goo blog サービス終了のお知らせ 

猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ⑤

2014年04月23日 19時32分39秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ⑤

 秋友を流罪にした後、内裏では、秋友の一子、弦王丸の処分について詮議がありました。国家の安泰に関わる罪であるので、斬首との宣旨があり、平の権守正道(ごんのかみまさみち)が、勅使に立つ事になりました。勅使の一行は、大勢の供を連れて、大和の国へと向かったのでした。権守正道は、大和の国吉野郡(奈良県吉野町)に着くと、矢口の四郎友定に、弦王丸を出頭させる様に命じました。友定が、弦王丸に、勅使の到着を告げると、若君は、暇乞いの為、母上の所に来て、

「私には、詳しいことは何も分かりませんが、父の事を尋問したいので参内するようにとの勅命です。天君が私の命を奪う様な事はありませんから、ご安心下さい。」

と、死罪を言い渡されたことを隠しました。母上は、

「しかし、あなたは、幼い時に初冠(ういこうぶり)を許されて参内していますから、人々から足を引かれない様に、気を付けなさいよ。お父上が、日頃より申されていた事には、『宮門は広いが、落とし穴も多いと常に注意を払いなさい。大床を歩く時には、薄氷の上を歩くと思いなさい。玉体を拝せば、役人どもに不満がつのります。』とありました。何事にも心を低く保って、父上様の事を申し開くのですよ。そして、早くお帰り下さい。」

と、気遣うのでした。その時、迎えの武士達が、遅いとばかりに踏み込んで来ましたので、弦王丸は、母上に悟られないようにと、さっと立ち上がって暇乞いすると、表へ急ぎました。付き従うのは、友定兄弟です。御台所は、慌ただしい旅立ちを見て、いぶかしげに表に出てみると、まだ残っていた武士達が、こう言って嘆いているのでした。

「ああ、まだ幼い、花の様な若君が、打ち首にされるとは・・・」

これを聞いた御台所は、驚いて飛び上がり、

「ええ、行かせてはなりません。弦王丸。もう一度、顔を見せなさい。」

と、走って追いかけるのでした。しかし、到底追いつきません。御台様は、道端に倒れ伏して泣くばかりです。その時、乳母は、

「東大寺の行恵僧正(ぎょうえ:歴史的該当者不明)という方は、慈悲第一の御方と聞きますので、その方にご相談なさっては如何ですか。」

と、言うのでした。そこで、泣く泣く、東大寺へと向かったのでした。すると丁度、僧正は法事に出掛ける所でした。御台様は、僧正を見るなり、言葉も詰まって只々泣き崩れるばかりです。僧正は不思議に思って、

「一体、どなたですか。どうぞ御名乗り下さい。」

と、声を掛けました。御台様は、

「この国の守護であった秋友の妻であるが、夫の秋友は、日向という所に流罪となり、後に残った弦王丸は、たった今、武士達に連れて行かれ、首を刎ねられるというのです。どうか、息子の命ばかりはお助けいただき、出家にさせて下さい。」

と、涙ながらに訴えるのでした。僧正は、

「むう、そういうことですか。それでは先ず、あなたは館にお戻り下さい。」

と言うので、御台様は、泣く泣く館へお戻りになられましたが、僧正は、一人で、勅使権守正道の宿所へと向かったのでした。僧正は、正道と対面すると、こう言いました。

「秋友の一子、弦王丸がここに居ると聞きました。愚僧に、一目会わせて下さらんか。」

正道は、お易いご用と、弦王丸を僧正に引き合わせました。労しいことに弦王丸は、二つ折りの狩衣に黒木の数珠を手にして、俯くばかりです。僧正は、この様子をご覧になると、正道に、

「むう、前世の因縁もありましょうが、何とか出来るかも知れません。どうか、刑の執行まで、三日の猶予を戴きたい。」

と、言うのでした。これを聞いた正道は、

「おお、それはそれは、私も、今朝には、首を刎ねるべきところでしたが、余りに不憫で、延び延びとなっておりました。それでは、三日間は待つことにしましょう。しかし、三日を過ぎてしまった時は、残念ながら刑を執行いたします。この正道を恨まないでください。」

と、堅く約束をするのでした。さてそれから、僧正は、急いで都へ向かいました。都に着いた僧正は、直ぐにでも参内しようとしましたが、宮廷は三日間の物忌みとなっており、特に僧尼の院参は叶いませんでした。仕方無く、僧正は三日間、宿所で待つ外ありませんでした。

 さて、大和の国で僧正の帰りを待っていた正道は、矢口の四郎友定を呼ぶと、

「僧正との契約の三日は既に過ぎ、今日は最早、五日目となる。如何に僧正と言えども、お許しの宣旨は得られなかったのであろう。我々も、これ以上、猶予しておくことはできない。

残念ではあるが、上野河原(奈良県五條市上野町)にて、刑を執行することにする。さあ、ご用意下さい。」

と命ずるのでした。友定は仕方無く、弦王丸にその由を伝えました。若君は、躊躇無く、、

「予てより、分かっていたことです。さあ、直ぐに参りましょう。」

と言うと、先に進んで上野河原へと向かいました。お供するのは友定兄弟です。上野河原に着くと、弦王丸は、敷皮の上に、西向きに引き据えられました。今こそ最期と、弦王丸は、友定兄弟を近づけて、

「是まで、長い間、良く奉公してくれました。このように首を刎ねられたことは、絶対に母に言ってはなりません。僧正の勧めにより、都へ上がったと伝えて下さい。その内、分かってしまうかも知れませんが、一旦は、お心を休めさせてあげましょう。さあ、もうよい。館に帰りなさい。」

と、別れの言葉掛けをするのでした。友定は、弟の友清に向かい、

「わしは、今更、館に戻っても仕方無い。弟よ。お前も若君のお供をしたいのだろうが、若君のお供は、お殿様の御遺言により、わしと決まっておる。お前は、館に戻り、御台様を宜しくお守りして貰いたい。分かったな。」

と跡を託すのでしたが、友清は、

「いやいや、兄上こそ、館にお戻り下さい。私が若君のお供をいたします。」

と言い張るのでした。兄弟は、互いに譲らず、言い争いを始めました。若君は、

「二人とも、何を愚かな。冥途の旅のお供よりも、この世にいらっしゃる父上を、再び出世させることこそ、郎等の勤めであろう。何の罪も無いこの身ではあるけれど、このような罪を背負うのも前世の因業が重いからなのだ。十二因縁の流転は、その人間の本性に関わることが原因であるから、供をすることなどできないのだよ。十二の因縁のその始めは、無明と言う。無明とは、前世で起こした悪心から生ずる。二つ目は、行という。無明や行の結果によって、流転していくのが人間であるから、例え災難に遭うとしても、夢の中で夢を見ているようなものだ。そんなに嘆くのはやめなさい。それよりも、一日も早く、父上を再び出世させて、私の供養をして下さい。館に帰れと言うのに、帰らないのであれば、永久に勘当します。」

と、泣く泣く、友定兄弟を諫めるのでした。この有様には、警護の兵達も、涙を流さずにはいられませんでした。しかし、勅使正道は、自らを励ますと、太刀を抜いて立ち上がりました。いたわしい事に、弦王丸は、自ら首を差し延べて、最期の時を待つのでした。正道は、それは勇猛な武士ではありましたが、太刀を握り締めて、わなわなと涙で震えるばかりです。正道は、今にも僧正が帰って来るのでは無いか、早く来いと、縋る様な眼差しを、上野の山の方に泳がせるのでした。すると、御門の御教書を首に掛けた僧正が、走ってやってくるのが見えました。走り付いた、僧正は、御教書を正道に渡すのでした。正道が開いてみると、

『大和の住人、守屋の判官が一子弦王丸。僧正の申し出により、命を助けるなり。』

との宣旨でした。正道は、御教書を巻き納めると、

「最早、命は助けるぞ。弦王丸。」

と宣言しました。まったく夢のようですが、若君も友定兄弟も手を合わせて、ほっとするのでした。正道は、重ねて、

「さあ、もう嘆くのはやめなさい。私も都へ戻って、お父上の恩赦にお力添えいたしましょう。」

と言って、都へ戻って行きました。まったく、弦王丸のお命は、危うい所でありました。

つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ④

2014年04月21日 18時03分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 いけとり夜うち ④

  矢口の四郎友定は、秋友と別れて、泣く泣く大和の国へと帰りました。御台所や若君、一門の者達が集まると、友定は、

 「我がお殿様の事を、内裏に讒言した者がおり、無念にも、日向の国に流罪となりました。」

 と、形見の文を手渡すのでした。御台も若君もわっとばかりに泣き出しました。御台様は、

 「いったいどういうことですか。この先、我々はいったいどうなってしまうのですか。」

 と、泣き崩れて口説くばかりです。弦王丸は、健気にも、

 「そんなに嘆き悲しんでは、お体に触ります。少しの間、雪に埋もれたとしても、松は松です。再び、宣旨が下ることもあるかも知れません。さあ、起きて下さい、母上様。」

 と、母を励ますのでした。さて一方、秋友流罪の知らせを聞いた郎等達は、憤慨し、

 「例え、勅命とはいいながら、罪も無い我が殿を、理不尽に流罪にするとは何事か。軍勢を集めて、殿様を奪い取りに行きましょう。それから城郭を構えて、戦うならば、幾万騎攻めて来ようとも、そう簡単には負けますまい。こちらに罪の無いことが、分かってもらえれば本望です。さあ、早くご命令下さい。」

 と、弦王丸に詰め寄りましたが、弦王丸は、

 「皆の言う事は、武士の本懐ではあるが、所詮、私戦でしかないぞ。昔から、朝家に弓引く野心の者は、山背大兄王、守屋の大臣(物部守屋)、文室の宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)、氷上川継(ひがみのかわつぐ)、伊予親王(いよしんのう)太宰の少弐、藤原の弘嗣(だざいのしょうに、ふじわらのひろつぐ)、早良親王(さわらしんのう)、平の将門、安倍の貞任、宗任、その外二十四人、遂に一人として、本懐を遂げた者は無い。朝家に対して弓を引くなどと言うことは、思いもよらぬこと。もし、父秋友や私の首が刎ねられ、屍が山野に埋められようとも、我等には、全く不忠の無い事を、申し開いてもらいたい。そうすることこそ、長く後の世に、名を残す事になるのだ。」

 と、涙ながらも、冷静に諭すのでした。これを聞いた一門の人々も、衣の袖を絞りながら、若君の仰る通りだと、打ち萎れて帰って行きました。それから若君は、友定に、

 「きっと、都から勅使がやって来ることだろう。遠侍(とおさぶらい)に沿道を掃除させよ。」

 と命ずるのでした。屠所の歩みの近付くのを、待ち構えている若君の心の内はなんとも哀れです。

  さて其の頃、都で幽閉されていた秋友は、警護の武士に付き添われて、西海道を下って行ったのでした。大内山の山守りも、これ程までに、惨めな思いはしなかっただろう。(※不明だが、大内守護の源の頼政が以仁王の挙兵で敗北を喫したことを指すかも知れない。)

 《以下、道行き》

 東寺、西寺、四ツ塚や(いずれも京都市南区)
はこの世を秋の山
六田(むつだ)の夜半の虫の音も(京都市南区:菅原道真所縁の六田社)
早や、枯れ枯れになりぬれば
いとど、哀れぞ、優りける
猶、それよりも行く程に
末を遥かに眺むれば
八幡の山に霞み棚引きて
石清水にや濁るらん(京都府八幡市:石清水八幡宮)
解得解脱救世ゆるき(かいとくげだつくぜゆるき)(ゆるき:不明)
真如の月の影清く
心尽くしに生きの松
我をば泊めよ埴生の小屋
御法(みのり)の舟の通う時
心も澄める折からに
池の清水に影写す
世の中の澄み濁るをや
神ぞ知るらん男山(京都府八幡市:石清水八幡宮)
忝くも、この御神
人皇始まり給いて後
十六代の尊者たり(十五代応神天皇の間違いと思われる:石清水八幡宮の中御前)
御裳濯川(みもすそがわ)の底清く(一般には、伊勢神宮内の五十鈴川を指す)
再び、故郷に帰してたべと
心ならずも伏し拝み
さて、灯籠の河原の宮(川原宮であれば、奈良県明日香村川原を指す)
聞く陰陽の風の音
真意の玉や磨くらん
昔、男のねに泣きし
鬼の一口の芥川(伊勢物語、芥川の段)
しどろもどろに流るらん

(※以上、長い都の中での記述は、難解で、良く意味が良く分からない。)

在りし都を立ち出でて

一夜、仮寝の宿は無し

鳥は鳴けども、如何なれば

身を限りとや嘆くらん

濁れり時はなのみして(?)

