです。これを聞いた項羽が、戦いの手を休めた隙に、高祖は落ち延び、代わりにその家臣が自害したのです。弓矢を取る武士の習いには、二心(ふたごころ)の無い義心こそ、大事ではありませんか。どうか、思い留まり下さい。」 

と、涙ながらに訴えるのでした。兵部の太夫は、大変にはらを立て、 

「昔の譬えが、何だというのか。わしは、もう年を取って、明日をも知らぬ身であるけれど、お前達は、これから出世するのだぞ。その為に、思い立った事であるから、明日は閻浮の塵となろうとも、思い留まっている場合ではないぞ。」 

と、歯ぎしりをして喚くのでした。その時、嫡子の式部太夫は、 

「父上がそれ程までに、思い詰められておられるならば、どうでしょうか。敵わない敵には神や仏に祈るという習いがあります。判官重行殿を、調伏するのは如何でしょうか、父上。」 

と、言うのでした。兵部太夫は、喜んで、 

「成る程、それは良い考えじゃ。しかし、他人に頼む訳にもいかない。よし、叔父の僧正に頼むことに致そう。」 

と、言うと、早速、僧正を呼び寄せました。兵部太夫は、僧正に対面すると、 

「あなたを、招きましたのは、別の事ではありません。判官重行殿を、調伏していただきたい。」 

と、小声で言うのでした。僧正が、飛び上がって驚き、 

「これは、なんという企みか。あなたの主君の命を奪うなら、天のご加護も無くなりますぞ。閻魔大王の照覧も怖ろしい。愚僧は、幼少より、五戒を守り、生き物の命を殺したこともありません。ましてや、判官殿の命を奪うなどと言うことは、思いも寄らぬことです。」 

と、辞退しますと、兵部太夫は、面目を失って、 

「それでは、もうどうしようもない。このような大事な秘密を話した以上は、いつ北の方に漏れ聞こえるとも限らない。難儀に遭うその前に自害をいたす。」 

と、その場で刀を抜こうとするのでした。僧正は、驚いて押し留めると、 

「それ程までに、思い詰めておられるのなら、できるかどうかわかりませんが、調伏いたしましょう。」 

と、言わざるを得ませんでした。兵部太夫は、ようやく機嫌を直しましたが、すごすごと帰って行く僧正の心の内の苦しみは、なんとも言い様もありません。

 

つづく

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忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(6)終

2014年02月12日 18時20分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

はなや(6)終
 

 都を立った、花若丸は、夜を日についで駒を進め、相模を目指しました。横山館に到着した花若丸は、
「花屋殿は、どこですか。」
と、呼ばわりました。すると、門番は、
「只今、最期の時を迎える為に、由比の浜へお出でになりました。」
と答えるのでした。これを聞いた花若殿は胆も魂も消え果てましたが、落ちる涙を振り払って、
『せめて、父の最期の場所を見てこよう』
とお思いになり、由比の浜へと急がれるのでした。
 

 由比の浜に出てみると、夥しい群衆です。花若は、この人々が父花屋を惜しんでいるのに力を得て、こう叫びました。
「やあやあ、皆さん。花屋長者をお助け下さい。御門の御判を持って来ました。どうか、皆さんで声を上げて、伝えて下さい。」
これを聞いた人々は、皆、大声を上げて前へ前へと伝えたのでした。既に、最期所では、介錯人が太刀を取って、花屋殿の後ろへと回っている所でした。しかし、その時、検使の横山殿は、微かな声を聞き取って、
「花屋を切るな。暫し待て。」
と止めたのでした。群衆を掻き分けて、近付いて来たのは、駒に乗った、年の頃十四五歳の法師でした。花若丸は、
「これを、ご覧下さい。」
と、助命の御判を、投げ出すと、物も言わずに、父花屋に抱きつきました。父も子も、何も言葉にできず、唯々泣くばかりです。やがて、涙の隙より花若丸が、都での次第を子細に話して聞かせるのでした。父花屋も、これは夢かと疑いつつも、優しく花若を抱くのでした。横山殿を初めとし、浜にいる見物の人々も、これを見て、
「まったく、持つべきものは、子供である。」
と、涙しない人は有りませんでした。
 

 それから、親子の人々は、横山館へと移り、三日三夜の酒宴を催して、この奇蹟を祝いました。花若の親孝行に感激した横山殿は、
「親孝行な花若殿を、横山家の聟にいたす。」
と言って、一人娘の聟に取って、跡目を花若に譲りました。その後、花屋は、
「ここに、いつまでも逗留していたいが、先ずは、上洛して御門に参内し、又、改めて伺いましょう。」
と、暇乞いをすると、親子諸共、大勢のお供を連れて都へと戻って行ったのでした。
 

 花世姫が待つ、都の宿に着くと、花若は、
「父御をお供して、只今、帰りましたよ。」
と、呼ばわりました。これを聞いた花世姫は、夢心地に、走り出てきましたが、花世姫を見た花屋は、その姿に驚いて、
「なんという、浅ましいことか。」
と、涙を流して悲しみました。
 

 しかし、いつまで悲しんでいても仕方ないので、花屋は花若を連れて参内し、咎は無いことを奏聞したのでした。御門は、
「咎も無い者を流罪としたことを後悔しておる。今回の褒美として、筑前を与える。早く下向せよ。」
との宣旨を下されたのでした。
 

