猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記⑦終

2012年07月24日 16時13分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人六段目

 その時、弘嗣は法印に近づき、

「今まで、師匠様とばかり思っていましたが、本当は父上様だったのですね。」

と大喜びです。弘知法印ははこれを聞いて、

「もっと早くに名乗って、喜ばせようとは思っていたが、恩愛の執着は大変強いもの

であるので、菩提の障害であると思い、これまで名乗らなかったのだ。この上は、更に

修業を怠るなよ。修業さえ熟すれば何事も心に叶わないことは無いぞ。」

と言えば、これを聞いていた馬子が、

「これは、これは、大変有り難や。実は、あの馬は、私が飼っていた馬というわけでは無

いのです。ついこの間、どこからとも無く、親子馬がやって来たので、持ち主を捜しま

したが、見つかりません。馬主が現れるまでと思い世話をしておりました。普通の馬と

思って居ましたが、このような奇跡を目にしたからは、一念発起して、私も髪を剃り、

弘嗣様に付いて御奉仕申し上げたく思います。」

と言うと、弘知法印は、そのように思うなら兎にも角にもと、早速に髪を剃ると、「弘

りん坊」と名付けました。

 これはさて置き、かつて柏崎で怪我をした弥彦の荒王信竹は、足の傷も治ったので、

君の行方を尋ねようと、あちらこちらを尋ね回りました。荒王は、弘知法印の所在を

聞きつけると、急いでお目にかかろうと、道を急いでおりました。すると、途中で、三

十歳程の女が、七つほどの男の子の手を引いているのと出合いました。女は、荒王に、

「あなたは、弘知法印の所へ行かれる方とお見受けしました。この幼いは、法印のお子

さんです。子細はまたお話しいたしますが、私も共に弘知法印の本に連れて行って下さい。」

と言えば、荒王は、

「さては、千代若様ですか。」

と聞きました。女は、

「いいえ、千代若の弟君です。」

と答えました。荒王が、

「おお、確かその時分、柳の前様は御懐妊なされておりました。母君はどうされましたか。」

と聞くと、女は、柳の前が死んだことを話すのでした。

 そうして、荒王は、二人を連れて、弘知法印の所へとやってきたのでした。弘知法印

は、懐かしい荒王をご覧になり、

「これは、珍しい。荒王、傷は癒えたか。さて、誰を連れて来たのじゃ。」

と言いました。その時、かの女は、

「これは、御失念ですか、法印殿。この者こそ、千代若の弟君。あなたのお子様ですよ。」

と言うのでした。法印が、首をかしげて、

「なるほど、確かに弟はいたが、生まれてすぐに、狼にさらわれてしまった。狼に食わ

れて死んだ子が、どうしてここにおるのじゃ。」

と言うと、女は、

「さすがの法印様でも、変なことを仰るのですね。獅子、熊に育てられて大きくなった

話しは、内外の書伝にいくらでもあります。証拠はこれです。」

と言うと、かの半分に割った鏡の片割れを出したのでした。驚いた法印が、千代若に与

えたもう半分を合わせてみると、疑いもない兄弟です。その時、女は、

「私を誰と思うか。氏神弥彦権現である。その時の狼も、私である。」

と言い残して、消すが如くに消え失せたのでした。人々は、有り難し有り難しと虚空を

礼拝しました。弘知法印は、

「やれさて、これは、我が子に間違いない。兄の千代若は出家であるから、お前は、大

沼の家を継ぎなさい。」

と言うと、千代松と名付けたのでした。

「このことを帝に報告すれば、必ずや帝より所領を給わるであろう。そうしたら、荒王

は、家の家臣として勤めよ。今年は、お前達の母、柳の前の七年忌。忌日はちょうど、

今月の今日である。さあ、母の墓に参詣して、回向をいたしましょう。」

と、法印は、人々を連れて、妻の墓参りをしたのでした。法印は、高らかに御経を読誦

すると、

「如何に、柳の前の霊魂よ。兄は出家し、弟じゃ先祖よりの家を継ぐであろう。その上、

この弘知も、すぐに往生して、お前と共に一仏乗の蓮台に座るであろう。本当の悦びと

は、その時に訪れるぞ。」

と、回向すると、有り難いことに、虚空より音楽が聞こえ、花が降り、二十五の菩薩が

顕れたのでした。そして、墓がぱっかりと二つに割れると、柳の前が顕れました。

「有り難や、私の夫よ。仏法を成就なされて、私を弔う功徳によって、只今極楽世界へ

と引導されて行きます。懐かしの兄弟達よ、母が成仏する姿を、しっかりと拝むのですよ。」

と言い残すと、たちまちに仏体を現し、紫雲に打ち乗り、虚空に舞い上がりました。大

変有り難いことです。その時、仏法僧(ぶっぽうそう)が鳴きながら空を渡りました。

弘知法印は、これを見て、

「人々よ、聞きなさい。只今の鳥は、高野山の鳥であるぞ。この鳥は、こう告げた。

高野山は我等が胸の内にあり、知れば浄土、知らねば穢土(えど)。私は、高野山へ上

って往生を遂げようと思っていたが、どうして場所にこだわることがあるだろうか。只

今、ここで往生いたす。

 愚僧が誓った大願は、この身をそのまま現世に留め置いて、永遠に即身仏の証拠を、

末世の衆生に示すことである。千万年の時が経っても、朽ちもせず腐りもせず、鳥類

畜類にも荒らされず、まるで自然石然となるのだ。

 千代松は、本領を安堵して、御堂を建てよ。兄の弘嗣は住職なり、即身仏となった私

を安置して、衆生に拝ませなさい。」

と、委細を仰せ付けると、人々に念仏を唱えさせ、自らは数珠を手に禅定へと入りました。

そして、まるで眠っているように往生したのでした。有り難いこと限りありません。近

郷近在は言うに及ばず、生き如来を拝もうと群がった人々は、上下貴賤を問わず、夥

しい数だったということです。

 その頃、かつて弘知の身代わりとなって、柳の前を斬り殺した馬子は、出雲崎で羽振

り良く暮らしておりましたが、弘知法印の噂を聞いてやって来ました。

「何、悪所に狂って、親の勘当を受けた大悪人が、なんで成仏などできるものか。狐

や狸の仕業であろう。ほんとの生き仏なら受けてみよ。」

と、言うやいなや、手にした矛で、即身仏の左の脇腹を、ぐさりとばかりに突き立てた

のでした。ところが、その瞬間、馬子の目が潰れてしまいました。馬子が、矛を捨てて、

立ちすくんでいると、神光雷電、夥しく鳴り響き、悪鬼が現れました。悪鬼は、馬子を

鷲掴みにすると火の車に乗せて、あっという間に無間地獄をさして飛び去ったのでした。

まったく恐ろしいことといったらありません。

 さて、こうした奇跡を聞き及んだ都から、勅使として二条の中将がやってきました。

勅諚はこうでした。

「弘嗣を、権大僧都(ごんだいそうづ)とし、千代松は、大沼権之助弘親(ひろちか)

と名を改め、越後の領主とする。急いで御堂を建て、即神仏を安置せよ。」

早速に、御堂を建立すると、弘知法印の尊体を移し、弘嗣が住職を勤めました。弘親は、

昔の館を復興し、末繁盛に栄えたのでした。光孝天皇の仁和七年九月三日

(※仁和は五年までしか無いので架空の設定と考えるべきか:この記述からすると、寛

平2年(891年)のことになるが、805年前では無い。貞享2年(1685年)か

ら逆算すれば、元慶4年のことになる(880年))

