猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(6)終

2014年02月12日 18時20分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

はなや(6)終
 

 都を立った、花若丸は、夜を日についで駒を進め、相模を目指しました。横山館に到着した花若丸は、
「花屋殿は、どこですか。」
と、呼ばわりました。すると、門番は、
「只今、最期の時を迎える為に、由比の浜へお出でになりました。」
と答えるのでした。これを聞いた花若殿は胆も魂も消え果てましたが、落ちる涙を振り払って、
『せめて、父の最期の場所を見てこよう』
とお思いになり、由比の浜へと急がれるのでした。
 

 由比の浜に出てみると、夥しい群衆です。花若は、この人々が父花屋を惜しんでいるのに力を得て、こう叫びました。
「やあやあ、皆さん。花屋長者をお助け下さい。御門の御判を持って来ました。どうか、皆さんで声を上げて、伝えて下さい。」
これを聞いた人々は、皆、大声を上げて前へ前へと伝えたのでした。既に、最期所では、介錯人が太刀を取って、花屋殿の後ろへと回っている所でした。しかし、その時、検使の横山殿は、微かな声を聞き取って、
「花屋を切るな。暫し待て。」
と止めたのでした。群衆を掻き分けて、近付いて来たのは、駒に乗った、年の頃十四五歳の法師でした。花若丸は、
「これを、ご覧下さい。」
と、助命の御判を、投げ出すと、物も言わずに、父花屋に抱きつきました。父も子も、何も言葉にできず、唯々泣くばかりです。やがて、涙の隙より花若丸が、都での次第を子細に話して聞かせるのでした。父花屋も、これは夢かと疑いつつも、優しく花若を抱くのでした。横山殿を初めとし、浜にいる見物の人々も、これを見て、
「まったく、持つべきものは、子供である。」
と、涙しない人は有りませんでした。
 

 それから、親子の人々は、横山館へと移り、三日三夜の酒宴を催して、この奇蹟を祝いました。花若の親孝行に感激した横山殿は、
「親孝行な花若殿を、横山家の聟にいたす。」
と言って、一人娘の聟に取って、跡目を花若に譲りました。その後、花屋は、
「ここに、いつまでも逗留していたいが、先ずは、上洛して御門に参内し、又、改めて伺いましょう。」
と、暇乞いをすると、親子諸共、大勢のお供を連れて都へと戻って行ったのでした。
 

 花世姫が待つ、都の宿に着くと、花若は、
「父御をお供して、只今、帰りましたよ。」
と、呼ばわりました。これを聞いた花世姫は、夢心地に、走り出てきましたが、花世姫を見た花屋は、その姿に驚いて、
「なんという、浅ましいことか。」
と、涙を流して悲しみました。
 

 しかし、いつまで悲しんでいても仕方ないので、花屋は花若を連れて参内し、咎は無いことを奏聞したのでした。御門は、
「咎も無い者を流罪としたことを後悔しておる。今回の褒美として、筑前を与える。早く下向せよ。」
との宣旨を下されたのでした。
 

 花屋は、これまでの様々な奇蹟に感謝し、又、花世姫の病を治す為に、姉弟を連れて、清水寺を参拝することにしました。清水寺のご本尊は、千手観音です。親子の人々は、ご本尊の前で、鰐口を打ち鳴らして、心静に祈誓するのでした。そしてその夜は、そこにお籠もりになられたのでした。その夜の夜半の頃、有り難いことに、大慈大悲の観音様が、枕元にお立ちになったのでした。観音様は、
「筑前の国、楊柳観音と、現れたのは私ですよ。又、姉弟の人々が、国司に捕まった時、三病を突然与えたり、追っ手が掛かった時に、助けたのも私です。それに、道端で花若が死んだ時に、生き返らせた老僧も私です。さて、それでは最後に、姫の病を平癒させましょう。」
と仰ると、姫君の体を、上から下までお撫でになって、そのまま、掻き消す様に消えたのでした。親子の人々は、夢から醒めると、かっぱと起き上がり、花世の姫を見ました。なんと、花世姫の姿は、元の容貌よりも、さらに一段と美しくなっており、辺りも輝くばかりです。花屋殿は、これをご覧になって、まるで夢の様だと喜びました。親子の人々は、
「有り難や、有り難や。」
と何度も礼拝して、筑紫の国へと帰って行きました。
 