 花屋は、これまでの様々な奇蹟に感謝し、又、花世姫の病を治す為に、姉弟を連れて、清水寺を参拝することにしました。清水寺のご本尊は、千手観音です。親子の人々は、ご本尊の前で、鰐口を打ち鳴らして、心静に祈誓するのでした。そしてその夜は、そこにお籠もりになられたのでした。その夜の夜半の頃、有り難いことに、大慈大悲の観音様が、枕元にお立ちになったのでした。観音様は、
「筑前の国、楊柳観音と、現れたのは私ですよ。又、姉弟の人々が、国司に捕まった時、三病を突然与えたり、追っ手が掛かった時に、助けたのも私です。それに、道端で花若が死んだ時に、生き返らせた老僧も私です。さて、それでは最後に、姫の病を平癒させましょう。」
と仰ると、姫君の体を、上から下までお撫でになって、そのまま、掻き消す様に消えたのでした。親子の人々は、夢から醒めると、かっぱと起き上がり、花世の姫を見ました。なんと、花世姫の姿は、元の容貌よりも、さらに一段と美しくなっており、辺りも輝くばかりです。花屋殿は、これをご覧になって、まるで夢の様だと喜びました。親子の人々は、
「有り難や、有り難や。」
と何度も礼拝して、筑紫の国へと帰って行きました。
 

 やがて、花屋親子と数多の軍兵は、豊前の国、宇佐の郡に到着しました。萩原の国司の城に押し寄せて、鬨の声を上げたのです。突然のことに、城内は大混乱です。城内から、
「いったいなんの狼藉か。名を名乗れ。」
と言えば、寄せ手方は、
「これは、花屋長者である。日頃の無念を晴らすため、これまで押し寄せてきたのだ。大人しく腹を切れ。」
と答えるのでした。萩原の国司は、これを聞くと、最早これまでと、諦めました。国司は、小高い丘へと駆け上がると、潔く腹を一文字に切ったのでした。花屋の軍勢は、萩原の首を討ち落とし、勝ち鬨の声を、どっと上げるのでした。
 

 それから、花屋長者の人々は、故郷、博多に帰り、ようやく御台様とも会うことができましたので、その喜びは、限りもありません。そして、再び花屋長者は、栄華に栄えたのでした。これというのも、観音様の弘誓(ぐぜい)のお陰です。昔が今に至るまで、験し少ない次第であると、上下万民押し並べて、感激しない人はありません。
 

おわり

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(5)

2014年02月11日 18時14分28秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 はなや(5)

  さて、姉弟はようやく、都に辿り着いたのですが、哀れんでくれる者もおらず、
物憂い日々を送っておりました。そんな時に、宿の亭主は、御門のお触れを耳にしたのでした。
亭主は、
「そうだ、この頃お泊まりの修行者は、筑紫の人であったな。これはひとつ、
奏聞することにしましょう。」
と思い、急いで参内したのでした。亭主が、
「お尋ねの方かどうかは分かりませんが、筑紫から来た、幼い修行の姉弟が、
宿泊しております。」
と奏聞すると、大臣が急いで、御門に報告しました。早速に召し寄せることとなり、
亭主と官人達が、宿所へと押し寄せました。官人達は、
「御門よりの宣旨である。早く参内せよ。」
と、花若丸を引っ立てるので、花世姫は驚いて、
「なんと、情けも無いことをする人々でしょうか。宣旨と言うのならば、私も一緒に連れて
行って下さい。」
と言って、花若丸の袂に縋り付いて、離れません。泣きわめくお姿は、まったく目も当てられない労しさです。
しかし、官人達は、花若丸だけを、引っ立って、急いで内裏へと戻ったのでした。
連れて来られた花若丸に、御門は、
「筑紫の修行者とは、御前のことか。年端も行かぬその身で、修行をするとは神妙である。ここに、病人がおり、何をしても治らない。おまえは、本復させることができるか。どうだ。どうだ。」
と、迫りました。花若丸は、勅命を受けて、
「分かりました。私が后の病を治して、御門のお望みを叶えましょう。」
と答えると、お経を取り出して、観音経を読み始めました。
「念彼観音力。頼み奉る。南無大悲観音菩薩」
と祈られると、后は、もうすっかり回復したのでした。喜んだ御門は、
「おお、この度の働きの褒美として、筑前を与える。早く筑紫へ下向せよ。」
と宣旨を下されましたが、花若丸は、今こそ待ち望んだ機会であると思って、
涙ながらにこう奏聞したのでした。
「私は、相模の国に流罪となった、花屋の子供ですが、どうか父花屋に筑前をお与えいただき、も
う一度、都へお戻しくださるように、お願いいたします。」
涙ながらの奏聞に、御門は、
「むう、それは簡単なことだが、既に四五日前に、花屋を処刑せよとの勅使を立ててしまったので、
最早この世には無いであろう。気の毒なことではあるが、いくら嘆いても手遅れじゃ。大人しく筑紫に戻れ。」
と答えたのでした。それでも、花若丸は、重ねてこう願いました。
「譬え、命が無くとも、今一度、お許しの御判をいただきたく思います。」
重ねての奏聞に、御門は、やがて御判を下されたのでした。

 花若は、御門の御判を貰うと、早速に宿所に戻り、姉御に詳しく事の次第を話しました。
これを聞いた花世姫の喜びは、限りもありません。花世姫は、
「私も一緒に連れて行ってくださいな。さあさあ、行きましょう。」
と勇みたちました。しかし、花若丸は、これを聞くと、
「仰ることは、分かりますが、遙か遠くの道のりを、姉御様を連れてでは、時間が掛かって、
父御様の命が危うい。一刻も早く、私が下向して、父上と一緒に戻って参りますから、
姉御様は、ここでお待ち下さい。」
と、言うのでした。花世姫は諦めて、花若を送り出しました。花若丸は、駒に乗って、
相模の国を目指したのでした。かの花若丸の、心の内の焦りは、何かに譬えるものもありません。

