猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ⑥ 終

2014年06月23日 12時43分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ⑥ 終

  さて其の頃、常陸の国の国主、佐竹の形部左衛門殿は、毎年欠かさず熊野詣をされていました。今年も、栗本房、尚信法印を先達にして、熊野へと向かわれました。佐竹殿を初めとして、お供の者一千七百余人は、やがて三つの御山に籠もられました。すると、夜半になって不思議な事が起こりました。御内陣の中から、金色の光が輝き出したのです。人々がこの光を拝んでいると、権現様が顕れました。ところが、予想外にも、権現様は、遥か末座に座っていた横曽根の平太郎という者に対して合掌をなされて、又陣内へと戻られたのでした。これを見ていた、佐竹殿は腹を立て、栗本房と尚信に向かい、

 「私はこの山に、毎年参籠しているというのに、たいした利益も無い。ましてや、御房達の様な聖人に対して奇蹟が起こったのなら、恨みも無いが、あの様な、卑しい人夫風情に、後光が射し、その上権現が、礼拝までするとは、いったいどういうことか。こんなものを、信じてられるか。もう帰るぞ。」

 と怒鳴るのでした。栗本房も尚信も、佐竹殿をなだめて、

 「確かに、仰せはご尤もです。佐竹殿は既に二カ国の立派な主であり、位の高いお家柄であるのに、相手にされず、道端の死人を弔う、あの様な卑しい男に礼拝するというのは、きっと何か、特別な事情があるに違いありません。もう二三日、お籠もりあって、夢のお告げをお待ちになった方が良いと思います。」

 と、進言したのでした。佐竹殿は考え直して、山籠もりを続けることにしました。そうして三日目の明け方に、御内陣から、お声がして、一首を詠じました。

 「千早振る 玉のすだれを 巻き上げて 念仏の声を 聞くぞ嬉しき」

 これを、聞いた佐竹殿は、有り難や有り難やと、念仏を三遍唱えたのでした。熊野権現は喜んで、もう一首を詠ずるのでした。

 「卑しきも 高きも並べて 頼みつつ 南無阿弥陀仏と 言うぞ 嬉しき」

 佐竹殿は、これを聞くなり、

 「ははあ、これより、私は念仏の行者となります。」

 と答えると、夢が覚めました。早速、栗本房と尚信法印に、夢のお告げを話すと、二人は、

 かの平太郎を呼んで、話しを聞くように勧めました。佐竹殿が平太郎を招きましたが、平太郎は、そんな高い身分の人と同席はできぬと、固辞しました。そこで、佐竹殿は、自分から平太郎に近付くと、

 「この間は、どうしてあの様な、霊験を受ける事ができたのか。」

 と、尋ねたのでした。平太郎は、こう答えました。

 「いや、なんの心当たりもありませんが、只、私は最近、親鸞上人様の弟子となり、一大事を授かって、念仏行者となったのです。それからは、身分の高い人を羨まず、身分の卑しさは気にせず、自分に辛く当たる者がいても敵対せず、明けても暮れても、只、一心一向に念仏を唱えるだけです。ひょっとすると、このことが、今回の不思議な出来事の原因かも知れません。」

 これを、聞いた佐竹殿も、二人の山伏も、頭巾篠懸を金繰り捨てて、この平太郎の弟子となったのでした。佐竹形部左衛門は、それから平太郎を伴って、上洛なされ、今回の霊験を奏聞しました。御門が、

 「此の度の、希代の霊験。どうすれば、その様に神慮に叶うのか。」

 と問うと、平太郎は畏まって、

 「ははあ、この頃、常陸の国へ親鸞上人がいらっしゃいましたので、常々説法をうけまして、一大事を授かりました。これ以外に、心当たりは御座りません。」

 と答えたのでした。すると、御門は、

 「そもそも、仏の加護を願うのに、神慮による霊験を受けるのは何故か。」

 と聞きました。平太郎は又、畏まって、

 「去れば、神と言いますのも、その根源は、仏様でいらっしゃいます。例えば、伊勢大神宮を御神(おんじん)と拝めば、五智の如来を拝むことであります。外宮四十末社は、弥陀如来。内宮八十末社は釈迦如来。ですから、伊勢道(いせみち)を四十八町に踏み分けますのは、弥陀仏の四十八願を表しているのです。」

 と、申し上げるのでした。御門は、感心なされて、

 「おお、平太郎は、大変な知者である。」

 と言うと、忝くも平太郎に、「神仏上人」という名を下されたのでした。驚いた平太郎は、

 「親鸞様を、上人とはお呼びこそすれ、私は神仏房で結構です。」

 と辞退するのでしたが、綸言汗の如し。平太郎は、神仏上人となって、常陸へとお帰りになられたのでした。

  さて、其の頃、都では不思議な事件が起きていました。突然に三日の間、洛中は真っ暗な闇に包まれたのでした。大に驚いた御門が、天文の博士に占わせてみますと、博士は、

 「むう、これは、都に御座あるべき上人様が、いらっしゃらないので、天の咎めが下っているのです。」

 と答えるのでした。御門が、

 「急いで、親鸞上人を、都へ戻す様に。」

 と、宣旨なされると、直ちに勅使が、常陸の国へと急行しました。勅命を受けた親鸞上人は、鹿島の神主に笈を負わせて、都へ向うのでした。さて、その道中、相模の国、国府津(こうづ:神奈川県小田原市)という所に来ますと、背丈五尺ぐらいの大関が、がき苦しんでいるの会いました。親鸞上人が、その指で、「帰命尽十方無礙光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)と書くと、直ちに文字が顕れ、大関の命は救われたのでした。今に至るまで、帰命堂というのはこのことです。(真楽寺帰命堂)親鸞上人は、ここで七日間、御法談をなされました。それから、親鸞上人が箱根の御山を越えようとする時、箱根権現は、60歳ぐらいの尼公となって顕れました。箱根権現は、他力易行の念仏を授かると、親鸞上人を様々にもてなすのでした。京までの途次、これ以上に様々の不思議なことがありましたが、ようやく都にご到着になった親鸞上人は、早速に参内されました。御門は、