晒す甲斐無き布引や 

たぎつ白波、響くらん 

筑紫下りの道すがら 

習わぬ旅の憂き枕 

思いやるこそ悲しけれ 

和田の岬を巡れば(和田岬:兵庫県兵庫区) 

海岸遠き松原や 

傾ぶく月の明石潟(兵庫県明石市) 

潮路も波は、高砂や(兵庫県高砂市) 

尾上の松の夕嵐(兵庫県加古川市) 

室山降ろし、いよいよ激しくも(兵庫県たつの市御津町室津) 

憧れ来ぬる我が心 

誠に旅は、牛窓や(うしまど:岡山県瀬戸内市) 

げに荒気無き武士(もののふの)の 

梓の弓に、鞆の浦(とものうら:広島県福山市) 

名所旧跡、打ち過ぎて 

長門の港(こう)に赤間関(あかまがせき:山口県下関市) 

紅葉散るらん志賀島(しかのしま:福岡県福岡市東区) 

名護屋を出でて、瀨戸を行き(佐賀県唐津市) 

平戸の大島、打ち過ぎて(長崎県平戸市、的山大島(あづちおおしま)) 

松は弥勒寺、しずの里(不明:大分県宇佐市、宇佐弥勒寺のことか?) 

やがて帰洛を祝うが島(不明) 

ゆきのもと折り通るにぞ(不明) 

消えゆるばかりの我が心 

都出でて、今日は早や 

四十二日と申すには 

日向の国、土佐の嶋にぞ着き給う(宮崎県) 

長崎から宮崎までの旅程は解読できず。又、流刑地である土佐の嶋というのも不明) 

土佐の郡司三郎太夫 

やがて、受け取り奉り 

良きに労り申しける 

秋友が所存の程 

哀れとも中々、申すばかりはなかりけり 

つづく

Photo_2

 


忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ③

2014年04月21日 10時58分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ③

 本江の左衛門師方は、偽の名乗りをして、別当定吉を滅ぼした後、讒言をするために上洛したのでした。師方は参内すると、こんなでたらめな奏聞をするのでした。

「大和の守護、守屋の判官秋友は、驕り高ぶって、自ら王と名乗り、近隣の四カ国の武士を従えて、都へ攻め上り、御門を四国に追い落とし、天下を手に入れようとしております。此の度、同国大和の住人、別当定吉は、この企てに加わらなかった為に、夜討ちに合って滅ぼされてしまいました。私は、河内の国の本江左衛門師方ですが、近国ですので、いつ秋友が攻め込んで来ても良いようにと用心をしております。朝家も御油断をなさらぬように。」

との、まことしやかな讒言に、御門は驚いて、

「それは、大逆罪である。先ずは、秋友を言いくるめて、参内させよ。」

と命ずると、師方には、注進の恩賞として、河内の国の中で三百町歩を与えました。御判を戴いた師方は、しめしめと、三河の国へと帰って行ったのでした。

 さて一方、大和の国へ勅使が立ちました。勅使は、秋友にこう伝えたのでした。

「内々、お望みであった中納言を許す事になったので、急いで上洛されよ。」

秋友は、この宣旨を喜んで、

「おお、これは有り難い次第。それこそ、生きての面目、死しての喜びで御座る。これ以上の名誉はありません。」

と答えるのでした。秋友は、御台所や弦王丸、一門の人々を集めて、

「皆の者、聞きなさい。此の度の都よりの宣旨で、中納言に任命されたぞよ。そもそも、我等が大和の国の春日大明神とは、天児屋命(あめのこやね)をお祀りする。天照大神をお助けするのが天児屋命の使命であるから、我等も、天孫降臨の末裔である御門に対して決して逆らってはならぬぞ。」

と言い残すと、上洛して行ったのでした。衣紋を正して、参内した秋友でしたが、哀れな事に、内裏にも入らぬ内に、検非違使(けびいし)の侍に取り押さえられてしまいました。幽閉された秋友は、最初、人違いであろうと、只呆れていましたが、今度は次のような宣旨が下りました。

「秋友は、長い間、忠臣であったので、死罪は許し遠流とする。流配先は、日向の国。」

という内容でした。これには秋友も観念して、

「むう、この上は仕方無い。国へ形見を送ることにするので、しばしの時間をいただきたい。」

と願い出ると、番人も不憫と思ったのでしょう。戒めの縄を解いたのでした。なんとも無残な次第でしたが、秋友は、一番信頼できる家来の矢口の四郎友定を呼びました。

「友定、頼みが有る。お前は、これより国元に帰り、弦王丸にしかと伝えるのだ。私がこのような罪を着せられる以上は、弦王丸にも必ずその罪は及ぶと伝えよ。例え、その罪が及んだとしても、前世の報いと受け入れて、決して御門を恨んではならぬ。我等は、御門のご恩を被って、現在の様な過分の位まで進むことができたのだ。しかし、その為、我等を恨む誰かが、我等を陥れる為に、讒言をしたとしか思えない。だが、決して神は、非礼を受け入れる事は無い。朝家に仕え、日々、天に祈ってきたことは、決して無駄にはならないはずだ。そのことを、よくよく話して聞かせるのだぞ。」

と秋友は、冷静に話をしましたが、堪えきれずに悔し涙を流すのでした。友定も、共に涙に暮れていましたが、

「形見のお遣いには、誰か若い者をやって下さい。私は、最期までお殿様のお供をいたします。」

と言って、言う事を聞きません。秋友は、重ねて、

「お前が言う事も分からないでは無いが、この様な身となった今、お前を連れて行っても用は無い。それよりも、弦王丸の事を頼みたい。これこそ、誠の忠臣の役目だぞ。」

と、諭すのでした。とうとう友定は、泣く泣く都を離れて、大和路を下って行ったのでした。

兎にも角にも、秋友の心の内の無念さは、言い様もありません。

つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ②

2014年04月20日 18時32分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 いけとり夜うち ②

 こうして、守屋の判官秋友は、大和の国で、栄華を極めていたのでした。その話はひと先ず置き、河内の国の高岡の庄(愛知県碧海郡高岡町:現豊田市)には、本江の左衛門師方という悪者の弓取りが居ました。この師方という者も、この地方を知行して、何の不足も無く暮らしておりましたが、ある時、病を受けて寝込む様になりました。そこで一門の人々は集まって、いろいろとお慰めをしました。琵琶や琴が上手な白拍子を呼んで音楽を聴かせたのでした。都から招かれた二人の白拍子は、一晩中、雅な音楽を奏でました。すると、師方は、あまりにも美しい音楽に、浮かれて立ち、「飲めや歌えや」と、踊り出すのでした。それから酒宴が始まりました。すっかり元気になった師方は、白拍子達にこう聞きました。

 「都では、何か面白いことはないか。」

二人の白拍子は、

 「ええ、そうですね。このところ都には、化け物が毎夜現れて大騒ぎとなっていたのですが、大和国の守屋の判官様が、弓矢で撃ち落として、退治なされたのです。そのご恩賞には、山城の国の中に五百町歩に留まらず、御門が御寵愛されていた、更衣の前様を下さったということです。弓矢を取る者は、こういう手柄で面目を立てたいものだと、上下万民押し並べて、この話で持ちきりです。」

 と、思わず話してしまうのでした。師方は、その話に驚いて、突っ立ち上がると、

 「ええ、皆の者よっく聞け。これまで貝が閉じる様に、堅く封印してきたことで、今更ながら、外聞も良くはないが、その更衣の前と言うのは、かつてわしが、恋焦がれた相手であるぞ。この三年の間、憂いのあまり病となり寝込んでいたのも、更衣の前の事が原因なのだ。お上の御意を重んじて、この恋は諦めてはいたが、大和の守屋に下されるとは、無念なことだ。最早、我慢ならぬ。ひとつには君への恨みを晴らし、又には田舎者を誅する為、守屋の城に押し寄せて、更衣の前を奪い取り、判官と討ち死にし、この名を後世に残すより外は無い。さあ、早や、打って立て。」

 と、叫びました。しかし、家来の武久小二郎は、これを押し留めて、

 「お言葉ではありますが、よっくお考え下さい。御前より下された更衣の前を奪い取れば、御門に対する反逆の重罪を犯すことになります。もし、本望を遂げたとしましても、秋友には何の科も無く、師方は法に余る溢れ者という悪評が立つことでしょう。そして、理非検断(裁判)によって死罪の科を受けるのならば、生涯の不覚となることでしょう。どうか、勇気を持って、思い留まり下さい。」

 と、再三再四、諫めるのでした。しかし、師方は、腹を立て、

 「お前の言う事は、納得できぬ。弓矢を取る武士たる者、死を軽んじ、名を重んじることこそ大事であるぞ。理を非に曲げて、攻め込むのだ。」

 と、大の眼をひんむき、取り縋る小二郎を切り捨てんばかりです。小二郎は、更に押し留めると、諦めて次のような提案をしました。

 「そこまで、思い詰めておられるのであれば、私にひとつ考えが御座います。このように策略いたしましょう。昨年の内裏における除目において守屋判官は、別当の定吉と領地争いをしております。その訴訟は、和解して分領することで決着はしましたが、それから両家は互いに不仲となりました。このことは、宮中の者には周知のことです。そこで、守屋の判官と偽って、別当定吉に夜討ちを掛けておいて、これを守屋の判官の仕業であると讒言すれば、秋友親子は死罪か流罪を免れることはできないでしょう。適わない相手には、謀(はかりごと)をするのが一番です。」

 師方は、これを聞くと喜んで、武久小二郎を大将にして、総勢八十余騎を、早速に大和の国へと差し向けるのでした。

 別当定吉は、門外に押し寄せた軍勢の、思いも寄らぬ鬨の声に驚いて、表の櫓に駆け上がりました。別当定吉が、

 「そこの狼藉者は、何者か。名乗れ。」

 と言うと、寄せ手の方から若武者が一騎進み出て、こう名乗りました。

 「只今、寄せ来た大将軍を誰と思うか。当国の住人、守屋の判官秋友が一子、弦王丸であるぞ。日頃よりの恨みを、今晴らさん為、ここまで押し寄せて来たのだ。さあ、早く腹を切れ。」

 これを聞いた定吉は、首を傾げていましたが、

 「何、秋友の一子だと。領地を分割したとは言え、一方的な私的な命令に、従わなければならない理由は無いぞ。年端も行かないお子様が、竹馬に乗って、石でも投げに来たのか。笑わせるな。さあ、者ども、手並みを見せてやれ。」

 と、答えました。大手の門をばっと開いて飛び出したのは、十七騎の若武者です。ここを先途と戦いましたが、なにしろ突然の襲撃でしたので、とうとう定吉の家来は全滅してしまいました。別当定吉は、もうこれまでと、館に火を放ちました。そして、猛火の中に飛び込んで死骸も残さず死んで行ったのでした。武久小二郎は、うまく行ったとほくそ笑んで、河内の国へと帰りました。兎にも角にも、本江左衛門師方の謀略は、怖ろしいとも何とも、言い様がありません。