に弘知法印は、往生され(史実上の入定は、貞治2年(1363年))貞享2年まで

805年間、今も越後の国柏崎に、そのお姿を拝むことができます。前代未聞のありが

たさに、言うべき言葉もありません。

おわり

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記⑥

2012年07月21日 18時32分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人五段目 

 それから、弘知法印は、弘嗣の手を引いて高野山を目指しました。しかし、遙かなる

越路は、幼い足には、つらい旅です。やがて法印は、弘嗣を負ぶって歩きました。

 あるところまで来ると、弘嗣はこう言いました。

「のう、お師匠様。お話したいことがありますので、降ろしてください。」

法印は、

「言いたいことがあるならば、そこで言いなさい。」

と、先を急ぎます。しかし弘嗣は、

「負ぶわれたままで、お師匠様にお話する事などできませぬ、下へ降りてお話いたしま

す。降ろしてください。」

と、身体をくねって暴れるので、法印は仕方なく弘嗣を降ろしました。すると弘嗣は跪いて、

「外でもありません。七尺下がって師の影を踏まずと申しますのに、如何に幼いとはいえ、

お師匠様の背中に負ぶわれていては、天の仏神がご覧になって何と思われるか。時間は

かかっても、自分で歩いて行きます。お師匠様。」

と言うのでした。父、法印は、我が子の知恵の深さに驚いて、嬉しさが込み上げて来ました。

あまりに愛おしく、父を名乗って喜ばせたくも思いましたが、ようやく思い留まって、

「おお、大人びた弘嗣じゃの。幼い時は、天の許しもあるのだぞ。その上、弟子子と

言えば、師匠は親も同然。幼いうちは、親が抱き育ててこそ人となれるのだから、お前

の言うことも正しいが、幼いうちは親を頼るものだ。ささ、早く負ぶわれなさい。」

と優しく諭せば、弘嗣は、

「おじいさまが、常々仰られていたことは、『鷹は死ねども穂を摘まず。鳩に三枝の礼あり』

と言うことです。鳥類さえも礼儀を知っているのに、師匠と頼みながら、礼儀を失して

は、鳥類にも劣ることになります。負ぶわれるわけにはいきません。どうか手を引いて

いって下さい。」

と、頑なです。これには、法印もほとほと困って、仕方なく手を引いて歩き始めたの

でした。

 先を急ぎたい旅ですが、今年九歳の幼子の足が耐えられるような道ではありません。

やがて、弘嗣の草鞋は血潮に染まって、もう一歩も歩けなくなりました。弘嗣は、足の

痛みに耐えかねて道端に倒れ伏してしまいました。法印は、あまりの労しさに心を痛め

ましたが、負ぶうと言っても聞かず、さりとてもう歩くこともできず、途方に暮れておりました。

 そんな時に、辺りを見回すと、馬が草を食べているのが見えました。近くには今年生

まれたらしい子馬も居ます。土手には、馬子と思しき男が昼寝をしていました。法印は、

この馬を借りて、次の宿まで乗せて行こうと思い立ちました。

「これこれ、あなたはこの馬の持ち主ですかな。次の宿までこの子を乗せていただきた

い。駄賃は望みの通りに払います。いかがですかな。」

と、声を掛けると男は目を醒まして、起きあがると、

「いかにも、私はこの馬の持ち主です。駄賃の仕事でもあれば酒代にでもなろうと、こ

こでお客を待っていました。しかし、見ての通りの駄馬で、子もあるので、遠くへ行く

ことはできません。次の宿までなら駄賃貸し致しましょう。」

と言うので、法印は喜んで、弘嗣を馬に乗せました。法印が、

「我等は高野山へ上る沙門である。まだまだ先の長い旅であるので、道を急いでもらいたい。」

と言うと、馬子は、心得ましたと口を取り、先に立って歩き始めました。ところが、

子馬が急にいななき出すと、母馬も共にひと声いなないたのでした。六根清浄なる弘知

法印は、そのいななきを、こう聞いたのでした。

『子馬が乳を飲みたいと言えば、母馬は、この旅の僧達は高野山へ上る僧。私たちの

菩提に縁ある僧達で、先を急いでいるので、次の宿まで我慢をしなさいと言っている。

さても鳥類畜類に至るまで、人に変わらぬ志し、殊に恩愛の情には変わりは無い。』

と法印は思って、こう言いました。

「しばらく、ここで休むことにしましょうか。子馬に乳を飲ませなさい。」

弘知は、弘嗣を降ろすと、傍らに腰を掛けて休みました。子馬は喜んで母馬の乳を飲ん

でいます。

 すると、不思議なことに、親子の馬はそろって、ばったりと倒れてしまったのです。

いったいどうしたことでしょう。親子の馬はぽっくりと死んでしまったのです。馬子は、

呆れ果てていましたが、法印は少しも驚かず、親子馬の死骸に向かい、尊勝陀羅尼を

読誦しています。やがて、

「如是畜生地獄。到来生死、到来生死。」

と高らかに唱えると、陀羅尼の功徳が現れ、不思議にも親子馬の死骸はかっぱと二つに

割れたのでした。驚いたことに、母馬の死骸の中からは、父、秋弘が、子馬の中からは、

亡くなって久しい法印の母親が現れたのでした。

「珍しや弘友、お前が弘知法印となって、我々を助ける事は、前世よりの因縁と定まっ

た事。又、お前の妻、柳の前が死んだことも、七月半で生まれ出た産子と別れたのも

同じ事。仏の方便は無量であるから、やがて不思議なことが起こるであろう。さて、

我々は、不慮の悪縁によって、たちまち畜生道に落ちてしまったが、お前を子に持った

ことで、二人とも今、兜率天(とそつてん:須弥山の頂上)に生まれ変わろうとしているのだよ。

お前は、本当は観音菩薩であるのだが、衆生済度のためにこの世に生まれたとも知らず、

唯、我が子とばかり思い違いをしておった。お前は、永く即身仏となって、末代まで

衆生に拝まれることになるだろう。有り難し、有り難し。」

と、言いながら、二人は忽然と天人となり、虚空へと昇って行ったのでした。弘知親子

は本より、近郷近在の人々まで、前代未聞の出来事に、拝まない者はありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記⑤

2012年07月21日 09時52分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人四段目 

 弘知法印が高野山に上ってから、既に七年の年月が流れました。弘知法印は、修業を

積んで、六根清浄の大知識となりましたが、さすがに望郷の念断ちがたく、修業がてらに

越路へと足を向けました。加賀と越中の国境である倶利伽羅峠(石川富山県境)に差し掛かると、

道の辺の死人に熊や狼が群れ集まって、死体を食い争っている所に出くわしました。

弘知上人は、このままでは成仏できないと、哀れに思って、回向をしてあげようと思い、

死体に近づくと、熊、狼が、怒り狂って襲いかかって来ました。法印はこれを見て、

「おお、不憫な獣どもよ。そんなに飢えているのなら、この法印がお前達の餌になって

やるぞ。さあ、早く食え。如是畜生。」(発菩提心が略されているカ)

(諸仏大慈悲方便力、普利法界群生類、尽未来際無疲倦、汝当得四無尋智:空海の四句の文を補う)