 やがて、花屋親子と数多の軍兵は、豊前の国、宇佐の郡に到着しました。萩原の国司の城に押し寄せて、鬨の声を上げたのです。突然のことに、城内は大混乱です。城内から、
「いったいなんの狼藉か。名を名乗れ。」
と言えば、寄せ手方は、
「これは、花屋長者である。日頃の無念を晴らすため、これまで押し寄せてきたのだ。大人しく腹を切れ。」
と答えるのでした。萩原の国司は、これを聞くと、最早これまでと、諦めました。国司は、小高い丘へと駆け上がると、潔く腹を一文字に切ったのでした。花屋の軍勢は、萩原の首を討ち落とし、勝ち鬨の声を、どっと上げるのでした。
 

 それから、花屋長者の人々は、故郷、博多に帰り、ようやく御台様とも会うことができましたので、その喜びは、限りもありません。そして、再び花屋長者は、栄華に栄えたのでした。これというのも、観音様の弘誓(ぐぜい)のお陰です。昔が今に至るまで、験し少ない次第であると、上下万民押し並べて、感激しない人はありません。
 

おわり

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(5)

2014年02月11日 18時14分28秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 はなや(5)

  さて、姉弟はようやく、都に辿り着いたのですが、哀れんでくれる者もおらず、
物憂い日々を送っておりました。そんな時に、宿の亭主は、御門のお触れを耳にしたのでした。
亭主は、
「そうだ、この頃お泊まりの修行者は、筑紫の人であったな。これはひとつ、
奏聞することにしましょう。」
と思い、急いで参内したのでした。亭主が、
「お尋ねの方かどうかは分かりませんが、筑紫から来た、幼い修行の姉弟が、
宿泊しております。」
と奏聞すると、大臣が急いで、御門に報告しました。早速に召し寄せることとなり、
亭主と官人達が、宿所へと押し寄せました。官人達は、
「御門よりの宣旨である。早く参内せよ。」
と、花若丸を引っ立てるので、花世姫は驚いて、
「なんと、情けも無いことをする人々でしょうか。宣旨と言うのならば、私も一緒に連れて
行って下さい。」
と言って、花若丸の袂に縋り付いて、離れません。泣きわめくお姿は、まったく目も当てられない労しさです。
しかし、官人達は、花若丸だけを、引っ立って、急いで内裏へと戻ったのでした。
連れて来られた花若丸に、御門は、
「筑紫の修行者とは、御前のことか。年端も行かぬその身で、修行をするとは神妙である。ここに、病人がおり、何をしても治らない。おまえは、本復させることができるか。どうだ。どうだ。」
と、迫りました。花若丸は、勅命を受けて、
「分かりました。私が后の病を治して、御門のお望みを叶えましょう。」
と答えると、お経を取り出して、観音経を読み始めました。
「念彼観音力。頼み奉る。南無大悲観音菩薩」
と祈られると、后は、もうすっかり回復したのでした。喜んだ御門は、
「おお、この度の働きの褒美として、筑前を与える。早く筑紫へ下向せよ。」
と宣旨を下されましたが、花若丸は、今こそ待ち望んだ機会であると思って、
涙ながらにこう奏聞したのでした。
「私は、相模の国に流罪となった、花屋の子供ですが、どうか父花屋に筑前をお与えいただき、も
う一度、都へお戻しくださるように、お願いいたします。」
涙ながらの奏聞に、御門は、
「むう、それは簡単なことだが、既に四五日前に、花屋を処刑せよとの勅使を立ててしまったので、
最早この世には無いであろう。気の毒なことではあるが、いくら嘆いても手遅れじゃ。大人しく筑紫に戻れ。」
と答えたのでした。それでも、花若丸は、重ねてこう願いました。
「譬え、命が無くとも、今一度、お許しの御判をいただきたく思います。」
重ねての奏聞に、御門は、やがて御判を下されたのでした。

