猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 8 説経目連記 ①

2012年01月31日 15時35分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

釈迦の十大弟子である目連を主人公とするこの説経は、「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」の教えに基づいて盂蘭盆における施餓鬼の由来と、地獄について語る物語である。

説経正本集第二には、二つの目連記が収録されている。

23番は、万治から宝永年間の版とされるが太夫名が不明である。一方、24番は、天満八太夫正本とはあるが、貞享4年という年代からすると、古説経末期の作品になる。

二つの作品は、発端は共通しているが(目連出家の発端)、天満八太夫正本は、その後のストーリーの潤色が著しく、説経らしさが感じられない。そこでここでは、訥々と地獄語りをする太夫不明の「目連記」を読むことにする。

目連記(八文字屋八左衛門板)①

 春の桜が咲き栄える有様は、上求菩提(じょうぐぼだい)を発心するのに良い機会です。

秋の月が、水底に映る有様は、下化衆生(げけしゅじょう)の様子を現しています。

天は、至る所、仏土をお示しになっています。人には心があるのに、どうしてちゃんと

お勤めをしないのでしょうか。もし、人として、人間の八苦を悟り、済度を大切と思う

ならば、煩悩は直ちに菩提になるのです。天上の五衰(ごすい)を聞いて、浄土を求め

る時は、生死がそのまま涅槃となるのです。ですから、菩薩達は、失脚の外道から脱す

ることが出来たのです。

 さて、ここに神通第一の目連尊者の由来を詳しく尋ねて見ますと、その昔、天竺の

マガタ国(原文にはカモラ国とあるが、調べきれなかった。目連の生国はマガタ国であるので読み替える)

の主は、クル大王と申します。大変沢山の宝をお持ちでした。王子は二人おりました。

兄、「ほうまん」の宮は、亡くなった先の御台の子供で、十二歳になられます。弟は、

「がくまん」殿と言い、今の御台である青提夫人(じょうだいぶにん)の子供で、九歳

になられました。後に目連尊者と申すお方は、この子のことです。ご兄弟は、その年頃

よりも大人びており、大変賢く、学び残すということがありませんでしたので、大王は

これ以上の喜びは無いと、満足されとおりました。しかし、世の中の習いといいますか、

いたわしいことに、兄ほうまんは、継母からひどく憎まれていたのでした。ほうまん殿

は、夜昼と無く、乳房の母のことを思い出して涙に暮れていました。

 ある時、兄ほうまんは、乳母(めのと)の荒道丸(あらどうまる)にこう言いました。

「この世に住む以上は、この様に思い通りにならないことは、仕方の無いことであると

は思うが、自分ほど、果報に恵まれない者もないだろう。二歳の時に母を失い、今の母

上のお心の邪険さは、片時も心の休まる事がない。年を重ね、日を重ねる程に、心の憂

鬱は増ばかりで、私の居場所はどこにも無い。これも、全て、弟のがくまんが居るからだ。

どうにかして、弟のがくまんを殺してくれ。」

これを聞いた荒道丸は驚いて、

「それの仰せは、確かにもっとも至極ではありますが、殺せ言うのも相恩の主君なら、

殺されるのも現在の主君、どちらも、疎かにはできません。そのようなことは、お許し願います。」

と、平伏しました。ほうまん殿は、

「おまえの言うことも道理ではあるが、おまえは、私の母に仕えてきた譜代相伝の者で

はないか。今の私の苦しみを見れば、例え私が頼まなくとも、お前から思い立って、な

んとかするべきなのに、それを、私が頼んでも同意も無いとは、致し方無い。所詮、生

きていてもしょうがない。」

と、言うや否や脇差しを抜いて自害しようとしました。荒道丸は、その手を押しとどめると、

「それ程までに思い詰めておられるのなら、ご命令に従いましょう。それがしも、若君

様のお考えの様に内心は思っておりましたが、世のため、君のためを思うと、思い止ま

って参りました。しかし、この上は、若君の仰せに従い、一命を献げ奉りまする。」

と、思い切りました。ほうまん殿は、喜んで、

「それでは、時節を逃しては討ち損じる。幸い、今日は、折りも良い。がくまん

を、暮れ方に花園に誘い出すから、そこで討て。」

と、言いました。荒道丸は、御前を立ち出でると、ひとまず家にもどり、女房に、事の

次第を詳しく話しました。

「如何に女房、我が君様の御意に背くことはできない。この件、お受けしてきたぞ。」

女房は、これを聞くなり、

「これは、とんでもないことになりました。しかし、君の御諚とあるからは、否と言え

ば、命が惜しいと言うのと同じ事。君に仕えるこの命、君のために死ぬのであれば露ほ

ども惜しいとは思いません。がくまん殿を討った後、このことは大王にも洩れ聞こえて

おそらくは追っ手が押し寄せて来ることでしょう。その時に慌てるのではなく、心静か

な内に、最期の別れをいたしましょう。

 さて、思い起こせば、十四の夏より、共に行く年月を送って来ましたが、この春を一

期として、主君のために死ぬことの嬉しさよ。多分、仏神も哀れみ給い、極楽浄土へと

送ってくれることでしょう。それ以上に、名を万天に上げることは侍の本意です。」

と、気丈にも夫を励ましましたが、先立つものは涙ばかりです。荒道丸も共に涙に暮れ

ていましたが、こんな気弱なことでは叶わないと、思い切ると、互いに袖を振り切って、

荒道丸は、再び御殿に向かいました。

 御殿に着いた荒道丸は、とある所に忍び込んで、その日の夕暮れを待つことにしました。

 これはさておき、ほうまん殿は、自室で又、めそめそと泣いていましたが、よくよく

考えてみると、自分の命令で、弟を殺害させれば、自分はさておき、譜代相伝の乳母ま

で、巻き添えにして、誅されることは、目に見えていると思い直しました。

 ほうまん殿は、硯に向かうと、思っていることを文に認めました。その文を懐に入れ

ると、今度はがくまん殿の部屋に忍び入りました。ほうまん殿は、がくまんの小袖を羽

織ると、ふらふらと、夕暮れの花園に出て行ったのでした。

 さて、荒道丸は、ほうまん殿がそんなことを思い立ったとは露も知らずに、指示通り

に、夕暮れの花園に忍び込んで、目を凝らしました。示し合わせた通り、若君が一人で

花園の中に立っているのが見えました。荒道丸は、物音も立てずに背後から忍び寄ると、

その後ろ姿をつくづくと見て、がくまん殿と確認をしました。とても、許してはもらえ

ないにしても、御最期であることを知らせねばとも、いやいや幼き者であるから、駄々

をこねられても面倒と、しばらく逡巡しましたが、不覚をとることは出来ないと、やが

て意を決すると、するするっと走りより、その首を水も漏らさず打ち落としました。

荒道丸は、素早くその場を立ち去ると、我が家に立ち帰りました。事の次第を聞いた女房は、

「よくぞ、お帰りなされました。きっと、追っ手が押し寄せて参ります。ここで、安心

していてはいけません。ささ、ご用意を。」

と、言いました。荒道丸は、

「よくぞ、言ったり女房よ。憎っくき御台に従う軍勢、幾万騎寄せてこようとも、それ

がしが、腕の骨、太刀の金(かね)、刀の目釘が続く限り、一人も余さず討ち倒し、太

刀も刀も折れたなら、一人一人首ねじ切って、投げつけてくれる。そうして、最後は、

腹切って死ぬまでだ。」

と、躍り上がって喜ぶ荒道丸の有様は、

あっぱれ鬼神やと

感ぜぬ人こそなかりけり

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</shape>つづく

Photo


あきる野市立多西小学校 伝統文化理解教育の日

2012年01月21日 16時17分05秒 | 菅生歌舞伎

 東京都あきる野市立多西小学校は、伝統文化理解教育が盛んな学校です。低学年は、昔遊びや藁細工。5年生は尾崎地区に伝わるお囃子。6年生は瀬戸岡地区に伝わる獅子舞や棒遣いを学習します。そして、この学校の4年生は、毎年必ず、歌舞伎の化粧をしたまま学校から帰るので、町中に隈取りをした子ども達が駆け回ります。指導しているのは、菅生歌舞伎の面々です。こうして少しでも地域の伝統について体験する機会は大変貴重なものだと思います。末永く続けて行って欲しいと思います。

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忘れ去られた物語たちシリーズ2~7について

2012年01月21日 00時21分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 忘れ去られた物語のシリーズは、東洋文庫「説経節」で、荒木繁・山本吉左

右五両先生が、編集し校注を加えた、小栗判官、山椒太夫、苅萱、信徳丸、

愛護の若、ないしは信太妻を除き、江戸時代末期の説経祭文では、既に演じ

られていなかっただろうと思われる古説経節を読む試みである。

 このシリーズを始めたきっかけは、直接に400年前の版本を読解した「阿弥

陀胸割」(国文研)http://www.nijl.ac.jp/pages/database/であるが、シリーズ2

から7までの説経節は、「説経正本集」を読解して、さらに翻訳したものである。

「説経節正本集」:横山重編 角川書店 全三巻

シリーズ2から7は、第一集に収められている物語である。といっても、この翻刻

は、まったく原文の通りであり、文言に関する注釈はまったく無いので、これらの

説経を読み進めることは、かなりの難行である。特に、仏教用語に無学な者にと

っては、解読しきれない文言を数多く残しているのが現状である。又、誤訳の

可能性もぬぐいきれないので、お気づきの点があれば、遠慮無くご教授いただきたい。

しかし、その中でも、猿八座の稽古場である新潟県新発田市真中の東光寺住職さんに

は、難解な経文に関して、常に明確なご示唆を戴き、大変感謝をしている。この

場を借りて、改めて御礼申したい。(合掌)

 さて、「説経節正本集第一」に収録されている説経節は以下の通りである。

※は、本シリーズで翻訳したもの。同じ題材の正本は、年代の古い方を中心に

読み、年代の新しい物を参考として読み比べた。

一 さんせう太夫(天下一説経与七郎)

二 せっきょうさんせう太夫(同上)

三 さんせう太夫(寛文七年山本久兵衛板)

四 山庄太輔(佐渡七太夫豊孝)

五 せっきょうしんとく丸(天下無双佐渡七太夫)

六 しんとく丸

※七 熊野之御本地(江戸板)

八 ごすいでん(佐渡七太夫豊孝)

※九 まつら長者(寛文元年山本久兵衛板)

十 まつら長者(江戸うろこかたや板)

十一 しゃかの御本地(天満八太夫) ※ジャータカ物語とほぼ同じであるので翻訳はしなかった。

※十二 熊谷先陣問答(天満八太夫)

十三 熊谷先陣問答(佐渡七太夫豊孝)

※十四 越前国永平寺開山記(結城孫三郎)

※十五 尾州成海笠寺観音之御本地(天満八太夫)

※十六 大福神弁財天御本地(天満八太夫)

付録一 さんせう太夫物語(草子)

付録二 をくり(宮内庁御物絵巻)

付録三 せっきょうかるかや(写本)