 これはさて置き、相模の国には、花屋を処刑せよとの勅使が、既に到着していました。
横山殿は、仕方無く、花屋殿を呼び出すと、
「誠に残念なことですが、あなたを処刑せよとの勅使が参りました。ご用意下さい。」
と言い渡しました。花屋殿は、これを聞いて、
「致し方も無いことです。しかし、横山殿お情けは、決して忘れませんよ。最期に、
古里へ形見の文を書かせて下さい。」
と、硯と料紙を頼みました。花屋殿は、思いの丈を残さず書き記して、涙と共に、押し畳むのでした。
この便りを、必ず、古里に届けて戴きたい。深くお願いいたします。最早、思い残すこともありません。
それでは、お暇いただきましょう。」
と、花屋殿は、悪びれもせずに立ち上がりました。横山殿は、侍十人ほどを従えて、
由比ヶ浜へと、花屋殿を引き据えたのでした。
 鎌倉中の人々は、この処刑を見物しようと、我も我もと、集まってきました。
由比ヶ浜に引き据えられた花屋殿は、西向きに座り直して、こう言うのでした。
「私の古里は、西の国。これから行くのは、西方、弥陀の浄土。黄泉路(よみじ)の旅の空を、
阿弥陀光をもって、いよいよ照らして下さい。南無阿弥陀仏。」
これを聞いた、横山殿を初めとし、貴賤の群衆達は、
「げに、道理なり理(ことわり)なり」
と、袖を絞らない者はありませんでした。 

つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(4)

2014年02月11日 15時45分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

はなや(4)
  さて、逃げていった追っ手の事はさて置いて、姉弟の人々は、自分たちも死んでしまう
だろうと思い込んでいました。しかし気が付くと、天が晴れ上がり、紺碧の空となりました。
 川の水も引き、再び老人が、どこからともなく現れました。老人は、
 「姉弟の人々よ。私を誰と思うか。筑前の国の楊柳観音(ようりゅうかんのん)であるぞ。(心光寺観音堂:福岡県久留米市寺町)
 お前達を助けるために、これまでやって来たのだ。」
 と言って、掻き消す様に消え失せたのでした。姉弟の人々は、これをご覧になって、
 「これは、大変有り難いことだ。」
 と、虚空を二度、三度と伏し拝むのでした。

  さて、それからというもの、足に任せて、野を越え、山越え、里を過ぎ、夜を日に継いで
先を急ぎました。しかし、先も分からぬ道のことですから、疲れ切った花若丸は、ある所で
ばったりと倒れると、そのまま息絶えてしまったのでした。若君の心の内を、何に譬えたら
よいでしょうか。花世姫は、花若が死んだとも思わずに、
「どうしたのです、花若。余りに疲れて、転んでしまったのですか。それとも、心がくじけて
倒れてしまったのですか。さあ、起きなさい。起きなさい。」
と、声を掛けますが、死んだ花若が答えるはずもありません。花世姫は、驚いて縋り付き、
「ええ、死んでしまったのですか。花若よ。なんと、悲しや。」
と、哀れにも口説き立て、
「私が、こんな姿に成り果てても、ここまで遙々とやって来たのは、おまえを頼りにして、
父上の行方を尋ねる為だというのに、おまえが死んでしまっては、私は、どうしたら良いの
ですか。」
と、泣き崩れるのでした。
 その時、大慈大悲の観音菩薩は、これを哀れとお思いになり、八十歳ぐらいの老翁に変化
されて、姫の前に現れました。老翁が、
「どうしたのです。」
と問うと、花世姫は、
「ああ、お坊様。この幼き者は、私の弟ですが、只今、ここで死んでしまったのです。」
と答えて、袈裟の衣に取りすがって、さめざめと泣くのでした。老翁は、
「では、この僧が、助けてあげましょう。」
と言うと、観音経を取り出して、(「妙法蓮華経」観世音菩薩普門品第二十五)
「善哉善哉、平癒なれ」
と唱えるのでした。そして、花世姫に、
「さあ、姫君。これを、守り本尊としてお持ちなさい。」
と言うと、観音経を、花若丸の胸の上に置くのでした。そして、
「よっく聞きなさい。このお経は、大変有り難いお経です。我が身に大事のある時は、この
お経を唱えなさい。死んだ者も生き返ります。必ず必ず、疎かにしてはなりませんよ。」
と、言うなり、掻き消す様に消えたのでした。

 その時、花若丸は、かっぱと起き上がり、まるで夢からでも覚めたかの様に、呆然として、
辺りを見回すのでした。花世姫は余りの嬉しさに、花若丸に抱だき付き、うれし涙に暮れました。
花若丸は、これを見ると、
「只、疲れて、転んだだけですのに、何をそんなに泣いていらっしゃるのですか。」
と、その場と取り繕って、何も無かったかのように、再び都へと向かったのでした。

 
ようやく都に着き、六条の辺りに宿を取りましたが、如何せん、知り合いもありませんので、
どうやって、奏聞したらよいか分かりません。しかし、その妄念が、積もった為でしょうか、
御門のお后様が、突然、病気になったしまわれたのでした。
 御門は、大変驚いて、貴僧、高僧を沢山集めて、いろいろと祈らせましたが、一向に容態
は良くなりません。次に、陰陽の博士、安倍の資充(すけみつ)を呼んで、占わせることに
しました。安倍資充は、こう占いました。
「むう、これは面白い占いが出ております。筑紫より幼い修行者が一人、上洛して、都に滞
在しております。この者を召し出せば、お后様のご病気は、たちまちに平癒されることでしょう。」
御門は、この占いを聞くと、早速に都中にお触れを出したのでした。この姉弟の人々の心の
内の哀れさは、申しようもありません。


つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(3)

2014年02月11日 09時36分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 はなや(3)

  さて、一方、筑紫の国の北の方は、花屋殿が流されたことも知らずに、姉弟を伴って、月
見の亭に出られて、辺りの景色を、愛でておりました。そこに、都より、左京という武士が
到着して、形見の文を届けたのでした。
花屋殿からの文の内容は、思ってもいないことでした。文には、