 つづく

Photo_2

 

 

 


忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ①

2014年04月20日 11時50分18秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

  古浄瑠璃正本集第1(9)には、藤原吉次(ふじわらのよしつぐ)という太夫が登場する。1600年代の初頭に京都で活躍し、河内介、若狭掾を受領したというから、人気の太夫であったようだ。この正本には、「キリ」という節が入っているのが特徴的である。例えば、次の様な用例が見られる。

「思い思いに立ち出でて、大和の国へと、(キリ)急ぐに程無く」

普通ならば、「大和の国へと急がるる。急ぐに程無く」となるところであろうが、言葉の繰り返しを廃してテンポ良く運ぼうとする為なのか、前段の述語を省略する「キリ」という節が沢山出て来る。読むだけでは、ぶっきらぼうに、切れている様にしか感じないが、この間を三味線が繋いで、舞台転換をしていると思うと、なるべく余計な事は語らないで、視覚的に分からせようとしているのではないかと思われ、往事の舞台が目に浮かぶ。誤植が多いのか、まったく読解できない箇所が、多数あって難渋した。 

 いけとり夜うち 

 

 人皇九十四代、萩原の院の御代(正しくは95代花園天皇)のことです。大和の国の守護である守屋の判官秋友は、栄耀の身分ではありましたが、四十歳になっても、お世継ぎがありませんでしたので、氏神である春日大社に申し子をしたのでした。満願の夜に春日大明神のお告げがありました。春日大明神は、白木の弓に、鏑矢(かぶらや)を添えて、枕元に投げ置くと、次の様な神託を下されたのでした。

「男子を一人、与える。しかし、この子が十三歳になる年に、母は必ず死ぬであろう。十五歳になったなら、都へ参内し、若君と共にこの弓を、御門のお目に掛けなさい。そうすれば末世の奇特と名を留めるであろう。」

やがて、神託の通り若君が授かりました。若君のお名前は、弓矢に因んで、弦王丸(つるおうまる)と付けられ、大切に育てられました。若君が十三歳になられた年、神慮に偽りは無く、御台様が突然、病に倒れました。一門の人々は驚いて、様々手を尽くして看病しましたが、甲斐も無く、母上様は、三十一歳で亡くなられたのでした。

 さて、その頃、都では不思議な事が起こって、人々を悩ませていました。夜な夜な、東山の方角から、日月の様に光り輝く車輪のような物体が飛んで来ては、宮中の周りを飛び廻るのです。高僧貴僧を集めて祈祷しますが、収まりません。御門の宣旨は、

「広く天下の武士の中から弓矢の名将を選び、その化け物を退治させよ。」

というものでした。公卿達が集まって人選の詮議をしましたが、いろいろな意見が出てまとまりませんでした。そのうちに、都の化け物を退治できる者をさがしているという噂が広がりました。守屋の判官はこれを聞くと、

「おお、これこそ春日明神の霊夢に出てきた参内の機会ぞ。ようし、急いで上洛して、都の化け物を退治し、弓矢の家の名を上げてやるぞ。」

と息を巻き、すぐに若君を連れて上洛するのでした。参内した守屋の判官が、

「大和の国の守護、守屋の判官です。化け物退治を、私に御命じ下さい。」

と奏聞すると、御門は

「おお、それは神妙なことだ。では、秋友よ。化け物退治を頼んだぞ。」

とお答えになりました。秋友は、名誉な役をいただけたと喜んで、早速に宿所に戻ると、化け物退治の準備をして、日の暮れるのを待つのでした。さて、日暮れ方になりますと、秋友は白装束に太刀を帯び、春日大明神からいただいた弓矢を持って、宮中の白砂にやって来ました。傍には弦王丸。家来は、一騎当千の矢口の四郎友定一人だけです。やがて、夜も更けて来ますと、例の化け物が現れました。虚空が、俄に光ったかと思うと、辺りの空気が振動します。秋友は、きっと目を付け、

「南無や春日の大明神」

と、三度唱えて祈ると、三人張りの弓を力一杯に引いて、ヤッとばかりに矢を放ちました。

矢がはったとばかりに化け物に命中すると、化け物は飛び去って行ったのでした。夜が明けると、秋友は急いで参内して、化け物退治の一部始終を、御門に奏聞しました。喜んだ御門は、今回の褒美として、山城の国の中に五百町歩を下されるのでした。そして更に、御門は、

「さて、秋友は、この頃妻を亡くしたと聞いておる。わしの第一の后である、更衣の前を御前の妻として取らせるぞ。」

と、后までも下されたのでした。大変喜んだ秋友は、意気揚々と本国に帰りました。大和の国の御所侍達も我も我もと迎えに出て、悦びは限りもありません。全く、秋友の果報の絶大さは申し様もありません。

 つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(3)終

2014年04月03日 15時19分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

大ぶ下巻 6段目 (3) 終

 そうして、小太夫は、安綱との計画の通り、源蔵のお気に入りになるように、日々努力したのでした。やがて、源蔵の信頼を勝ち取った小太夫は、とうとう牢屋の鍵を預かることに成功しました。小太夫は、これは天の導きだと喜んで、

「南無や諸方の仏神三宝。科無き我が主君をお助け下さい。」

と、朝夕に祈りながら、救出の機会を窺うのでした。ある激しい雨の夜のことです。源蔵は小太夫を呼んで、

「雨風が激しくなってきたから、番の者に、警戒を怠らぬ様に申し付けるように。」

と命じました。小太夫は、

「そうであれば、酒を少しいただけますか。」

と聞きました。源蔵は、尤もと思い、酒や肴を小太夫に持たせました。小太夫は、喜んで早速、牢に押し入ろうと、牢番のところまで来ますと、番の者は、高鼾で眠りこけているではありませんか。小太夫は、ひょっとしたら、狸寝入りで騙そうとしているかも知れないと思って、声を掛けてみました。

「もし、番の者。大事の番をする者が、眠りこけていて良いのですか。さあ、起きなさいよ。」

しかし、答えはありません。どうやら、本当に居眠りをしている様子です。小太夫は、意を決して、牢の傍へと立ち寄りました。小太夫が、

「朝正殿はおいでですか。」

と、声を掛けると、中から、

「私です。」

と、答えがありました。朝正殿は、終夜、念仏をして過ごされて居たのですが、こんな真夜中に女の声を聞いたので、不審に思い、

「何者じゃ。」

と言うと、

「安綱の妻です。」

という返答です。朝正は、驚き喜んで、牢の格子から手を延ばします。小太夫も、嬉しさの余り涙が止まりません。朝正が、

「おお、我が子供達は、貪欲不道の景信に殺されてしまったか、それとも落ち延びたか。」

と、涙ながらに尋ねますと、小太夫は、

「ご安心下さい。若君達は、安綱が御共いたしまして、碓氷峠に落ち延びられました。」

と答えるのでした。これを聞いた朝正は、

「牢から出さえすれば、直ぐにでも、子供達を出世させてあげられるのに。」

と悔しがるのでした。そこで、小太夫は、慌てて鍵を取り出すと鍵を開け、牢の扉を押し開くのでした。しかし、長い間閉じ込められていた朝正は、ようやく牢から這い出でましたが、一人で歩くこともできませんでした。小太夫が、後ろから支えて抱え上げて、よろよろよろと門外へ脱出するのでした。とある木の根元に、ようやく辿り着くと、小太夫は、

「安綱殿。夫の安綱殿は、おいでですか。」

と、大声で夫を呼びました。その声を聞き付けて安綱は、森の陰から飛んで出でると、主君朝正殿と抱き合って、喜び合いましたが、小太夫は、

「急いで下さい。安綱殿。こうなることは、予定したことではありませんか。さあさあ、直に追っ手が掛かります。泣いてる場合ではありません。早く逃げましょう。」

と急かせました。安綱は、朝正殿を背負い上げると、飛ぶ鳥の様に、上野へと駆け抜けて行ったのでした。

 脱獄を知った源蔵は、

「やあ、さては小太夫に騙されたか。おのれ、このままにしてはおかぬぞ。」

と景信に、報告をしました。景信は、立腹して、

「都へ上らせてはならぬ。」

と、追っ手の勢を差し向けるのでした。

 さて、一方朝正殿は、安綱夫婦のお供で、碓氷峠までやってきました。すると、三人の夜盗の者と出くわしました。安綱は驚いて、

「何者か。」

と、咎めましたが、夜盗の者は、こう答えるのでした。

「いやいや、私どもは、怪しい者ではありません。碓氷峠におられます御台所や若君達に食べ物を届け、炊爨(すいさん)のお手伝いに参る者でございます。」

安綱は、聞いて、

「おお、それは有り難いことじゃ。ご苦労、ご苦労。それでは、一緒に参ろう。」

と、道を急ぐのでした。庵に着けば、涙涙の親子の対面となりました。やがて、朝正は、

「あの三人は何者なのだ。」

と聞きますと、若君は、父に、是までのことを話して聞かせるのでした。朝正は、これを聞くと、

「さては、あなた方は人間ではありませんね。」

と平伏し、手を合わせて夜盗を拝むのでした。夜盗達は、

「これはまあ、光栄なことです。先ず、此の度は、都へ上洛なされて、科の無いことを奏聞なされ、帰国して敵を討ちなさい。私たちも、甲斐甲斐しくお供いたしましょう。」

と、答えるのでした。しかし、安綱は、

「皆様方のご意見もご尤もですが、景信の勢が迫って来るでしょう。私は先ず、回文を回して勢を募り、敵を討った後に上洛した方が良いと存じます。」

と言うので、朝正もそうすることにしました。やがて、夜盗の三人は、回文を持って触れ歩きましので、かつての郎等達が、雲霞の如くに集まって来るのでした。其の数は、一日一夜にして、一千余騎を数えました。これに勢いを得た朝正殿は、強者どもを率いて下野へと進軍を開始しました。

 さて一方、景信の軍勢は、朝正を追っかけて都方面へと進軍中です。碓氷峠から下りてきた朝正の軍勢は、これを見つけ、鬨の声をどっと上げました。朝正殿は、一陣に進み出で、

「やあやあ、景信。我が儘放題やってくれたな。追討の宣旨により、ここまで押し寄せて参った。さあ、武士らしく腹を切れ。」

と呼ばわれば、景信は、

「なんだと、そういうお前は朝正か。長い間の牢屋暮らしは、ご苦労であった。逃げ出した朝正の息の根止めるために、わざわざ来てやったぞ。さあ、討ち取れ者ども。」

と下知するのでした。景信の軍勢は、我も我もと襲いかかりますが、ここを先途と、大太刀を振るう安綱の敵ではありません。朝正軍の方が圧倒的に多勢だったので、景信はあっけなく敗走しました。やがて景信は捕らえられて、囚人として都へ連れていかれたのでした。

 都に到着すると、直ぐに参内しました。これまでの事柄を奏聞しますと、御門は、

「景信の我が儘は明白。景信の処分は任せる。嫡子朝春は親孝行であるので、三位の中将を与える。」

とのご叡覧でした。人々は、宿所に帰ると、早速に景信の首を刎ねました。それから朝正は上野へと戻り、また館を建て直しました。昔の家臣達も皆戻り、朝正殿にお仕えしたので、門前は、馬の立つ場所が無い程に賑やかに栄えたということです。例し少ない出世だと、感心しない者はありません。

おわり

Photo

 


忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(2)

2014年04月02日 19時53分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こ大ぶ下巻 5段目 (2)