 花若は、御門の御判を貰うと、早速に宿所に戻り、姉御に詳しく事の次第を話しました。
これを聞いた花世姫の喜びは、限りもありません。花世姫は、
「私も一緒に連れて行ってくださいな。さあさあ、行きましょう。」
と勇みたちました。しかし、花若丸は、これを聞くと、
「仰ることは、分かりますが、遙か遠くの道のりを、姉御様を連れてでは、時間が掛かって、
父御様の命が危うい。一刻も早く、私が下向して、父上と一緒に戻って参りますから、
姉御様は、ここでお待ち下さい。」
と、言うのでした。花世姫は諦めて、花若を送り出しました。花若丸は、駒に乗って、
相模の国を目指したのでした。かの花若丸の、心の内の焦りは、何かに譬えるものもありません。

 これはさて置き、相模の国には、花屋を処刑せよとの勅使が、既に到着していました。
横山殿は、仕方無く、花屋殿を呼び出すと、
「誠に残念なことですが、あなたを処刑せよとの勅使が参りました。ご用意下さい。」
と言い渡しました。花屋殿は、これを聞いて、
「致し方も無いことです。しかし、横山殿お情けは、決して忘れませんよ。最期に、
古里へ形見の文を書かせて下さい。」
と、硯と料紙を頼みました。花屋殿は、思いの丈を残さず書き記して、涙と共に、押し畳むのでした。
この便りを、必ず、古里に届けて戴きたい。深くお願いいたします。最早、思い残すこともありません。
それでは、お暇いただきましょう。」
と、花屋殿は、悪びれもせずに立ち上がりました。横山殿は、侍十人ほどを従えて、
由比ヶ浜へと、花屋殿を引き据えたのでした。
 鎌倉中の人々は、この処刑を見物しようと、我も我もと、集まってきました。
由比ヶ浜に引き据えられた花屋殿は、西向きに座り直して、こう言うのでした。
「私の古里は、西の国。これから行くのは、西方、弥陀の浄土。黄泉路(よみじ)の旅の空を、
阿弥陀光をもって、いよいよ照らして下さい。南無阿弥陀仏。」
これを聞いた、横山殿を初めとし、貴賤の群衆達は、
「げに、道理なり理(ことわり)なり」
と、袖を絞らない者はありませんでした。 

つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(4)

2014年02月11日 15時45分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

はなや(4)
  さて、逃げていった追っ手の事はさて置いて、姉弟の人々は、自分たちも死んでしまう
だろうと思い込んでいました。しかし気が付くと、天が晴れ上がり、紺碧の空となりました。
 川の水も引き、再び老人が、どこからともなく現れました。老人は、
 「姉弟の人々よ。私を誰と思うか。筑前の国の楊柳観音(ようりゅうかんのん)であるぞ。(心光寺観音堂:福岡県久留米市寺町)
 お前達を助けるために、これまでやって来たのだ。」
 と言って、掻き消す様に消え失せたのでした。姉弟の人々は、これをご覧になって、
 「これは、大変有り難いことだ。」
 と、虚空を二度、三度と伏し拝むのでした。

  さて、それからというもの、足に任せて、野を越え、山越え、里を過ぎ、夜を日に継いで
先を急ぎました。しかし、先も分からぬ道のことですから、疲れ切った花若丸は、ある所で
ばったりと倒れると、そのまま息絶えてしまったのでした。若君の心の内を、何に譬えたら
よいでしょうか。花世姫は、花若が死んだとも思わずに、
「どうしたのです、花若。余りに疲れて、転んでしまったのですか。それとも、心がくじけて
倒れてしまったのですか。さあ、起きなさい。起きなさい。」
と、声を掛けますが、死んだ花若が答えるはずもありません。花世姫は、驚いて縋り付き、
「ええ、死んでしまったのですか。花若よ。なんと、悲しや。」
と、哀れにも口説き立て、
「私が、こんな姿に成り果てても、ここまで遙々とやって来たのは、おまえを頼りにして、
父上の行方を尋ねる為だというのに、おまえが死んでしまっては、私は、どうしたら良いの
ですか。」
と、泣き崩れるのでした。
 その時、大慈大悲の観音菩薩は、これを哀れとお思いになり、八十歳ぐらいの老翁に変化
されて、姫の前に現れました。老翁が、
「どうしたのです。」
と問うと、花世姫は、
「ああ、お坊様。この幼き者は、私の弟ですが、只今、ここで死んでしまったのです。」
と答えて、袈裟の衣に取りすがって、さめざめと泣くのでした。老翁は、
「では、この僧が、助けてあげましょう。」
と言うと、観音経を取り出して、(「妙法蓮華経」観世音菩薩普門品第二十五)
「善哉善哉、平癒なれ」
と唱えるのでした。そして、花世姫に、
「さあ、姫君。これを、守り本尊としてお持ちなさい。」
と言うと、観音経を、花若丸の胸の上に置くのでした。そして、
「よっく聞きなさい。このお経は、大変有り難いお経です。我が身に大事のある時は、この
お経を唱えなさい。死んだ者も生き返ります。必ず必ず、疎かにしてはなりませんよ。」
と、言うなり、掻き消す様に消えたのでした。