『萩原の国司による讒奏によって、東の方へ流罪となった。忘れ形見の姉弟を、宜しく養育
して、私の菩提を弔ってほしい。』

と書かれていたのです。これを読んだ北の方は、夢か現かと、泣き崩れました。驚いた姉弟
の人々が、

「どうしたのですか。母上様。何をそんなに嘆いていらっしゃるのですか。」
 

と、問うので、御台様は、姉弟に文を見せました。これを読んだ、姉弟の人々も、ただただ、 

消え入る様に泣くほかはありません。零れる涙をぬぐって、花若丸は、こう言いました。
 

「母上様。私が、都へ上って、咎の無いことを、御門に奏聞いたし、父と共に、戻って参り 

ます。」
 

これを、聞いた御台様は、
 

「それでは、私も一緒に参りましょう。」
 

と、御簾の中へとお入りになられました。しかし、花若殿は、
 

「いやいや、大勢では面倒だ。私が修行者の姿となって、一人で上洛した方が手っ取り早い。」
 

と言うのでした。これを聞いた花世の姫は、
 

「私も連れて行って下さい。」
 

と、涙ながらに、花若丸の袖に縋り付きました。花若丸は、
 

「しい、声が高い。それならば、姉弟二人で参りましょう。この事は、人に言ってはなりませんよ。」
 

と言うのでした。 

 さて、その夜も更けると、姉弟は、住み慣れた母の元を、涙ながらに後にして、都を指し 

て出発しました。ところが、哀れな事に、姉弟の人々の運命の拙さでしょうか。豊前の国、 

宇佐の庄を通った時に、かの芥丸に行き会ってしまったのでした。芥丸は、姉弟を見かける 

と、声を掛けました。
 

「おやおや、子供達よ。何処へ行くのですか。もし、都へ行くのでしたら、お供いたしましょうか。」
 

姉弟の人々は、謀り事とも知らずに、素直に、
 

「はい、我々は、都に上がる者です。どうか、一緒に、都まで連れて行って下さい。」
 

と、頼むので、芥丸は、心の中でにやりと喜んで、国司の館に姉弟を連れ帰ったのでした。 

萩原の国司は、姉弟の人々を見ると、
 

「お前達は、何処の者で、何処へ行くつもりなのか。」
 

と、聞きました。姉弟の人々は、真っ正直に、こう答えました。
 

「私たちは、筑前の国、花屋長者の子供です。父の花屋は、都において、萩原の国司の讒奏 

に会い、相模という国に、流罪となったと聞きました。余りに無念なことなので、このよう 

に修行者の姿となって、上洛し、咎の無いことを、御門に奏聞するのです。」
 

これを、聞いた萩原の国司は、飛び上がる程驚きましたが、願っても無いことです。
 

「ははあ、姉弟の方々は、花屋殿のご子息でしたか。それはそれは、不憫なことでしたな。
あなた方のお父上、花屋殿は、どなたかの讒奏によって東の方に流されました。その折には、 

我々も、お父上にいろいろとご助言したのですが、ご承引無く、東へとお下りになったのですよ。 

さて、お前達は、私を誰と思っているのかな。我こそ、萩原の国司であるぞ。せっかくこ 

こまで来たのだから、姫はここに留まって、私のものになりなさい。」
 

と、言い捨てると、簾中の奥へと入って行きました。 

 哀れな花世の姫は、花若丸に向かって、
 

「ええ、なんと悔しい事でしょうか。父の敵とも知らないで、ここまで来て、その上、素性 

もばれてしまいました。ああ、どうしたらいいのでしょう。」

と嘆きました。花若は、
 

「こうなっては、腹を切る外はありません。姉御様も御自害なされて下さい。とは、言うものの、
ここで、姉弟二人が死んでしまっては、御門に訴訟して、父を助ける者がいません。無念 

は承知の上ですが、姉御は、ここにお留まり下さい。私は、なんとかして都へ上り、咎の 

無い事を奏聞して、父と一緒に帰ったなら、その時は、萩原の国司を訴えて、本望を遂げよう 

と思います。」
 

と、決意をするのでした。しかし、疲れ切った姉弟二人は、そのまま倒れる様に、寝込んで 

しまいました。
 

 その夜の夜半のことでした。どうしたことでしょう、花世姫は、突然、苦しみ出しました。 

哀れな花世姫は、俄に、三病人となってしまったのでした。花若丸は、驚いて取り付くと、
 

「やあ、これは夢か現か。夕方までは、花の様に輝いていたのに、突然、そのようなお姿に 

なってしまうとは、いったいどうしたことですか。」

 と、悲しんで泣き崩れました。そうこうしていると、夜が明けて、萩原の国司がやって来ましたが、
国司は、花世姫の姿を見ると、 

「これは、一体何事か。花と争う容姿に引き替えて、三病人となったのか。ええ、仕方が無い。」
 

と、言い捨てると、家来を呼んで、姉弟を門外に追い出す様にと命じるのでした。 

 労しいことに、姉弟の人々は、羽抜鳥が、空中でどうして良いか分からないと同じように、 

只、立ち煩うよりありません。しかし、花若は、気丈にも、
 

「姉御様、都まで、私が手を引いて参ります。」
 

と言って、姫の手を引いて、都を目指すのでした。 

 この時、芥丸は、萩原の国司に向かって、
 

「あの姉弟の者達を、都へあげてはなりません。急いで追っ手を出して下さい。」
 

と、進言しました。成る程と思った国司は、芥丸に、屈強の強者を二十騎与えて、姉弟の 

人々を追跡させたのでした。 

 さて、姉弟の人々は、伊川(福岡県飯塚市)まで進みましたが、早くも追っ手が近付いて 

来たのでした。花若丸は、
 

「大変です。姉御様。追っ手が掛かりました。連れ戻されては、元も子もありません。さあ、 

御自害下さい。私も腹を切ります。」
 

と言って、守り刀を抜きました。 

 ところが、その時、川の中から一人の老人が現れました。その老人が、
 

「姉弟の方々、国司よりの追っ手が掛かりましたな。私が、お助けいたしましょう。」
 

と言うと、晴天が俄にかき曇って、雷が鳴り響き、車軸の雨が降り出したのです。それどころか、 

川の中から、大蛇までが飛び出て、追っ手の前に立ち塞がったのでした。追っ手の武士達は
 

「これは、人間業ではない。」
 

と驚いて、脱兎の如く逃げて行ったのでした。
 

つづく

Hanaya2

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(2)