碓氷峠に御台所と若君達を残して、安綱は下野の国に潜入しました。先ず、どうにかして、甘楽太夫が捕らえられている牢に近付いて、様子を探ろうと思案をしました。

『そうだ、乞食の姿に化けて、牢の様子を探ることにしよう。』

と思い定めると、ぼろぼろの簑を着て、破れ笠を被り、手足を汚して、杖をついてよろよろと歩いて見ました。我ながら、惨めで哀れな姿です。

 『これも、主君の為。恨みは塵ほどもなし。』

 と、自らを奮い立て、牢の近くまでやって来ました。甘楽太夫が捕らえられている牢と覚しき所に、竹林が見えます。その周りには掘が切られています。掘に添って道がありますが、行き交う人もありません。日夜、厳しい警護の武士が詰めていて、鳥ででもなければ、牢に近付くことは出来そうにありません。このように厳しい警護の中にも、どこかに隙があるだろうと、安綱は我慢強く偵察を続けますが、そう簡単には、隙を見せません。安綱は、

 『むう、この牢の番頭は、長沢の源蔵と聞く。源蔵の館の様子を探ってみるか。』

 と思い立ち、牢の前を通り過ぎると、門外に立って、

 「くたびれ果てた乞食に、お恵みを。」

 と物乞いをしてみました。すると、門番が跳んで来ました。

 「やい、ここは、乞食に限らず、誰であろうとも通行禁止であるぞ。門外の制札が見えぬか。」

 と、杖を振り上げて、安綱を打ち叩きました。安綱は打たれるままに、打ち萎れて、

 「これは、申し訳ありません。ここまで来てしまったのも、このような乞食には、札というものが読めないからで御座います。どうか、お許し下さい。」

 と言うのでした。門番は、

 「なんと、口強情な乞食か。」

 と腹を立て、更に杖を振り上げましたが、その時、源蔵が走り出て来て、

 「やあやあ、そんなむごいことをするな。そのような乞食に、そんなことを言っても分かる筈も無い。あの乞食も、その昔は、由緒ある者のなれの果てかもしれないではないか。日々厳食(いつじき)を求めて、露の命を繋いでいる者に可哀想な事をするな。あの牢屋の甘楽を見よ。人の一生の行方は分からんものだ。お前にも、どんな怖ろしい報いが訪れるか、分からないのだぞ。さあ、施行を取らせてから、帰しなさい。」

 と、慈悲深い事を言うのでした。やがて、施行が出されました。源蔵は、

 「この場所は、何人たりとも、固く立ち入りが禁じられておる。もう二度と来てはならぬ。」

 と念を押して、奥に戻りました。安綱は、源蔵の後ろ姿をつくづくと見ながら、

 『むう、こいつは、なかなか立派な武士であるな。また、うろうろしていて、再び叱責されては、怪しまれる。』

 と考え、一旦、上野の国へと戻って行きました。

 安綱は、上野の国に戻ると女房の所へ戻りました。女房は驚いて、

 「おや、御台所や若君達は、どうなされましたか。もしや、打ち捨てて来たのではないでしょうね。そうであれば、早く戻ってあげて下さい。私も、長い間、打ち捨てられたままで、その寂しさに耐えていますが、主君の為ならば、露程も恨みはいたしません。」

 と、言うのでした。安綱は、これを聞いて、

 「おお、長い間、捨て置いたのに、恨み辛みをも言わずに耐えてくれるか、有り難い。それ程、主君の事を思っていてくれるのか。御台様も若君達もお元気にしているので、安心してくれ。あれから、私と有重でお供をして逃げたが、松枝(松井田:群馬県安中市)の宿で追っ手が迫り、有重が残って防戦する間に、碓氷の峠までなんとか落ち延びることができたのだ。」

 と、話すのでした。女房は聞いて、

 「それでも、住み慣れないそんな山奥で、誰が、水を汲み、薪を取ってくれるのですか。可哀想に。」

 と悲しむのでした。そこで安綱は、

 「実は、お前に頼みがある。」

 と、膝を詰めました。 

 「どうか、お前は、源蔵の所の下の水仕になってくれないか。そして、例え源蔵が、西を東と言っても、これに従うのだぞ。お前は、年増とは言え、まだまだ色っぽい所も十分あるから、きっと源蔵もお前に言い寄って来るだろうが、それにも従うのだ。そうして、機を見てお殿様を救い出すのだ。しかし、私を恨んでくれるなよ。夫婦は、一夜を共にしただけでも五百生の縁となると聞く。ましてや、お前と私は、もう数年の契りを込めた仲。夫の為に二世まで、平にお願い申す。」

 女房は、これを聞くと、

 「主君の為、夫の為のお役に立てるならば、例え、身を刻まれ、骨をばらばらにされても、この命は惜しくはありません。」

 と、覚悟するのでした。それから、安綱夫婦は、早速、下野の源蔵館に向かいました。

  源蔵館の近くまで来ると安綱は、

 「あそこの門が源蔵の館よ。私は、この木の本から離れずに待っているから、何か用がある時は、ここまで出て来るのだぞ。」

 と涙ながらに、女房を送り出すのでした。女房が源蔵館の門外に佇んでいると、内より下女が出てきて、

 「おまえは、この内に用でもあるのかね。」

 と尋ねました。女房は、

 「はい、私は、この国の隣の那須の国の者ですが、昨年の春、夫を亡くしました。夫の叔父が私を売り飛ばそうとするので、ここへ逃げて参りました。どうか哀れと思って、この内の下の水仕にさせて下さい。」

 と、答えるのでした。下女が源蔵に取り次ぎますと、源蔵は、女房を呼び入れました。女房を見た源蔵は、

 「いやいや、下女にしておくには勿体ない。取り上げて使うことにしよう。」

 と言って、女房に小大夫と名を付けて、重宝するようになりました。元々小大夫は、何事にもそつが無く、朝夕身を惜しまずに立ち働き、良く気が付き、身内だけで無く外様の家までにも気を配ったので、小太夫程の女房は無いとまで言われる程になりました。かの小大夫の頼もしさは、言い様もありません。

 つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(1)

2014年04月01日 22時09分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

  古浄瑠璃正本集第1(7)は、「やしま」である。(寛永16年:1639年板)女太夫である六字南無右衛門の唯一の正本である点で面白いが、「屋島」又は「八島」と言いながら、ようやく義経が奥州から出兵したと思ったら、三河矢作の宿まで来て、「浄瑠璃姫は何故来ないの。」で終わっているので、がっくりする。尚一段目は、都から奥州秀衡を頼って行く、お決まりの「道行き」である等、面白味に欠ける。
  古浄瑠璃正本集第1(8)は、「こ大ぶ」とある。(寛永18年五月山本久兵衛板)これは、「小大夫」(こたゆう)と読んで良いのだろう。謡曲「甘楽大夫」(かんらたゆう)を下敷きにしている。残念なことに、四段目から六段目までの下巻しか現存しないが、これは、中々面白い話である。前段の流れを、謡曲(新謡曲百番:佐々木信綱 M45年)から抜いておく。 

 甘楽大夫 

浮き雲掛かる月に風。月に風。待たるる風ぞ待たるる。是は上野国、甘楽の郡、多々良の城。甘楽の大夫、朝正郷(ともまさきょう)の御台所や二人の公達。小太郎殿、亀若殿にて御座候。某は、甘楽譜代の侍、安綱(やすつな)と申す者にて候。扨も朝正郷は、去年の秋、下野国、足利の住人、荒間の兵衛景信(あれまのひょうえかげのぶ)に遺恨の子細候て、謀り生け捕られ給い候えしを、長沢の源蔵が預かり申し。牢舎なされ候に付き、御台所、公達は落人となり、この碓井の山深く分け入り、忍びて御座候
 

こ大ぶ下巻 4段目 (1)
 

さて、景信の追っ手の軍勢を、有重(ありしげ)が食い止めている其の隙に、主従四人の人々は、辛くも落ち延びましたが、無残にも、有重は討ち死にしたのでした。人々は、涙ながらに、ようやく碓氷峠まで逃げ延びて来ました。 

安綱は、碓井峠の山中に、柴の庵を建て、御台所や公達を住まわせました。安綱は甲斐甲斐しく働きました。昼間は、人目を憚り、夜になると、山を巡って薪を集め、又谷に降りて水汲みをするのでした。こうした日々がしばらく続きましたが、ある時安綱は、御台様に、
 

「何時までも、ここでこうして居る訳には行きません。私は、先ず下野に行き、何とか計略を図って、お殿様を牢より助け出したいと思います。」

と、涙ながらに言うのでした。御台所は、これを聞いて、 


「ええ、無理なことを言うのではない。安綱殿。甘楽家の重臣として、あなたの顔を知らない者はありませんよ。それに、あなたが居なくなっては、この兄弟達を、どうやって出世させればよいのですか。どうか、そんな無謀なことはやめて下さい。」
 


と、引き留めるのでしたが、朝春殿(ともはる
謡曲では小太郎)は、これをお聞きになり 


「母上様こそ愚かなお考えです。よくぞ言ったぞ、安綱。何とかして、父上を牢から助け出して下さい。」

と、懇願しました。幼い亀若も、

「何と、安綱は、父をお迎えに行くのですか。お国にお戻りなされても、長居をせずに、早く帰って来て下さい。」

と、言うのでした。これが、今生の別れになるかも知れないと思った安綱は、涙に咽びましたが、名残の袖を振り切って立ち上がると、下野の国へと向かったのでした。

 安綱が山を下りると、働き手は朝春です。毎日薪を集め、水汲みにと、慣れない山路で、傷だらけです。それに、負けじと、亀若丸も付いて来ます。朝春は立ち止まり、

「亀若、良く聞け。このような凄まじい山奥で生活することを恨むのではないぞ。仏様もその昔、檀特山(だんどくせん)という険しい山で、辛い難行をなされて、遂には、悟りを開かれ、三界道のお釈迦様となられたのだ。さあ、早く庵に帰って、母上を慰めなさい。」

と諭しましたが、亀若は、

「そのお話に従うならば、私も難行して、父上や兄上をお守り出来る様になり、私も仏になります。兄上こそ、お帰り下さい。」

と、聞きません。朝春殿は、少し困って、

「お前が、言う事は間違ってはいないけれど、兄のした難行で弟が助かる訳ではないし、又、弟のした難行で、兄が助かることも無いのだよ。早く帰りなさい。亀若。」

と言いました。きつく言われて、亀若殿は、仕方無く庵に戻って行くのでした。朝春殿は、

「まだ年端も行かぬ内から、このような辛い目に会わせるとは・・・」

と嘆きながら、涙と共に水を汲んで、帰って行きました。ところが、その帰り道に、朝春殿は、碓氷峠の山賊どもに見つかってしまったのです。山賊駄どもは、

「このような山奥で、水汲みとは、変な奴。まあいいだろう。なんであれ、良い拾いものだ。売っぱらってやるわい。」

と言うなり、朝春殿を引っ立てたのでした。朝春殿は諦めて、

「この様に連れ去られ、売り飛ばされるのも、前世の報いだと思うので、少しも恨みはしませんが、すこしだけ時間をいただけませんか。母や弟がおりますので、お別れをさせて下さい。」