 「京洛中において、衆生済度をしてください。」

 とお頼みになりました。こうして、親鸞は、西洞院、押小路の東側(京都市中京区二条西洞院町663付近)の辺りで、御説法を始めたのでした。神仏上人は、早速に佐竹殿を、親鸞上人の所へ連れて行き、一大事を与えてもらいました。こうして佐竹殿と神仏上人は、常陸の国にお帰りになり、稲田の里にお寺を建て、布教をしました。さて、親鸞上人は、それからも広く御説法されましたが、御年満九十の年に、西方安養極楽世界へお帰りになりました。東山(善法院)にて弔いが行われ、お骨は大谷に納められました。大谷本願寺というのは、この時にできたのです。親鸞亡き跡を継いだのは、如信上人です。(孫:嫡子善鸞は勘当された)それより代々、知識が輩出し、浄土真宗は、日本第一の宗旨として栄えるのです。真宗に、宗旨変えをしない者はありませんでした。

 おわり

 


文弥人形真明座 至高の操り  

2014年06月22日 23時16分47秒 | 調査・研究・紀行

真明座の長岡歴博公演「嫗山姥二段目」の後半「時行切腹の場」で八重桐を操った川野名座長は、まさに鬼人の如しでした。文楽では、「ガブ」という仕掛けで、頭の表情を瞬時に変えて見せますが、文弥人形にはそんな仕掛けはありません。八重桐の頭を瞬時に山姥に挿げ替えるその迫力に、場内は騒然となりました。ほんとに凄い。まさに金時が宿ったという感じです。この感じは、文弥人形以外では出ないと思います。

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切腹した夫坂田時行の魂が宿った八重桐

『三十二相の容顔(かんばせ)も、怒れる眼、もの凄く』

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『島田解けて、逆様に』

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『たちまち、夜叉の鬼瓦』

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現在の頭(八重桐)を宙に放り捨て、瞬時に山姥の頭に入れ替えました。これは、言う程簡単な事ではありません。古浄瑠璃の絡繰りというのは、この様に単純かつ明快であるべきであろうというお手本みたいな舞台でした。真明座の皆さんご苦労様でした。有り難う御座いました。

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ⑤

2014年06月21日 19時08分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ⑤

 親鸞上人は、ある時人々を集めて法談をするために高座を飾り付けました。国中から老若男女が門前に市をなす程に集まり、上人の御説法を今や遅しと待っております。やがて、親鸞上人が高座に上がられて、法話が始まりました。

 「さて、正月というのは、歳徳神(としとくじん)と言いまして、広く人々がお祝いを致しますが、その根源を尋ねてみますと、阿弥陀如来でいらっしゃいます。そういう訳ですから、私の法では、貧富にかかわらず只、念仏を唱えよと言うのです。又、七月には、精霊を祀りますが、そこでは、輪廻から解脱するために、七仏通を唱えることが重要です。(七仏通誡偈)ですから、それぞれの家で先祖を祀る必要は無いのです。さて又、修多羅(しゅたら)の経というものは、月を指差すその指の様なものです。あれが月だよと、指指しますが、次に見る時にはもう、指は必要無いでしょう。仏も同じこと、念仏以外の雑行(ぞうぎょう)は、いらないのです。八万諸経は、それぞれに仏を指し示していますが、すべて阿弥陀仏に集約され、五輪卒塔婆でさえ、阿弥陀の誓願に叶うものですから、なんの障りも無いのです。ですから、只、一心一向に、南無阿弥陀仏、お助け下さいと、信心深く唱えなさい。そうすれば、地獄に落ちるなどということは、決してないのです。」

 誠に有り難い説法に、鹿島の大明神も、二十丈(約60m)ばかりの大蛇になって聞き入っていました。それから明神様は、三十ばかりの男と姿を変えると、

 「大変有り難い教えです。」

 と、頭を垂れて、礼拝をなされるのでした。親鸞上人は、すぐに鹿島大明神の化身であると見抜くと、

 「おお、お気の毒に。五衰三熱の苦しみのために、ここまでいらっしゃったのですね。さあさあ、そうであれば、早速に、他力本願の易行念仏(いぎょうねんぶつ)をお授けいたしましょう。」

 と、御十念をお授けになったのでした。すると、大明神は、立ち所に五衰三熱から逃れることができたのでした。大明神は、有り難や有り難やと礼拝されると、

 「見たところ、ここには御手水水(ごちょうずみず)が出るところがありませんね。それでは、私が御報謝いたしましょう。」

 と、仰ると、鹿島の方を手招きなるのでした。すると、忽ちに井戸が湧き出で、滝の様に流れ出しました。(神原の井戸)更に手招きをされると、今度は、神馬に跨がって大天狗が現れました。大天狗は、御簾と御帳を抱えてきました。大明神が、

 「どうぞ、これをお使い下さい。」

 と、親鸞上人に献げますと、上人は、忝しと受け取って、

 「それでは、此上は、法名を授けることにいたしましょう。」

 と、鹿島大神宮に『釈信海』(しゃくしんかい)という法名を授けたのでした。大明神は大変喜んで、鹿島へとお帰りになったということです。ところが、その頃、鹿島神宮では社人達が大騒ぎをしていました。ご神前の御簾や御帳が無くなってしまったのです。慌てふためいている所へ、今度は、昔からある七つの井戸の内のひとつが、突然消えてしまったという知らせが入りました。人々は、いったい何が起こったのかと、話し合いましたが、埒も明きません。

 「御簾と御帳は、人が盗むということもあろうが、井戸がなくなるというのは、いったいどういうことだ。これは、天下に災いがある兆しではないか。あるいは、我々社人に何か災難が起きるのかも知れない。大明神にお供え物をして、ご託宣を伺う外はあるまい。」