と四句の文を唱えると、

忽然と弘知上人の身体から光明が発し、辺りを隅々まで照らし出した。すると不思議な

ことに、死人がかっぱと起きあがり、畜生諸共に天狗と姿を変えたのでした。天狗共は

「弘知を魔道に引き入れてくれる。」

と、襲いかかって来ます。しかし、弘知は少しも騒がず、

「本来、お前達は護法神であるはず。何を血迷っているのか。」

と一喝すると、天狗共は頭を地に擦りつけて、

「倶利伽羅不動よりの仏勅にて、弘知の法力を現し、末世の衆生に拝ませる為、我々に

襲わせたのです。我々の好んですることではありません。」と言うなり、ほうほうの体で

退散したのでした。そこで、法印は、不動尊を参詣して、越後の国へと進まれたのでした。

 さて、無常は世の習いというもの。越後の国では、大沼長者秋弘は、弘友を勘当した後、

孫の千代若を大切に養育して月日を送っておりました。光陰は矢の如し、千代若も九歳

となりました。しかし、どういう宿世の因果からでしょうか、年ごとに財宝は消え失せ、

今はもう、召し使う者もなく、年寄りは九つの孫を力とし、千代若は七十を越えた祖父

を頼りとするばかりです。麻の単衣を身に纏って、秋弘は鍬を担いで野に出で食べ物を

探し、千代若は籠を背負って松の落ち葉を掻き集める毎日です。まったく哀れな次第です。

ある日、千代若が木の葉を集めていると、落ち葉の中から突然に大きな蛇が現れました。

蛇は、

「おお、懐かしの千代若よ。私はあなたの母ですよ。」

と、這い寄って来たのでした。飛び上がって驚いた千代松は、

「のうのう、おじいさま。大きな蛇が、物言って、這い寄ります。」

と、悲鳴を上げて逃げ回りました。蛇は、

「そんなに恐れることはない。千代若。」

と言って、懐かしげに千代若を追い回します。これを見て驚いた秋弘は、走り寄って鎌

で追い払いますが、

「このような蛇は、頭を切り落とすのが一番じゃ。」

と、鍬を思いっきり打ち込んだのでした。ところが、地面に岩でもあったのでしょうか。

蛇はするりと逃げて、自分が打ち下ろした鍬が跳ね返って、秋弘の眉間に突き当たって

しまったのでした。ばったりともんどりを打った秋弘は、そのまま息絶えました。

 千代若は、祖父の死骸に抱きついて泣くばかりです。いったいどんな因果の報いでしょうか。

やがて、事故を知った近所の人々が集まって、千代若を慰めている所に、今は弘知法印

となった父の弘友が通りかかったのでした。人々は、旅の僧を見かけると、引き留めて、

「この死人は、大沼長者秋弘と申す者。昔は大福長者でした。権之助弘友という子がありましたが、

勘当されて行方知れずになり、孫の千代若を育てて月日を送っておりましたが、どうい

う因果からか、次第に財宝を失って、今はこのようにお亡くなりになってしまいました。」

と、詳しく説明をすれば、弘知法印は、我が身の上のことと、はっと驚き、凍り付く涙

を抑えつつ、震える声で、

「それは、不憫なこと。それでは弔いいたしましょう。」

と言いながら近づいてみると、紛う事なき父の秋弘です。傍らに呆然と立っているのは、

間違いなく我が子の千代若です。見れば幼いころの面影が思い出されます。今は亡き妻

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記④

2012年07月19日 17時02分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人三段目 

 その後、弘友は、心に懸かることはもう無いと、高野山を目指すことにしました。その

途次、弘友は、柏崎にある越後の高野山と言われる国分寺の五智如来にやってきたので

した。この如来と申すのは、四十五代聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が開眼した日

本屈指の霊仏です。秋弘は、

「私にはもう浮き世に望みはありません。発心堅固に成就して、六根清浄の身となり、

現に即身仏にさせて下さい。」

としばらく願念し、その夜は、そこに泊まることにしました。そこへ諸国行脚とおぼし

き六十歳ぐらいの老僧がやってきました。老僧も仏に礼拝すると、後ろの格子の近くに

座ると、座禅をして観法を始めました。既に、その夜も更けて、無常を示す寺の鐘の音

が澄み渡ります。漆黒の闇の中で弘友は、自分の身の上も身体も肌寒い限りです。磯に

寄せる波に驚いて、鳴き交わす浜千鳥の声を聞くにつけても、昔のことが恋しく思い出

されて、心細さは限りありません。その時のことです、浦風が一陣に吹き渡り、身の毛

もよだつと思うところに、どこからともなく一人の女が現れました。女は、

「お久しぶりです弘友殿。人の恨み、世の嘲りをも弁えず、色に耽って頓着の想いに身

を沈め、夢現とも分からずに暮らしたその人の昨日の姿とは見違えるようなお姿ですね。

浮き世の夢から覚める時が来ましたね。目を醒ましなさい。弘友殿。」

と言うのでした。驚いた弘友が、

「これは、この世の物とも思えぬ声音で、弘友と言うのはどなたですかな。このような

夜中に、女の声とは覚えもありませぬ。」

と答えると、女は、

「覚えもないとは恨めしい。二世と契った睦言を、早くもお忘れですか。私は、あなた

に斬り殺され、その恨みが尽きることはありません。生死は無常とは言いながら、女の

身で、冥途に落ちる罪障は、どれ程のものとお思いですか。魂は冥途で苦しみ、魄は未

だに娑婆で彷徨っているのです。その恨みを語るその為に、こうして仮の姿を現したのです。」

これを聞いて弘友は、

「さては我妻の柳の前か。お前を殺したのは私では無い。今、分かったぞ。いつぞやそなたが、

惣次を遣いにして父の事を知らせた時に、忍び逃げる為に、馬子と衣装を取り替えて、

つまらぬ謀をしたために、お前が、馬子を私と間違えたのも無理は無い。又、その馬子

もお前を知らないから、逃げるために誤ってお前を切り捨てたのだろう。お前を切った

刀は、私が馬子に貸した刀であるから、手には掛けなくとも私が切ったと同じこと、凡

夫の身では知る由もないことだが、このように深く謝るので、これ皆、前世の因縁と思

い、恨みを残すなよ。私も、このように親の勘当を受け、お前を殺した罪咎を発端とし

て発起して、菩提心に目覚めたのだ。どうか恨みを残すなよ。」

と深々と頭を下げれば、柳の前の霊はこれを聞いて、

「それは、嬉しいことです。その心があるならば、最早、恨みを残すことも無いでしょう。

しかし、凡夫の身の悲しさは、火に遭っては水を求め、水に遭っては火を求めるものです。

その時々の苦しみによって、変わり易いのが凡夫の心です。只今のあなたの道心は、親

の勘当を受け、妻子とも別れた悲しみのあまりに起こったことですから、これは皆、色

相の迷いから起こったことです。執愛恋慕の迷い、煩悩のおかげなのですよ。」

と言うのでした。弘友は、これを聞いて、

「安心しなさい柳の前よ。三千大千世界は滅びても私の発心が揺らぐことは無い。おお、

忘れていたことがある。千代若は、父秋弘に預けたので、ちちの跡を継ぐことに間違い

無い。千代若のことは心配せずとも良いぞ。」

と言えば、柳の前は、