2014年02月10日 15時37分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

はなや(2)

 なんとも哀れなことですが、花屋長者家房は、萩原の国司の讒奏(ざんそう)によって、失
 意の内に、知る人も居ない、遠国へと流されて行ったのでした。

 《以下道行き:都から相模の国まで》

頃は弥生の末なるに
鴨川、渡れば
夜はほのぼのと、白川や
妻や子供に粟田口(京都市東山区)
京、桐原の駒迎え(※馬献上の行事:桐原は馬の産地で長野県松本)
『逢坂の関の清水に影見えて
今や、引くらん望月の駒(※同様に蓼科産の名馬)』の足音、聞きなるる
紀貫之の歌を踏まえる)
大津打出の浜よりも(滋賀県大津市)
志賀唐崎を見渡せば(唐崎神社)
微かに見ゆる、ひとつ松
類い無きをも思いやり
いとど、涙は堰あえず
消えばや、ここに粟津河原(滋賀県大津市晴嵐)
石山寺の鐘の音(こえ)
耳に触れつつ、殊勝なり
思いは尚も、瀬田の橋
駒もとどろと打ち渡り
雲雀、上がれる、野路の宿(滋賀県草津市野路)
露は浮かねど草津の宿(滋賀県草津市)
雨は降らねど守山や(滋賀県守山市)
曇り掛からぬ鏡山(滋賀県竜王町)
そのかみならのをきなの(不明:その上、奈良の翁のカ)
『鏡山、いざ立ち寄りて、見て行かん
年経ぬる見は、老いは死ぬる』と
詠みたりし、そのいにしえの言の葉まで
思いやられて、哀れなり
愛知川、渡れば千鳥鳴く
小野の細道、摺張り山(滋賀県彦根市)
番場、醒ヶ江、柏原(滋賀県米原市)
荒れて中々、優しきは
不破の関屋の板庇(岐阜県不破郡関ヶ原町)
月漏れとてや、まばらなる
垂井の宿に仮寝して(岐阜県不破郡垂井町)
夜はほのぼのと赤坂や(岐阜県大垣市)
美濃ならば、花も咲きなん
くんせ川(杭瀬川)、大熊河原の松風に(不明)
琴(きん)の音や白むらん
墨俣(岐阜県大垣市)、足近(あじか:岐阜県羽島市)、およいの橋(不明)
光あり、玉ノ井の(愛知県木曽町玉ノ井)
黒田の宿を打ち過ぎて(愛知県一宮市木曽川町黒田)
下津(おりづ:愛知県稲沢市下津)、海津(岐阜県海津市)を過ぎ行けば
名を、尾張の国なる
熱田の宮を伏し拝み
何と、鳴海の汐見潟(愛知県名古屋市緑区鳴海町)
三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)
末を、何処と、遠江(静岡県西部)
浜名の橋の入り潮に(浜名湖)
差さねど登る、海女小舟
我が如く、焦がれて、物や思うらん
南は滄海、満々として、際も無し
北には又、湖水あり
人家、岸に連なって
松吹く風、波の音
何れがのりの炊く火ぞと
打ち眺めて、行く程に
明日の命は知らねども
今日は、池田の宿に着く(天竜川渡し場:静岡県豊田町池田)
袋井畷(静岡県袋井市)、遙々と
日坂行けば(静岡県掛川市日坂)、音に聞く
小夜の中山、これとかや
神に祈りは金谷の宿(静岡県島田市金谷)
松に絡まる藤枝や(静岡県藤枝市)
一夜泊まりは岡部の宿(同藤枝市岡部町)
蔦の細道、分けて奇異なれ
衣、打つ(宇津)の山
蔦の細道は宇津ノ谷越えの古道)
現や、夢に駆くるらん
名所を行けば程も無く、駿河の国に入りたよな
思い駿河の富士の根の
煙は空に横折れて
燻る思いは、我一人
南は、海上、田子の浦(静岡県富士市)
寄せ帰る、波の音
物凄まじの風情かな
北は、青山峨々として
裾野の嵐、激しくて
いとど、思いは、浮嶋ヶ原よと眺め(沼津市から富士市に至る広大な湿地)
麓には、とうさんえん長く(不明)
見え渡る沼あり
葦分け、舟に棹さして
群れ居るカモメの心のままに
彼方此方へ飛び去りしは
羨ましくや、思われて
いとど涙は、堰あえず
浜には、塩屋の煙、片々として
行方も知らず、迷いけり
伊豆の三島や浦島や(静岡県三島市)
明けて、悔しき、箱根山
恥ずかしながら、姿を尚も
相模の郷に入ったよな
都を立って、十四日と申すには
坂東、鎌倉、横山が手に渡る
横山、出でて、長者を受け取り
長き牢舎をさせたりけり
兎にも角にも、花屋長者の心の内
無念なるとも、中々、申すばかりはなかりけり

つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(1)

