猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

阿弥陀胸割 平成25年新春公演 新潟県民会館 ご案内

2012年11月30日 13時32分16秒 | お知らせ

壬辰の今年もあと僅かになってしまい、少し寂しい限りですが、来年の新春公演
をご案内いたします。「阿弥陀胸割 復活公演 第2弾」です。また、詳しいチラシ等ができ次第お知らせいたします。

人形浄瑠璃「猿八座」公演 「阿弥陀胸割(あみだのむねわり)」

主催:新潟大学人文学部附置地域文化連携センター

日時:2013年2月16日(土) 開場17:00 開演17:30 終演20:00
       

         2月17日(日) 開場12:00 開演13:00 終演15:30

会場:新潟県民会館小ホール(定員250名)

入場無料・全席自由・要予約(定員になり次第締め切ります)

予約受付・お問合せ

電話:080-2012-9115(西橋 受付時間10時~18時)
  (発信番号非通知の電話は、お受け出来ません)


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ⑥

2012年11月28日 10時27分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ⑥

 さて、浄海は、人柱を沈める様子を見物しようと、輪田の岬の観音堂に、一族郎党の

者共と、お出ましになられました。一方、この占いをした博士の安氏は、渚で悲しむ人々

の姿を見て、このようなことになったのは自分のせいだ、なんとかしなければと思い、

観音堂の浄海の前に畏まり、次のように進言しました。

「あれをご覧下さい。人々の嘆きは、阿鼻叫喚地獄の罪人が、熱鉄の炎にあぶられてい

るが如くです。教主釈尊は、難行苦行の末に、実相(真実の本性)を悟られて、さまざ

ま御思案なされ、法華経を経王(きょうおう)となされました。どうか、一万部の法華

経を書写なされて、三十人の人柱の名前を書き記すようにお願いします。そして、沈め

の石には、年号、日付、『竜神納受ましませ』と書き付け、海底に沈めるならば、五十

転伝随喜の功徳(ごじゅうてんでん:法華経随喜功徳品第18)は、八十億劫(おっこ

う:ほぼ無限の時間)の生死の罪を消し去ります。竜神が、納受するならば、必ず嶋は

完成することでしょう。我が君様。」

これを聞いた浄海は、顔色を変えて睨みつけましたので、御一門の方々も安氏も、それ

以上何も言う事も出来ずに、黙っていると、丹波の家包が、妻と乳母を引き連れて、観

音堂にやってきました。家包は、

「なんと情けない。父の命をお助け下さい。我々夫婦二人と父一人を取り替えるのに、

何の不足があるのですか。どうか、我々夫婦と国春を取り替えてください。」

と、天を仰ぎ、地に伏して、流涕焦がれて嘆願するのでした。浄海はこれを聞いて、不

憫に思い、

「さらば、国春一人は、あの女に渡し、残りの二十九人を、すぐに沈めよ。時間が経て

ば経つほど、悲しみも増す。」

と言いましたが、そこに、家来の松王丸が進み出て、

「申し上げます。三十人の人柱を立てたとしても、人々の嘆きによって、嶋が完成する

ことは無いでしょう。君の願いを無駄にしては、家来としての使命が果たせません。やはり、

博士の言う如く、一万部の法華経と三十人の代わりに誰かが一人、人柱となれば、嶋の

完成は成就して、いつまでも消えること無く残るでしょう。」

と進言すれば、上古も今も末代も、試し少ない次第であると、人々は涙を流して感動したのでした。

有り難いことに、浄海も、随喜の涙を浮かべて、松王の進言を受け入れました。

 国春を始めとし、人柱の人々は、直ちに解放され、それぞれの国へと帰って行きました。

浦島太郎が、その昔、七世の孫に会った時の嬉しさも、この喜びにはかなわないでしょう。

 さて、次の吉日は、七月十三日と決まりました。一万の法華経の書写を、寺々に命じたので、