 ということになりました。お供えをすると、やがて、十四五ぐらいの子供が、託宣を口走り始めました。

 「我は、この社の神霊なり。五衰三熱が苦しいので、親鸞上人に会いに行き、他力易行の念仏を授かった。その上、釈信海上人と法名を受けた。それで、親鸞上人に、井戸や御簾を報謝としてお渡しした。これからは、よくよく、親鸞上人を尊んで拝むように。」

 或る神主は、この託宣を知識に種として、早速に親鸞上人の御弟子となり、後々、都までお供をされたということです。兎にも角にも、親鸞上人の尊さは、何にも比べ様がありません。

 つづく

Photo (別板:東大本より)

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ④

2014年06月21日 09時58分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しんらんき ④

さて、越後の国府に流されていた親鸞上人は、ある時、共の者も連れずに只一人、常陸の国へ向かわれました。親鸞上人は、自ら笈を背負い、道中の所々で逗留しながら説法をして回りました。やがて、常陸の国笠間郡稲田と言う所にお着きになられると、ここに草庵を結ばれ、布教活動をされたのでした。(西念寺:茨城県笠間市稲田)
それはさて置き、其の頃、常陸の国には、山伏が多数おりました。山伏達は、

 「この上人が、来てからと言うもの、山伏の霊験を頼る者がいなくなった。」

 と愚痴をこぼしていましたが、中でも妙法坊という山伏は、

 「この上は、この坊主を殺害して、山伏達の瞋恚の怒りを静めよう。」

 と考え、触書を書いて国中に回しました。やがて、恨みをもった山伏達が大勢集まってきました。その数は総勢24名でした。妙心坊が、

 「皆さんお聞き下さい。親鸞とやらが、この国に来てよりこの方、山伏を頼りにする者も居なくまりました。こんな無念なことはありません。なんとかしてこの上人を殺害して、我々の法術を繁盛させようではありませんか。」

 と言うと、人々は喜んで、親鸞を待ち伏せして殺すことにしたのでした。親鸞上人がいつも通るという山道に、待ち伏せして、今や遅しと待ちましたが、その日は、親鸞上人は山道を通らず、遥か下の谷を通られました。山伏達は悔しがって、今度は谷に下って、上人が来るのを待ちました。するとその日は、上人は山道を通られます。次に山伏達は、山と谷に分かれて待ち伏せをしましたが、とうとう親鸞上人はお通りになりませんでした。山伏達は、集まって、

 「やはり、この上人は、通力自在だ。」

 と、騒ぎましたが、妙法坊が、

 「いやいや、皆さん聞いて下さい。そもそも、稲田の草庵を踏み破って討ち入り、吊し上げて首を掻き切ってやるつもりだったのですから、こうなったら、稲田の里に攻め込みましょう。」

 と言いますと、心得たりとばかりに二十四人の人々は、稲田の里へ急行して、親鸞上人の草庵を二重三重に取り囲んだのでした。山伏達が、我先にと争っていると、親鸞上人が現れました。皆水晶の数珠をつまくりながら、念仏をお唱えになっておられます。どこにも気負った所も無く平常心そのままです。二十四人の山伏は、逃がさぬぞとばかりに取り囲んで、太刀を抜き放ちました。しかし、山伏達は思わず、親鸞上人のお姿を尊く感じて、切り込むことができません。いったいどうしたことかと、思っていると、なんと不思議なことに、空から花が降り始め、異香が漂い、菩薩がご来迎されたのでした。親鸞上人のお顔は、金色の光で輝き、そのお姿は、阿弥陀如来として顕れたのでした。妙法坊を初めとして二十四人の山伏達は、持つ太刀もへなへなと取り落として、忽然と仏事に目覚めたのでした。人々は皆、頭を地に付けて、

 「さても、有り難し、有り難し。上人様が仏様でいらっしゃるとは、露にも知らず。このような事を思い立つ事の浅はかさよ。」

 と、涙を流して、

 「これからは、悔い改めて、上人様の教えに従いますので、どうか御法話下さい。」

 と懇願するのでした。すると、親鸞上人は、元のお姿にお戻りになり、

 「おお、容易いことです。そこで、よっく聞きなさい。阿弥陀の本願は、どのような悪人、女人であろうとも、南無阿弥陀仏を念じさえすれば、必ず極楽へ救い取るという誓願です。あなた方が、どんなに大悪人であっても、一心一向に、南無阿弥陀仏と唱えるのなら、成仏は疑いありません。南無阿弥陀仏。」

 と、お話になり、念仏を唱えるのでした。二十四人の山伏達は、頭巾、篠懸を金繰り捨てると、皆々そろって弟子となりました。まったく、親鸞上人の御法力は大変なものです。中々、言葉には尽くせません。(関東二十四輩)

 つづく

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ③

2014年06月20日 20時05分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ③  

ある時、都周辺の碩学(せきがく)が集まって、こんなことを話し合ったのでした。

 「この頃、法然や親鸞の教えが、どこでも、もてはやされているのは心外である。此奴等の教えが正しいとはとても思えない。」

 「こんなに人々を引きつけるのは、きっと魔法の様なものを使っているのに違い無い。怖ろしいことだ。このことを奏聞して、遠島にさせてやろう。」

 そうだそうだ、この二人をやっつけようということになり、早速に参内すると、

 「近年、法然、親鸞は、日夜朝暮に、専修一行(せんしゅいちぎょう)の法という教えを説き広めています。洛中の老若男女貴賤を問わず、夥しい人々がこの法談を聴聞するために集まって来ます。この二人は、魔法を使っているのです。このような群衆を放置しておいては、国の乱れに繋がります。何とかして下さい。」

 と、口々に奏聞するのでした。御門はこれを聞いて、

 「一宗と一宗の争いであるなら、嫉みの訴えとも考えるが、全ての宗派が揃って、そのように申すのであれば、釈尊の教えに反する教えなのであろう。この二人の僧を、島流しとせよ。」