盗人どもは、これを聞くと、

「ええ、うるさい。つべこべ言うな。歩かないと、ぶったたくぞ。」

と、言って引っ立てて行くばかりです。するとそこに、兄の帰りが遅いのを心配した亀若がやってきて、この様子を見たのでした。亀若殿は、

「のうのう、人々。いったい兄上を何処に連れていくのですか。」

と、縋り付きました。夜盗の者達は、

「おお、一人でも嬉しいのに、二人に増えれば、言うこと無しだな。」

と、亀若も引っ立てて歩き始めました。朝春殿は驚いて、

「なんと、情け無い。庵に母上様がいらっしゃいますが、一人どころか、二人まで、売られてしまっては、母上は、生きては行けません。どうか、お許し下さい。」

と、流涕焦がれて泣き崩れるのでした。この様子を見ていた年寄りの夜盗は、少し可哀想になったのでしょうか、

「そんなら、お前は、許してやろう。」

と、亀若殿を、突き放しました。ところが、亀若丸は、飛びついて、

「いやいや、人々。よくご覧下さい。兄上の手足は、傷だらけで、大した価値はありませんよ。私は、年も若いので、まだまだ長く使えます。兄に替えて、私を売って下さい。」

と、訴えるのでした。朝春は、

「よいか、亀若。庵に帰れ。母上には、この事は言うなよ。兄は、谷に水汲みに行ったまま行方知れずになったと言うのだぞ。さあ、お許しのある内に、早く帰れ、亀若。」

と、説得する外ありません。夜盗達は、業を煮やして、

「ああ、うっとしい奴らだ。」

と、朝春を引っ立てて行きかけますが、亀若は更に取り付いて、

「のう、のう、人々。私に替えてください。」

と喚きます。あんまり強く悲しんで、泣いたため、とうとう亀若は、引きつけを起こして、その場にばったりと倒れてしまったのでした。朝春は、驚いて、

「ああ、弟が死んでしまいました。」

と叫んで、亀若に取り付きますが、もう既に事切れてしまったようです。朝春は夢とも弁えず、亀若に抱きついて、

「ああ、これは、夢か現か。最後まで、一緒に生きる事の出来ない、儚い憂き世だ。」

と嘆き、叫びますが、どうすることもできません。その時、夜盗の者どもは、谷に降りて水を汲んで来ると、亀若の口に水を含ませるのでした。すると、亀若は、少し息を取り戻し、うわごとの様に、

「ああ、兄上は、どこに、いらっしゃいますか。私に替えて下さい。」

と言うのでした。亀若は、また意識を失いかけましたが、夜盗が、

「なんとまあ、不憫なことか、そこまで言うのなら、二人とも許すことにしよう。」

と言うと、かっぱと跳ね起きて、

「これは、有り難い。」

と、手を合わせて拝むのでした。夜盗の者は、

「さて、そもそも、お前達は、誰の子供なのか。どうして、このような山奥に住んでいるのか。」

と聞きました。朝春殿は、名乗らないでいようと思っていたのですが、弟亀若の命を助けてくれたので、名乗ることにしました。

「私は、上野の住人、甘楽太夫朝正の子供です。」

と、朝春が名乗ると、夜盗達は、思わず立ち退いて、

「はあ、これは、何と有り難いことか。私たちも上野の国の者です。朝正様がお殿様であった頃は、民を憐れみ、我々の様な者にも、慈悲をもっての御治世でした。しかし、景信が国を横領してからは、何かにつけて駆り出され、取り立てられ、やりたくも無い山賊に手を染めるようになったのです。まったく残念なことです。今までのことは、どうぞお許し下さい。さあ、庵までお供いたしましょう。」

と、謝ると、兄弟を背負って、庵へと向かったのでした。庵に着くと、母上に事の次第を話して聞かせました。母上は、

「何と辛い目に会うのでしょう。」

と、泣くのでした。夜盗の人々は、是をみると気の毒に思って、谷に降りて水を汲んできたり、山に上がって、薪を集めたりと働いたのでした。夜盗の者達は、

「又、手伝いに来ます。」

と言い残して、山を下りて行きました。この世の中で、哀れな事と言えば、この人々のことだと、上下を問わず、憐れんだということです。兎にも角にも、この人々の心の内の哀れさは、例え様もありません。

 つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(6)終

2014年03月24日 20時18分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

むらまつ(6)終 

 中納言は、蔵人に、

「急いで、武井の所へ行き、二位の中納言が下向して来ると伝え、馬と輿を用意する様に言え。又、御前の着物を用意するようにと言い添えよ。」

と命じました。早速に蔵人は武井の館に飛んで行きました。武井は、大変驚いて、

「ははあ。中納言様の御下向は、何より目出度いこと。」

と平伏すると、馬、輿、着物を用意して、迎えに向かわせました。今や遅しと、待っていますと、御装束も華やかに中納言は、馬に乗り、御前親子は、御輿にのって、武井の館に到着しました。迎えに出た、武井夫婦は、

「これまでの御下向。お目出度う御座います。」

と畏まるばかりです。女房が、御輿の前に進み、水引を上げますと、御輿から出てきたのは、なんと、あの上﨟です。その後に付いて出てきたのは、草刈り姿のままの一若でした。女房は、呆れ果てて頭を、地に付け、赤面する外はありませんでした。武井もこれを見ると驚いて、物も言わずに平身低頭するばかりです。中納言はこの様子をご覧になり

「さて、武井殿。嬉しいことに、よくぞこの親子を買い取り置いてくれたな。お前が、買い取ってくれたお陰で、再びこのように、巡り逢うことができたぞ。情け容赦も無くこき使った事は、憎いことだが、まあしかし、そのことは目をつぶろう。」

と、機嫌良く言うのでした。夫婦の者は、ほっと息をつき、

「有り難いお言葉。有り難う御座います。事の経緯は、すべて姫御前がご存知です。」

と言うと、その時、姫御前は、武井夫婦をかばって、次の様に話しました。

「お殿様。夫婦の方々は、私が主人であるかのよう、情けを掛けて尽くしてくれました。どちらも、悪くはありません。このような事になったのは、小笹という下女が、御台様に讒言をしたからです。」

中納言は、これを聞くと、

「それでは、小笹を連れて来い。」

と、命じました。小笹は高手後手に縛められて、中納言の前に引き据えられました。中納言は小笹を見ると、

「舌三寸を使って、五尺の身体を害したな。今こそ、思い知らせてやろう。女の舌を抜け。」

と命じました。小笹は、罫引きの端で舌を抜かれ、口を引き裂かれ、指を切り落とされて、嬲り殺しにされました。それから、能登の太夫が呼び出されました。中納言は、

「幼き者や御前を、よくも情けも無く叩いたな。太夫の二十の指を切り落として、追放せよ。」

と命じました。指を切り落とされた能登の太夫の姿を見て、笑わぬ人はありませんでした。

 姫御前や一若殿は、昨日までの田草取りとは一変して、華やかな風情です。この三年の間、世話になったり、仲良くなった人々を呼んで、お礼の金銀をお渡しなりました。やがて、都より共の軍勢五百余騎が到着すると、人々は辛い思いをした武井館を離れて、都へと旅立ったのです。日数も積もって、大津の浦につくと、母子を売り飛ばした長太夫婦を捕まえて、首を討ち落として、晒し首としました。

 さて、都へ着くと、父の大納言も母上様も大喜びです。中納言は、直ちに参内しました。御門もお喜びになり、除目(じもく)の儀式を行いました。中納言は大納言となり、一若殿は、少将に任命されたのです。更に、大納言は、滅ぼされた村松の敵討ちを奏聞しました。これに対して、御門は、尤もであると、重ねて、武蔵の守を賜わりました。

 大納言は、有り難やと、一千余騎の軍勢を揃えて武蔵国に向かいました。武蔵国でさらに軍勢を増やすこと三千余騎。曾我館を四方より取り囲みました。曾我は、これを見るより降参し、腹十文字に掻き切って自害しました。村松殿の供養の為と、その首を刎ねて晒し首とするのでした。それから、主人を裏切った馬屋の忠太を捕まえると、腰より下を地面に埋め、鋸で首を挽かせ、人々の見せしめとしました。一方、母子が落ちるのを助けた金八には、一万町歩の土地を褒美として与えたのでした。有り難い事です。その後、大納言殿は、村松館のその跡に、お城を建てました。小高い所に、塔を建て、川に橋を架け、沢山の僧を集めて武井夫婦の供養を行ったということです。実に頼もしい事だと、感心しない人はありませんでした。ご一家は、ますます御繁栄なされて、富貴の家になったということです。

おわり

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(5)

2014年03月24日 18時00分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

むらまつ(5)

  都に戻ることができた中納言は、母御前に、相模の国の村松はどうしているかと聞きました。御台様は、

「そのことですが、その後、曾我という者が、姫を迎え取ろうと言い出して、村松と対立して、戦となりました。村松は無勢でしたから敗北し、夫婦の方々は自害されました。姫と若とは助かって、忠太と申する者を頼りましたが、この者に裏切られて、どこかへ落ち延びたということですが、行方は知れないそうです。」

と、話すのでした。中納言はこれを聞いて、

「なんと、哀れなことであろうか。島で、何度も自害しようと思いましたが、ひょっとしたら又、逢えるかも知れないと、思い直して、毎日を過ごして来ました。若の行方が知れないのであれば、もう世を厭うて、出家いたしましょう。」

と、肩を落しました。ところが、乳母の蔵人は、これを聞いて、

「なんと愚かなことを、考えてもご覧下さい。日本は小国です。西に東に、北に南に捜し廻っても、たいした広さではありません。どうして、必ず逢えるとお思いになって、お捜しにならないのですか。御契は深いのですから、必ずお逢いすることができるはずです。」

と、大変頼もしげに、励ますのでした。これを聞いて中納言も力を得て、

「それでは、母と子を捜しに出掛けるとしよう。」

と、思い切り、旅の用意をなされました。商人の風情に姿を変え、褐(かちん)の直垂に折烏帽子を被り、千駄櫃を拵えると、下人を二人と、蔵人と、主従四人で都を出発しました。人々は、先ず本国の陸奥の国へ向かうことにしたのでした。

《道行き:□は欠落文字・・・補綴渡部》

恋しき人には粟田口(京都府東山区)

君は留めぬか関山と(逢坂の関)

尋ぬる人に逢坂の

関の清水に掛けさせど、□とより(帝都カ)

今ぞ、大津の浦(滋賀県大津市)

にほの海中(琵琶湖)、舟寄せて

乗りも倣わぬ、旅の空

焦がれて、物をぞ思いける

我を哀れみましませと

□よし(日吉)の山を伏し拝み(比叡山)

堅田の浦に引き網の(滋賀県大津市)

目毎に脆き涙□□(かな)

海津の浦に舟寄せて(滋賀県高島市)

尚、行く末は、愛発山(あらちやま:滋賀県福井県県境)

越前の敦賀□(へ)越え

加賀や能登をも越え過ぎて

越中、越後を指し過ぎて

国々、郡、郷々に

見残す方もあらばこそ

恋しき人に奥州や

ちかの潮屋の夕煙(不明)

崖に忍ぶ(信夫)の里ぞ憂き(福島県福島市)

今、来て見るや衣川(岩手県奥州市衣川区)

名所旧跡、尋ぬれど

恋しき人はなかりけり

けつしよ(不明)本吉(宮城県気仙沼市本吉町)尋ねんと

郡(こおり)に入りて見給えば

涼しき松の木陰あり

しばらく、休みおわします。

 中納言は、松の木陰に腰を下ろすと、弁当を開けました。頃は五月の末頃のことでした。気の毒なことに姫御前は、武井殿にこき使われ、毎日、田草を取って暮らしております。一若は今年、九つになりました。一若も草刈り鎌を持たされて、遊んでいる間もありません。その日も一若殿は、畦に出て、草刈りをしていましたが、暑さにくたびれて、畦を枕に寝てしまいました。姫御前が、気が付くと、能登の太夫が見回りに来ます。姫御前は、慌てて一若を起こしました。

「これ、太夫が来ますよ。」

と、引き起こすと、一若は、目を醒ますなり、母上に縋り付いて泣き出しました。姫御前がどうしたのだと尋ねると、一若は、

「今、不思議な夢を見ていたのです。七十ぐらいの老僧が出てきて、『父に会いたいのならこっちへ来い。会わせてやろう。』と言うので、御僧の袖につかまって、橋を渡りますと、御僧が、『この橋こそ、夢の浮き橋。私を誰と思うか。お前の父の氏神じゃ。今、父に会わせてやるぞ。さあさあ、急げ。』と言うのです。それなのに、そこで、母様に起こされてしまったのです。」