以上

第一集はひとまず終わりとし、次に第二集の読解に取り組むことにする。


忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地⑥終

2012年01月20日 23時15分58秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ⑥終

 さて、天の邪鬼が余計なことをしている間に、カララ仙人と天和の宮は、なんなく

弁財天の居る天上界へ着きました。カララ仙人は、若宮を下ろすと、

「さあ、あれに見える林の向こうこそ、母上がお住みになっている浄土ですぞ。我こそ

は、宵の明星である。」

と言い放ち、虚空に舞い上がりました。若宮が、有り難しと虚空を三度拝んでいると、

十六七歳の童子が二人、白馬を引いて来るのが見えました。若宮は、この童子達に母上

の居所を聞いてみようと思いました。

「もし、この国の弁財天はどこにいらっしゃいますか。私は、日本の主(あるじ)、聖

武帝の宮、天和の宮と申す者です。」

と、尋ねると、童子は、

「それは、それは、左様でしたか。我らは、弁財天に仕える者。あなた様がいらっしゃ

ることを、弁財天がお知りになり、この白馬で、お迎えに参りました。」

と、言うのでした。若宮が白馬にまたがった途端に、もうそこは、弁財天の内裏でした。

若宮は、ようやく母、弁財天との対面を果たしました。母子共に喜びの涙を流しており

ましたが、やがて、弁財天は、父、宇賀神大王の所へ、若宮を連れて行きました。宇賀

神大王は、こう話しました。

「天和の若よ、汝は知らないのか。釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で約束をしたこと

を。末世において、下界にひとつの嶋ができ、行基が仏法を広め、愛染明王は優しく情

けが深く、弁財天は貧苦を助けるだろうという契約であるぞ。今、時こそ来たれ。若は、

これより直ちに日本に帰り、衆生を済度すべし。我も弁財天を伴って、後より日本に向

かうことにする。」

これを、有り難く拝聴した若宮は、十五童子(宇賀神又は弁財天の僕)と共に、日本を

目指して、急ぐことにしました。ところが、天の川に船を乗り出すと、そこには、第六

天の魔王が、沢山の眷属を連れて、待ち構えていたのでした。天の川の中から、邪悪な

鬨の声を上げて、魔王達が立ちはだかりました。十五童子は、船梁(ふなばり)に立ち

上がり、

「おのれらは、この川の阿修羅どもか。宝が目当てならば無駄だ。そこ、立ち去れ。」

と、怒りました。魔王は、

「やあ、推参なる雑言。われこそ、第六天の魔王なり。日本の主、天和の宮が、弁財天

を下界へ連れ行くこと、許さぬ。」

と、迫りました。これを聞いた童子達は、

「さては第六天か、出で物見せん。」

と、飛び出すと、神通飛行の剣と化身して、縦横無尽に飛び交ったので、外道どもはこ

とごとく切り裂かれてしまいました。第六天は、怒り狂って、おのれ見ておれと、虚空

へ飛び上がると、突然、空が燃え上がり、火の雨がどうどうと降り始めました。さすが

の十五童子も成す術も無く、次々と火に焼かれて行きます。これはいかんと、若宮が、

「南無、日本の明神、力を合わせたび給え」

と、大音声に祈念すると、俄に神風が吹き始め、大雨は車軸を流し、火炎は消えてなく

なりました。危ないところを助かりました。日本の神々が援軍に来たのでした。

 しかし、それだけでは終わりませんでした。今度は、妖魔(ようまん)外道が鉾を手

にして襲いかかってきました。すると、諏訪の明神が現れ、むんずとつかみかかると、

そのまま押し伏せて、首をねじ切って放り投げました。次は、極道外道が跳んでかかり

ましたが、敏馬(みぬめ)(※敏馬神社:神戸市灘区岩屋中町)、香取の両明神が、

立ち向かい、一刀両断にしてしまいました。とうとう、業を煮やした第六天の魔王は、

怒り狂って、若宮に向かって、一文字に飛びかかりました。若宮は、第六天とむんずと

ばかりに組み合いました。右に左に、組んず解れずの大接戦です。やがて、若宮がぐっ

とばかりに押さえ付け、勝負あったかに見えましたが、その刹那、第六天は、陽炎の如

くに消え去って、若宮の背後にすっと回りました。その時、鹿島の明神が跳んで出て、

第六天を羽交い締め、息の根を止めようとしました。 しかしその時、雷神が現れ、

「しばらく、しばらく、この度は、それがしに預け給え。」

と、言ったのでした。素戔嗚尊は、雷神のお出ましに驚いて、

「むう、雷神の仰せとあれば、お任せいたしましょう。」

と、第六天を許したのでした。そうして、神の戦は終わりました。さて、素戔嗚尊は、

天和の宮と対面すると、

「ますます、衆生を守りなさい。」

と、励ましました。やがて、神々も若宮も日本にお戻りになったのでした。

 さて、その頃日本では、元正の宣旨によって、行基菩薩が、竹生嶋にお入りになった

所でした。すると、突然、頭に白い蛇を乗せた者が現れたのでした。その男は、

「いかに、行基よ。智慧が無くては、この山の主にはなれぬぞ。」

と、言うのでした。行基はこれを聞いて、

「そういうあなたは、何者ですか。先ず、あなたが、智慧を顕したらいかがです。」

と、言い返しました。すると男は、

「はは、それは、容易い望み。では、ご覧入れよう。」

と、空中に向かって「七宝」(しちほう)と言う文字を書くと、不思議なことに、七つ

の宝珠の玉が現れたのでした。行基は、この玉を御経の箱で受け止めると、即身七仏と

唱えました。すると、空より紫雲が舞い下がり、玉を受け止めた経箱に入るかと思った

途端、玉は仏の姿と変じたのでした。件の男は、

「やあ、行基。我こそは、その昔の天和の宮である。末世の衆生に福を与え、貧苦を救

うため、天竺より、福神を連れて参った。この嶋は、金輪際より出現した山であるので、

この嶋に迹を垂れ(あとをたれ)(※垂迹:神仏を顕すの意)慈悲哀憫(じひあいみん)