 と、宣旨するのでした。碩学達は、喜んでそれぞれの寺へと帰って行きました。そして、法然上人は、土佐の番田(はた)(高知市)へ、親鸞上人は、越後の国府(こくぶ)(上越市:五智国分寺)への流罪が決まったのでした。

  法然上人は、親鸞上人に、

 「さて、今までは、ひと所に流されるものと思っていましたが、そうではなくて、互いに遠い国に別れ別れとなるとは、誠に名残惜しいことになりました。」

 と涙ながらに言うのでした。親鸞上人も、

 「愚僧も、内々、御一所にと思っておりましたが、残念ながら、上人様は土佐の番田へ、愚僧は越路へと聞いて、大変心細く思っております。」

 と、涙ぐんでいます。やがて、法然上人が、

 「さて、現世は、老少不定(ろうしょうふじょう)。遅れ先立つ事もあるでしょうから、必ず西方安楽世界で、お会いいたしましょう。」

 と言えば、親鸞上人は、

 「そうですね。あちらの世界でお会いいたしましょう。」

 と、互いに袖に縋りついて、嘆き合うのでした。住蓮房、安楽房を初め、多くの弟子達は、この有様を見ると、

 「ああ、明日からは、法然上人とも、又親鸞上人とも、一体どなたを、拝めばよいのですか。」

 と、一同、声を上げて泣き叫ぶのでした。まったく、釈迦の御入滅の場面を見る様です。二人の上人は、会者定離の習いは、今更驚くことでもないと、それぞれに最後の説法をするのでした。

 「互いに恋しいと思うのなら、片時も怠らず念仏を唱えましょう。そうすれば、安養安楽世界に救われるでしょう。さらば、さらば。」

 と、二人の上人が立ち別れる時、弟子達は、法然、親鸞の衣の袖に縋り付いて、声を上げて泣くのでした。やがて、法然は土佐の番田へ、親鸞は越後の国に流されたのでした。

  それからというもの、何人も、念仏した者は、一族郎党諸共に罪科に問われる事になったのです。都の人々は、王意に背くことはしませんでしたが、口は閉じて、内心では念仏を唱えて暮らしたのでした。住蓮房と安楽房は、法然、親鸞上人に別れた後、しばらく呆然としていましたが、咎めがあろうとも、念仏をやめようとはしませんでした。或る日、念仏禁制を取り締まる武士達が、この念仏の声を聞き付けて、寺中へ踏み込んで来ました。

 「念仏禁制と触れているのに、念仏するとは、お上を軽んじるのか。」

 と、二人の僧を縛り上げました。時の奉行は、二人を投獄すると、参内して事件の奏聞をしました。宣旨の内容は、斬首でした。早速に二人の僧は、五条河原に引き据えられてしまったのでした。二人は、

 「上人達には、ご心配をかけますが、我々が一足先に、彼の岸でお待ちいたしましょう。」

 と覚悟を決めると、声も高らかに念仏を唱え始めたのでした。その時、一人の太刀取りが近付いて、こう問いました。

 「このような災難に遭っても、念仏さえ唱えれば、助かるのか。」

 安楽房は、これを聞いて、

 「おお、これは良いお尋ねですね。魂には、永遠の家はありませんし、五体の主も永遠ではありません。どうして、念仏することが、悔いになりましょうか。『一念弥陀、即滅無量罪』と言うのですよ。あなた方の様に、咎深き人間も、一心に阿弥陀仏を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、その罪は、たちどころに消えて、成仏することができるのです。」

 と、念仏の尊さを説くのでした。しかし、太刀取り達はやがて、後ろに廻り、

 「御房、何度、念仏をお唱えても、この太刀先には敵うわけがない。この太刀を受けて見よ。」

 と言うなり、お首をバッサリと刎ねました。二人の首は、前に飛んで落ちましたが、その首が念仏を三遍唱えたのでした。人々は、驚いて、奇蹟が起きたと、心の中で念仏を唱えました。太刀取りは、その人々の様子を見ると、

 「ええ、何が奇蹟だ。念仏している所を討ったので、そのように聞こえたのにすぎぬわい。只の気の迷いだ。さあ、獄門に上げるぞ。」

 と息巻いて、二人の首を、五条河原に曝したのです。ところが、不思議な事に、二人の太刀取りの一人は、突然血を吐き、今一人は、泡を吹いて、ばったりと倒れてしまったのでした。驚いた人々が、御僧達の首を見ていると、一人の首には後光が射し、もう一人の口からは、青蓮華(しょうれんげ)が顕れました。まさに菩薩が来迎したのでした。この有様を見た人々は、有り難し、有り難し、これこそ菩薩だと、拝まぬ人はありませんでした。

 つづく

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ②

2014年06月19日 19時02分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しんらんき  

内裏において、善信房が歌の名誉を受けたことは、まるで仏の化現を思わせる様な出来事でした。さて、ある時、善信房は、修行のため六角堂(紫雲寺頂法山)にお籠もりになりました。すると不思議な事に、満月の夜に、観音様が白衲(びゃくのう)の袈裟をお着けになって、善信房の枕元に立たれたのでした。観世音は、有り難い事に四句の文をお授けになったのでした。

「行者宿報設女犯(ぎょうじゃ しゅくほう せつにょぼん)

  我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょ しん ひぼん)

 一生之間能荘厳(いっしょうしけん のう しょうごん)

 臨終引導生極楽」(りんじゅう いんどう ごくらく)

 (そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。)

 「これは、私の誓願である。一切の衆生にこれを説き聞かせなさい。」

 と仰ると、観世音は、掻き消す様に消えたのでした。善信房は、夢から覚めると、かっぱと飛び起きました。それから、善信房は、思う所があって、黒谷(京都市左京区岡崎:光明寺)の法然上人を尋ねました。すると、法然上人は、こうお話になるのでした。