「やれ、それこそ凡夫の心。どうして仏になった者に愛着心というものがあるでしょうか。

娑婆においては、色身に隔てられて分からぬことですが、今は私には色身はありませんから、

千代若と慣れ親しむようなことはもう無いのですよ。」

と話していると、座禅をしていた老僧が怒鳴りました。

「やあ、そこに居るのは何者であるか。先ほどよりここで聞いて居れば、事の子細は

分からぬが、このような尊い仏前において、若い男女が密会のていたらく。言語道断である。

逢い引きならば、御堂を出て、どこででも密会せよ。早く出て行け。」

その時、柳の前の姿は忽ちに消え失せたのでした。弘友が、

「私は旅の者。菩提心を起こして高野山に向かう途中、幸いにもこの如来堂に立ち寄り、

通夜をいたしますが、女人と逢い引きとは解せません。」

と言えば、老僧は、

「今まで、若い女と話して居ながら、そうでは無いと争うは曲者。盲語戒を破っておいて、

高野山を目指して何になるか。」

と恫喝しました。弘友が、

「しかし、ここに女などおりません。こちらへ来て見てください。」

と言うので、老僧が近づいてみると、成る程、女の姿はありません。老僧は、あっけに

とられて、

「先ほどは、確かに女がいた。今ここに居ないのも確か。しかしお前が羽織る小袖は、

女物。どうやら何か訳があるようじゃが、子細も知らずにとやかく言うのも盲語戒である。

本より愚僧は、高野山の奥院の者であるが、思うところあって、北陸道を行脚する者、

懺悔は罪を滅ぼす。有りの儘に話してみなさい。」

と言うと、弘友はこれを聞いて、これまでの事の次第や、妻の霊魂の現れたことを、有

りの儘に話しました。そして、老僧に向かい、弟子にして欲しいと手を合わせて願ったのでした。

老僧は、

「おお、それは誠に哀れな話。親子夫婦のことは前世よりの因縁であるから、良きにつけ

悪しきにつけ、善行を積むしか輪廻を断ち切り法は無いが、見性して道を悟ることができれば、

善悪共に生滅して、永久に生死の迷いから解脱する。だが、迷っている間は、六道の輪

廻から逃れることは永久に出来ないのだ。よろしい、望みであれば、愚僧の弟子になりなさい。」

と答えました。やがてその夜も明ければ、剃髪し「弘知」と改名しました。後の弘知法

印です。

老人は、弘知にこう言いました。

「如何に弘知。仏法を成就して、六根清浄になりたいと思うならば、我が身を我が身と

思ってはならない。我が身を我が身と思わなければ、一切衆生は我が身である。自他の

区別など存在しない。自他の区別をしなければ、天地の全ては、一仏一心である。そし

て、天上天下唯我独尊となる。」

弘知は、大変喜んで、夢から覚めた心地です。感激した弘知が、

「今までは うきよの夢に迷いつつ 醒むればひとり 月ぞさやけき」

と詠じれば、老僧も喜んで、

「夢も無き 世を我からと夢にして 醒むる見れば 夢にても無し」

と一首を連ねると、

「我をば誰と思うか。我こそ弘法大師であるぞ。」

と言い残して、忽然と消え失せたのでした。弘知は有り難い有り難いと、三度拝むと、

高野山を目指して、更に行脚の旅を続けたのでした。

 さて、高野山への旅も、紀州路となった頃のことです。近づいて来た女が声を掛けてきました。

「もしもし、お坊様。頼みたいことがあります。」

弘知は、女の声と聞いて、無視して通り過ぎましたが、女は更に追いすがって、

「これは慈悲も無い沙門殿。事の子細も聞かないで、修業者とは言えないでしょう。」

と言いました。弘知はそれも尤もと思って、何事であるかと、近づいて見ると十六ばか

りの美しい姫が、黄金の釜を抱えて立っていました。女は、縋るようにしてこう言うのでした。

「のうのう、お坊様。私は、幼くして父を失い、母に育てられましたが、その母も先日

亡くなりました。その母が末期に、黄金の釜をある所に埋めてあるので、それを

掘り出して、誰でもよいから夫婦となって、世過ぎの足しにしなさいと言ったので、この

ように黄金の釜を掘り出して来ました。あなたに出合ったのも他生の縁。私をどこにでも

お連れいただき、この黄金で一緒に暮らしてください。どうか宜しくお願いいたします。」

女は、馴れ馴れしく迫ってきました。驚いた弘知は、思わず跳びし去って、

「これは、とんでもない事を。そのようなことに、返答も必要ない。」

とその場は足早に立ち去ると、女は更に追い縋ると、

「我こそ第六天の魔王なり、お前の修業を邪魔するために来たのだ。」

っとばかりに、忽ち悪鬼となって襲いかかって来ました。しかし、弘知は少しも騒がずに、

手にした数珠を投げつけました。すると、数珠は般若の利剣となって悪鬼を切り払いました。(※弘法大師が「般若心経」を解説した「般若心経秘鍵」に「文殊の利剣は諸戯を断つ」とあり、これを引用したものと思われる)

魔王はとても敵わず、有り難き法力であると虚空に飛び去ると、利剣は本の数珠に戻って

弘知の手に返ったのでした。さて、それから弘知は高野山の奥院に閉じこもって修業を

重ねたのでした。弘知法印の法力は、有り難い限りです。

つづく

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記③

2012年07月17日 14時41分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人二段目 その2

さて、その頃館では、柳の前が、事の次第がどうなったと、そわそわとしていました。

柳の前は、千代若を抱いて、館を出たり入ったりしながら、義父秋弘が弘友を、無事に

連れて帰って来るのを待っていたのでした。居ても立っても居られなくなった柳の前は、

やがて、館を忍び出でました。そんなところを通りかかったのは、弘友の装束を着せら

れた馬子でした。馬子は、途中で秋弘に咎められていたので、びくびくしながら馬に乗

っていました。柳の前は、馬上の小袖羽織に夫の紋を見つけて、走り寄りました。

「のうのう、そこを行くのは、弘友殿ではありませんか。お待ち下さい。」

と言うと、馬の尾筒に縋り付きました。またまた呼び止められた馬子は、飛び上がって

驚くと、いきなり刀を抜いてばっさりときりつけました。そして、後ろも見ずに一目散

に走り去って行ったのでした。

労しいことに、柳の前は、肩先から脇腹に切り下げられて、そこにばったりと倒れ伏しました。

哀れな柳の前は、もう虫の息でしたが、千代若に乳を含ませると、微かな声で口説くのでした。

「ああ恨めしい、我が夫よ。五百生の奇縁によって夫婦となった私を、何でこのように

切り捨てるのですか。例え、私との縁が切れて、私を憎んでいたとしても、三歳のこの

子は、あなたの御子ではありませんか。母が死んで、誰が育てて行くのですか。

 今になって言うことでもありませんが、

『五月雨かや不如帰 鳴り鳴く里の多ければ』(足利義輝辞世を引いて:涙のような五月雨がふる里で、沢山の不如帰が鳴いている:世の中の人々の弘友への嘲り)

『胸の炎(ほむら)を押さえつつ 色には出でぬ埋火(うずみび)の 底に焦がるる我が思い』(胸の炎を押さえて、見えない埋火のように焦げている私の思いがわかりませんか)