をいたさん。我はそも、愛染明王なり。」

と、言うと、たちまち虚空に消え去りました。有り難し、有り難しと、行基が、虚空を

拝んでいると、水中より光りが射し上がり、虚空からは音楽が聞こえ、花が降り、十五

童子達が現れました。すると、辰巳の方角(南東)より、白い蛇に導かれて、光に溢れ

た弁財天が近づいて来ます。なんとも神々しいばかりです。御手の宝珠がまばゆいばか

りの光を放っているのでした。やがて、白い蛇は、弁財天の頭の上に差し上ると、とぐ

ろを巻いて、まるで弁財天の頭に雲が乗るように見えました。その時弁財天は、

「やあ、珍しや行基よ。我は、この嶋に迹を垂れん。只、一心に、己(つちのと)の巳

(み)の日(弁財天の縁日)を待つ人々を、三日の内に大長者となさん。これを、衆生

に示すべし。」

則ち、無量寿仏(※阿弥陀仏)と拝まれ給えば

白蛇は、観音、勢至となり給う

それより嶋を建立あり

千秋万歳のお喜び

目出度しとも中々、申すばかりはなかりけり

右は天満八太夫・重太夫正本なり 大伝馬三町目 うろこかたや板

おわり


忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地⑤

2012年01月20日 20時36分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ⑤

 さてその後、内裏にいらっしゃる聖武帝は、后を失ったばかりか、若宮も行方不明と

なってしまったので、思い悩んで半死の床に伏してしまわれました。母元正を初め、臣

下大臣が、数々の薬酒を集めて看病に当たりましたが、快復の兆しは見られませんでした。

そこへ、若宮の乳母(めのと)友成が、都へ帰還し、天和の宮の形見を献上したのでした。

御門は、ようよう起きあがると、

「何、若宮の形見が来たとや。あら、恨めしの若宮。」

と、形見を顔にあてて、泣き崩れました。聖武帝は、友成に向かい、

「さてさて、汝は、若宮をどこに捨てて来たのだ。后には捨てられ、一人の若には、生

き別れ、生きる望みも無くなった。」

と、涙ながらに力なく横たわると、さらに病状は悪化してしまいました。やがて、御門

は、弱々しく目を開くと、

「今生の名残もこれまでなり、暇申して、母上様。懐かしの若宮よ。」

との言葉を残して、ついに崩御されてしまったのでした。母元正、臣下大臣が、驚き嘆

き、泣き沈んでいると、不思議なことに、紫雲がたなびき、その内に御門の姿が現れ出でました。

「いかに、御母。私の本地はこれ、天照大神なり。衆生の貧苦を助けんため、今、聖武

とは出生せり、日本へ福神の縁を結ばんための事であるから、嘆くことは無い。又、若

宮は、人々に敬愛される愛染明王である。やがて、近江の竹生嶋に、弁財天と言う福神

を招くでしょう。」

と、新たになる託宣を残すと、その身は光に包まれ、遙か天上へと昇って行ったのでした。

 さて、美濃の国菩提山では、3年の間、天和の宮の修業が、続いていました。ある日、

天和の宮は、仙人にこう頼みました。

「私は、王位を捨てて、既に3年の間修業をして来ました。秘術の伝授をしてください。」

これを聞いた仙人は、

「汝の親孝行の志は、良く分かっておる。それでは、これより、汝を連れて天上界に上

がることとしよう。」

と、言うなり、虚空を招くと、金蓮華(こんれんげ)が天より降りてきました。仙人は、

にこにこしながら、

「お前は、この蓮の茎につかまりなさい。」

と言うと、自分は、金蓮華の上に乗りました。若宮が、蓮の茎にしがみつくと、金蓮華

は、ふわりと宙に浮き上がり、天上界を目指して飛行を始めたのでした。

 その様子を見ていた者がありました。それは、天の邪鬼でした。飛行する金蓮華の前

に飛んで出ると、

「それに見えしは、美濃の国菩提山に住むカララ仙人と覚えたり、見れば、下界の凡夫

を天上界へ連れて行くつもりか。我は、天上界への入り口の番人。そのような者を天上

界へ入れることは許さぬ。」

と、行方を遮りました。仙人は、これを聞いて、

「推参なる物言い。この方は、日本の御主(あるじ)天照大神が聖武天皇となってもう

けし一の宮と知らぬのか。つべこべ言われる筋合いではない。その退け。」

と、はねつけると、天の邪鬼は腹を立て、

「ええ、そんなことは関係ない。どっちにしろ遙か下界の大凡夫。思い知らせてくれん。」

と、魔法を使ってそばの岩を打ち砕くと、不思議にも若宮がつかまっていた蓮の茎が、

ぼっきりと折れて、若宮は、遙かの谷底へと落ちて行ってしまいました。天の邪鬼は喜

んで、それみたことかと、どこかへ消えてしまいましたが、谷底に落ちた若宮は怪我ひ

とつもしませんでした。

 深い谷底で、若宮は、さて困ったなと、遙かの雲井を見上げておりましてが、その時

仙人は、ご安心あれと、五大明王に祈り始めました。東の方向を向くと、「南無降三世

明王(なむごうさんぜみょうおう)」北に向かって、「金剛夜叉明王(こんごうやしゃみ

ょうおう)」西に向かって「大威徳明王(だいいとくみょうおう)」そして、南に向かっ

て「軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)」「中央に大日如来特大智慧」と祈ります。

すると、有り難いことに、西の方から、一筋の光明が差し込むや否や、金蓮華の茎から、

白い糸がちらちらと伸びて、天和の宮へと打ち掛かったのでした。若宮は、

「南無、梵天、帝釈、力をお与え下さい。」

と祈念すると、細い糸にすがり付きました。

 その頃、天の邪鬼は、第六天の魔王の元にやってきて、報告しました。

「申し上げます。カララ仙人は、天和の宮を伴い、宇賀神の一人娘、弁財天を迎えに来

ましたので、魔法をもって下界に落としてやりましたが、仙人の術によって、再び天上

界を目指して昇り始めました。彼らを天上界へ昇らせては、日本は富貴の国となり、人々

の力は強くなり、日本を手に入れることは難しくなります。どうか、御思案ください。」

これを聞いた魔王は、怒り狂って、

「我が一念が、大魔王岩富と生まれ、地獄をもって日本を覆さんと企んだのに、うまく

行かず、まったく口惜しい思いをしている所に、天和の宮がやって来るというのか。よ

しよし、それであるならば、つかみ拉いで(ひしいで)くれん。まずは、軍勢を調えよ。」

と、命じました。

 しかし、天の邪鬼は、天の邪鬼と言うだけあって、命令通りにするものではありませ

ん。特に、事が荒立つことを喜ぶ曲者です。天の邪鬼は、わざわざ日本伊勢の国に飛ん

で行き、天照大神に、こんなことを言ったのでした。

「天和の宮様は、カララを連れて、天上に上がりましたが、第六天の攻撃を受けて危う

い形勢ですよ。急いで、御加勢に行ったらどうですか。」

これを聞いた天照大神は、素戔嗚尊(すさのうのみこと)、春日(※奈良)住吉(※大

阪)正八幡(※京都)を神前に呼び出すと、事の次第を説明し、

「このままでは、日本の名折れ、汝ら、当国の神社を集め、急ぎ天上しなさい。」

と命じました。時は折も良く天平元年(729年)申の神無月(十月)朔日。神々が

出雲大社に集まっておられます。早速、素戔嗚尊は、神々と対面すると、

「この度、天和の宮、色界の弁財天を日本へ迎えようと、天上界へ向かったが、第六天

の攻撃にあって危うしとの知らせ。急ぎ追伐いたせとの天照大神よりの神勅なり。誰か、

神の威勢を顕すべし。」

と、号令すると、居並ぶ神々が、応とばかりに立ち上がりました。まず始めに、飯縄権

現、さらに東国の境には箱根権現、三嶋の明神。信濃の国には戸隠大明神、越後に弥彦

の権現、上州に榛名権現、武蔵に府中六社の大明神(※大国魂神社)、相模に不動明王

(※大山不動)、阿波に成瀬の明神(※徳島県那賀郡那賀町成瀬:成瀬神社カ?)、上総

に埴生の明神(※千葉県長生郡一宮:玉前神社)、下総に大鳥明神(※千葉県印旛郡栄

町:大鷲神社)、奥州に塩釜明神、常陸の国には、鹿島、香取、息栖(いきす)の明神

その外の神々、都合六万八千八社が勢揃いした有様は、筆舌に尽くしがたい有様です。

素戔嗚尊の喜びは、限りなく、

「ようし、それではこれより、それがしが、戦の法を伝授いたす。」

と、金の采配をおっ取って、

「それ、神国の習いにて、ばらばらに駆けて行くなどということは、よもあらじ。

調子を取って、楽を合わせ、駆け引きをするのだ。敵に向かって攻め込む時は、どうど

うてんと打つ太鼓。また、引けよと知らせるその時は、胴満(どうまん)の鐘を突く。

魔王が、天の川に陣を取るならば、味方は、雲中に盾を並べ立て、神風を吹き立てるの

だ。一騎に三騎、五騎に十騎が組み付いて、突き伏せ、切り払うのだ。豊葦原の中つ国

(とよあしはらのなかつくに)。開闢以来の神所であるからは、御代安全の神戦(かみ

いくさ)。なんで負けることがあるものか。勇めや勇め、方々。」

と、威勢を付けると、どっとばかりに、天上界目指して出陣しました。素戔嗚尊の君慮、

有り難しとも中々、申すばかりはなかりけり。

つづく

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忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地④

2012年01月19日 22時46分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ④

 経正主従の働きによって、危うき難を逃れた聖武帝は、都に戻って、経正主従に恩賞

を与えました。経正には、肥前、播磨を給わり、大織冠に任じました。三人の若武者は、

それぞれ一万町歩を給わり、喜びの内に帰国したのでした。そこへ、母君元正は、天和

の宮を伴って、御前にお出でになりました。久々の対面に喜んだ聖武帝は、若君を玉座

に上げましたが、いたわしいことに若君は、物も言わずにただ、さめざめと泣くばかり

です。御門は、不思議に思われて、何があったのかと尋ねますが、さらに泣くばかり

です。見かねた元正が、涙と共に、事の次第をお話になると、聖武帝は、はっと驚き、

がっくりとうなだれてしまいました。女房達が、天女の形見の品々を献げると、聖武帝

は、あたかもそこに天女がいるかのように、

「3年と言うところを、これまで居てくれて、何時露と消え果てても、定めとは思えど

も、子の有る中を、振り捨てての生き別れ。この若宮は、天女の子にてはあらざるか。」

と、嘆き口説くのでした。

 殊に哀れだったのは、天和の宮でした。天和の宮は、母が天に帰ってからというもの、

ずっと、考え込んで過ごしていました。

『私は、五体満足に生まれてきたが、未だ、八苦からは免れない。その上、父上のお嘆

きまで、私の身の上に積もり来て、思いは、真澄鏡(ますかがみ)が曇り果てたように、

娑婆世界の迷いの雲に遮られしまった。毎日憂き嘆く私は、沖の岩のように、乾く間も

無く泣き続けている。着物の袖どころか、布団までもが、絞るばかりに濡れてしまった。

もうこうなったからには、墨染めの衣を纏って、出家沙門の姿となり、天上界へ行き、

母上にお目に掛かり、なんとかして再びこの地へ連れ戻り、父上の嘆きを留めるしかない。

そうだ、美濃国、菩提寺(岐阜県不破郡垂井町:花山院菩提寺)には、カララ仙人(本来は、釈迦が最初に教えを受けたアララ仙人のこと)

という方が居ると聞く。この仙人に弟子入りして、自在の法術を受け、天上界へ昇るこ

とにしよう。』

天和の若は、そう思い定めると、

「垂乳根の 尋ねて行かば 天の原 月日の影の あらん限りは」

と一首を認めました。天和の宮は、そのまますっくと思い切り、友成一人を伴って、心

細くも只二人、密かに内裏を忍び出たのでした。

 (これより、道行き)

そのたの空を三笠山(※京都若草山)

梢を伝う猿沢の(※猿沢の池)

池の鮒、挙り(こぞり)

佐保の川を打ち渡り

山城、お出手の里玉水に(※京都府綴喜郡井手町玉水)

影映る面影は

浅ましき姿かな

男山に鳴く鹿は(※京都府石清水八幡宮)

紅葉枕に伏見とや

寝ては夢、醒めては現、面影の

忘れ方なき母上の

後を慕うて、大津の浦(※滋賀県大津市)

山田、矢橋の渡し場(※近江八景:矢橋帰帆)

焦がれて物を思う身の

あれに見えしは志賀の浦(滋賀県大津市)

浪寄せ掛くる唐崎の(※近江八景:唐崎夜雨)

これも名に負う名所かな

粟津が浦を行き見れば(※近江八景:粟津晴嵐)

石山寺が鐘もかすかに耳に触れ(※近江八景:石山秋月)

(※以下の記述は、薩摩派の説経祭文小栗判官一代記車引きの段の文言と酷似しており、参考にした可能性がある。)

なおも思いは瀬田の唐橋を(※近江八景:瀬田夕照)

とんとろ、とんとろと打ち渡り

山田下田を見渡せば

さもいつくしき早乙女の

早苗おっ取り

田歌をこそは歌いけれ

田を植え早乙女

植えい植えい早乙女

五月の農を早むるは

勧農の鳥、不如帰

この鳥だにも、さ渡れば

五月の農は盛んなり

小草、若草、苗代を

打ち眺めつつ行く程に

御代は曇らぬ鏡山(※滋賀県蒲生郡龍王町)

馬淵畷(なわて)を遙々と(※滋賀県近江八幡市)

摺り針山の峰の松(滋賀県彦根市)

分け行くこそ、もの憂けれ

愛知川渡れば千鳥立つ(※地理的に順序が不都合)

寝ぬ夜の夢は、やがて醒ヶ井(滋賀県米原市)

番場と吹けば袖寒や(滋賀県米原市)

寝物語を早や過ぎて(美濃と近江国境)

不破の関屋の板庇(いたびさし)(※岐阜県関ヶ原)