 「昨夜、不思議な事に、六角堂の観音様の夢を見ました。」

 そうして、授かったという四句の文をお書きになったのでした。それは、善信房が授かった四句の文とまったく同じものだったのです。こうして、善信房は、法然上人と師弟の契約をなされたのでした。時に、善信房、御年二十九歳のことです。善信は大変優秀であったので、どちらが師匠でどちらが弟子か分からない程でした。

  さてその頃、九条の月輪殿(関白太政大臣九条兼実)は、法然の説法をご聴聞なされて、仏智にお近づきになっておりました。その日も、沢山のお供を連れて、黒谷へお参りになりました。月輪殿が、法然上人に

 「この間は、都合がわるくなって、お参りすることができませんで、申し訳ありません。」

 と言いますと、法然上人は

 「何処に居ようと、心にさえ掛けておられるのなら、阿弥陀の本願から漏れることはありません。阿弥陀の本願と言うものは、『本は、凡夫の為、予ては聖人の為』(歎異抄の引用)にあるのです。」

 とお話になったのでした。九条の月輪殿は、仏法に深い理解がある殿上人でありましたので、

 「これは、誠に有り難いお話です。この上は、どうか御弟子の中からお一人、私に戴きたい。それを菩提の知識とし、後世の成仏を願いたいと思います。」

 と願いました。法然上人は、

 「委細、承知。」

 と答えると、善信房を呼んで、九条殿へ移るようにと命じたのでした。善信房は涙を流して

 「どうして、その様なことを仰せになられるのですか。思いも寄らない事です。」

 と、断りましたが、法然上人は、

 「おまえの気持ちも尤もなことではあるが、これも私の義ではないぞ。これこそ六角堂の観世音の教えなのだ。六角堂で授かった四句の文の説く所は、まさにここだぞ。何の疑いがあろうか、早く用意しなさい。」

 と迫るのでした。善信房は、法然上人とは離れがたく感じましたが、四句の文の教えを考えれば、観世音の教えに逆らうわけにもいかず、法然上人のお計らいと自分を、無理矢理に納得させて、九条殿へとお移りになられたのでした。九条の月輪殿は、大変にお喜びになって、そのまま、娘の玉女(玉日)を、坊守(ぼうもり:真宗僧の妻)に備えたのでした。

  親鸞上人は、こうして真宗という法を確立なされて、一向専修の法を、お説きになられました。都中の老若男女が貴賤を問わず、こぞって聴聞にやってきたので、夥しい人々が、親鸞上人の説法を聞いたのです。親鸞上人は、高座に上がられて、第十八願をお説きになられました。

 「説我得仏 十方衆生(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう)

 至心信楽 欲生我国(ししんしんぎょう よくしょうがこく)

 若不生者 不取正覚」(にゃくふうしょうじゃ ふしゅしょうがく)

 「この文は、『もし、私が仏になる時、すべての人々が、心から信じて、少しも疑わずに、仏の国に生まれたいと願って、念仏を唱えたのに、もし、救われ無かったのなら、私は、決して悟りを開きません。』と言っているのです。又、いろいろな修行も一切やめて、一心一向に念仏を唱えなさいという教えは、神にお祈りをするなということではありません。何故かと言えば、神も仏も、これは、水と波の違いでしかありません。神というのも元々は仏様なのです。仏様は、衆生を済度する為に、あちらこちらに神々として顕れて下さり、色々な奇蹟をなされるのです。ですから、水を指して仏と言ったり、波を指して神と言ったりしますが、一滴万水、根本は只一つなのです。このように考えて行きますと、根源の阿弥陀如来を念ずれば、神様にも必ず通じていることになるのです。特に、皆さんの様に、愚痴無知の人々は、未だ目にもしない遠い未来のことを念ずより、今現在の利益を、身に余る程願いますが、そうした祈誓の為に、神様は、五衰三熱の苦しみを味わっておられるのですよ。明けても暮れても六塵の煩悩にまみれて、いつまでもこの国に居たいと願っている人ばかりですが、この世は、一休の世界と言って、一休みをする国でしかないのです。永遠の国である後世での成仏を願わなければ、あっと言う間に、地獄へ落ちてしまうのですよ。そんな悲しい事にならない様に、私は、皆さんに説法をしているのです。さあ、皆さん。この教えを信じ、雑行雑修(ぞうぎょうざっし)の心を振り捨て、一心一向に「南無阿弥陀仏、助け給え」と念じなさい。もし、念じた人が一人でも地獄に落ちたのなら、私はその人に替わって八万地獄に落ちるでしょう。南無阿弥陀仏。」

 親鸞上人のお話を聞いた人々は、弥陀如来の化現であると、皆涙を流して拝むのでした。

 つづく

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ①

2014年06月18日 16時30分23秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

  真宗のご本家、東本願寺は、親鸞伝の最高峰である「親鸞伝絵」以外の親鸞伝を、極力排斥した。親鸞に関する人形操りの上演中止どころか、正本の出版すら禁止したのである。これは、説経が寺社仏閣と仲良しなのと対照的なことである。説経者は、例えば関蝉丸神社に身分的に属していて、上納金も納めていた。納めなければ、興行は出来なかったからである。説経者はその点、定められたメッセンジャーであったのかもしれない。これは、単なる想像だが、浄瑠璃者は、そういう意味で自由者だったのかもしれない。東本願寺は、神聖な親鸞伝が、文芸的に書き替えられて行くのも我慢できなかったし、有料のありがたい『親鸞伝絵』を自分たちで、独占しなければならなかった。しかし、親鸞記物は、名を変え、品を変えて次々と世に送り出されたようである。裏を返せば、親鸞上人には絶大な人気があって、ドル箱だったということが言えるのだろう。 

 古浄瑠璃正本集第1の13には、版元も刊期も太夫も不明の古活字本「しんらんき」(龍谷大学蔵)が収録されている。古活字であることから、寛永年間(1630年代)の作品と推定されている。

 