 その時、花若丸は、かっぱと起き上がり、まるで夢からでも覚めたかの様に、呆然として、
辺りを見回すのでした。花世姫は余りの嬉しさに、花若丸に抱だき付き、うれし涙に暮れました。
花若丸は、これを見ると、
「只、疲れて、転んだだけですのに、何をそんなに泣いていらっしゃるのですか。」
と、その場と取り繕って、何も無かったかのように、再び都へと向かったのでした。

 
ようやく都に着き、六条の辺りに宿を取りましたが、如何せん、知り合いもありませんので、
どうやって、奏聞したらよいか分かりません。しかし、その妄念が、積もった為でしょうか、
御門のお后様が、突然、病気になったしまわれたのでした。
 御門は、大変驚いて、貴僧、高僧を沢山集めて、いろいろと祈らせましたが、一向に容態
は良くなりません。次に、陰陽の博士、安倍の資充(すけみつ)を呼んで、占わせることに
しました。安倍資充は、こう占いました。
「むう、これは面白い占いが出ております。筑紫より幼い修行者が一人、上洛して、都に滞
在しております。この者を召し出せば、お后様のご病気は、たちまちに平癒されることでしょう。」
御門は、この占いを聞くと、早速に都中にお触れを出したのでした。この姉弟の人々の心の
内の哀れさは、申しようもありません。


つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(3)

2014年02月11日 09時36分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 はなや(3)

  さて、一方、筑紫の国の北の方は、花屋殿が流されたことも知らずに、姉弟を伴って、月
見の亭に出られて、辺りの景色を、愛でておりました。そこに、都より、左京という武士が
到着して、形見の文を届けたのでした。
花屋殿からの文の内容は、思ってもいないことでした。文には、