父上様との間に立って、陰となり仲立ちして、うまく行くようにと取りなしして来て、

この度、遣いを出したのも、恨みながらも我が夫を悪くは思っていないからこそ。陰な

がら、忠はしても、一度も仇になることをしていない私を、よくも刀に掛けて命を奪い

ましたね。

 千代若よ。母の最期の言葉をよっく覚えて、もし生き延びて成人し、父に巡り会う時

は、母が思いを詳しく語って恨みなさい。千代若よ。成人したのなら出家となり、必ず

母が菩提を弔ってくださいね。ああ、名残惜しい我が子よ。」

と言うと、まだ十九歳だというのに、とうとう息絶えました。まったく哀れなことです。

 すると突然、胎内の嬰児(みどりご)が、忽然と生まれ出てきて、産声を上げたのでした。

 

 さて、弘友は、父から勘当されて面目も無く、知人へ頼ることもできずにおりました。

季節は長月(旧暦9月)の夕方、麻の単衣(ひとえ)も肌寒く、行く末も知れない心細

さのまま彷徨っていますと、草むらから幼い子供の泣き声が聞こえてきました。どうや

ら、一人ではなく、二人の子供が泣いているようです。いったい何事かと近づいて見て

みると、なんと一人は千代若、一人は生まれたばかりの産子(うぶこ)です。そして、

傍らに死んでいるのは、妻の柳の前ではありませんか。弘友は、これは夢か現かと、死

骸に取り付いて嘆き悲しみました。死骸を良く見てみると、左の肩より脇の下に切り捨

てられています。

「これは、いったい何者の仕業か。譬えこのように身を落としていても、敵(かたき)