月洩れとてや、まばらなる

垂井の宿に差し掛かり

行くは程なく今は早

音のみ聞くべし

菩提山に着き給う

さて、菩提山まで辿り着いたところで、若君は友成にこう言いました。

「お前は、急いで都へ戻れ。御父御門に、この次第を報告せよ。そして、この太刀と髪

を、形見としてお渡しするのだ。」

これまで、お供をしてきた友成でしたが、主の仰せに是非もなく、泣く泣く、さらば、

さらばと暇乞いをしながら、都へと帰って行ったのでした。

この人々の御別れ、哀れとも中々、申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地③

2012年01月19日 13時03分56秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ③

 その後、藤原経正は、岩堂丸と、こう相談しました。

「この度の御幸は、仮初めながら御大事のことなれば、あの金道丸を連れて行くことは、

考えものじゃ。もしも、短慮にして事をし損じれば、天下の大騒動となること必定。

なんとかして、なだめすかし、後に残し置くことにしよう。」

岩堂丸が、金道丸をつれてくると、経正は、

「この度のお供に、そなたも連れて行くべき所であるが、国元を空けておくことはでき

ない。国の押さえには、汝を置いては考えられぬによって。国に災いが無いように、し

っかりと計らうように。」

と、言い渡しました。金道丸は、くやしがりましたが、主の仰せに逆らうこともできず、

御意次第と、つぶやくと、頭を下げて黙り込んでしまいました。

 これはさておき、大魔岩富は、屈強の兵八十三騎を大手門の脇に並べて、御門の到着

を、今は遅しと待ち構えています。そこへ、御門の一行が、やって来ました。御門は、

御車にお乗りになり、経正主従が先に立ち、辺りに注意を払いながら、近づいてきます。

すると、待ち構えていた軍兵が、一斉に鬨(とき)の声を上げました。一人の武士が

馬にまたがり、飛び出し、

「我こそは、大魔岩富の臣下、鉄扇なり。聖武帝が位に就く謂われなし。我が君は黙っ

ているが、この鉄扇は許しはしない。御門は、急ぎ自害すべき。いかに、いかに。」

と、呼ばわりました。経正は、

「推参なる愚人め、一天の君の御幸を邪魔する馬上の雑言、奇っ怪なり。」

と、言うやいなや、馬の別足(※あぶみ)をむんずとつかむと、ぐぐっと持ち上げ、力

任せに投げ飛ばしました。あまりの勢いに、鉄扇は、大地の底にめり込んでしまいまし

た。これを、戦(いくさ)の初めとして、両軍乱れて戦いが始まりました。

 しかし、多勢に無勢。御門の軍勢は少なく形勢は不利でした。やがて、味方は、経正

主従三騎が残るだけになってしまいました。最早、これまでかと思われた時、味方の軍

勢が駆けつけました。国に留め置かれた金道丸が、駆けつけてきたのでした。躍り出た

金道丸は、敵を大勢追い散らすと、経正の前に畏まり、

「君におかれましては、御門を守護し、あれなる林にお忍びください。」

と、御門を無事に落とすと、敵の中に割って入り、片っ端から、ばった、ばったと薙ぎ

伏せたのでした。大魔岩富は、これを見て、

「ええ、あんな小童(こわっぱ)を恐れるとは見苦しい。五十も百も一斉にかかって、

討ち取れ。」

と、下知しましたので、敵勢六七十の兵が、金道丸めがけて押し寄せました。金道丸は、

大儀、大儀と似非笑うと、大手を広げ、総勢を抱え込むと、一度にえいっとばかりに投

げつたのでした。敵勢は悉く落花のごとくに散り果ててしまいました。

 今度は岩富が、走り出でて、がっしと金道丸に組み付きました。海道、岩堂も、声援

を送ります。

「いかに、金道。しっかと組め。右の足で跳ね倒せ。疲れたら、替わってやるぞ。」

と、囃し立てます。金道丸は、

「ええ、急かずに、見ておれ。」

と、言うやいなや、大渡しに渡し込み、どっとばかりに投げつけると、すかさず首を打

ち落としました。経正が、立ち上がり、

「おお、仕留めたり。」

と、言う、声の下より、大魔の首は、宙に浮き上がり、

「我こそ、第六天の化身なり、重ねて本望を達せん。」

と、叫ぶと、火炎となって消え去りました。それより、天下は安穏に治まり、目出度い

御代が続いたのです。

 これはさておき都では、内裏に居る天女が、天上界の父上様のことを懐かしく思って

過ごされていました。折しも七月七日のことでした。天女は、雲井はるかな天上界を仰

ぎ見て、こう嘆きました。

「天上界にあるならば、天道を祀り、心を慰める日だというのに、今は下界と交わり、

八苦の道に物を思うとは、恨めしい。しかし、御門との結ぶ契りに引かされて、十三年

の春秋を送ってしまったのも夢のようだ。これも、夫(つま)子のためと思えば恨むべきことではないけれど、それにしても、父上様が懐かしい。」

そうして、涙を流しているとことろに、若君が来ました。

「のう、母上様、何をお嘆きになっているのですか。」

と言うと、天女は、こう話すのでした。

「優しい若宮の言葉ですね。実は、私は、この世界の者では無いのですよ。あの雲井の

上の世界に住む者なのですが、十三年前に、御門と結ばれて、可愛いお前が生まれたの

です。子故に迷う親の身は、今日か明日かと思ううちに月日を重ねて、今日まで、ここ

に留まってきたのです。今日、七月七日は、天を祀る日であるので、私の故郷の天上界

が懐かしくて、つい涙が零れてしまうのです。」

若君は、これを聞くと、

「そうだったのですか。せめて、沢山の宝物を、七夕の飾りとして、お心を慰めてくだ

さい。御門も、もうすぐお帰りになられるでしょう。母上様。」

と、優しく言うのでした。母は、これを聞いて、

「誠に、嬉しいことを言ってくれるのですね。では、あなたが言うように、天を清しめ 

て、一緒に心を慰めましょう。

 それにつけても、あなたに聞きたいことがあります。聞くところによると、父御門に

は、天より降りてきた琵琶を秘蔵していると聞きましたが、一度も見たことがありませ

ん。もし、知っているならば、ちょっとで良いので、見せてくれませんか。」

と、言いました。若君は、なんということもなく、

「なんだ、そんな簡単なことですか。その琵琶は、左中将の友成が保管しています。見

せてあげますよ。」

と言うと、早速に友成を呼びました。若宮は、

「汝が、預かる琵琶を、少しの間、私に貸しなさい。」

と、言いますが、中将は、

「いやいや、その琵琶は、世の常の物ではござりません。とてもお出しすることは叶い

ませぬ。」

と、断りました。しかし、若宮は、

「そんなことは、言われ無くとも知っています。父がもしお咎めなされるならば、私が、

申し訳をしますから、早く出しなさい。」

と、引き下がりません。友成は、主の言葉に背き切れずに、仕方なく琵琶を取り出して

しまいました。喜んだ若宮は、琵琶を受け取ると、母の天女に差し出したのでした。天

女は、ようやく琵琶を手にすると、

「ああ、懐かしい。この琵琶は、私が天上界より持って来た母の形見です。御門に奪わ

れて、仕方なくこの地上に留まっていたのですが、琵琶が手に入った以上は、天上界に

戻ります。また、会うこともあるでしょうが、母を恋しく思うならば、この簪(かんざ

し)を形見として残しましょう。」

と、言うのでした。若君は驚いて、

「ええ、なんと、恨めしや、我を謀り(たばかり)、この琵琶を取り戻し、天上界に帰

るというのですか。そうとも知らずに琵琶を出してしまった自分が情けない。せめて、

父上がお帰りになるまで、思いとどまってください。」

と、縋り付いて泣きじゃくりました。思い定めていた別れではありますが、さすがの天

女も、今更のように別れを悲しんで言葉もありません。ただ、泣くばかりです。しかし、

こうしていて、宮中の人々に見つかっては面倒と、涙の暇より、虚空の白雲を呼び寄せ

ました。天女は、ふわりと雲に乗り移ると、すうと空へと舞い上がります。若君は、夢

かうつつかと、母上、母上と、泣き叫ぶばかりです。母上天女は、雲に座り直して、

「おお、その嘆きは理(ことわり)なり。親子の縁は一世とは言いますが、二世も三世

も、巡り会いましょう。父御が帰りましたら、あなたには科が無いことを記したこの巻

物と形見の髪の毛を添えて、渡しなさい。」

と、言うと、形見の品を雲の内から落としました。若君は、

「そんな形見を渡したなら、かえって、私が琵琶を母に与えたと、どのような咎めを受

けるかわかりません。」

と、なおも、泣き崩れました。しばらく、天女も涙に暮れて空中に留まっていましたが、

乳母、女房達が、何事ぞと、集まって来てしまったので、天女は、名残も今はこれまで

と、さらば、さらばという声も遠のき、夕暮れの月諸共に、雲隠れするように消えて行

え去ってしまったのでした。

親子の仲の御別れ、哀れとも中々、申すばかりはなかりけり

つづく


忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地②

2012年01月18日 22時24分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ②

 はっと、目覚めた聖武帝は、全身汗まみれでした。既に夜も明け、朝日が差し込んで

いました。すぐに行基を呼んだ御門は、夢の次第を語って聞かせました。その話を聞い

た行基は、しばらく考え込んでいましたが、

「これは、目出度き御夢でございます。その天女は、福神として日本に渡らせ給われる

との知らせの夢です。赤い蛇は、魔王ですが、御剣にて、退治いたしましたので、ご心

配には及びますまい。また、瑠璃の壺は、梵天より与えられた不老不死のお薬です。そ

れそれ、ご覧下さい。」

と、行基が壺の蓋を開けると、かいだことも無いような香しい高貴な香です。聖武帝が、

早速に御母上に、お与えになると、たちまちに病が平癒なされたのは、まったく不思議

な次第です。その後、御門は、この行基の甚功(じんこう)に、菩薩号を下されたので、

行基菩薩と呼ばれるようになったのです。

 こうして朝廷は、大魔の宮の呪詛から逃れました。しかし、聖武天皇の気持ちには、

晴れないことが一つありました。実は、あの夢で、天女が残していった物は、薬の壺だ

けではありませんでした。天女が去った後には、琵琶も残されていたのです。

 ある夕暮れ、聖武帝は、天女が残した琵琶を弾じながら、忘れられない面影を追いか

けていました。

「いともゆかしい夢の内よ。まして、実際に会ったなら、朕が心は、どうなってしまう

だろうか。この琵琶は、在りし姿の形見ぞや」

と、琵琶を抱きしめては、溜息をつくのでした。すると、不思議なことに、庭前に突然

光り輝く雲が現れ、懐かしい面差しの天女が、匂やか(におやか)に現れたのでした。

天女は、聖武帝の居る部屋の障子をさらりと開けると、

「私は、いつぞや、夢中でまみえました吉祥天ですが、その節、琵琶を忘れてしまいま

した。どうぞ、お返しください。」

と言うのでした。御門は、恋い焦がれた天女の出現に、舞い上がって手を取ると、中に

招き入れました。聖武帝は、

「そうですか、琵琶を取りに、お戻りになられたのですか。お返しすることは、簡単な

ことなのですが、この国の習いでは、他国より渡りし物を、直ぐに返すという法は無い

のです。」

と、出鱈目な事を言いました。天女は重ねて、

「これは、恨めしいことを仰ります。母の形見として、肌身離さず持っていた琵琶です

が、外道に襲われた時、あまりに慌ててしまったので、忘れてしまったのです。それを、

捨て置いては、母上様への不孝と成ります故、どうぞお返しください。」

と、涙ながらに頼むのでした。聖武帝は、かわいそうには思いましたが、どうにかして、

天女を留めておきたいと思い、

「誠に、仰せを聞けば、道理なことです。それであれば、三年は、この地に留まり、朕

に仕えなさい。そうすれば、返してあげましょう。」

と、言うのでした。天女は、これも母への孝行のため、琵琶さえ取って帰れば、地上の

三年は瞬く間のことと考え、(天の一日は、地上の1600年に当たると言う。地上の1年は約1分)

「そうであれば、仰せに従いましょう。」

と、言うのでした。聖武帝の喜びは限りなく、

「それは、誠に、なかなか。」

と、奥の一間に、打ち連れ、お入りになったのでした。

 一方、滋賀の岩富の宮は、郎等どもに向かい、

「いかに、汝ら、祈る験(しるし)も現れず、この年月を送ることは、なんとも口惜し

い限りである。この上は、挙兵して、御所に押し寄せるぞ。」

と、鼻息荒く言いました。これを聞いた悪七郎は、

「それがしが、考えまするには、御門の心をお慰めするとの使いを立て、御門を招き、

御門がやって来たら、大手口に潜ませた兵で、一気に討ち滅ぼしてはいかがでしょうか。」

と、言いました。これを聞いた岩富の宮は、それは妙案であると、早速に岩瀬の藤太を

使いに立てたのでした。

 さて、聖武帝は、夢に見た天女と結ばれて、今は、天和(あめわ)の宮という七歳

になる若宮にも恵まれて、日々、目出度く暮らしておりました。御門の寵愛の深いこと

は言うまでもありません。

 そこに、現れたのは、大魔岩富の宮の使い、岩瀬の藤太でした。大魔の招きに、内裏

の人々は顔をしかめました。時の摂政は、

「これは、怪しい使いですぞ。大魔の宮との御仲は、常に不和でありましたのに、この

ような睦まじい使いは、何か企みあってのこと。このような御幸は、薄氷を踏むが如し、

まずは、適当なことを言って、使いを追い返しましょう。」

と、諫言しましたが、聖武帝は、

「確かに、その考えには理があるが、仲は悪いとはいっても、大魔の宮は、現在の御兄

であるぞ。例え、謀反の心があり、麻呂が殺されたとしても悔やんではならぬ。もし、

そうでは無いとしたら、その後に蒙る恨みをどうするのだ。とにかく、招きに応じて、

滋賀へ参るとしよう。」

と、勅答なされたのでした。それから、御前に藤原の経正(つねまさ)を呼び出すと、

聖武帝は、

「この度の御幸は、危険が伴うので、汝を連れて行くことにする。しっかりと守護せよ。」

と、言いました。経正は、畏まって答えました。

「若年なるそれがしに、守護せよとのお達し、末代までの面目です。」

 