2014年02月10日 10時54分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

このシリーズは、説経正本集等から25の説経外題を翻訳してきた。この仕事の中から、
 
短期日の内に、「阿弥陀胸割」「山椒太夫」を舞台化できたことは、偏に、猿八座座長の八郎 

兵衛師匠のお陰である。しかし、説経ネタといっても、全部が全部、面白いという訳には行 

かないし、何が何でも説経ネタで通すと意地を張ることも無いだろう。猿八座は今、近松門 

左衛門の初期の作品である「源氏烏帽子折」に取り組もうとしているが、これはこれで、な 

かなか面白い。やはり、浄瑠璃物も勉強しないとならないようだ。もう少し視野を広げて、 

レパートリーを増やすためには、古浄瑠璃正本集(横山重編:角川書店)も読む必要があり 

そうである。 

 そこで、古浄瑠璃正本集第1から順次、読み進めて行こうと思うが、このシリーズで取り 

上げるのは、私の勝手な取捨選択によって、舞台化できそうなものに限ろうと考えている。 

 例えば、古浄瑠璃正本集第1の(1)は、「浄瑠璃十二段」であるが、この正本には完本 

が無く、絵巻等を参考にしなければならないが、その翻刻は、既に詳しく研究されているの 

で、ここで取り上げる必要はない。 

(2)の「たかだち」は、衣川合戦での弁慶の壮絶な最期を描くが、これにも部分的な欠落 

があって通すことができない。しかも鎧兜の出で立ちの説明が延々と長く続くなど、演劇上 

の難点が見受けられる。 

 そこで、まったく恣意的であるが、(3)の「はなや」から物語シリーズを再開しよう
 
と考えた。江戸の太夫であった「薩摩太夫」の正本「はなや」は、寛永十一年(1634年)

の出版である。

 

はなや(1) 

 それは、聖武天皇の時代のことです。(724年~749年)筑紫・筑前の国、博多に、 

花屋長者家房(はなやちょうじゃいえふさ)という、有名な武士がおりました。沢山の蔵を 

建てて、宝物に満ちあふれており、人徳もある方でした。花屋には、姉弟の子供がおりまし 

た。姉は、花世姫(はなよひめ)。弟は、花若丸(はなわかまる)といい、どちらも、大変 

美しく立派な容姿でした。特に姫君は、心も姿も大変、美しかったので、公家・天上人は元より、 

それ以外の人々も、せめて奉公人となって、姫君から言葉掛けを戴きたいものだと、隣国、 

遠国から沢山の人が、花屋の屋敷に詰め掛けたのでした。花屋夫婦の喜びは、譬える物さえ 

ありませんでした。

 

 さて、其の頃、御門の宣旨によって、九州の国司に赴任してきたのは、萩原の国司でした。 

萩原の国司は、大勢の郎等を連れて、豊前の国宇佐(大分県北部)に入り、九州を治め、栄 

華を極めました。しかし、ある時、家老の芥丸(あくたまる)に、こう言うのでした。
「私は、こんなに栄華に恵まれたのに、妻が居ないことが、残念でならない。美しい姫はおらぬか。 

急いで捜して、連れて参れ。」 

芥丸が、早速に捜しに行こうとする所に、地元の人がやってきました。この者は、 

「国司様。筑前の国の花屋長者の所に、大変美しい姫がおりますよ。」 

と言うのでした。これを聞いた萩原の国司は、喜んで、 

「やあ、芥よ。おまえは直ぐに、花屋の館へ行き、娘を妻に迎えると申して来い。」 

と言うのでした。

 

芥丸は、博多の津に急行し、花屋夫婦に会いました。夫婦は、芥丸の話を聞くと、 

「お国司様であれば、姫を参らせたくは思います。しかし、我が姫は、これまで何度も、 

天上人より乞われながらも、一度も返事をしたことが無いのです。如何に国司様のお望みと 

はいえども、こればかりは、叶わぬことです。」 

と答えたのでした。芥丸は、面目を失って宇佐に戻り、国司に報告しました。萩原は、大変 

腹を立て、 

「なんと、口惜しいことだ。そいうことであるならば、これより都へ上って、知略を巡らし、 

花屋を亡き者としてやろう。それから、姫をいただくことにしよう。」 

と言うなり、旅の支度をして、上洛したのでした。上洛した萩原の国司は、関白殿に面会 

すると、 

「私が、上洛いたしましたのは、外でもありません。筑前の国の花屋長者のことです。花屋 

長者は、筑紫大名などと名乗って、都へ攻め上る気配があります。そんなことになっては、 

一大事と思い、急いでこれまで参りました。」 

と、まことしやかに奏聞するのでした。驚いた関白は、胆をつぶして、急いで御門に参内し 

ました。これを聞いた御門の逆鱗は浅くはありませんでした。御門は、 

「そういう事であれば、急いで筑紫に勅使を立てよ。花屋を謀って、召し寄せて、そのまま 

相模の国の横山館に流罪とせよ。」 

と命じました。関白は、蔵人の行孝を勅使として、筑紫の国、博多へ向かわせました。蔵人 

の行孝は、花屋長者に、こう言い渡しました。

「急いで、上洛しなさい。九州の総政所に任命されました。」 

花屋は、不思議に思いましたが、勅諚であるので、従う外はありません。大勢の郎等を連れ 

て、やがて都へと上り、五条の辺りに宿を取ったのでした。

 

 さて、萩原の国司は、花屋が上洛したことを知ると、花屋を参内させない為に、早速に宿 

所を訪れました。萩原は、 

「花屋殿、よくお聞きなさい。詳しい事は良くは知りませんが、御門よりの宣旨によります 

と、あなたは、相模の国、横山館へ下らなければならないようですよ。」 

と、騙すのでした。驚いた花屋は、 

「いったい、どういうことですか。身に覚えも無い事。急いで参内して、申し開きをいたします。」 

と、慌てますが、萩原は、 

「いやいや、仰せはご尤もですが、綸言は汗の如し、一度出たものは、二度と翻りはいたし 

ません。取りあえず今回は、お下向あり、また機会を見て、奏聞なさっては如何ですか。」

と、言うのでした。納得行かない花屋は、それからも、奏聞の機会を得ようと、都に留まっ 

ておりましたが、萩原が邪魔立ての知略を巡らすので、待てど暮らせど、参内の機会を掴む 

ことはできませんでした。とうとう諦めた花屋は、故郷への文を、細々と書き留めると、 

侍達を集めて、涙ながらに、こう言いました。 

「皆の衆は、これより筑紫に戻り、御台所や子供達を、宜しく頼みたい。」 

侍達は、驚いて、 

「お言葉ではございますが、東への下向にお供いたします。」 

と、詰め寄りました。しかし、花屋は重ねてこう言うのでした。 

「東下りに、共することよりも、国元に帰って、姉弟の者達を守り育てることの方が、重要 

であるぞ。さあ、皆の者、立て。筑紫へ戻るのだ。」 

涙に伏し沈む花屋長者の心の内は、哀れとも中々、申し様も御座いません。

 