を取らずに居られようか。ええ、千代若、幼いとはいえ、母の敵を教えられないとは恨

めしい。また、この生まれ出でた子は、どうして胎内において、湯とも水とも成らずに

生まれてきて、嘆きをさらに重ねるのだ。いったい何の因果の報いであるか。」

産子を懐に入れ、左手に千代若を抱き上げて、右手で妻の死骸を押し動かして、悶え苦

しむ弘友の有様は、まるで幽鬼のようです。弘友はつくづくと無常を感じて、

「これは、すべて自分の煩悩、色欲の迷いより起こった事だ。親子夫婦の嘆きの原因は、

何一つとして外から来たものは無い。煩悩即菩提とは、まさしくここだ。」

と悟ると、忽ちに発起すると、涙を押しとどめて、

「如何に妻よ。これを菩提の種として発心し、堅固に修業して、後世を弔うぞよ。おま

えは、私にとっては、法身仏(ほっしんぶつ)である。」

と、三度礼拝すると、穴を掘り、

「それでは、仮の色相を返すぞ。我妻よ。上の小袖は私に貸してくれ。」

と言うと、妻の小袖を羽織り、死骸を埋めて印を立てたのでした。

『さて、この子供達はどうしたものか。一人ならば何とか手立てもあるものを。二人も

居ては育て様も無い。仕方ない。やはり産子を捨てるしかない。』

と思った弘友は、産子を懐から取り出すと、道端に捨て置きました。しかし、嬰児の泣

き声に心引かれて、また戻っては抱き上げて、涙ながらに言い聞かすのでした。

「先に生まれた者を兄と言い、後から生まれた者を弟と言うが、いずれも同じ父の子で

あるから、差別があってはならないが、兄を取って弟を捨てることを、どうか恨まない

でくれよ。兄とても父の手で育てるわけでは無いからな。」

と、まるで知恵のある者に言う様に、嬰児に言い聞かす弘友の心の内は、いかばかりで

しょうか。嘆きながらも弘友は、懐中より鬢鏡(びんかがみ)を取り出すと二つに割り、

嬰児にその半分をくくりつけました。

「もし、仏神のご加護があり、人に拾われて成人して、兄と巡り会うことがあるのなら、

その時の印として、ここに添えておくぞ。」

と、弘友は言うと、その半分を千代若にくくりつけて、その場を離れました。ところが、

その時突然に巨大な狼が一匹現れ、嬰児を咥えると、忽然と山の中へと消え去ったのでした。

弘友は、驚いて走り戻りましたが、もう既に遅く、ただただ、呆れ果てているしかありません。

なんということでしょう。自分のせいで、幼い命が奪われたと悔やみながらも、南無阿

弥陀仏と回向するほかありません。千代若を抱いてその場から去っていく弘友の心の内

程、悲しいものはありません。

 さて、その夜も既に丑三(午前2時頃)の頃のことです。弘友は、自宅の門外に、千

代若をそっと寝かすと、自分は、傍らに身を隠して様子を窺いました。

 やがて、暁方になって、番犬がしきりに吠えるので、番の者が出てみると、捨て子が

あるではありませんか。抱き上げてみると、弥彦のお守りを身に付けています。はっと

思った番人は急いで、秋弘に伝えました。秋弘が門に出てみると、疑いも無い千代若です。

「どこへ連れて行ったのかと思っていたが、さては、この祖父に孫を育てよと、母が置

いて行き、母は、身を投げ死んだのであろう。むう、尤も尤も。どうして粗末にあつか

うことができようか。」

と秋弘は、御乳(おち)乳母(めのと)を沢山つけて、大切に育てるのでした。

 弘友は、この様子を立ち聞いて安心すると、大変に喜びました。

この人々の有様は、哀れとも中々申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記②

2012年07月17日 13時57分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人二段目 その1

 荒王は在所の者達に介抱されて、ようやく弘友のもとに戻りました。荒王は、

「我が君におかれましては、御怪我はありませんか。私は、命には別状はありませんが、

足の筋を切られて足腰も立ちません。命があってもお役にも立てませんので、只今、自

害致しますが、君は、何事も無かったように館へお戻り下さい。」

と言うと、自害しようとしましたが、人々がこれを押しとどめて、

「これは不覚ですぞ荒王殿。御用には立たないとしても、命を永らえて菩提の道に入り、

君の御行く末を見守るのが本意ではありませんか。死んで、どんな益がありますか。い

つまでも我々、在所の者がお世話いたしますので、ここは平に平にお留まりください。」

と、道理を尽くして説得をしたので、思いとどまったのでした。そうこうしている所に