しんらんき

  天竺(インド)では天親(てんしん)菩薩、唐土(中国)においては、曇鸞(どんらん)がいらっしゃいますが、日本では、天親の親と、曇鸞の鸞とを合わせて、親鸞上人がお生まれになったのです。その由来を詳しく尋ねることにいたしましょう。
 さて、神武天皇より七十七代、後白河の院の御代のことです。天児屋命(あめのこやね)の末裔で、大織冠鎌足より二十一代、皇太后宮大進(こうたいごうぐうだいじん)日野有範(ありのり)という公卿がありました。有範卿には、子供が一人おりました。松若丸と言います。松若丸が九才の春のことです。有範卿は、こう考えました。
『さて、比丘(びく)は、洛陽の風の前で、生死の境を滅却するのだという。それに比べて、私は貪瞋痴(とんじんち)の三毒に迷い、煩悩に捕らわれて、彼岸へ到達することなど、覚束ない。我が子を慈鎮和尚(じちんかしょう:慈円)の弟子にすることで、これを菩提の種として、後世の成仏を願うことにしよう。』
 そして、松若丸は、叡山へと送られることになったのでした。慈鎮和尚は、松若丸にご対面なされると、

「おお、なんと容顔美麗の子供であることか。どう見ても、只人には見えない。おそらくは、菩薩の再誕であろう。」
 

と、感嘆して、その場で出家させると、お名前を、善信房とお付けになったのでした。 

 ある時、慈鎮和尚のお歌が、都の噂となりました。その歌というのは、こうです。
 

「我が恋は 松の時雨の 染めかねて 真葛が原に 風騒ぐらん(なり)」(新古今和歌集1030)
 

あまりに評判になったので、御門までも、
 

「そもそも、知識の大僧正が、恋をすることがあるのか。それ、勅使を立てて、子細を聞いてまいれ。」
 

と、言う程です。その時、三条右大将が進み出でて、
 

「お言葉ですが、歌人というものは、『行かずして名所を知る』と言う喩えもありますので、一先ずは、座主(ざす)のお心を、お試しあってはいかがでしょうか。」
 

と進言しました。御門も、尤もお考えになり、「雪中の鷹」というお題を出されて、叡山へと送ることになったのでした。 

 慈鎮和尚は、「雪中の鷹」の題をご覧になると、すぐに一首、お詠みになりました。慈鎮和尚は、その一首を善信房に持たせ、勅使と共に内裏に向かわせました。さて、内裏では三条の右大臣が、慈鎮和尚の御歌を吟じました。 

「雪降れば 身に引き添うる 鷂の(はしたかの) 手先(たなさき)の早や 白うなるらん」 

この返歌に、宮中の人々は、大変感心し、御門は、遣いの善信にも、一首を所望したのでした。突然の勅宣に、善信は驚きましたが、即座に、 

「鷂の 身よりの羽風 吹き立てて 己と払う 袖の白雪」 

とお詠みになったのでした。御門は、この歌にも大変感心されて、善信の氏を問いました。善信坊は、若狭の守と答えたので、御門は
 

「おお、それでは、そのような立派な歌が詠めるのも尤もなこと。そなたの祖父も師匠も、世に抜きんでた歌人じゃからな。」
 

と、勿体なくも、身につけていた白い御衣を善信房に下されたのでした。有り難しと喜んだ善信坊は、その白い御衣を、襟巻きにされると、御前を下がったのでした。今日に至るまで御開山大上人の御襟巻きと言うのは、この襟巻きなのです(正しくは帽子(もうす))。誠に、仏様の化身であると、善信房を拝まない者はありませんでした。
 

つづく

 


新潟県立歴史博物館 佐渡人形芝居 真明座

2014年06月10日 12時02分46秒 | 調査・研究・紀行

6月吉例、真明座の長岡公演をお知らせ致します。

午前の部:嫗山姥(こもちやまんば)八重桐廓噺の段
午後の部:源氏烏帽子折(げんじえぼしおり)竹馬の場、宗清館の段

どちらも、近松の作品です。源氏烏帽子折は、元禄三年(1690)近松が、38歳の時の作品です。まだ古浄瑠璃の香りが漂っている感じがします。

源義朝が殺された後、運命が急変する常磐御前と、その三人の子供達(今若、乙若、牛若)の物語。1段目の後半の「竹馬の場」は、子供達が竹馬(切った竹を馬に見立てて跨がること)に乗って、合戦ごっこをして遊びながら、平家追討を誓い合いますが、なんとも愛くるしい場面です。

義朝が殺害されたのはまだ、正月三が日のことです。三段目では、逃げ落ちる常磐親子が、雪の伏見で難渋します。そこである庵に、助けを求めたのですが、そこは、敵方の平宗清の庵だったので、断られてしまいます。寒さの余り、気を失った母の為に、子供達が着物を脱いで着せ、一所懸命に看病します。裸になった子供達が、寒さに震えながらも、耐えて強がる場面がいじらしい所です。しかし、宗清の妻は、源氏の家臣、藤九郎盛長の妹であったので、親子は危うく難を逃れることになります。

猿八座でも、今年、この源氏烏帽子折に取り組んでいます。9月には、新発田稽古場での公開稽古を予定しておりますので、お楽しみに。

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忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ⑥終

2014年06月01日 11時34分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ⑥終

さてその頃、中将殿は、牢獄から引き出されて、もう由比ヶ浜に引き据えられていました。

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敷皮を敷いて西向きに座り直して、中将殿は、

「さて、皆さん聞いて下さい。十二年もの長い間の牢暮らし、とうとう今日限りの命となりました。無念なことではありますが、暫しの猶予をお与え下さい。末期の一句の代わりに、成仏の御法を説いてお聞かせ致しましょう。」

役人達は、これを聞いて、

「おお、仰る通り、我々は、朝な夕なに、人を殺すのが仕事。有為も無為も分かりません。それでいて、又我々も、何時かは行かなければならない道ですから、成仏の道を聞かせて下さい。」