 さて、経正は、館に戻ると三人の若者を集めて、この度の大役について話をしました。

「この度の近江への御幸において、それがし、御供を仰せつかった。大事の御幸である

から、左右の心を配り、率爾に事を見ること無かれ。」

すると、金道丸は、嬉しげに進み出で、

「さて、さて、それは何よりの大役をお受けになられました。なんであれ、大魔の宮、

御謀反とあれば、心のままに思う存分働き、太刀の切れ味を試してくれん。嬉しや、嬉しや。」

と、小躍りして喜ぶと、海道丸はこれを見て、

「いかに、金道。お前は、気でも違ったか。この度の御供は、事なきように、平穏に済

ませてこそ、君のお供と言えるのだ。案者(※思慮分別に富む人)こそ勇姿というもの

だ。それをなんじゃ、騒がしい若造め。」

と、たしなめました。それを聞いた金道丸は、大いに腹を立て、

「何、それがしの若気の至りと言うのか。おのれが様な、腰の抜けた年寄りの振るまい

など、知らぬわい。髪を下ろして、山寺へも籠もっておれ。」

と、傍若無人に怒鳴るので、海道丸も、腹に据えかねて、

「何、それがし、腰抜けなれば、入道せよと言うか。いで、腰がぬけているかいないか、

見せてくれる。そこ引くな。」

と、跳んでかかれば、金道丸も飛びかかり、取っ組み合いになるところを、岩堂丸が割

って入り、

「まあまあまあ、方々、我々は、竹馬の昔より、魚と水の如くに仲良くしてきたではな

いか。大事の御門出に際して、少しの意趣遺恨は有るべからず。」

と、なだめると、盃を取り出し、

「さらば、門出を祝い、君の御供をいたしましょう。」

と、祝杯を挙げるのでした。

この者どもが心底、貴賤上下おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ

つづく

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忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地①

2012年01月18日 18時21分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

  天満八太夫・重太夫正本(元禄年間)

古説経末期の作品であり、浄瑠璃の影響が色濃い。奇を衒う(てらう)設定や、合戦などを取り入れることで、受けを狙ったのであろうが、説経本来の情感を失ったストーリーとなっている。また人形操り的には、絡繰り(からくり)を多用したものと思われる。

 もうひとつの竹生嶋弁財天の本地を語る「まつら長者」とはまったく異なるストーリーであるが、天照大神のお告げにより聖武天皇が、行基に命じて竹生嶋宝厳寺を開基させたという史実に基づいているのは、こちらの方である。但し、元正天皇を聖武天皇の母として設定したり、(実際には、叔母にあたるが、聖武帝を我が子同様に庇護した。)実在しない聖武帝の兄、大魔岩富の宮なる人物を設定して、活劇に仕立てようとするなど、史実にそぐわない無理な設定が目立つが、全体として、大仏を建立した聖武天皇を神格化しようとする試みがあるように思われる。

竹生嶋弁財天の御本地 ①

 さて、いろいろと思いを巡らせてみますと、三界(さんがい:欲界・色界・無識界)

は、龍車のように、生まれては死に、死んではまた生まれ、いつになったら苦しみを逃

れることができるのでしょうか。だから仏様も、「三界無安猶如火宅」(さんがいむあん、

ゆにょかたく)、どこに行っても、火のついた家のように、落ち着いてはいられず、不

安定な世界なのだとお示しになったのでしょう。しかし、これを不憫と思われて、衆生

の貧を救い、福徳を与えようとされる仏様が、ここにいらっしゃいます。その仏様を詳

しく尋ねてみますと、近江の国、竹生嶋の弁財天がそれなのです。

 竹生嶋は、景行辰の十年(西暦80年)に、金輪際(地底)より、五水を分けて、忽

然と現れた山です。ご本尊の弁財天は、行基菩薩が、初めてこの嶋に参詣した時に、開

眼なされました。さて、この勧請を命じたのは、人皇四十五代の御門、聖武天皇でした。

 この御門は、神代よりこの方、一番の賢王でありましたので、吹く風は枝を鳴らさず、

民のかまども賑わい、大変に目出度い御代でした。時の摂政には、前の左大臣道成(道

成寺を建立)。右大弁(うだいべん)惟喬親王(これたかしんのう)。両臣、いずれも私

無く仕えました。天下の武将には、欽明天皇の末孫で、曾我の大臣(おおとも)に十一

代の孫に当たる丹海公藤原経正(ふじわらつねまさ:不明)がいます。経正は、年齢十

八歳。威勢抜群、百人力で、唐土まで聞こえた古今無双の若武者でした。この経正の郎

等には、海道丸照秀(かいどうまるてるひで)、岩堂丸(いわどうまる)、金道丸(かな

どうまる)という、いずれも劣らぬ大剛の強者(つわもの)が居ました。その外、公卿

大臣、皆、聖武天皇を敬って仕えたので、四海の浪は静かで、目出度くも平和な世の中

を治められていたのです。

 これはさて置き、その頃、近江の国、滋賀の里には、大魔岩富の宮(だいまいわとみ

のみや)という者がいました。その有様は、普通ではなく、背丈は九尺四寸(約3m)

色は、浅黒く、頬骨が飛び出て、眼(まなこ)は逆さまに切れており、朝日に照らした

その顔は、まったく夜叉の様でありました。この大魔岩富に付き従う眷属には、御影

の鉄扇景虎(みかげのてっせんかげとら)とその舎弟、悪道、悪七、悪四郎がおりました。

ある時、岩富の宮は、彼ら四人を集めて、こう言いました。

「いかに汝ら、この世の中で、包むべきは、悪心である。我は、幼少より、悪を好むた

めに、御母である元正天皇の勘気を蒙り、皇位も許されず、二の宮の聖武帝に代を奪わ

れてしまった。我は、悪王となり、このような田舎に押し込められ、空しく朽ち果てる

しか無いのは、誠に無念である。これというのも、元正天皇は、我にとっては、継母で

あるからである。そこで、逆心を持って兵を起こし、二の宮聖武帝を初め、一味の公卿

どもを掴み拉ぎ(つかみひしぎ)、大魔王と呼ばれようと思うが、お前達は、どう思う

か。」

兄弟の中でも、悪七が答えて言いました。

「仰せは、ごもっともではありますが、こちらは、僅か二カ国ばかりの小勢力です。天

下に打って出て、し損じては、一大事です。力で叶わぬ時には、調伏するに越したこと

はありません。祈祷をしてはいかがでしょうか。」

大魔岩富は、成る程と思い、調伏をすることにしました。岩富は、悪日を選ぶと、八方

四面に釼(つるぎ)で切った御幣を飾り、人間の油で灯明を燃やし、仏供(ぶく)には、

羊の内臓を盛り、柳の木を削って人形(ひとがた)を拵えると、第六天の魔王の絵を

本尊として、魔界の法で、祈祷を始めました。

「上は、欲界、無色界。下界の悪霊、無間奈落(※地獄)の悪鬼、外道に至るまで、

ことごとく、驚かせ、我が念ずる所の妄念を、晴らさせ給え。ギャソンギャテイ、ダン

ナクチエジザイ、ウンタラカンマン。」(原文のママ:真言と解すると、ウンタラタカンマン(不動明王)に該当すると思われるが、前段は不明。般若心経の羯諦羯諦カ:又、断悪智慧自在と読めなくは無い)

大魔岩富の宮は、振り上げた数珠の緒も切れよとばかりに責め立て、強く祈祷をすると、

なんと壇に飾った釼が跳び上がり、人形(ひとがた)を貫きました。人形は、たちまち

燃え上がり、煙となって消えたのでした。大魔の宮は、祈願が成就したと喜びましたが、

天は、誠を守るものでございます。その魔術は、聖武天皇には届かずに、母親の元正の

身の上に降ったのでした。元正は、突然、万死の床についてしまわれたのです。

 突然の御病気に、聖武天皇は驚いて、片時もそばを離れずに、様々看病をなされまし

たが、一向に病状は回復せず、日々悪化するばかりです。聖武帝は、悲しみの涙に打ち

しおれておりましたが、やがて摂政関白、公家、大臣を集めると、

「なにとぞ、神力をもって、母上のお命を助けようと思う。誰か力のある沙門はいないか。」

と、言いました。摂政は、謹んで、

「はい、和泉の国に、行基僧都(ぎょうぎそうず)という、尊き知識の僧がおります。

これを、参内させて、ご祈祷なさるのが良いでしょう。」

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忘れ去られた物語たち 6 説経尾州成海笠寺観音之本地⑦終

2012年01月06日 10時11分56秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かさでら観音の本地 ⑦終

 そうして、右大臣頼忠公は、菖蒲の前を初めとして、親子兄弟を伴って都へ戻ったのでした。

人々の喜びは、限りもありません。しかし、善光道心は、修業の道を捨てたわけでは有

りませんでした。比叡山四明ヶ岳に庵室を結ぶと、十一面観音を祀って肝胆を砕いて、

誠の仏道を求めました。

 ある夜半のことです。このご本尊は、善光道心の枕元に立たれました。

「如何に、善光。汝が心底、殊勝なり。明日より十七日間、四明の洞窟に籠もり、定(じ

ょう:禅定)に入るなら、必ず誠の仏を拝ませてやろう。」

と、鮮やかな仏勅を下されました。善光は、これは有り難いお告げと喜び、早速に四明

の岩屋に入り瞑想を始めました。

 ところが、ふと気が付くと、善光道心は、渺々(びょうびょう)たる野原の真ん中に

一人ぽつねんと立っているのでした。辺りを見てみると、道が六つあることに気がつきました。

どれが、浄土へ行く道だろうかと考え込んでいると、北の方から、白い犬が忽然と現れました。

白犬は、善光道心の裳裾をくわえると、北の方へと引っ張りました。それではと、北の

方に歩きかけますと、今度は、南の方から、黒い犬が飛んで出て、白犬を蹴散らすと、

さも懐かしげに善光坊にじゃれついて、狂い飛びはねます。白犬は、起きあがると、

牙をむいて黒犬に食い付きました。互いに血みどろの戦いを始めたのでした。白犬も

黒犬も、朱に染まって、組んず離れつ唸り合っている所に、今度は、大きな熊が現れました。

大熊は、黒犬を持ち上げると、ばりばりと二つに引き裂きました。やがて、大熊は、白

犬を先に立てると、行方も知れず消えて行きました。善光道心は、これを見て、いった

いどういうことなのか不思議に思い、考え込んでいましたが、やがて、どこからともな

く一人の僧が現れました。

「如何に善光。お前には、分からないのか。最前の白犬は、お前の昔の御台であるが、

現世に執着が深いため煩悩の犬となり、お前を見て喜び、連れて行こうとしたのだ。そ

こに現れた黒犬は、次の御台である。おのれの悪心のために、畜生道に落ちて、あのよ

うに昼夜に苦しみを受けているのだ。また、熊となって現れたのは、お前の下の水仕で

あった糸竹である。後の御台への恨みを晴らすため、あのように仇を討つのである。」

すると、その話も終わらぬ内に、二十歳ばかりの女が、鉄の鎖に逆さまにつり下げられ、

下からの猛火に焼かれて、燃え上がって消え去りました。善光道心は、あれは、なんで

すかと尋ねると、僧は、

「あれこそ、娑婆にあった時、夫の目を盗んで、道を踏み外して不義を働いたために、

無限に堕罪し、あのような苦しみを、未来永劫に味わうのだ。」

と、答えました。さらに今度は、獄卒どもが、三十余りの男の頭に、鉾を突き刺すと、

そのまま目より高く差し上げて、地獄へ向かって投げ捨てました。身の毛もよだつばか

りの光景です。僧は、こう言いました。

「あれは、先ほどの女と密通した男である。じゃによって、あのような苦を受けること

になったのだ。」

今度は、突然、辺りが光りに満ちて、紫雲がたなびき、音楽が聞こえてきました。花が

降り、阿弥陀如来が来迎されました。阿弥陀如来は、善光道心の二人の御台と糸竹を救

い取ると、神々しい光に包まれて天上へと昇りました。誠に有り難い次第です。さらに

その後、次のような仏勅がありました。

「いかに、善光。汝、娑婆に帰ったなら、尾州成海に堂を建て、それにまします観世音

を守護し、末世の衆生を救済せよ。」

善光道心は、感涙、肝に銘じて、五体を地に付けて、深く礼拝しました。それを見てい

た僧は、善光に打ち向い、

「これより、急ぎ四明に帰り、仏勅に従いなさい。さて、我こそ、お前が日頃より安置

する大悲観音薩埵(だいひかんのんさった)であるぞ。汝、善哉、善哉。」

と、言うとそのまま虚空に消えて行ったのでした。

 ふと、気がつくと、善光道心は、寂寞(じゃくまく)たる四明の岩屋にぽつねんと座

していました。誠に不思議な体験をしたものです。

 