館から、しりべの惣次(そうじ)が遣いとして駆け込んできました。

「柳の前様からの遣いです。父上様のご立腹が甚だしく、只今、ここへ向かっておりま

すので、君におかれましては、早くお隠れください。」

これを、聞いた弘友が、どうしようかと慌てると、宿の亭主や遊女達も、大殿(おおと

の)がやってくるとは一大事と右往左往するばかりです。じっと思案していた荒王が、

良い手立てがあると、人々に下知すると、人々は言われた様に、駄賃馬を一匹引き出しました。

人々は、弘友の衣装を馬子に着せて、大小を差させ、馬に乗せて遊郭から先に送り出すと、

今度は、弘友が馬子の衣装を着て、切れ編み笠で顔を隠して逃げ出したのでした。

 さて、父の秋弘は遊郭の近くまでやって来ていましたが、馬に乗って来る弘友を見つけて、

「そこを通るのは弘友だな。しばし止まれ。」

と声をかけました。馬子は突然声を掛けられて驚くと、鞭を打ち当てて逃げ去ってしまいました。

秋弘は、これを見て、

「やあ、おのれ弘友。どこへ逃げるか。待て、待てえ。」

と追いかけましたが、馬に老人の足が追いつくはずもありません。馬はどこへともなく

走り去って行方知れずとなりました。仕方なく戻って来たところに、今度は馬子の衣装

を来た弘友がやってきました。こともあろうに、編み笠で顔を隠して、俯いて逃げてき

た弘友は、ばったりと父秋弘にぶつかってしまったのでした。驚いた拍子に、弘友の笠

は、はらりと落ちました。秋弘はこれを見て、

「やあ、おのれの有様は何事だ。」

と歯がみをして、怒りは益々煮えたぎります。弘友は赤面して俯いているしかありません。

呆れ果てた父秋弘は、

「只今ここで討って捨てようと思ったが、流石に親の手で討つのも忍び無い。恩愛の慈

悲によって命は助ける。今日より勘当じゃ。これより何処へでも行け。館へ帰ることは許さぬ。」

と言い残すと、怒りながらも涙ながらに館へと戻って行ったのでした。弘友は、なすす

べも無く、父の後ろ姿を見送るのでした。哀れな親子の別れです。

つづく


忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記①

2012年07月14日 17時13分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人初段

 さて、つくづく、人間界の善悪を観察してみると、「色声香味触法」(しきじょうこう

みそくほう)と言って、六つ穢れた世界に迷って、六根に作る罪咎が輪廻の連鎖を引き

起こしている。いったいいつになったら、この輪廻から逃れることができるのであろう

か。しかし、一念を転じて、捉え直してみれば、煩悩そのものが、菩提生死であり、煩

悩故に、忽ちにして涅槃となることもあるのである。

 本朝五十八代光孝(こうこう)天皇の時代、越後の国のお話です。

大沼権之太夫秋弘(おおぬまごんのたゆうあきひろ)という長者がおりました。その家

は、大変の裕福で、弥彦山の麓に住んでおりました。去年の春に妻を亡くしましたが、

権之助弘友(ひろとも:後の弘知法印)という二十四歳の長男がおります。また、その

嫁は、渡部(わたべ)の刑部重国の娘で柳の前と言い、歳は十九歳、その子に三歳にな

る千代若という孫もありました。なんの不足も無い暮らしをしておりましたが、身分の

高い低いに限らず、色香に迷うのが人の心というものでござります。若くて美男であっ

た弘友は、世間の嘲りも顧みずに、遊郭に通い詰める生活をするようになってしまった

のでした。父の秋弘は、常日頃からそんな弘友を正してきましたが、一向に改める気配

もありません。そもそもこのことが、これからの嘆きの発端となったのでした。

 さて、大沼家には、数多くの郎等がおりましたが、既に亡くなった家老職、弥彦の藤

太信時の息子である荒王信竹(あらおうのぶたけ)という十八歳の若武者が、家老職と

して、弘友に仕えております。大力の荒物で、若年ではありますが、常に弘友に付き従

う義理者でもあります。

 その頃、越後の国の柏崎と言う所は、北陸道七カ国どころか、秋田、酒田に至るまで、

回船運送の拠点港として繁盛し、海路陸路共に往還の宿場として栄えました。沢山の旅

人がやって来ましたので、遊君や白拍子を目白押しに立たせて旅人を慰めたものです。

しかしそこで、色事に耽る人々は、風気、秩序を乱して、親の勘当を受けたりしました。

柏崎と言うところは、まさに悪所とも呼ぶべき所でした。

 