『萩原の国司による讒奏によって、東の方へ流罪となった。忘れ形見の姉弟を、宜しく養育
して、私の菩提を弔ってほしい。』

と書かれていたのです。これを読んだ北の方は、夢か現かと、泣き崩れました。驚いた姉弟
の人々が、

「どうしたのですか。母上様。何をそんなに嘆いていらっしゃるのですか。」
 

と、問うので、御台様は、姉弟に文を見せました。これを読んだ、姉弟の人々も、ただただ、 

消え入る様に泣くほかはありません。零れる涙をぬぐって、花若丸は、こう言いました。
 

「母上様。私が、都へ上って、咎の無いことを、御門に奏聞いたし、父と共に、戻って参り 

ます。」
 

これを、聞いた御台様は、
 

「それでは、私も一緒に参りましょう。」
 

と、御簾の中へとお入りになられました。しかし、花若殿は、
 

「いやいや、大勢では面倒だ。私が修行者の姿となって、一人で上洛した方が手っ取り早い。」
 

と言うのでした。これを聞いた花世の姫は、
 

「私も連れて行って下さい。」
 

と、涙ながらに、花若丸の袖に縋り付きました。花若丸は、
 

「しい、声が高い。それならば、姉弟二人で参りましょう。この事は、人に言ってはなりませんよ。」
 

と言うのでした。 

 さて、その夜も更けると、姉弟は、住み慣れた母の元を、涙ながらに後にして、都を指し 

て出発しました。ところが、哀れな事に、姉弟の人々の運命の拙さでしょうか。豊前の国、 

宇佐の庄を通った時に、かの芥丸に行き会ってしまったのでした。芥丸は、姉弟を見かける 

と、声を掛けました。
 

「おやおや、子供達よ。何処へ行くのですか。もし、都へ行くのでしたら、お供いたしましょうか。」
 

姉弟の人々は、謀り事とも知らずに、素直に、
 

「はい、我々は、都に上がる者です。どうか、一緒に、都まで連れて行って下さい。」
 

と、頼むので、芥丸は、心の中でにやりと喜んで、国司の館に姉弟を連れ帰ったのでした。 

萩原の国司は、姉弟の人々を見ると、
 

「お前達は、何処の者で、何処へ行くつもりなのか。」
 

と、聞きました。姉弟の人々は、真っ正直に、こう答えました。
 

「私たちは、筑前の国、花屋長者の子供です。父の花屋は、都において、萩原の国司の讒奏 

に会い、相模という国に、流罪となったと聞きました。余りに無念なことなので、このよう 

に修行者の姿となって、上洛し、咎の無いことを、御門に奏聞するのです。」
 

これを、聞いた萩原の国司は、飛び上がる程驚きましたが、願っても無いことです。
 

「ははあ、姉弟の方々は、花屋殿のご子息でしたか。それはそれは、不憫なことでしたな。
あなた方のお父上、花屋殿は、どなたかの讒奏によって東の方に流されました。その折には、 

我々も、お父上にいろいろとご助言したのですが、ご承引無く、東へとお下りになったのですよ。 

さて、お前達は、私を誰と思っているのかな。我こそ、萩原の国司であるぞ。せっかくこ 

こまで来たのだから、姫はここに留まって、私のものになりなさい。」
 

と、言い捨てると、簾中の奥へと入って行きました。 

 哀れな花世の姫は、花若丸に向かって、
 

「ええ、なんと悔しい事でしょうか。父の敵とも知らないで、ここまで来て、その上、素性 

もばれてしまいました。ああ、どうしたらいいのでしょう。」

と嘆きました。花若は、
 

「こうなっては、腹を切る外はありません。姉御様も御自害なされて下さい。とは、言うものの、
ここで、姉弟二人が死んでしまっては、御門に訴訟して、父を助ける者がいません。無念 

は承知の上ですが、姉御は、ここにお留まり下さい。私は、なんとかして都へ上り、咎の 

無い事を奏聞して、父と一緒に帰ったなら、その時は、萩原の国司を訴えて、本望を遂げよう 

と思います。」
 

と、決意をするのでした。しかし、疲れ切った姉弟二人は、そのまま倒れる様に、寝込んで 

しまいました。
 

 その夜の夜半のことでした。どうしたことでしょう、花世姫は、突然、苦しみ出しました。 

哀れな花世姫は、俄に、三病人となってしまったのでした。花若丸は、驚いて取り付くと、
 

「やあ、これは夢か現か。夕方までは、花の様に輝いていたのに、突然、そのようなお姿に 

なってしまうとは、いったいどうしたことですか。」

 と、悲しんで泣き崩れました。そうこうしていると、夜が明けて、萩原の国司がやって来ましたが、
国司は、花世姫の姿を見ると、 

「これは、一体何事か。花と争う容姿に引き替えて、三病人となったのか。ええ、仕方が無い。」
 

と、言い捨てると、家来を呼んで、姉弟を門外に追い出す様にと命じるのでした。 

 労しいことに、姉弟の人々は、羽抜鳥が、空中でどうして良いか分からないと同じように、 

只、立ち煩うよりありません。しかし、花若は、気丈にも、
 

「姉御様、都まで、私が手を引いて参ります。」
 

と言って、姫の手を引いて、都を目指すのでした。 

 この時、芥丸は、萩原の国司に向かって、
 

「あの姉弟の者達を、都へあげてはなりません。急いで追っ手を出して下さい。」
 

と、進言しました。成る程と思った国司は、芥丸に、屈強の強者を二十騎与えて、姉弟の 

人々を追跡させたのでした。 

 さて、姉弟の人々は、伊川(福岡県飯塚市)まで進みましたが、早くも追っ手が近付いて 

来たのでした。花若丸は、
 

「大変です。姉御様。追っ手が掛かりました。連れ戻されては、元も子もありません。さあ、 

御自害下さい。私も腹を切ります。」
 

と言って、守り刀を抜きました。 

 ところが、その時、川の中から一人の老人が現れました。その老人が、
 

「姉弟の方々、国司よりの追っ手が掛かりましたな。私が、お助けいたしましょう。」
 

と言うと、晴天が俄にかき曇って、雷が鳴り響き、車軸の雨が降り出したのです。それどころか、 

川の中から、大蛇までが飛び出て、追っ手の前に立ち塞がったのでした。追っ手の武士達は
 

「これは、人間業ではない。」
 

と驚いて、脱兎の如く逃げて行ったのでした。
 

つづく

Hanaya2

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(2)