と、泣きじゃくるのでした。これを聞いた母上も、一若に取り付いて、涙を流すのでした。これを見ていた能登の太夫は、突いていた杖で、姫御前を打ち据え始めました。一若殿は、いじらしくも、

「母上には科はありません。私を叩いて下さい。

と、杖に縋り付いて、訴えるのでした。能登の太夫は、今度は、一若を打ち伏せて、あっちこっちへと引きずり回します。今度は、母が取り憑いて、

「幼き者に科はありません。私を叩いてください。」

と泣くのでした。

 中納言は、半町ほど(約50m)離れた所で、この様子を見ていました。この母子が、尋ねる姫御前と一若であるとは、夢にも知りませんでしたが、やはり切れぬ縁があったのでしょう。蔵人を呼ぶと、

「あそこで、幼き者を叩いているのは、親なのか、祖父なのか分からぬが、情けも無い様子。あの子供を連れて来て、弁当を食べさせて、慰めてあげなさい。」

と命じました。蔵人は、すぐに子供を迎えに行き、中納言の前に連れてきました。中納言は、

「さあ、弁当を食べなさい。」

と言って、弁当箱を手渡しました。一若は、弁当を受け取りましたが、彼方を見詰めて泣くばかりです。中納言が、

「何を、悲しんでいるのか。」

と聞くと、一若は、

「お手ずから、弁当をいただいておきながら、このような事を言うのは、憚られますが、あそこで、田草を取っているのは、私の母上です。今朝のご飯も、昼のご飯も食べていないので、とてもお腹がすいているだろうと思うと、涙しか出ません。」

と答えるのでした。中納言は、この言葉に感心して、

『幼い者でありながら、親を哀れむ優しい心。捜している一若も。生きているなら、これぐらいの姿形であろうなあ。』

と思い、涙ぐんで、こう尋ねました。

「お前の、親の名は、なんと申す。」

一若殿は、これを聞くと、尚一層に辛い様子になり、

「父上様が居るのなら、どうしてこんな所で、辛い目に遭うことでしょうか。」

と泣きました。中納言は、重ねて、

「元々は、どこの国の者なのか。」

と尋ねると、一若は、

「都の者です。」

と答えました。中納言が、

「私も都から来たのだ。都にいる父に伝言をしなさい。伝えてあげよう。」

と、言いますと、一若は、

「それでは、憚りながらお願いいたします。私の父は、五条壬生の中納言と申します。相模の国へ御下向されて、若を一人設けました。その若と母は、この国まで売られ来て、武井殿の館に居るということを、知らせて下さい。都のお人。」

と、語るのでした。これを聞いた中納言は飛び上がり、一若に走り寄って、

「さては、お前は一若であるな。中納言とは私のことだぞ。」

と抱き上げるのでした。一若殿もひっしと抱きつき、互いに、はっと涙に暮れました。やがて、中納言が、

「母上は、どこにおる。」

と言えば一若は、向こうの田んぼに居る母上の方を指さしました。一若と中納言は、田んぼの中に走り降りて、姫御前に取り付きました。

「おお、ようやく見つけたぞ。姫御前。」

姫御前は、余りの嬉しさに、これは夢かと取り付いて、只泣くばかりで、言葉も出ません。なにはともあれ、手に手を取り合って田から上がると、先ずは松原でひと息つくのでした。この人々の喜びの激しさを、何かに例え様もありません。

つづく

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(4)

2014年03月23日 17時35分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(4)

   武井殿は、慈悲第一のお人として、名が知れておりましたので、姫御前を座敷に上げると、様々と旅の疲れを労りました。武井殿が北の方に、

 「今日来た美人のお客をもてなして、どんな人なのかを見て参れ。」

 と、言うと、女房は、一揃いの瓶子に肴を添えて、姫御前の部屋を訪れました。姫御前の様子は、旅に疲れ果てて、やつれてはおりますが、ふつうの人とは違う雰囲気がありました。髪の形や着物の着こなしなどは、どう見ても、その辺の女ではありません。又、一若殿のお姿も、例え様も無い程、高貴な感じがします。北の方はこれを見て、

 「まあ、なんと労しいお姿でしょうか。いったい何処の方なのですか。」

 と、聞きますが、姫は、出自を聞かれることさえ、辛そうです。涙に咽びながら、しばらくは返事もできないで居ましたが、やがて、泣きながらこう話しました。

 「私は、相模の国の者ですが、以前に国司様が下向された時、馬屋の下人と夫婦になり、この子を授かりました。それから、夫が都へ帰ってしまったので、後を追いましたが、大津の浦で拐かされ、この国まで、売られてきたのです。」

 これを聞いた北の方は、

 「それはなんとも哀れな事でした。普通の人とは異なるお姿の御方ですから、ここでは、良いように面倒を見て差し上げましょう。」

 と言って、武井殿の所に戻ると、こう話すのでした。

 「あの上﨟は、その辺の普通の女ではありませんよ。髪の形も着物の着こなしもさることながら、三十二相のすべてを備えています。これ程の上﨟を、これまで見たことはありません。又、若君の姿も大変可愛らしく、高貴な感じです。」

 武井は、これを聞くと、

 「おお、さては由緒のある御方に違い無い。不自由の無いようにもてなしてあげなさい。」

 と、言い、新しい御殿を建てて、我が子の様に可愛がったのでした。そうして三年の月日が流れましたが、姫御前は、こんなことを思うようになったのでした。

 『なんと浅ましいことでしょう。もう父母の第三年忌が近付いて来ました。何か大善根を行って、供養をしなければ、生きている甲斐がありません。』

 そして、姫御前は、二人の親の回向に、法華経の写経を始めたのでした。この様子を見ていた武井は、

 「女の身でありながら、法華経をこのように美しく写経するとは、聞いたことも見たことも無い。よっぽど情けの深いお人なのだな。」

 と、思う内に、恋の病に落ちてしまったのでした。驚いた北の方は、そんなこととは知らないで、数々の薬を尽くして看病しましたが、当然のことながら、良くなりません。気が気でない北の方は、武井の病を治す為に、築山の宮(不明:宮城県石巻市築山カ)に参籠して治癒祈願をするのでした。

 さて、北の方が居なくなると、武井殿は手紙を細々と書き記して、小笹という下女を呼ぶと、姫御前へ届けさせました。この文を読んだ姫御前は、大変悲しんで、

 「この三年の間、武井夫婦のお情けに頼って、悲しいことも忘れて過ごして来られたのに、またまた、辛く苦しい事になってしまいました。」

 と溜息をつき、次の様な返書をしたためました。

 『相模の国の下人と結ばれて、この子を授かりましたが、夫が居なくなると、国司様が、私を手に入れようとなされました。それが嫌で、私は国を出たのです。夫を捜して都へ上がる途中、大津の浦で拐かされ、売られ売られて、ここまで来ましたが、北の方のご恩は決して忘れることはできません。いくらお殿様のご命令でも、こればかりは、どうぞお許し下さい。もし、それが憎いとお思いになるならば、どうぞ、何処へなりとも、お売り下さい。武井殿。』

 武井は、この返事を読むと、

 「おお、それはほんとに道理じゃ。これ以上、悲しませては、あまりにも可哀想じゃ。」

 と、深く感じて、恋心も失せて、病も回復したのでした。そこへ、北の方がお帰りになりました。武井殿の加減も良くなっているので、北の方は、祈願の霊験が顕れたと喜んだのでした。しかし、そこへ下女の小笹がやってきてこう告げ口をしたのでした。

 「御台様。お殿様は、この程、客人の所へ通っていました。」

 これを、聞いた北の方は、がらりと態度を変えました。

 「なんですと。それは、不審なこと。この三年の間、本当の子供でも無いのに、情けを掛けて世話をしてきたのに、その恩も忘れて、後ろ目の暗いことをするとは。ええ、これからはこき使ってやる。」

 と叫ぶと、能登の太夫を呼び、

 「あの姫の髪を切り落とせ。」

 と命じるのでした。太夫は容赦もなく、背丈程もある姫御前の髪を、肩の辺りでばっさりと切り落とすと、麻の衣に着替えさせ、庭の外へと、追い落とすのでした。そして、

 「三十二匹の馬どもの水を汲んで来い。」

 と命ずるのでした。可哀想に一若は、母上から離れまいと、必死に袖や袂にしがみついています。母子は、馬屋で暮らすことになりました。4月になると、田の仕事が始まります。田植え、草取り、水替え、一若は、草刈りと、毎日毎日こき使われるのでした。

  さて一方、都では其の頃、三条の大臣の姫君がご懐妊成されましたが、十三月を数えても臨月とならず、母体も弱り果てて、食事も喉を通らない有様です。御門は、大変これをお嘆きになり、貴僧高僧を集めて、祈祷を行いましたが、なんの験(しるし)も顕れません。そこで陰陽の博士に占わせました。博士は、

 「むむ、これは、人の生き霊と、山王権現のお咎めが原因に違いありません。」

 と占いました。これを聞いた大臣達は驚いて、急いで日吉大社へ参拝したのでした。すると、比叡の山から、夥しい猿が降りて来て、烏帽子やら浄衣やらを引き破るのでした。(※猿は山王権現の使い)人々が、

 「山王権現のお咎めだ。」

 と、驚いていると、童巫女が狂い出でて、神託を告げました。

 『千早振る 神(髪)も恨みの 深ければ 落つる涙を 思い知らせん』

 「どうして、中納言と大納言を流罪にしたのか。呼び戻さないならば、今回のことで、神を恨むなよ。」

 そう告げると、神の使いは天に戻って行ったのでした。人々は急いで都に戻り、事の次第を奏聞しました。御門は大変驚いて、

 「それならば、大納言、中納言を急いで、帰洛させよ。」

 と、御免の使いを早速に送りました。やがて、沖の嶋に舟が着きました。大納言と中納言は罪を許され、都へ戻ることができたのでした。人々の喜びは、限りもありません。 

 つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(3)

2014年03月22日 21時54分35秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(3)

  その日の夜更け、人々の物音も静まりました。姫御前は、山田の教えに従って、馬屋の忠太の所へ落ち延びて、その戸をとんとんと叩きました。内より、

 「誰ぞ。」

 とあれば、姫君は、

 「村松の姫です。どうかお助け下さい。」

 と、頼みました。ところが、忠太は、戸を開けもせず、

 「何、忌まわしい姫御前か。大納言や中納言が流されたのも、お前のせいじゃ。二人の親が死んだのもお前のせいじゃぞ。ここに入れる訳にはいかん。どこにでも落ちて行け。」

 と、情け容赦も無く、追い払うのでした。

  可哀想に姫御前は、都は西の方と思い定めると、一若を抱いてとぼとぼと、山の中へと分け入りました。それと見ると、忠太は情け無くも、曾我の陣営に走り行き、

 「村松の娘が、私を頼みに落ち延びてきましたが、追い払いました。まだ、大山(おおやま:神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市)の辺りをうろうろしていると思いますので、姫が欲しいのなら、追っ手をお掛けなさい。」

 と、密告するのでした。曾我は、これを聞いて、早速に追っ手を差し向けました。すぐに、追っ手は姫を追い詰めました。追っ手の声を聞いた姫御前は、驚いて逃げ回りますが、三昧原(さんまいばら:墓場)に紛れ込んでしまいました。そこには、新しい棺桶がひとつあるのが見えました。急いで、棺桶を開けてみると、死人が一人入っています。外に隠れるところもありません。姫君は一若を抱いて棺桶に隠れました。息を潜めて、耳を澄ませておりますと、追っ手の者共がばらばらとやってきました。