 さて、今日も権之助弘友は、荒王を連れて柏崎へと向かっていました。元より好みの

色小袖をはおり、編み笠を目深に被って顔は隠す風情ですが、その姿は人目に余る派手

さです。その心の内は情けない限りです。

 さて一方、館では父の長者秋弘は、嫁の柳の前を近付けると、

「お前は、今まで知らないはずは無いが、あの権之助弘友めは、我が子とはいえ、親子

夫婦の道も分からず、親の忠告も聞き入れない。まったく不義千万の奴だが、これまで

のことは、親の慈悲によって堪忍することとする。しかし、昔が今に至るまで、嫉妬心

の無い女など居ない。夫の不義を諫めないのは、かえって妻の不覚であるぞ。その上、

親の身としては言いにくい事もある。いかがじゃ。」

と言ったのでした。柳の前はこれを聞いて、

「恥ずかしながら、父上様の仰せがありましたので、全てをお話いたしましょう。私と

してもどうして妬みが無いなどということがあるでしょうか。しかし、お考えにもなっ

て下さい。父上の忠告さえ聞き入れないその人が、私の言うことなど聞くはずもござい

ません。夫が浮き名を流すのをご覧になって、父上様のご立腹も重なれば、夫の為、自

分の為、風聞を知りつつも、せめて人目を忍んで、胸の炎(ほむら)を押し包み、色に

も出さない私の心を御推測下さい。」

と、涙を流すのでした。秋弘は、

「むう、それは賢い心である。お前のような賢女は、又二人と居るまい。しかしながら、

このまま放っておいては、悪所で身代を遣い尽くし、家を失うだけでなく、末代までの

恥辱となる。きゃつめを勘当して、親子の縁を切るべきか。よし、あまりにも許し難い

ので、この上は、自ら悪所に行って、諸人の前で恥をかかせてくれる。もしもそれでも

従わないのであれば、切って捨ててくれる。」

と、言うなり、座敷を立つと、悪所を指して出かけて行ったのでした。

 その頃、柏崎には、越前敦賀の津より酒田へ下る回船が着岸しました。上方では有名

な有徳人の風流者である篠原右源次(しのはらうげんじ)の船でした。右源次は、荒川

団蔵を初め、大勢を打ち連れて新町に上がると、遊君を集めて酒盛りをして遊びました。

丁度そこへ、大沼権之助弘友が、荒王を連れてやってきました。右源次が派手に遊んで

いるのを見ると弘友は、

「いかに荒王。あの座敷を通らず、日頃より馴染みの遊女どもから、臆病者と思われて

は、いかにも無念である。どうするか。」

と、言いました。本より血気盛んな荒王は、

「何ほどのこともありません。少しも異論はありませんよ。どうぞお任せください。」

と、言うなり、主従ともに編み笠をぱっと投げ捨てると、御免とばかりにずかずかと座

敷に上がり込んだのでした。二人は、脇差しの鞘で右源次と団蔵の頬下駄をしたたかに

打ち当てると、どうだとばかりに居直りました。突然の乱入でしたが、右源次は慌てずに、

「おやおや、これは珍しい。この座敷に、刀を差した目明きに似た盲目が来たぞ。それ

それ、道を空けて通してやれ。」

と、相手にしません。団蔵が、

「眼(まなこ)も無くて、大小は何の用にたつのやら、まったくおかしな生き物よ。」

と、からかうと、荒王は、

「ほうほう、それは、我々のことですかな。眼が見えませんので、どなたとも分かりま

せん。許してくだされや。まずまず、ご知人になりましょうかな。」

と、盲目の真似をして団蔵の傍へと探り寄ったのでした。荒王は、団蔵に飛びかかるや

いなや、両腕を引っつかんで、

「この野郎は、口が悪過ぎるので、座敷を塞ぐ邪魔者だ。取って捨ててくれるわい。」

と言うなり、遙かの庭先へと投げつけました。物凄い力です。団蔵は、築山の立て石に

ぶち当たると、木っ端微塵になってしまいました。狼藉者を取り押さえようと大騒ぎに

なりましたが、荒王が太刀を抜いて暴れ回るので、右源次もこれは敵わないと、逃げ出

しました。船頭達も我も我も船に逃げ帰り、ほうほうの体で海へと漕ぎ出しました。

 荒王は、大勢を追い散らすと、どうだとばかりに立ち戻ろうとしました。しかしその

時、空き船の陰から一人の男がつつっと忍び寄ると、いきなり荒王の両腿に切り付けま

した。薄手ではありましたが、筋を切られた荒王は、ばったりと倒れてしまいました。

この男は、荒王の首を掻き切ろうと近づきました。ところが、荒王はこの男を引っつか

むと、その大力で、男の首をねじ切ってしまったのでした。それから、荒王は、なんとか立

ち上がろうとしましたが、さすがの荒王でも立ち上がることはできませんでした。そこ

に、在所の者達が集まってきて、荒王を助けました。荒王の働きに感ぜぬ者は無かったのです。

つづく

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猿八節 「弘知法印御伝記」 の作曲

2012年07月12日 16時17分58秒 | 調査・研究・紀行

越後国柏崎Photo_3

弘知法印御伝記

江戸孫四郎正本

大伝馬三町目うろこがたや新板

貞享2年(1685年)

大英博物館所蔵

 この古説経は、昭和37年に早稲田大学の鳥越文蔵先生が大英博物館で発見されたものである。この正本は、日本国内にはもう存在していないということであるので、大変貴重な資料ということになる。この古説経を300年ぶりに復活上演をしたのが、「越後猿八座」であり、平成21年から22年にかけてのことであった。当時の太夫、越後角太夫(鶴澤淺造)が浄瑠璃を作曲している。

 平成23年に角太夫が退座して、後を引き受けたのが私であるわけであるが、弘知法印は、お蔵入りとなっていた。道具や人形は揃っていても、私が浄瑠璃を付けない限り再演の可能性はほとんと無いと言っても良いだろう。しかし、全六段の長大な古説経を作曲するには、それなりの覚悟が必要である。

 外部からの弘知法印上演の声もあり、この貴重な古説経を埋めたままにはしておけないなあと、浄瑠璃の作曲に取りかかったのは6月の下旬であった。しばらくブログに手がつかなかったのは、この作業に没頭していたからであった。

 今回の作曲は、ここ一年で育ててきた文弥節を基調とした「猿八節」をさらに発展させて、謂わば、これまでの研究の総決算のような様相となってきた。まだ、これから改善していくべき所が多々あるとは思われるが、ようやくここで全六段分、おおよそ4時間分の浄瑠璃が完成した。

 これまでの手に、新しい手を付け加えながら、めまぐるしく展開していくこの物語を、どうテンポ良く運んでいくかが、最大の課題であるが、それは、また人形との摺り合わせをしながら改善をしていかなければならないであろう。

 今後、上演の予定があるわけでは無いが、これで「弘知法印御伝記」再演の可能性はゼロではなくなった。

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