2014年02月10日 15時37分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

はなや(2)

 なんとも哀れなことですが、花屋長者家房は、萩原の国司の讒奏(ざんそう)によって、失
 意の内に、知る人も居ない、遠国へと流されて行ったのでした。

 《以下道行き:都から相模の国まで》

頃は弥生の末なるに
鴨川、渡れば
夜はほのぼのと、白川や
妻や子供に粟田口(京都市東山区)
京、桐原の駒迎え(※馬献上の行事:桐原は馬の産地で長野県松本)
『逢坂の関の清水に影見えて
今や、引くらん望月の駒(※同様に蓼科産の名馬)』の足音、聞きなるる
紀貫之の歌を踏まえる)
大津打出の浜よりも(滋賀県大津市)
志賀唐崎を見渡せば(唐崎神社)
微かに見ゆる、ひとつ松
類い無きをも思いやり
いとど、涙は堰あえず
消えばや、ここに粟津河原(滋賀県大津市晴嵐)
石山寺の鐘の音(こえ)
耳に触れつつ、殊勝なり
思いは尚も、瀬田の橋
駒もとどろと打ち渡り
雲雀、上がれる、野路の宿(滋賀県草津市野路)
露は浮かねど草津の宿(滋賀県草津市)
雨は降らねど守山や(滋賀県守山市)
曇り掛からぬ鏡山(滋賀県竜王町)
そのかみならのをきなの(不明:その上、奈良の翁のカ)
『鏡山、いざ立ち寄りて、見て行かん
年経ぬる見は、老いは死ぬる』と
詠みたりし、そのいにしえの言の葉まで
思いやられて、哀れなり
愛知川、渡れば千鳥鳴く
小野の細道、摺張り山(滋賀県彦根市)
番場、醒ヶ江、柏原(滋賀県米原市)
荒れて中々、優しきは
不破の関屋の板庇(岐阜県不破郡関ヶ原町)
月漏れとてや、まばらなる
垂井の宿に仮寝して(岐阜県不破郡垂井町)
夜はほのぼのと赤坂や(岐阜県大垣市)
美濃ならば、花も咲きなん
くんせ川(杭瀬川)、大熊河原の松風に(不明)
琴(きん)の音や白むらん
墨俣(岐阜県大垣市)、足近(あじか:岐阜県羽島市)、およいの橋(不明)
光あり、玉ノ井の(愛知県木曽町玉ノ井)
黒田の宿を打ち過ぎて(愛知県一宮市木曽川町黒田)
下津(おりづ:愛知県稲沢市下津)、海津(岐阜県海津市)を過ぎ行けば
名を、尾張の国なる
熱田の宮を伏し拝み
何と、鳴海の汐見潟(愛知県名古屋市緑区鳴海町)
三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)
末を、何処と、遠江(静岡県西部)
浜名の橋の入り潮に(浜名湖)
差さねど登る、海女小舟
我が如く、焦がれて、物や思うらん
南は滄海、満々として、際も無し
北には又、湖水あり
人家、岸に連なって
松吹く風、波の音
何れがのりの炊く火ぞと
打ち眺めて、行く程に
明日の命は知らねども
今日は、池田の宿に着く(天竜川渡し場:静岡県豊田町池田)
袋井畷(静岡県袋井市)、遙々と
日坂行けば(静岡県掛川市日坂)、音に聞く
小夜の中山、これとかや
神に祈りは金谷の宿(静岡県島田市金谷)
松に絡まる藤枝や(静岡県藤枝市)
一夜泊まりは岡部の宿(同藤枝市岡部町)
蔦の細道、分けて奇異なれ
衣、打つ(宇津)の山
蔦の細道は宇津ノ谷越えの古道)
現や、夢に駆くるらん
名所を行けば程も無く、駿河の国に入りたよな
思い駿河の富士の根の
煙は空に横折れて
燻る思いは、我一人
南は、海上、田子の浦(静岡県富士市)
寄せ帰る、波の音
物凄まじの風情かな
北は、青山峨々として
裾野の嵐、激しくて
いとど、思いは、浮嶋ヶ原よと眺め(沼津市から富士市に至る広大な湿地)
麓には、とうさんえん長く(不明)
見え渡る沼あり
葦分け、舟に棹さして
群れ居るカモメの心のままに
彼方此方へ飛び去りしは
羨ましくや、思われて
いとど涙は、堰あえず
浜には、塩屋の煙、片々として
行方も知らず、迷いけり
伊豆の三島や浦島や(静岡県三島市)
明けて、悔しき、箱根山
恥ずかしながら、姿を尚も
相模の郷に入ったよな
都を立って、十四日と申すには
坂東、鎌倉、横山が手に渡る
横山、出でて、長者を受け取り
長き牢舎をさせたりけり
兎にも角にも、花屋長者の心の内
無念なるとも、中々、申すばかりはなかりけり

つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(1)

2014年02月10日 10時54分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

このシリーズは、説経正本集等から25の説経外題を翻訳してきた。この仕事の中から、
 
短期日の内に、「阿弥陀胸割」「山椒太夫」を舞台化できたことは、偏に、猿八座座長の八郎 

兵衛師匠のお陰である。しかし、説経ネタといっても、全部が全部、面白いという訳には行 

かないし、何が何でも説経ネタで通すと意地を張ることも無いだろう。猿八座は今、近松門 

左衛門の初期の作品である「源氏烏帽子折」に取り組もうとしているが、これはこれで、な 

かなか面白い。やはり、浄瑠璃物も勉強しないとならないようだ。もう少し視野を広げて、 

レパートリーを増やすためには、古浄瑠璃正本集(横山重編:角川書店)も読む必要があり 

そうである。 

 そこで、古浄瑠璃正本集第1から順次、読み進めて行こうと思うが、このシリーズで取り 

上げるのは、私の勝手な取捨選択によって、舞台化できそうなものに限ろうと考えている。 

 例えば、古浄瑠璃正本集第1の(1)は、「浄瑠璃十二段」であるが、この正本には完本 

が無く、絵巻等を参考にしなければならないが、その翻刻は、既に詳しく研究されているの 

で、ここで取り上げる必要はない。 

(2)の「たかだち」は、衣川合戦での弁慶の壮絶な最期を描くが、これにも部分的な欠落 

があって通すことができない。しかも鎧兜の出で立ちの説明が延々と長く続くなど、演劇上 

の難点が見受けられる。 

 そこで、まったく恣意的であるが、(3)の「はなや」から物語シリーズを再開しよう
 
と考えた。江戸の太夫であった「薩摩太夫」の正本「はなや」は、寛永十一年(1634年)

の出版である。

 

はなや(1) 

 それは、聖武天皇の時代のことです。(724年~749年)筑紫・筑前の国、博多に、 

花屋長者家房(はなやちょうじゃいえふさ)という、有名な武士がおりました。沢山の蔵を 

建てて、宝物に満ちあふれており、人徳もある方でした。花屋には、姉弟の子供がおりまし 

た。姉は、花世姫(はなよひめ)。弟は、花若丸(はなわかまる)といい、どちらも、大変 

美しく立派な容姿でした。特に姫君は、心も姿も大変、美しかったので、公家・天上人は元より、 

それ以外の人々も、せめて奉公人となって、姫君から言葉掛けを戴きたいものだと、隣国、 

遠国から沢山の人が、花屋の屋敷に詰め掛けたのでした。花屋夫婦の喜びは、譬える物さえ 

ありませんでした。

 

 さて、其の頃、御門の宣旨によって、九州の国司に赴任してきたのは、萩原の国司でした。 

萩原の国司は、大勢の郎等を連れて、豊前の国宇佐(大分県北部)に入り、九州を治め、栄 

華を極めました。しかし、ある時、家老の芥丸(あくたまる)に、こう言うのでした。
「私は、こんなに栄華に恵まれたのに、妻が居ないことが、残念でならない。美しい姫はおらぬか。 