つづく

Hanaya1

 

 

 


忘れ去られた物語シリーズ 16~25 について

2013年08月06日 20時09分02秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

説経正本集(角川書店)に翻刻された古説経達を読んできました。第1から第3までに収録された
古説経正本の中で、いわゆる五説経として詳しく翻刻されている話は、後回しにして、まだ知ら
ない物語を選んで読んできました。駄訳の連続で申し訳ありませんでしたが、私には楽しい探険
でした。特に道行きの部分は、訳出の意味も無いような記述の連続であるわけですが、地図と
首っ引きで、ルートを解明して行く作業にはある種のスリルがありました。

説経正本集第3を読み終えましたので、まとめておきましょう。

説経正本集第3

32 鎌田兵衛正清 (天満八太夫) シリーズ16

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130116

33 鎌田兵衛政清(佐渡七太夫豊孝)

34 しだの小太郎(鱗形屋絵入り本) シリーズ17

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130207

35 しだの小太郎(佐渡七太夫豊孝)

36 すみだ川(鱗形屋絵入り本) シリーズ18

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130304

37 ぼん天こく(ケンブリッジ大学絵入り本) シリーズ19

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130404

38 胸割阿弥陀(天満八太夫)

このテキストの直接の翻訳は掲載していませんが、シリーズ1において、約400年前の「阿弥

陀胸割」(国文研)を読んだのが、本シリーズの始まりでした。

版本を読解したhttp://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20111020

39 崙山上人之由来(天満八太夫) シリーズ20

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130511

40 毘沙門之御本地(天満八太夫) シリーズ21

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130525

41 天智天皇(天満重太夫) シリーズ22

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130608

42 伍大力菩薩(武蔵権太夫) シリーズ23

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130629

43 弘知上人(江戸孫三郎) シリーズ13(昨年に先読み)

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120714

44 こあつもり (鱗形屋板) シリーズ24

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130715

45 中将姫御本地(鱗形屋板) シリーズ25

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130715

46 ゆり若大じん(鱗形屋板) 