 「きっと、この墓場辺りに隠れているに違い無い。」

 「この棺桶が怪しいぞ。」

 追っ手の者が、棺桶の蓋を開けようと近付くと、一若が目を醒ましてむずかり、泣き出しました。

 「やはりここだ。」

 と、棺桶の回りに、皆が集まりました。その中に以前は村松の家来だった金八と言う者は、

 『ここで、姫君が見つかっては、可哀想だ。なんとか落としてやりたい。』と思い、とっさにこう言いました。

 「いやいや、お待ちなさい。皆さん良く聞いて下さいよ。只今の一声の泣き声は、姑獲鳥(うぶめ)が泣いた声ではありませんか。気をつけた方がいいですよ。姑獲鳥が人に取り憑けば、三日の内には、命がありません。その上、死人に触るならば、七日の汚れとなります。この正月の初めから、人に忌まれてはしょうがありませんよ。さあさあ、皆さん。離れて下さい。危ない。危ない。」

 これを聞いた人々は、怖ろしくなって、我も我もと、逃げ去って行ったのでした。やがて辺りは又、静かになりました。

 難を逃れた姫御前は、棺桶から出ると、再び都を指して歩き始めました。七日目に、清見関(きよみがせき:静岡県静岡市清水区)まで辿り着きました。姫御前は、

 「ああ、父母が亡くなってから、今日でもう七日。なんと哀れなことでしょう。」

 と言うと、近くの寺を訪ねて、小袖の褄に

 『玉手箱 蓋、身は失せて 哀れにも 甲斐無く残る 掛け子ばかりぞ』

 と書き記すと、御僧に献上し、供養を願いました。やがて、初七日の法要を済ませると、姫御前は、泣く泣く寺を出立し、それから三十日めには、大津の浦(滋賀県大津市)で有名な長太の宿に着いたのでした。宿の女房が、

 「何処においでだね。」

 と尋ねれば、姫君は、

 「私は、相模の者。以前、国司として下向された御方がこの子の父です。その父に会うために、都に上がるのです。」

 と、正直にも答えるのでした。長太は、これを聞くとにやりとし、

 「関山三里と言いまして、逢坂は、大変な難所ですぜ。どうです、舟で送ってあげましょうか。」

 と、騙しました。道を知らない姫君は、喜んで舟を頼みました。なんと労しいことでしょう。さて、明けて七つの鐘(午前4時)が鳴る時分のことでした。姫御前達は、浜地に降りて、恋しき都とは、別の方向へと、湖に漕ぎ出して行ったのでした。長太は、海津の浦へと漕ぎ付けると(滋賀県高島市)、今度は馬に乗せて、敦賀まで連れて行きました。(福井県敦賀市)長太は、敦賀の人買い源三の宿に姫御前を降ろすと、値踏みを始めました。源三は、

 「むう、見目形はよろしいが、ガキが余計だな。そんなに高くは売れまい。」

 と言います。長太はこれを聞くと、

 「そんなら、舟に乗せる時に、海へ捨ててしまえ。」

 と、情けのかけらもありません。これを、聞き付けた姫御前は、間の障子をからりと開けて、

 「ええ、なんと情け無い。都へ送ると偽って、人売りに売り渡すのですか、恨めしい。売るなら二人一緒に、何処へでも売って下さい。しかし、若を殺すなら、私も生きてはいません。」

 と、涙ながらに訴えるのでした。二人は、それは道理だと納得し、絹十疋で手を打ちました。それから、長太は大津に帰りましたが、姫御前は、三国(福井県坂井市)に連れて行かれて、更に絹十五疋で売られました。その次は、宮越(石川県金沢市金石町)、あちらこちらと売られ買われて、越中の六渡寺(ろくどうじ:富山県射水市)へと売られました。六渡寺の七郎は、越後の国に連れて行き、直井の次郎に売った時には、絹五十疋になっていました。

  姫御前は、過酷な生活の中で、こう考えて耐えて居ました。

 『一若がせめて、七歳になるまで、我慢して生きて行こう。七歳になったなら、出家をさせ父母の菩提を弔わせ、私はどうなろうとも一若は、父の中納言と、再び巡り逢う日もあるのに違い無い。』

 直井の次郎は、人売りにしては、情け深い人でした。姫御前の様子を見ると、心の中で、こう思いました。

 『むう、この姿は、普通の人とも思えない。又、重ねてその辺の人売りに売るのなら、どこまでも流れて行くことだろう。それでは、あまりに可哀想だ。そうだ、陸奥の国の武井殿は、有徳な方と聞く。美しい女を買い留めて、情けを掛けて遣っているとのことじゃ。よし、武井殿の所に売ることにしよう。』

  直井の次郎は、姫御前に美しい小袖を着せると、馬に乗せ、一若は、男に背負わせて、陸奥の国へと向かいました。武井の館に着くと、直井の次郎は、

 「私は、直井の者ですが、武井殿の家は、大変目出度い家であり、美しい女を買い留めて召し遣われると聞きましたので、女をこれまで連れて参りました。ご覧下さい。」

 と、言いました。武井はこれを聞いて、

 「越後の国から、遙々と、この国まで尋ねてくれたのですか。有り難い事です。」

 と、見れば、たいした美人です。武井は、

 「長旅で、お疲れでしょう。内へ入れて、おもてなしをしなさい。」

 と言うと、武井は、直井の次郎を呼び寄せて、当座の褒美として、野取りの馬を十匹。上々の絹二百疋を与えたので、直井の次郎は、喜んで飛び上がり、そのまま越後へと跳んで帰ったのでした。

 つづく

Photo_2

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(2)

2014年03月22日 19時23分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(2)

 さて、相模の国には、曾我の四郎介又という武士が居ました。介又は、妻に先立たれて、荒んだ生活をするようになっていました。一門の人々は心配して、こんな事を言いました。

村松殿の娘は、大変美しいと聞きます。この姫を後添えとされては如何ですか。そうすれば、心も慰められるでしょう。」

 これを聞いた介又は、それは良いと思い、文を書いて、村松に送りました。村松が、この文を開いてみると、姫が欲しいと書いてあります。村松は、大変立腹して、文を引きちぎって捨てました。村松はこの事を姫御前には知らせませんでした。介又からの手紙は七回に及びましたが、村松は、一度も返事をしませんでした。業を煮やした介又は、一門を集めると、

 「村松へ押し掛けて、姫を奪い取ることにする。」

 と、言いました。文の返事も来ないと聞いた一門の人々は、

 「それは、尤もだ。にっくき村松。」

 と言うと、土井、土屋、岡崎、真田、安達を先頭に、その総勢千五百が、十二月の大晦日に、村松館へと押し寄せたのでした。寄せ手の軍勢の中で、一際華やかな鎧を着た介又は、馬に跨がり、門外に駆け寄せると、

 「ここまで来た強者を誰と思うか。曾我の四郎介又であるぞ。姫をいただきたいと、何度もお願いしたが、返事も無し。どうしても、姫を下さらないならば、攻め込んで奪い取る。」

 と、大音上げて呼ばわりました。城内からは、

 「にっくきものの言い様だな。姫が欲しいなら、もっと近くに寄ってみろ。介又の細首を射切ってやるから、あの世で待っておれ。」

 との返答です。寄せ手の軍勢は、何をこしゃくなと、ここを先途と四方より揉み合い、攻め込みますが、櫓より狙い撃ちに射られて、あっという間に十三騎が落とされ、怪我人は夥しい数です。そうして、その日が暮れましたが、城内の負傷者はゼロでした。やがて明ければ正月元旦。介又は、新たな軍勢五百余騎を引き具して、攻め続けましたが、この日も大勢が討たれて、敗退するのでした。しかし、中村、早川、安達など、更に新手の軍勢を投入して、正月五日まで攻め続けたので、流石の村松軍も、六十三騎が討ち死にし、次第に劣勢に傾きました。そこで、村松殿の弟で、心も剛で大力の山田の七郎家季(いえすえ)は、

 「いざいざ、勝負してくれん。」

 と立ち上がりました。その山田の装束は、先ず白綾の肌着をひと重ね着て、緋精好(ひせいごう)の大口袴をはいています。褐(かちん)の直垂に括り(くくり)を結って、梅の腹巻きに黒糸縅の大鎧を二重に重ねて、はらりと着て、五枚兜の緒をしめるのでした。背には四十二に裂いた矢を背負い、塗り籠め籐の弓は五人張りです。四尺五寸の太刀を差して、大薙刀を杖に突くのでした。山田家季は、広縁にずんと立つと、

 「わしが、ひと合戦いたす。橋を渡せ。」

 と、下知しました。城内の軍兵は、えいとばかりに橋を打ち渡しました。しかし、寄せ手の軍勢も、これ幸いと、乱入してきます。山田は、これを見るなり、五人張りの弓で、十四束(約120センチ)の矢を、次から次へと射放って、あっという間に、四十六騎を討ち落としました。しかし、寄せ手の軍勢は、怯みもせずに押し寄せます。これを見た山田は、大薙刀を手にして、いよいよ橋の上に飛んで降りました。山田が大薙刀をぶんまわして、はらり、はらりと切り伏せたので、さすがの寄せ手もたまりません。どっと、退却したのでした。山田も一旦城内に戻り、一息つきました。その時、村松は櫓の上で、四方の様子を覗っていたのですが、一本の矢が、狭間をくぐり、村松殿にはっしと突き刺さったのでした。村松殿は、あっとばかりにもんどり打って倒れました。村松は、山田を近くに呼び、

 「最早、腹を切るぞ。防ぎ矢をいたせ。」

 と、命じました。嘆き悲しむ姫君に向かって、村松が、

 「姫よ。これから、都へ行き、五条の大納言を訪ねよ。大納言の御台様に会って、この事をしかと伝え、父母の菩提を弔ってもらいたい。宜しく頼む。」

 と言うと、母上は、

 「のう、姫君よ。父の仰せに従って、五条壬生に行き、一若をしっかりと育てなさい。そうすれば、きっと恋しき中納言殿とも、いつかは会うことができるでしょう。さあ、名残は惜しいが、親子の別れの時です。一若を今一度、この世の名残に見せておくれ。」

 と、言って一若を抱き寄せました。母上は、一若の後れの髪を掻き撫でて、

 「後世を頼みますよ。一若。」

 と言って泣き崩れました。村松は、山田に、

 「さあ、姫を、乾(北北西)の隅の深い茂みの中に隠してくれ。」

 と頼むと、山田は、姫を小脇に抱えて、小深い茂みの中に隠しに行きました。山田は、

 「姫君、よくお聞き下さい。これから、この城に火を掛けて、全員切腹いたします。そうすれば、敵は、ここまでは来ない事でしょう。夜も更け、人々の物音も静まりましたら、忍び出て、城外の馬屋に住む、忠太をお訪ね下さい。」

 と、丁寧に落ち延び先を教えると、山田は城へと戻りました。姫を無事に隠したことを確認した村松夫婦は、

 「よし、それでは、腹を切る」

 と、西に向かって手を合わせて祈りました。

 「南無や西方、弥陀如来。この世の縁は薄くても、同じ蓮の蓮台にお迎え下さい。南無阿弥陀仏。」

 そして村松は、刀をするりと抜き放って、左の脇にぐっと突き立てました。村松が、右に刀を、ぐぐっと引き回すと、女房は、

 「極楽へ行かれたようですね。村松殿。しばらくお待ち下さい。三途の川を一緒に渡りましょう。」

 と、自分も胸元に刀を突き立てて、明日の露と消えたのでした。山田は、これを見届けると、

 屏風や障子に火を付け、腹を十文字に掻き切りました。その上、念仏を唱えながら、臓物を手で引き出して、ぶちまけましたが、ほんとに剛胆な者というのは、それでも死なないものです。乱入してきた寄せ手の軍勢の中に割ってはいると、武者二人を引っ掴み、両脇に掻い込んで、そのまま炎の中へと飛び込んで行ったのでした。最後の最期まで戦い抜いた山田の姿に、目を驚かさない者はありませんでした。

 つづく

Photo

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(1)