急いで捜して、連れて参れ。」 

芥丸が、早速に捜しに行こうとする所に、地元の人がやってきました。この者は、 

「国司様。筑前の国の花屋長者の所に、大変美しい姫がおりますよ。」 

と言うのでした。これを聞いた萩原の国司は、喜んで、 

「やあ、芥よ。おまえは直ぐに、花屋の館へ行き、娘を妻に迎えると申して来い。」 

と言うのでした。

 

芥丸は、博多の津に急行し、花屋夫婦に会いました。夫婦は、芥丸の話を聞くと、 

「お国司様であれば、姫を参らせたくは思います。しかし、我が姫は、これまで何度も、 

天上人より乞われながらも、一度も返事をしたことが無いのです。如何に国司様のお望みと 

はいえども、こればかりは、叶わぬことです。」 

と答えたのでした。芥丸は、面目を失って宇佐に戻り、国司に報告しました。萩原は、大変 

腹を立て、 

「なんと、口惜しいことだ。そいうことであるならば、これより都へ上って、知略を巡らし、 

花屋を亡き者としてやろう。それから、姫をいただくことにしよう。」 

と言うなり、旅の支度をして、上洛したのでした。上洛した萩原の国司は、関白殿に面会 

すると、 

「私が、上洛いたしましたのは、外でもありません。筑前の国の花屋長者のことです。花屋 

長者は、筑紫大名などと名乗って、都へ攻め上る気配があります。そんなことになっては、 

一大事と思い、急いでこれまで参りました。」 

と、まことしやかに奏聞するのでした。驚いた関白は、胆をつぶして、急いで御門に参内し 

ました。これを聞いた御門の逆鱗は浅くはありませんでした。御門は、 

「そういう事であれば、急いで筑紫に勅使を立てよ。花屋を謀って、召し寄せて、そのまま 

相模の国の横山館に流罪とせよ。」 

と命じました。関白は、蔵人の行孝を勅使として、筑紫の国、博多へ向かわせました。蔵人 

の行孝は、花屋長者に、こう言い渡しました。

「急いで、上洛しなさい。九州の総政所に任命されました。」 

花屋は、不思議に思いましたが、勅諚であるので、従う外はありません。大勢の郎等を連れ 

て、やがて都へと上り、五条の辺りに宿を取ったのでした。

 

 さて、萩原の国司は、花屋が上洛したことを知ると、花屋を参内させない為に、早速に宿 

所を訪れました。萩原は、 

「花屋殿、よくお聞きなさい。詳しい事は良くは知りませんが、御門よりの宣旨によります 

と、あなたは、相模の国、横山館へ下らなければならないようですよ。」 

と、騙すのでした。驚いた花屋は、 

「いったい、どういうことですか。身に覚えも無い事。急いで参内して、申し開きをいたします。」 

と、慌てますが、萩原は、 

「いやいや、仰せはご尤もですが、綸言は汗の如し、一度出たものは、二度と翻りはいたし 

ません。取りあえず今回は、お下向あり、また機会を見て、奏聞なさっては如何ですか。」

と、言うのでした。納得行かない花屋は、それからも、奏聞の機会を得ようと、都に留まっ 

ておりましたが、萩原が邪魔立ての知略を巡らすので、待てど暮らせど、参内の機会を掴む 

ことはできませんでした。とうとう諦めた花屋は、故郷への文を、細々と書き留めると、 

侍達を集めて、涙ながらに、こう言いました。 

「皆の衆は、これより筑紫に戻り、御台所や子供達を、宜しく頼みたい。」 

侍達は、驚いて、 

「お言葉ではございますが、東への下向にお供いたします。」 

と、詰め寄りました。しかし、花屋は重ねてこう言うのでした。 

「東下りに、共することよりも、国元に帰って、姉弟の者達を守り育てることの方が、重要 

であるぞ。さあ、皆の者、立て。筑紫へ戻るのだ。」 

涙に伏し沈む花屋長者の心の内は、哀れとも中々、申し様も御座いません。

 

つづく

Hanaya1