 善光道心が悟りを開かれたという報を受けた頼忠公は、菖蒲の前を伴って、四明の

草庵を尋ねました。善光道心は、頼忠公にこう言いました。

「愚僧は、一度冥途へ行って参りました。御台達と会い、糸竹諸共、成仏する姿をつぶ

さに見聞いたし、また、阿弥陀如来の仏勅があり、この観世音のお堂を建立するように

命じられました。御身、よろしくこの仏勅のことを奏聞してくださらぬか。」

これを聞いた頼忠公は、それは尊い志と、それより、善光道心を伴って、内裏を目指し

て上がられました。頼忠公は、禁裏に上がると、事の次第を、初めから終わりまで、つ

ぶさに奏聞しました。御門はこれを聞いて、叡覧ましまして、

「珍しや道心。汝の仏道、堅固なる故、かかる奇特を拝むこと、誠に有り難き次第である。

申し出のように、急ぎ尾州成海に、御堂を建立いたせよ。」

と、御綸旨を下されました。

 こうして、尾州成海に御堂が建立され、人皇六十三代冷泉院卯月(旧暦4月)十八日

に、供養が執り行われました。導師善光道心は、高座に上がり、敬白の鐘を打ち鳴らすと、

「そもそも、この観世音菩薩は、忝なくも、聖者一同が、美麗に刻む、正真の尊様である。

信心微妙のご利益は、一度、歩みを運ぶ輩(ともがら)は、二世に渡り、無常菩提は疑

いなし。南無阿弥陀仏」

と、ご十念なされました。

 さてこそ、尾州成海、天林山笠覆寺(てんりんざんりゅうぶくじ)

 本尊、笠を召す故に、笠寺とも申すとかや

 天下太平仏法繁盛

 目出度しともなかなか、申すばかりはなかりけり

おわり

  天満八太夫・武蔵権太夫・太夫元重太夫 直伝

  未の五月吉祥日 伊東板

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忘れ去られた物語たち 6 説経尾州成海笠寺観音之本地⑥

2012年01月05日 22時15分58秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かさでら観音の本地 ⑥

 さてその頃、右大臣頼忠公は、尾州の熱田神宮へ参詣なされ、その帰路、琵琶湖畔ま

で来られましたが、長浜より、舟に乗りました。ところが、秋の天候は変わりやすく、

俄に、空が掻き曇り、波風が荒くなり、大雨となってしまいます。ひとまず、どこへで

も寄港して、風雨をしのごうとということになり、帆を下ろして、海津の浦に向かうこ

とにしました。海津の浦に着くと、頼忠一行は、弥三太(やそうた)の館で休むことに

なりました。弥三太の館とは、菖蒲の前を拾った、あの夫婦の家でした。夫婦は、突然

の公卿の訪れに驚き、これは冥加やなとばかりに、頭(こうべ)を地にすりつけました。

 奥へ入った、頼忠公は、思いもよらず、美しく上品な姫君がいるのを目にしたのでした。

十七八と見えるその姫は、裏山吹(襲の色)の十三衣(きぬ)を上重ねて、紅の袴を召

しています。頼忠は、もうその美しさの虜(とりこ)となって、この世に、これ以上の

女性はいないだろうと、つくづくとご覧になりました。頼忠公は、夫婦に、この姫は、

どちらの、いかなる姫なのかを聞きました。弥三太は、姫が、この館にやってきた時の

ことを、詳しく話しました。それを聞いて頼忠公は、

「むう、それは、神妙な話じゃ。用があれば、呼ぶので、ひとまず下がってよからん。」

と、言うと、しばらく考え込んでいましたが、見初めたその艶姿を、忘れようにも忘れ

られません。恋心がむくむくと湧いてきて、寝るにも寝られません。我慢できなくなっ

た頼忠公は、とうとう、姫の一間に忍び入りました。頼忠公は、

「姫君様は、おいでですか。あなた様は、都にては、どのようなお家の方なのですか。

どうぞ御名乗り下さい。」

と、声を掛けました。姫君はこれを聞いて、振り返ると、

「恥ずかしいことですが、私は、卑しき海女の子供です。お見受けしますところ、都人

のご様子ですが、どうして、このような粗末な家にいらっしゃったのですか。早くお帰

りなさい。」

と、言いますが、頼忠公は、さらに魅了されて。

「海女の子であるはずがありません。誠に、その紅(くれない)のお姿は、園生(その

う)に植えても、一際目立つに違いありません。どんなに、隠しても、只の人には見え

ません。ありのままにお話ください。私は、貴女のやんごとないお姿を見初めて、心も

空と、憧れてしまい、寝ることも出来ないのです。」

と、口説きました。姫君が、

「恥ずかしながら、私には、かつて結婚を約束した方がおりました。なんと、仰られて

も、この身は、捨てられた小草(おぐさ)なのです。このまま、朽ち果てるのが私の運

命なのです。」

と、やんわりと断りますが、頼忠公は、なおも離れがたく、

「それは、どこのだれのことですか。ありのままにお話ください。」

と、迫りました。姫君は、話すまいと思っていましたが、あまりに頼忠公が、しつこいので、

「それでは、お話いたしましょう。夫と定めしその人は、名前を言うのも恨めしや。

都の関白殿のご子息、右大臣頼忠卿と申す人。かく言う私は、中将有末が娘、菖蒲の前

と申す者。」

と、言い終わらぬ内に、頼忠公は飛び上がって驚き、

「いや、それは、おかしい。我こそ、右大臣頼忠であるが、その菖蒲の前には、かつて

一度、対面し、故あって暇を参らせた者。」

と、言えば、姫君は不思議に思い、

「それは、おかしなこと。私は、あなた様に会ったことはありませんよ。会ったという

証拠があるのですか。」

と、言いました。すると頼忠公は、

「かつて、私は、卑しき猿回しに扮して、滋賀殿の西の対の御殿に上がりましたが、そ

の時に、忍んで会った菖蒲の前は、貴女ではありませんでした。いったいどういうこ

とでしょう。」

と、答えると、姫君には、心に思い当たることがありました。

「はて、それはその折り、私の継母に、言われる儘に、返書を認めましたが。さては、

継母が計略を巡らして、偽の姫を使わして、御身様と、私の縁を切ったのですね。今、

分かりました。ここに、こうして居るのも、全て継母の企てたことの結果なのです。」

と、菖蒲の前は、これまでの事の成り行きを合点しました。頼忠は、横手を打って、

「さても、浅ましいことだ。神ならぬこの身の悲しさよ。貴女の心が、それ程とも知ら

ず、一方的に縁を切るなどとは、我こそ愚か者です。そうと、分かれば、こんな所に

長居は無用です。今から直ぐに、都へ戻りましょう。」

と、喜びました。丁度、雨風も収まったので、頼忠は、姫を夜に紛れて連れだそうと、

取る物も取りあえず、姫君を輿に乗せると、お供の者どもをたたき起こして、浜路を指

して出立しました。

 いきなり来て、いきなり居なくなり、しかも姫君までさらわれた弥三太夫婦は、二度

びっくりして、後を追っかけました。一行に追いついた弥三太が、

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忘れ去られた物語たち 6 説経尾州成海笠寺観音之本地⑤

2012年01月03日 22時05分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かさでら観音の本地 ⑤

 かつて、花と栄えた滋賀の里でしたが、今は、人々も散り散りとなって、館も朽ち果

てて、親子三人が、侘びしく、嘆きながら月日を送っておりました。ある晩秋の夕暮れ

のことでした。北の方は、その頃、風邪をひいて寝込んでいたので、兄弟の人々は枕元

で看病をしておりましたが、突然に、館が、がたがたと振動し始めると、崩れるばかり

に、家鳴りを始めました。あまりの恐ろしさに、親子兄弟が、倒れ伏していると、また

また、糸竹の亡霊が現れました。

「あら、恨めしやの御台様。これまで、どうにかして、命を奪わんとしましたけれど、

海津の漁師に拾われた菖蒲の前様が、ご継子であるにも関わらず、父母兄弟の為に、法

華経を読誦されるので、諸神諸仏に隔てられて、思うに任せませんでした。しかし、今

日、姫君の願いも満願となりましたので、その暇を見て、ようやくここまで、来ること

ができましたよ。」

と、言うと、糸竹の生首は、御台の枕元に近づき、その途端に、往生の息をふうっと吹

きかけて消え失せました。

 すると、北の方の五体は、たちまち腐乱を始めました。御台は、ああ、苦しや、耐え

難いと、のたうち回りました。兄弟は、驚いてうろうろするばかりです。やがて、御台

は、苦しい息の下から、兄弟の手を取ると、

「我は、死霊の恨みが深いので、最早、冥途へ赴くぞ。それにつけても、菖蒲の前が、

海津の浦に生きているという。さぞや、我を恨んでいることであろうが、わらわが、死

んだなら、お前達は、海津の浦を尋ねて、菖蒲の前に巡り会いなさい。そして、私の代

わりに懺悔して、姫が恨みが消えたなら、千部万部の御経よりも、有り難いことです。

ああ、苦しや。」

と、言い残して、とうとう御台は、亡くなりました。兄弟の人々は、空しい死骸に抱き

ついて、泣き口説いていましたが、大人しげな菊若は、すっくと立つと、

「いつまで嘆いても仕方ない。まず、御遺骸を、どこかに納めましょう。」

と、言いました。姉は、弟に促され、ようやく立ち上がると、兄弟二人で、母の遺骸を

弔いました。その心の内こそ、哀れというより外はありません。

 