 第2集の27 ゆりわか大じん(日暮小太夫正本)シリーズ11で読んだので省略

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120325

以上で、説経正本集第3を終了することにします。

尚、今後の「忘れ去られた物語」シリーズの正本を何にしていくかを現在検討中です。


忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ⑥終

2013年07月26日 21時02分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫⑥終

宝亀六年四月十三日(775年)のことでした。善尼比丘尼の法談があるということで、

近国の人々が、我も我もと当麻寺に集まって来ました。貴賤の群集夥しい中で、善尼比丘尼は、

「さあ、聴衆の皆様。私は、生年二十九歳。明日十四日には、大往生を遂げるのです。今宵、

ここに集まった皆々様は、ここで通夜をなされ、私の最期の説法を聞きなさい。

 私は女ではありますが、どなたも、疑う事無く、ようく聞いて悟りなさい。忝くも、御釈

迦様の御本心は、この世界の一切の人々を、西方極楽浄土へと救うことなのです。阿弥陀如

来が、まだ法蔵比丘でいらっしゃった時にも、必ず安養世界へ救い取ろうと、固く誓約され

ました。このような有り難い二尊の御慈悲を知らないで、浮き世の栄華を望み、あちらこち

らと迷うことを、妄執と言うのです。また因果とも言い、そのまま、三途の大河に飲み込ま

れて、紅蓮地獄の氷に閉じ込められてしまうのです。そして、餓鬼、畜生、修羅、人天、天

道を流転して、ここで生まれ、あそこで死に、生々世々(しょうじょうぜぜ)のその間に、

浮かばれる事も無いのです。まったく浅ましいことではありませんか。

 しかしながら、弥陀の本願の有り難さは、例え、そのような大罪人であっても、只、一心

不乱に、『南無阿弥陀仏、助け給え』と唱えれば、必ず弥陀は来迎なされて、極楽浄土の上

品上生にお導き下さるのです。何の疑いが有りましょうか。よくよく、ここを聞き分けて、

念仏を唱えなさい。」

と、声高らかに、御説法されるのでした。

 その時のことです。継母の母は、二十丈(約60m)あまりの大蛇となって、中将姫の説

法を妨げてやろうと、現れたのでした。大蛇は、声荒らげて、

「やあ、中将姫、我を誰と思うか。恥ずかしながら、お前の継母であるぞ。浮き世で思い詰

めた怨念は、消えることは無いぞよ。」

と言うと、鱗を奮わせ、角を振り上げ、舌をべろべろと伸ばして、迫って来ます。まったく

恐ろしい有様です。中将姫は、

「なんと、浅ましいお姿でしょうか。その様なお心だからこそ、蛇道に落ちてしまうのです。

しかし、だからといって、あなたを無下にすることはありませんよ。幼くして母を失い、

あなたを、本当の母と思ってお慕い申し上げたのに、為さぬ仲と思いになって、私をお疎み

になられたことは、浅ましい限りです。これからは、その悪念を捨て去って、仏果を受け取

りなさい。」

と、御手を合わせて祈られるのでした。

「諸々の仏の中に、菩薩の御慈悲は、大乗のお慈悲。罪深き、女人悪人であろうとも、有情

無常の草木に至るまで、漏らさず救わんとの御誓願。私の継母もお救い下さい。」

そうして、中将姫は大蛇に向かい、

「さあ、母上。今より、悪心を振り捨てて、念仏を唱えなさい。そもそもこの名号には、


忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ⑤

2013年07月26日 19時12分20秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫⑤

 さて、中将姫が雲雀山から都にお帰りになられて、暫くした頃のことです。姫君は十六歳

になられました。そして、后の位に就く話が再び持ち上がったのでした。しかし、姫君は、

「例え私が十全万葉の位に就いたとしても、無間八難の底に沈むことから、救われる訳では

無い。出家をして、母も継母も回向しよう。」

と、菩提の心がむくむくと湧いて来たのでした。

「私が、無断で忍び出ることは、親不孝なことかもしれませんが、私が先に浄土へ行き、

父を迎えることこそ、真実の報恩であると信じます。」

と、姫君は誓うと、その夜の内に、奈良の都を出て、七里の道を急いで、当麻の寺へと向か

ったのでした。姫君は、寺に着くと、とある僧坊に立ち寄って、出家の望みを伝えましたが、

上人は、

「まだ、幼いあなた様が、どうして出家などなされるのですか。思い留まりなさい。」

と、諭しました。しかし、姫君は重ねて、

「私は、無縁の者で、頼りにする所もありません。殊に、親のご恩に報いる為に思い立った

出家ですから、どうか平にお願い申し上げます。」

と涙ながらに頼むのでした。さすがに、上人も哀れと思われて、

「それでは、結縁申しましょう。」

と、背丈ほどある黒髪を下ろし、戒を授け、その名を、善尼比丘尼(※実際は法如)と付け

たのでした。

 ある時、善尼比丘尼は、本堂に七日間、籠もられて、

「私は、生身(しょうじん)の弥陀如来を拝むまでは、ここから一歩も出ません。」

と大願を立てられて、一食調菜(いちじきちょうさい)にて、一年間の不断念仏行に入られ

たのでした。

 仏も哀れに思し召したのでしょうか。第六日目の天平宝字七年六月十六日(763年)の

酉の刻頃(午後6時頃)に、五十歳ぐらいの尼が現れ、中将姫の傍にやって来たのでした。

すると、その尼は、

「汝、生身の弥陀を拝みたいのであるならば、蓮の茎を百駄分(馬一頭分の荷駄:135Kg

を調えなさい。そうすれば、極楽の変相を織り表してお目にかけましょう。」

と言うと、掻き消すように消えたのでした。善尼比丘尼は、

「あら、有り難や」

と、西に向かって手を合わせると、

「願いが叶った。」

と御堂を飛んで出るのでした。そして、父の所へ真っ先に行き、事の次第を話すのでした。

不思議に思った父大臣は、この奇跡について、さっそく御門に奏聞しました。すると、御門


忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ④

2013年07月26日 16時08分01秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫④

 危うく命拾いをした中将姫は、物憂い山住まいの毎日を過ごしていました。その上、頼み

の綱の経春が討ち死にしたとの知らせもあり、心の内のやるかたない風情も哀れです。そん

な中でも、中井の三郎と経春の女房は、姫君をお守りして、落ち穂を拾い、物乞いをして

支えたのでした。

 しかし、ある時、中井の三郎は重い病に伏してしまいます。中将姫も、女房も、枕元で、

励ましますが、山中のこととて、癒やし様もありません。縋り付いて泣くばかりです。もう

これが最期という時に、中井の三郎は女房に介錯されて起き上がると、

「姫君様。娑婆でのご縁も終わりです。これより冥途の旅に出掛けます。私が生きている限

り、必ず父大臣に申し開き、再び御世に戻して差し上げようと、明け暮れ、このことだけ

を思い続けていたというのに、とても残念です。どうか、必ず姫君様は、お命を全うして

くだされませ。神は正しい者の頭に宿ります。きっと必ず、父上様に再び、お会いになるこ

とは鏡に掛けて明らかです。死する命は惜しくはありませんが、姫君のお心の内を推し量り

ますと、只それだけが、名残惜しく思われます。」

と、最期の言葉を残して、明日の露と消えたのでした。姫も女房もこれはこれはと、泣くよ

り外はありません。姫君は涙の暇より、口説き立て、

「ああ、何という浅ましいことでしょう。父上に捨てられて、経春は討ち死にし、この

寂しい山中で、お前だけを頼りにして暮らして来たのに、今度は、お前まで失って、これか

らどうやって暮らしていけばよいのですか。私も一緒に連れていって下さい。」

と、空しい死骸を押し動かし、押し動かして、慟哭するのでした。女房は、

「お嘆きはご尤もです。しかしながら、最早帰らぬ事です。さあ、どうにかして、この死骸

を葬りましょう。」

と、健気にも励まします。山中には外に頼める僧も無く、女房と姫君二人で、土を掘り死骸

を埋め、塚を築いて、印の松を植えたのでした。それから、姫君自ら、お経を唱え、回向

をするのでした。

 さて、その後も山中の寂しい日々が続いていましたが、姫君は、称賛浄土経を書き写して

暮らしておりました。ある日、姫君は女房に、こう話しました。

「このお経は、釈迦仏の弥陀の浄土を褒め称えたお経です。毎日唱えて、夫の経春の供養を

して下さい。」

女房は、これは有り難いと、お経を給わったのです。それから女房は、髪を剃り落とし尼と

なって暮らしたのでした。

 さて一方、難波の大臣豊成は、ある年の春にこんなことを思い立ちました。

「そろそろ、山の雪も消え、谷の氷も解けたことであろう。雲雀山に登って狩りでもして、

心の憂さを晴らそう。」