と、言うのでした。こうして中将殿は、話し始めたのでした。

「それでは、語って聞かせましょう。そもそも、仏法の始まりは、釈迦如来が霊鷲山においてお説きになられた事どもです。四十余年に渡ってお説きになったお言葉が、お経となったのです。それは、華厳経に阿含経、方等経に般若経等です。これらのお経に関して、四人の御弟子が釈尊にいろいろ質問しましたが、御釈迦様はこう答えたそうです。

『いろいろな経は、即身成仏を成し遂げる為の方便に過ぎない。つまり、家を建てるのに足場を造るようなものだ。それでは、誠の経を説くことにしよう。』

そうして、説かれたのが「法華経一部八巻二十八品」文字の数、六万九千三百八十余字の一字一字が、全て金色の仏体です。三世の諸佛の本願は、一切衆生が成仏する直道を顕すことなのです。ですから、愚痴も無知も、「妙法蓮華経」を唱えれば、法華経一部を読むのと同じ功徳が顕れ、即身成仏は疑い無いのだと得心なされなさい。」

これを聞いた、人々は、

「これは、本当に有り難いお経です。一時なりとも、執行を延ばしましょう。」

と、休んでおりますと、梶原が乗った馬が飛んできました。梶原は、

「それ、切るな。」

と、呼ばわるのでした。喜んだ役人達は、その縄も解かないで、急いで中将殿を、御所まで運びました。

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中将殿が、大庭に引き据えられると、頼朝は、

「中将を、この稚児に取らせよ。」

と言いました。摩尼王は、急いで走り寄ると、中将の縄を解き、醒め醒めと泣くばかりです。中将は、我が子とも知らずに、驚いて、

「どうして、そんなに悲しんでいるのか。」

と尋ねると、摩尼王殿は、涙をおさえて

「はい、私は、母の胎内で別れた嬰児です。母上様から、父上様のことをお聞きして、まだ生きていれば対面し、もう死んでいれば、弔おうと考えて、ここまで尋ねてきましたが、頼朝公のお情けにより、ここにこうしてお会いすることができました。うれしや。」

と、言うと父に飛びつきました。中将は、

「おお、さては我が子か。」

と、喜びの涙がこみ上げるのでした。それから、頼朝は、大橋の中将に本領の壱岐と対馬を安堵し、摩尼王を「左少将晴純」と任官して、四国九国を与えたのでした。親子の人々は目出度く筑紫に帰り、栄華に栄えたということです。これも偏に、法華経の功力であると、言わない人はありませんでした。

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おわり

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ⑤

2014年06月01日 10時35分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ⑤ 

鶴岡八幡宮に参拝した二人は、手を合わせて、

「南無や、八幡宮。私たちが、遙々筑紫より、この国までやって来たのは、母の胎内で別れた、父の大橋を探すためです。どうか、父に会わせて下さい。」

と、深く祈願すると、彼の法華経を取り出して、声高らかに読誦を始めたのでした。今では松若も、すっかり法華経を覚えていましたので、二人は、声を合わせて読誦するのでした。

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その場に居合わせた参拝の人々は、このお経を聴聞すると、帰ることも忘れて聞き入りました。人々は、

「なんと有り難いお経であることか。これを聞かないで、何を聞く。」

と、言って、折り重なる程に詰め掛けて、じっと耳を傾けるのでした。そこへ、右大将頼朝の御前様が参拝なされました。御前様は、この有様に驚いて、『これはまあ、不思議な事です。まだ幼い者が、この様に尊くもお経を読むとは、これはきっと、八幡様が顕れたに違い無い。』と、お考えになり、安藤七郎を呼ぶと、

「これ、七郎。ここに居る稚児を、ここに留めておくように。」

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と、言いつけて御所に急いで引き返したのです。御前様は頼朝公に、

「今、鶴岡八幡宮にお参りに行って参りましたが、大変不思議なことに、十二三歳の子供が二人、法華経を読誦して居るのに出合いました。このお経が大変素晴らしく心に沁みるのです。この稚児を、招いて、是非、ご聴聞して下さい。」

と勧めるのでした。頼朝は、梶原源太景季に命じて、その二人の稚児を、急いで連れて来る様に命じました。早速に源太は、八幡宮に行き、摩尼王を見つけると、

「それなる稚児。我が君、頼朝公がお召しである。早くこちらへ。」

と呼ぶのでした。摩尼王は、

「なんと、有り難や。これぞ、鶴岡八幡のお導き。」

と思って、源太に連れられて、八幡宮を出ようとしましたが、安藤七郎は、

「いやいや、その儘のお姿では、余りに見にくい。この衣装にお着替えなされよ。」

、上等な小袖と大口袴、それに水干を差し出すのでした。摩尼王は、

 「いや、旅の墨衣の儘で結構です。」

 と断りましたが、七郎が、

 「いやいや、御所にてのお経は、八幡宮のそれとは違いますよ。どうぞお着替え下され。」

 と、重ねて言うので、着替えることにしました。

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 二人は、見違える程の美しい稚児の姿となって、御所の白砂に立ったのでした。さて、頼朝公はといえば、大紋の指貫に、木賊色の狩衣を着て、立烏帽子を被って、笏を手にしておられます。そして、居並ぶ武将は、和田、秩父、畠山、千葉、大山、長沼、宇都宮。その外の諸侍の数は知れません。頼朝が、二人の稚児を近くに呼び寄せます。摩尼王は、臆せず、御座の近くに上がり、法華経を取り出すと、高らかに読誦するのでした。

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 頼朝公を初めとし、御前の人々も、

 「なんと、有り難いお経か」

 と、涙を流して、感じ入りました。頼朝は、稚児をつくづくとご覧になって、

「その姿貌も、慈しい。お前は、継母にでも憎まれて家出した者か、それとも師匠に勘当でもされて、国を出てきた者か。何処から来たのか。望みがあるなら言ってみよ。」

と、問いかけるのでした。そこで摩尼王は、

「はい、これは有り難いお言葉です。私は、筑紫の者ですが、、私が、母の胎内にあった時に別れた父が、この国に居ると聞きましたので、父の行方を探すために、鎌倉まで来たのです。」