 さて、突然に遁世した滋賀殿は、発心が固く、その後、「善光坊」となり、三年の間、

諸国行脚の修業をしていました。家臣の景次も、出家をして、西寛坊と改めて修業をし

ていましたが、信濃の国で、二人は巡り会い、主従打ち連れて、しばらく西国行脚を行

いました。やがて、仏縁によって、二人は、滋賀の国にもどって来たのでした。

 「如何に、西寛よ。故郷へは錦を着て帰るものと聞いていたが、我々は、色も匂いも

墨染めの、変われば変わる世の中やなあ。」

と、朽ち果てた館の中を見て見ると、仏前に新しい位牌を立てて、灯明をつけ、香華を

供えて、兄弟がひれ伏して泣いているではありませんか。二人の僧も、目と目を見合わ

せて、泣くより外にはありません。西寛は、あまりのいたわしさに、

「如何に、我が君様、御名乗りください。」

と、言えば、善光坊は、

「いや、愚かなり、西寛。名乗って、喜ばせたくも思えども、そうすれば、仏の金言に

背くことになる。今生はこれ、仮の宿りに過ぎぬ。ただ未来こそ誠なり。」

と、言うと、思い切って館を後にしました。道心の志の強さこそ、大変殊勝でした。

 父が、覗いていったことも知らずに、兄弟は、やがて、旅の準備をすると、母の遺言

に従って、習わぬ旅路へと出たのでした。しかし、慣れぬ旅に、道ははかどらず、幼い

二人の兄弟には、辛いことばかりです。とうとう若君は、小松浜(大津市志賀町)のあ

たりで、ばったりと倒れてしまいました。姉は、

「お前は、嘆いてばかりいて、食事もろくに取らないから、歩けなくなるのです。何か

食べ物はないものか。」

と、辺りを見ると、おいしそうな花瓜(きゅうり)が沢山なっています。蔓を押し分け

て、一本取ると、

「さあ、これを食べなさい。」

と、差し出しました。菊若が、喜んで、忝ないと食べようとしたその時、大の男が飛ん

で来て、兄弟の人々を情け容赦も無く押さえつけると、

「やあ、この頃、夜な夜なこの瓜を、盗み荒らす曲者は、お前達だな。」

と、有無も言わさず、杖振り上げて、めった打ちに打ち叩けば、姉は、弟に覆い被さり、

「のうのう、情けない。この若は、何もしていません。これを取ったのは私です。叩い

て、気が済むのなら、私を打ってください。」

と、泣いて詫びました。男は、はったと睨みつけると、

「女とても、容赦はせぬ。杖の味をよっく覚えよ。」

と、今度は、姉を散々に叩きました。弟は、必死に立ち上がって、今度は、姉をかばい

ます。

 

「おやめ下さい。女のことなれば、お許しください。どうぞ、私を打ってください。」

男は、小賢しい小僧だと、さらに怒って、拝み打ちに叩き伏せ、立てば打ち倒し、散々

に打ち散らすと、やがて打ち疲れて、去っていく姿は、凄まじいともなんとも、哀れと

言う外はありません。

 兄弟の人々は、慣れぬ旅の疲れにも増して、思わぬ邪険の杖を受けて、目も眩んで、

ふらふらと、立ち上がることもできません。姉は、必死に起きあがり、

「のう、菊若。ここに居ては、またもや憂き目に会うかも知れぬ。さあ、歩くのです。」

と、弟を引き上げようとしますが、菊若には、立ち上がる力さえ残っていませんでした。

菊若は、声を振り絞り、

「姉上様、五体はすくみ、最早一歩も歩けません。私をおいて、どうぞ、海津へ行って

ください。早く、早く。」

と、言うと、ばったりと気を失いました。

「そなたを、置いて、誰を頼ったらよいのです。ええ、しっかりしなさい。」

と、言うと、弟を肩に担いで、よろよろ、よろよろと、進み始めました。いたわしや

姫君様は、心は弥猛に早やれども、のろのろ、のろのろと、ようやく一歩を進めるので

した。しかし、姉は、木の根に躓き、かっぱと転んでしまいます。菊若は、意識を取り戻し、

「のう、姉上、どうしたのです。」

と、取りすがりました。姉上は、

「お前は、怪我はありませんか。この様子では、もう一歩も進めません。ここで、一夜

を、明かしましょう。」

というと、兄弟は、何処とも知らぬ山中で、抱き合って、泣きながら寝入ったのでした。

 やがて、老人が一人、薪を背負って通りかかりました。

「やれやれ、こんな所に寝ていては、犬や狼の餌食となってしまう。やれ、兄弟の人々。

お目を醒まされよ。」

と、老人は、二人を起こすと、兄弟の人々を、弓手と馬手にかいこんで、軽々と抱き上

げ、あっという間に、海津の浦まで運んだのでした。兄弟の人々の心の内、嬉しきとも

なかなか、申すばかりはありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 6 説経尾州成海笠寺観音之本地④

2012年01月03日 18時27分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かさでら観音の本地 ④

 さて、菖蒲の前をまんまと消すことができたと喜んだ北の方でしたが、ひとつだけ、

気にかかることがありました。

「今は、もう、思いの儘に、菖蒲の前を消し去ったが、下の水仕の糸竹を、このまま生

かしておいては、いつ、この秘密を人に話すとも限らぬ。」

と、北の方は思案して、糸竹を呼び出しました。北の方は、糸竹に、

「さて、お前は、下郎とはいいながら、この度は、大事の御用を良く果たしました。そ

こで褒美に、身に付けた衣装は、残らずお前にあげましょう。それに、お前は、あの猿

回しに恋いこがれていると聞きました。褒美に、暇を取らせましょう。この文を持って、

都の方へ尋ね行けば、必ず巡り会えますよ。さあ、早く行きなさい。」

と、誠しやかに言いました。真に受けた糸竹は、涙を浮かべてお礼を言うと、そさくさ

と、都を指して出発しました。

 糸竹が、急ぎ、都を目指して歩き出すと、後ろから、男が二人追いかけて来ます。

「やあ、待て。おのれは、誰に断り、番所を抜け出るか。法を背く科人め。やれ、討て、

殺せ。」

と、糸竹を取り巻きました。糸竹は、騒がず、

「いやいや、わらわは、御台様の仰せによって、参る者。不躾なことして、後で、後悔

召されるな。」

と、睨みつけますが、男達は、

「愚かなことを、糸竹。我々は、御台様の命令で、これまで追っかけて来たのだ。覚悟

せよ。」

と、言うなり、間髪入れずに、ちょうどと、糸竹を切り捨てました。ああっとばかりに、

もんどり打って倒れた糸竹は声を上げ、

「ええ、さては、謀り追い出して、殺すつもりだったのか。ああ、腹立たしや、口惜し

や、この恨み、晴らさでおくものかあ。」

と、言う声も聞き入れず、男達は、散々に切り付けて、糸竹を殺害したのでした。

 

 そんなことがあったとも知らない滋賀殿は、北の方、兄弟ご一門を集めて、宴を開い

て、憂さを晴らしておりましたが、思い出すのは、哀れな菖蒲の前の事ばかりです。世

の無常を感ぜずにはいられません。そんな時に、突然、築山の陰より、怪しい物が現れ

出ました。一座の人々は、いったい何が出たかと見てみると、なんとそれは、色青ざめ

た女の生首ではありませんか。苦しげに吐く息は、火炎となり、その髪の毛は、長々と

梢にまとわり、たなびいて、凄まじばかりの有様です。滋賀殿は、太刀をおっとり、縁

先に走り出ると、

「おのれは何者。推量するに、菖蒲が前の亡魂か。おのれが、不義故、殺されしことな

れば、誰を恨んで、ここまで来たるか。」

と、大音声で呼ばわると、生首は、

「いや、これはもったいなき仰せかな。どうして、菖蒲の前でありましょうか。恥ずか

しながら、自らは、下に召し使われおりました糸竹が亡魂でありまする。それなる御台

様の御心底の恨めしや。御台様の頼みとて、もったいなくも姫君の縁切りに荷担しまし

たが、それも皆、御台様の計らい。私に何の罪科あって、情けなくも、刃に掛けて殺し

たか。その上、冥途へ行っても、やんごとなき縁を妨げた科により、阿鼻大焦(あびだ

いしょう)の地獄に落とされ、浮かぶ事もさらに無し。この上は、子々孫々に至まで

悉く取り殺し、今生の恨みを晴らしてやる。ああ、苦しい。」

と、叫ぶ声が、御殿に響き渡りました。人々は、ひっそりと静まりかえって、物を言う

者もおりません。全ての秘密が暴かれた今、滋賀殿は、はあっと、大きな溜息を付き、

「ええ、浅ましや。このような子細とは、露も知らずに、菖蒲の前を失ったことの無念

さよ。草葉の陰にて、さぞや父を恨んだことであろう。」

と、歯がみをして、涙に暮れました。やがて、滋賀殿は、きっと立ち上がると、

「ええ、浅ましき火宅(かたく)の住まい。これこそ、発心の門出。」

と、言うなり、髻をばっさり切って捨て、物も言わずに、館を去ろうとしました。驚い

た兄弟が、取り付くと、滋賀殿は、兄弟を左右にかっぱと突き倒して、

「妻子珍宝(さいしちんぽう)

 及王位(きゅうおうい)

 臨命終時(りんみょうしゅうじ)

 不随者(ぶずいしゃ)」(大集経虚空蔵菩薩品)

(※死ぬ時は、何も持っては行けないという意味)

と、言い捨てると、滋賀殿は、そのまま遁世してしまったのです。

 主を失い、幽霊が出る怖ろしい御殿から、人々が去るのは、あっという間でした。

今は、もう、荒れ果てた御殿に、御台と兄弟だけが寂しく取り残されました。この人々

の心の内は、哀れともなかかな、申すばかりはありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 6 説経尾州成海笠寺観音之本地③

2012年01月03日 16時34分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かさでら観音の本地 ③