2014年03月22日 12時09分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古浄瑠璃正本集第1(6)として収録されているのは、「むらまつ」である。寛永十四年(1637年)に、京都の草紙屋太郎左衛門から出版されている。内容的には、既に流布していた説経のモチーフを散りばめているが、全体に言葉遣いや話の展開がぞんざいに感じる。その太夫は不明である。

  ところで、この物語には、おそらく元になったと思われる伝説がある。宮城県気仙沼の羽黒神社(宮城県気仙沼市後九条271)を中心とした伝説を先に見ておこう。

 今からおよそ千百六十年前、嵯峨天皇の弘仁年間、五條民部中納言菅原昭次卿が行くえ知れずとなった妻子(玉姫と一若)を捜し求めて、陸奥の国にやってきた。そこで、神頼みをしたのが、羽黒権現だった。すると二羽の霊鳥が導案内に飛び立ち、今の 陸前高田市米崎町あたりに着くことになる。そこでなれない田植え仕事をしている妻子とめぐり逢えたという話だ。 昭次卿は羽黒権現の神恩に感謝し、当時は 小さな祠であったのをりっぱな社殿とし、 玉姫の守り本尊であった聖観世音像をお祀りして神社を中心に地域の発展に尽くしたのだという。現気仙沼高校付近は昭次卿のやしき趾であったといわれ、卿を祀る祠があるとのことである。また羽黒神社の南西にある 大塚神社は昭次卿の墓所といわれており、この辺一帯を中納言原と呼んだということである。つまり、現在の気仙沼の発祥の伝説が、この中納言伝説である。

 むらまつ(1)

   五条壬生(京都市下京区)の大納言は、中納言殿をお育てになられました。その乳母である蔵人というのは、この私です。

  実は大納言殿は、嵯峨天皇にお仕えになられ、津の国(大阪:兵庫)播磨(兵庫)近江(滋賀)の三カ国を知行されて、何の不自由もありませんでしたが、三十路になられてもまだ、お子様が一人もおいでになりませんでした。そこで、大納言殿は、日吉大社(滋賀県大津市坂本)に参籠されて申し子をなされたのです。深く祈誓なされたので、その霊験が現れて授かった御子が、今の中納言殿なのです。

  さて、この中納言の后として、四条大宮(下京区)の大臣に娘を迎えることになりました。ところが、どういう訳か、中納言は気に入らず、すぐに大宮へ送り返えしてしまったのでした。そして、出家をしたいと言い出しました。ようやく授かった跡取りを出家にする訳には行きません。困った父の大納言は、様々と手を尽くして、なだめますが、中納言はにこりともしません。この事を聞き及んだ御門は哀れんで、

 「人の心を、慰めるのであれば、国司にさせるのが一番良いであろう。東にある相模の国は、心の優しい国であると聞いておる。中納言には相模の国、大納言には、武蔵の国の国司をそれぞれ三年の間、任命するから、向こうでゆっくりして参れ。」

 との宣旨をくだされたのでした。そこで、大納言、中納言親子は、相模と武蔵に下向されたのでした。

  さて、相模の国の住人に、村松という家がありました。その家には、都でも見つからない程大変美しい娘が居りました。やがて娘は、中納言と仲良くなり、子供ができました。この子の名を一若と言います。中納言の御寵愛は、ますます深くなりましたが、三年の任期は既に過ぎ、もう五年もの月日が流れてしまったのでした。都からは、早く上洛せよとの勅使が何度も来ましたが、大納言だけを上洛させて、中納言は尚も相模に留まったので、とうとう御門の逆鱗に触れてしまいました。

  大納言は既に、沖の嶋(福岡県)に流罪となり、今は、中納言を連行するために、都より梶原判官家末と館の判官満弘が、三百余騎を引き連れて、相模の国へ押し寄せていました。

 「御上洛なさらない科により、お迎えにあがりました。」

 これを聞いた中納言は、御台所に向かって、

 「私が、都へ戻らないので、父大納言は、沖の嶋へ流罪となられた。私も同じ島へ流罪となる。もう、おまえと話すことも、一若を可愛がることもできない。手紙を出すことすらできない離れ小島だ。悲しいことだが、なんとも、もう逃れようも無い。」

 と言うと、一若を膝に抱き上げ、

 「父が姿を、よっく見よ。」

 と、涙に暮れるのでした。いじらしいことに一若殿は、何のことかは分かりませんでしたが、

 「父上、のう。」

 と言って、一緒に泣くのでした。御台所は、これを見て、

 「これは、なんと情け無い事になったのでしょうか。都へ帰られることすら、悲しいことなのに、聞いたことも無い離れ小島に流されるとは、その沖の嶋とやらに、私も一緒にお供いたします。虎伏す野辺の果てまでも付いて行きます。」

 と、泣き崩れました。村松夫婦も涙に暮れる外はありません。中納言は、

 「おお、なんと頼もしい言葉であろうか。しかし、流罪とは、単なる旅とは違うのだぞ。家族連れで流罪ということは許されることでは無い。もしも、都へ戻ることがあれば、又必ず巡り逢うことだろう。お前の心が変わらなければ、一若を形見と思って、七歳になるまでは待っていてくれ。さて、村松夫婦よ。一若が育ったならば、出家をさせて、私の弔いをさせて下さい。」

 と頼むのでした。その時、迎えの人々が、縁先まで来て、

 「早く、おいで下さい。」

 と催促するので、中納言は涙と共に立ち上がりました。可哀想に御台所は、多くの武士に連れられた中納言の袂に縋り付いて、泣きじゃくるのでした。やがて、武士達が中納言を馬に乗せますと、名残の一首を詠みました。

 『命あらば またもや君に 逢うべきと 思うからにこそ 惜しき玉の緒』 玉の緒=命)

御台所は、

『慰めに 命あらばの 言の葉を 答えん隙も 無き涙かな』

と返歌したのでした。互いに見つめ合う内にやがて、馬は門外に引き出されました。人々は別れを惜しむ涙に咽ぶのでした。

さて、村松殿は、小田原まで送り別れました。それから一行は駒を速め、十三日目には、大津の浦に到着したのでした。すると、都からの勅使が来ました。勅諚は、

「これより、伏見へ行き、そのまま舟に乗せ、沖の嶋に流罪とせよ。」

と、いうことでした。宣旨に従って、中納言は、伏見から舟に乗せられ、とうとう大納言の居る沖の嶋へと流されたのでした。島の粗末な伏屋で、親子は手を取り合って泣くより外はありません。大納言は、

「もうこうなっては、一度は捨てられた神や仏に、再び祈りを掛ける外はあるまい。」

と言うと、山王権現(日吉大社の神)の神像を作り上げ、毎日、体を清めては、

「都に帰して下さい。」

と、伏し拝み祈るのでした。なんとも哀れな次第です。

つづく

Dscn9073

 

 

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(6)終

2014年03月14日 15時28分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あぐちの判官(6)終

 御台所は、泣いて暮らしておりましたが、思い余って、春日大社へお参りすることにしました。

「南無や、帰命頂礼。(きみょうちょうらい)どうか、我が子重範に逢わせて下さい。」

と涙ながらに祈るのでした。主従四人は、その日、春日大社にお籠もりなりました。すると春日の大明神は、ありがたいことに、この様子を哀れにお思いになられ、翁の姿となって枕元に立たれたのでした。

「なんと不憫な者たちじゃ。お前が尋ねる重範は、兵部の追っ手に寄り、芦屋の浦で既に死んだぞよ。又、夫の判官も、兵部が調伏したために、命を落としたのだ。さあ、これから後は、もう嘆くのをおやめなさい。弟若をしっかり育てるのです。やがて、本望を遂げさせてあげますから、命を大事にするのですよ。」

と言い捨てて、神は天上へと昇られたのでした。主従四人は、夢から覚めて、かっぱと起き上がり、あら有り難やと礼拝すると、又宿へもどりました。

 しかし、人々は、次第次第に、餓え疲れ、とうとう、路頭に迷出でて、乞食と成り果てました。都の人々は、珍しい乞食が居ると言って、慈悲深く施しをするのでした。そんなある日、四人の人々が、春日大社の辺りで物乞いをしていると、横佩(よこはぎ)の右大臣豊成(藤原豊成:とよなり)が、春日大社に参籠するために、大勢の共を引き連れてやって来るのでした。右大臣は、乞食を見つけると、

「珍しい乞食もあるものだ。どうやら、この者共には、何か訳がありそうだ。おい、尋ねてみよ。」

と、命じました。郎等一人が駆け寄って、

「おい、お前達。お殿様の仰せであるぞ。何処の国の何者か。」

と言うので、御台所は、これこそ、名乗りをする良い機会と心得て、涙混じりに、有りの儘に名乗り上げるのでした。

「私どもは、筑紫、筑前の国、安口の判官重行の妻子です。このような姿となったのは、外でもありません。今から八年前、我が夫の重行殿は、都の警護を務めましたが、国に残った兵部の太夫という者が、国を奪う為に、我が夫を祈り殺し、その上私や、兄弟の若達を殺そうとするので、二手に分かれて国を逃れてきましたが、残念ながら、兄の太郎重範は、追っ手に遭って、芦屋の浦で討ち果てました。私どもは、弟若を連れて、奇跡的に都には辿り着きましたが、御門に奏聞する頼りもありません。もし、不憫とお思いいただくのなら、どうかこの事を、奏聞して下されや。」

右大臣は、これを聞くと、早速に主従四人を連れて参内し、奏聞をしたのでした。御門も叡覧ましまして、

「なんと不憫な事か。そいう事であるならば、その弟若に、本国を安堵するので、急いで討伐の兵を挙げよ。」

との綸言です。その上、三千余騎を付けて御判を下されたのでした。弟重房は、喜んで、早速に、三千余騎を率いて、筑前へと向かったのでした。

 やがて、兵部の館は、重房の軍勢に、二重三重に取り囲まれました。重房軍は、一度にどっと鬨の声を上げます。突然のことに驚いた兵部は、櫓に駆け上がって、

「ええ、狼藉な。いったい何者か。名乗れ。」

と言えば、重房殿は、一軍より、駒で駆け寄せて、大音声に呼ばわりました。

「只今、ここへ進み出でた強者を、誰と思うか。安口の判官重行が子に、次郎重房とは、私のことだ。兵部よ、ようく聞け。おまえの悪事はお見通しだ。天命は既に尽きたぞ。お前の首を刎ねて、父上と兄上の追善供養をするために、これまでやってきたのだ。さあ、尋常に勝負せよ。」

兵部は、これを聞いて、

「なに、それは重房か。やれるものなら、やってみよ。」

と、見下すと、寄せ手の軍から飛んで出たのは、源太夫でした。

「我は、その昔、柏原の竹王丸と申して、判官殿に仕えた者。三世の機縁は朽ちぬ故、この戦の大将を仕る。いざいざ。」

兵部が、掛かれや討てやと下知すると、兵部方の軍勢が、どっと繰り出しましたが、源太夫は事ともせずに、大太刀抜いて切り払います。ここを先途と戦う源太夫には敵なしです。兵部方は手も足も出ません。多勢に無勢、兵部太夫父子三人が諦めて、自害しようとする所を取り押さえて、生け捕りにしたのでした。

 それから、重房は、兵部太夫父子三人を連行して、都へ戻り、成敗の次第を奏聞しました。御門は、

「親の敵(かたき)であるから、処分は重房に任せる。」

とご叡覧なされたので、重房は、源太夫に兵部太夫父子三人の首を刎ねさせました。そして、都に残しておいた母上や乳母を連れて、やがて筑前の国へとお戻りなされました。

 そうして重房は、昔の館の跡に、新しい館を建てて親子二代の栄華に栄えたのでした。源太夫には、此の度の恩賞として、総政所をお与えになりました。そして、昔の家来達も皆戻って、再び仕えたのでした。目出度し目出度しと、貴賤上下を問わず、感心しない人はありませんでした。

おわり