と話すと、頼朝は、

「ほう、そして、お前は何者であるか。」

と聞きました。摩尼王は、思い切って

「殿の御前で申し上げるのは、畏れ多いことですが、私の父と申すのは、筑紫の国は、大橋の中将です。殿のお怒りにより捕らえられていると聞いておりますが、もしも、まだご存命であるならば、どうぞ一度でも会わせて下さい。もしも、既に死んでおられるのなら、菩提を弔おうと思っております。もしも、まだ生きておられるのなら、どうかお慈悲をもって、お命をお助け下さい。我が君様。」

と、懇願したのでした。頼朝公は、

「なんとも、哀れなことであるな。その大橋のことならば、心配はないぞ。牢獄に繋がれてはいるが、今、呼びに行かせる。只今読誦したお経の布施として、お前に取らせるぞ。」

と、言うと、梶原源太を呼びつけて、

「先年、お前に預けておいた大橋の中将を、この稚児に取らせる。急ぎ解放して渡す様に。」

と命じましたが、源太は、驚いて、

「やや、今日、由比ヶ浜にて首を切ることになっております。」

と、言うのでした。労しいことに摩尼王は、

「ああ、なんと情け無い。どうせ切られるのならば、私が来る前に、切られてしまっていたのなら、こんなに悲しまなくて済んだのに。なんという浅い親子の契りでしょうか。」

と、泣き崩れました。御前の人々も皆、共に涙をぬぐいましたが、頼朝も可哀想に思って、

「ええ、梶原。急ぎ、助命に参れ。誅してはならぬ。」

と、命じたのでした。そして、梶原源太は、馬を飛ばして、由比ヶ浜へ急行しました。父の無事を願う摩尼王の心の哀れさは、言い様もありません。Tyuu15

つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ④

2014年06月01日 07時46分24秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ④ 

二人は、衣の袖を濡らしつつ、寺を立ち出でると、先ず、浜地へ降りて、便船を探しました。


《道行き》
 

漕がれ、筑紫を立ち出でて
名所旧跡、浦々を 

眺め越えさせ給いて 

波路遥かに押し隔て 

立ち返り、古里を 

心細くも、打ち眺め 

急がせ給いける程に 

思いを須摩の浦とかや(明石海峡) 

須崎に寄する波、分けて(兵庫県明石市須崎) 

兵庫の浦に、着きしかば 

陸(くが)に上がらせ給いつつ 

生田を越えて芦の屋の(兵庫県神戸市中央区) 

灘の潮焼く、夕煙(兵庫県神戸市灘区)

心細くも、打ち眺め 

我が父の命は 

池田の宿とかや(大阪府池田市) 

こうない、かちおり(?)打ち過ぎて 

山崎千軒、伏し拝み(京都府乙訓郡大山崎町) 

都の方を見給えば 

時雨に染むる秋の山 

父はと、問わば、恋塚の(京都市伏見区:恋塚寺) 

今ぞ、色めく、玉衣の 

散り敷く、庭の苔筵 

おきね(?)に勝る我が思い 

ようよう、急ぎける程に 

九重に着き給う(都) 

去れど、二人の人々は 

都に、定むる宿無くて 

清水へぞ参られける(清水寺) 

清水に着きしかば、祈誓を掛けて、伏し拝み 

夜と共に、転読し給いて 

夜もほのぼのと明け来れば 

ひと時なりとも鎌倉へ 

急ぎ行かんと思い立ち 

御堂を立たせ給いつつ 

麓に落ちたる滝壺は 

何、流れたる清水寺 

実に清水と打ち眺め 

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歌の中山、清閑寺(京都市東山区) 

花山(山科区)、四ノ宮(山科区)、ちゅうせんし(?) 

関山を打ち過ぎて(逢坂の関) 

誰か、ここにて、松本の(滋賀県大津市) 

父に近江の国とかや 

鳰(にお)の入り江の浜風に(琵琶湖) 

志賀の浦の波立ちぬるを(大津市) 

心細くも打ち眺め 

野路(草津市)篠原(野洲市)の露を分け 

霧降掛かり、霞みて見ゆる鏡山(竜王町) 

馬淵、縄手(近江八幡市) 

惟喬皇子(これたかみこ)の憂き世の長を厭いて 

入りて、久しき、こしょうしゅく(?) 

年も積もるか老蘇の森(近江八幡市) 

川風、寒き旅人の 

小夜の眠りに、夢醒めて 

愛知川過ぎて、摺張り山(彦根市) 

今須、山中打ち過ぎて(岐阜県関ヶ原町) 

尾張の国に入りぬれば(愛知県) 

熱田の宮を伏し拝み(熱田神宮) 

何となる身の潮干潟(鳴海:名古屋市緑区) 

三河に架けし八橋を(愛知県知立市) 

父かと、人に、遠江(愛知県東部) 

浜名の橋の夕潮に(静岡県:浜名湖) 

刺されて、上がる海女小舟 

我が如く、漕がれて物や思うらん 

急がせ給いける程に 

島田を越えて、藤枝や 

宇津の山への蔦の道(静岡市駿河区) 

分けて、問うこそ、物憂けれ 

親故、旅を、駿河なる 

富士の煙を打ち眺め 

南は、滄海、満々として際も無し 

北は、松原、茫々たり 

裾の嵐は激しくて 

伊豆の三島に立ち給う 

明神を伏し拝み(三島大社) 

急がせ給えば、程も無く 

鎌倉にぞ着かれける 

 

 摩尼王殿は、松若に、

 「これから、鶴岡八幡宮に参拝し、父のご無事を祈誓しようと思う。」

 と言うと、八幡宮に向かわれたのでした。この二人の心の内の哀れさは、何にも例え様もありません。

 つづく