 ほうほうの体で、都に帰った右大臣頼忠公は、帰るなり、早川文太重次を呼び出すと、

「さても、おぬしは、粗忽者じゃ。まったく、太政大臣のこの家を汚し、末代までの

瑕瑾となるところであったぞ。菖蒲の前の心様といい、その姿形といい、由緒書き

とは、雲泥万里の違いであった。いったい、十八相の粧いとは、何を見て書いたものか。

あのような見苦しい女は、下々を探しても見つかるものでは無い。その昔、美濃の国

の西郡(にしごおり)の長者が、ふつつかな娘を乙御前と偽って、風聞を立てたが、そ

の乙御前ですら、これほどではあるまい。まったく不敵千万。この縁組み、急いで破談

といたせ。」

と、大層なお腹立ちです。重次は、驚いて返す言葉もなく、ただただ呆れておりましたが、

「さてさて、驚き入ったことですが、どうにも、それは納得が行きません。そのように、

お考えになった証拠はございますか。」

と、尋ねました。頼忠公は、

「愚かなり、重次。私が、試みに書き送った艶書へ、さっそくの返事。これを身よ。」

と、例の色紙を差し出しました。重次は、これをつくづくと見て、

「むう、これは、言語道断。御立腹もごもっともです。拙者の一生の誤りでした。とに

もかくにも、これよりすぐに滋賀へ向かい、破談にして参ります。」

と、重次は、取る物も取りあえず、急いで滋賀の里へと向かいました。

 滋賀の里に着いた重次は、直ちに滋賀殿に面会しました。重次は、

「さて、この度、ご息女菖蒲の前様、不義がありましたので、こちらより破談させてい

ただきます。どこへとも、お送りなされませ。数多くの男性遍歴を持ちながら、隠して

関白家へ嫁に出すとは、苦々しいばかりですぞ。」

と、言い立てました。滋賀殿は、思いもよらぬ言い立てに戸惑って、眉を顰めておりま

したが、やがて、

「いかに重次。菖蒲の前の不義ということ、まったく心当たりも無い。何か証拠があっ

てのことであるか。」

と、言いました。重次は、すかさず、例の色紙を取り出しました。滋賀殿が、これを見

てみると、疑いもない、菖蒲の前の筆跡です。いったいどういうことだと、呆れるばか

りです。その時重次は、弟の景次に向かうと、

「おのれは、それでも侍か。よくも出鱈目な由緒書きを作ったな。とにかく、お前を生

かしておいては、主君への面目が立たない。首を出せ。」

と、太刀の柄に手を掛けると、景次は、

「ははあ、仰せの如く、それがしが誤りなり、お手討ちくだされ。」

と、首を差し伸べるのでした。慌てた滋賀殿が割って入り、

「まあ、お持ち下され。この度の子細は、景次には責任は無い。全ては、菖蒲の前の

不義が原因。この上は、姫が首を討って、右大臣頼忠殿の憤りを、納めていただきまし

ょう。そうすれば、御辺の面目も立つこと。平にこの度のことは、我に免じて、許して

くだされ。」

と、道理を尽くして詫びるのでした。重次は、はらはらと、涙を流して、

「これは、もったいないお言葉。ようく分かりました。この上はひとまず、都へ帰り、

主君頼忠様へ申し訳いたします。どうか、姫君の首討つことだけは、思いとどまり下さ

い。」

と、言うと、都へ戻りました。

 突然の破談に、呆然としていた滋賀殿は、しばらくして景次にこう言いました。

「つくづくと考えたが、こうなっては、菖蒲の前を生かしておいて、世間の噂になり、

物笑いとなることは、返す返すも口惜しい。

 最早、仕方ない。景次よ。今宵、闇に紛れて、密かに姫を連れ出し、琵琶湖へ沈めて

参れ。

 ああ、娘など持つべきではなかった。菖蒲の前の母親が亡くなる時に、姫のことを様々

と心配していたので、母の形見と思って、愛情を注いできたけれども、今となっては、

逆に思いの種となってしまった。さても浅ましい世の中であるな。」

景次も悲嘆の涙に暮れながら、『主君北の方の命令に従わなければ、姫の命を奪うこと

も無かったのに』と、板挟みの宮仕えに進退窮まって、慟哭するのでした。

 景次は、どうすることもできず、菖蒲の前を伴って、磯辺までやってきました。小舟

に姫を乗せると、黙ったまま舟を漕ぎ出しました。いたわしいことに姫君は、なんにも

知らずに、

「如何に、景次。父上様が仰せには、宿願があるので、唐崎神社へ参詣せよとのことで

すが、どうして女房達は来て居ないのですか。変ではありませんか。」

と尋ねました。景次は唐突に、

「姫君様には、何の科(とが)もありませんが、この海に沈めよとの父上様の御命令

によって、これまで、お供いたしました。どうぞ、お念仏をお唱え下さい。」

と、言うと、差し俯いて泣きました。菖蒲の前は、突然のことに、何がなんだか分かり

ません。

「ええ、何のことか、身に覚えもありません。いったい誰が父上に讒言して、私は、こ

のような怖ろしい大海の水屑とならなければならないのですか。」

と、泣き崩れました。やがて、菖蒲の前は、血を分けた父上様が、私を憎むのであれば、

仕方も無しと、観念すると、涙と共に御経を取り出しました。姫君は、声も高々に三巻

を読誦すると、

「只今、読み上げました御経は、先立ちなされた乳房の母が極楽往生の為。さて、一巻

は、後に残る、父上、母上様や、兄弟の現世の安穏、後世養生のその為に。そして、

私を、乳房の母諸共に、一つ蓮(はちす)にお救いください。南無阿弥陀仏。」

と、唱えると、再び船底に倒れ伏して号泣する外はありませんでした。やがて、心を

取り直した菖蒲の前は、船梁に立ち上がると、袴の股立ちを高く取り、直衣(なおし)

の袖と袖を引き結んで肩に掛けると、

「さあ、景次。もう観念しました。沈めなさい。」

と、言うのでした。そのお顔の美しさといったらありません。終夜(よもすがら)泣き

明かして、乱れた髪が面差しに乱れ懸かり、ぞくっとするばかりのお姿に、景次は、目

も眩み、心も消え消えとなり、とても沈めることなどできません。景次は心の中で、

『そもそも、罪も無い姫君が、このような憂き目に遭うのも、邪険の継母の心より起こ

ったこと。それを知りながら、我が手に掛けて、姫を殺すなどということは、人間のす

ることではない』とつくづく思って、

「如何に、姫君様。今となっては、もう隠すこともありません。これは、すべて、北の

方様の悪心より起こったことでございます。しかし、ご存じの如く、それがしにとって

は、譜代の主君。なんともしようも無く、これまでお供いたしましたが、とてもとても

私の手で沈めることなどできません。どうか、この竹の嶋に上がってください。」

(竹生嶋のことと思われる)

と、言うと、姫を降ろし、一人、舟に乗ると、

「お命、恙なく(つつがなく)、母君の菩提を懇ろに弔い給え。それがしも、これより

発心いたし、浮き世の絆を捨てまする。」

と言って、腰の刀をするりと抜くと、ばったりと髻(もとどり)を切り落とし、太刀諸

共に、海中に投げ捨てました。景次は、涙を払って舟を出しました。姫は、余りの悲し

さに、

「やれ、景次よ。このような怖ろしい所に、我一人を捨て置くならば、いっそ、お前に

殺された方がまし、のう、どうか連れて行けよ。景次。」

と、流涕焦がれて泣き崩れました。まるで、早利即利(そうりそくり)が海岸山に流さ

れた時のように、まったく哀れな次第です。(源平盛衰記の引用)

 すると、そこに漁船が近づいて来ました。夫は網を打ち、妻が棹を差しながら、嶋の

回りで、漁をしています。姫は、喜び、

「のう、その舟。乗せてたべ。わらわは、都の者なるが、親兄弟も無く、頼るところも

ございません。どうぞ、哀れみください。」

と、懇願しました。突然に、声を掛けられて、夫婦の者は、びっくりしましたが、姫君

のお姿を見て、

「これは、只人ではないようだ。これが、都の上﨟様か。どうしたわけで、こんな所

に捨てられたかは知らないが、このような美しい上﨟様なら、身に替えても、お守りい

たしましょう。」

と、菖蒲の前を舟に抱き乗せると、甲斐甲斐しく介抱して、海津の浦(琵琶湖北岸)に

帰りました。

つづく 


忘れ去られた物語たち 6 説経尾州成海笠寺観音之本地②

2012年01月03日 10時36分23秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

かさでら観音の本地 ②

 まだ見ぬ姫に憧れた、右大臣頼忠は、賎しき者の姿に身をやつして、恋の闇路に迷い

出て、願掛けに、常陸帯(鹿島神社の神事:意中の人の名前を帯に書く)まで締めて、

やがて、滋賀の里にお着きになりました。

 さてその頃、菖蒲の前は、多くの女房達をうち連れて、紅葉の殿に出て、ススキや萩、

桔梗や女郎花を愛でて、秋を楽しんでいました。やがて、菖蒲の前は、

「のう、如何に、女房達。先ほどやって来た、遊び者は、どういたしましたか。呼びなさい。」

と、菖蒲の前が、言いましたので、早速に、猿回しが呼ばれました。控えの間でじっと

待っていた猿回しに扮した頼忠公は、襟を直すと、手飼いの猿の綱を引いて立ち上がり

ました。頼忠公は、

「さても、やつせし我が姿よな。その昔、用明天皇が、玉よ姫に恋焦がれて、帝位も捨

てて、身をやつし、山路と名乗って牛飼いとなり、草刈り笛を吹いたのと、同じ気持ち

だ。」(烏帽子折草子の草刈り笛物語の引用)

と、顔を赤らめて、姫の前へと、出られたのでした。ところが、御簾内の女房達は、そ

の姿を見るなり、総立ちとなって、このような賎しき身分の者でも、このように気品の

高い麗しい男が居るものなのかと、水を打ったように静まりました。ごくりと、生唾が

聞こえるようです。やがて、菖蒲の前が、奥より、

「何んでも、面白い曲を一曲奏でてみなさい。そのような美しい姿で、卑しい猿を引くのですね。」

と、言いました。頼忠公は、これを聞いて、

「はい、所謂、宗の狙公(そこう)は、朝三暮四の、栃の猿を愛して、一生の楽しみと

暮らしました。(列子または荘子の引用)布袋禅師が、幼き子供を寵愛されたのも同じ

こと。私も又、それと同じく、物言わず笑わねども、人の心を汲んで知る、猿に勝る宝

は無いと思っております。首に結んだ手綱を、私が引くように見えますが、私の思いも

同じ事。あなたが、手綱に引かされて、ここまで迷い出て来たのは、恥ずかしい次第です。」

と、口上を並べると、次のように謡いました。

 ~汝が想いに比ぶれば

  我が想いは

  勝る目出度き

  ましまし目出度き

  踊る手元を

  猿や召さるか

  小猿に教えて

  安楽(あらき)ことをば

  見ざると申せば

  人事言わざる

  悪事を聞かざる

  木の葉猿めが(※身の軽い猿)

  見ざる目元で

  ころりとこけざる

  そこらで締めろ

  踊りは山猿  

  恋の心か

 申酉戌亥

 浮きに浮き世の

 猿、豆蔵に(※門付け芸人)

 猿が狂うわば

 我が身も共に

 浮き世狂いは面白や

 駒、引き出すには

 猿の白い水干

 立て烏帽子

 折り烏帽子を

 しゃんと着ないて

 御馬の手綱をかい繰って

 立ち見馬や春の駒

 土佐に雲雀毛(ひばりげ)

 糟毛(かすげ)、柑子栗毛(こうじくりげ)額白

 槇の駒に信濃の白駒

 何々乗りたい

 心ぞ面白や

 いかにましょ~

さて、奥よりの、御望みなれば、これなる綱手を渡りて、お目に掛け申せ。」

と、縄手を切って、猿を放つと、猿は、天にも昇る心地して、大庭に躍り出ると、あっ

ちこちと駆け回り、跳び上がり、綱を渡る有様は、まるで、蜘蛛が、糸を渡る様に見事

だったので、人々は、大喜びをしました。

 西の対が、そのように大騒ぎをしているところに、北の方が、様子を窺いにやってき

ました。北の方が、

「さて、さて、賑やかなこと、いったい何が始まったのです。」

と尋ねると、菖蒲の前は、

「はい、あそこにおります猿回しが、いろいろと、秘曲を尽くして、見せ物をしてくれ

ますので、どうぞご覧ください。

外に、何か珍しい曲は無いか。母上にお見せしなさい。」

と、言うと、頼忠公は、畏まって、鞨鼓(かっこ)を取り出して、首に掛けると、

「それでは、これより、都で流行っております、「紅葉流し」という曲を、拍子に乗っ

て、舞うことにいたしましょう。」

と、言って、次の様な歌を謡いながら、踊りました。

 ~あら面白の御代のためしや

  春は先、咲く梅野かや

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