程なく兵庫の浦に、一万部の法華経が集まりました。これを受け取った安氏は、御幣を

切り立てた舟に法華経を積み込んで、海へと漕ぎ出し、御経を沈めました。そして、代

わりの人柱に立ったのは、松王丸です。沈めの石を首に掛けると、さも嬉しそうな様子で、

一心に念仏を唱え、やがて海に身を投じました。安氏は、船上で御幣を振り上げて祝詞

を唱え、巫女の舞が行われました。浜では、沢山の僧達が読経する有様は、有り難いと

もなかなか、申し上げ様もありません。

 この御経の功力によって、嶋の完成は成就しました。その嶋の大きさは十四町(約1.5Km)。

嶋の上には社を建て、松王殿とお祀りしたのでした。かの松王は、大日如来の化身、明

月女は、吉祥天の化身でした。人柱を助ける為に現れたのでした。

 その後、家包には、褒美として、能勢八千町(大阪府能勢町:府道4号に明月峠がある)

が与えられ、数の館を構えて繁栄したということです。

千秋万歳(せんしゅうばんぜい)

目出度きとのなかなか

申すばかりはなかりけり

おわりPhoto


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ⑤

2012年11月27日 17時03分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ⑤

 翌日、家包は、明月女を近付けると、

「私は、これから入道様の所へ行き、父上の助命嘆願をする。このことが叶わなければ、

その場で腹を切って、冥途の閻魔の庁で、お前を待っている。」

と、言い捨ててそのまま内裏に馳せ向かったのでした。家包は内裏に上がると、事の子

細を聞いたのでした。浄海は、重ねてこう言いました。

「三十人の人柱、十八人は男で、十二人は女と聞いておる。男十八人は、沖の方に沈めよ。

女十二人は、磯の方に沈めよ。それぞれの嘆きを、脇から眺めるのも不憫であるから、

一度にさっと沈めるように。」

 これを聞いた家包は、一度は思い切ったものの、肝も魂も消え果てて、いつ申し立て

をしようかと、まごまごしていましたが、いよいよ震える声でこう言いました。

「多くの人々の嘆きを押し分けて、申し立てることは、恐れ多い事ではありますが、三

十人目の人柱として召し捕らえられた修行者は、摂津の国難波入り江三松の形部左衛門

国春という者です。去年の秋、妻子に離れ、高野山にて遁世し、諸国修行をなされてお

りましたが、この浦を通って、三十人目の人柱となりました。この修行者の娘は、この

家包の妻ですが、父の最期を知って、父の命に替わろうとこれまで参っております。し

かし、流石に御前に上がることもできませんので、この家包が代わりに参って、申し上

げる次第です。」

浄海はご覧になって、

「何、あれはなんという訴訟であるか。人柱の行方を案内した者は、すべて人柱にすると

定めたはずじゃ。誰が、お前を手引きしたのか。おい、お前も考えてみよ。三十人の

人柱、一人を哀れみ取り替えたなら、末代までの恨みをどうするつもりか。そのような

ことをしては、治まりがつかなくなる。とはいえ、お前がこの浄海にじきじきに申し立て

することを不憫にも思うので、人柱の最期の時に会うことを許す。」

と、言い残すと、簾中に入られました。最期の瞬間に望みを託した家包は、面目を施し

て、宿所へと戻ったのでした。

 さて、とうとう人柱が沈められる日がやってきました。やがて三十人の者達は、一人

一人、牢輿に入れられて、浜へと運ばれ、一人一艘の舟に乗せられました。人柱に取ら

れた者の妻子、親類縁者が、近国他国より大勢集まって、あれが我が子か、我が父か、

兄弟かと、牢輿に縋り付いて嘆き、悲しみます。しかし、邪見な武士共は、笞を振るっ

て人々を追い払うのでした。今を限りのことですから、言いたいことは山ほどあります

が、近づく事も出来ずに、嘆き悲しむ姿は、目も当てられぬ光景です。

 さて、国春はといえば、二十九人の人柱とは別に厳重な警護に囲まれて牢を出ました。

家包が、軍勢を揃え、国春を奪還するかもしれないと考えたからです。姫君は、父は

何処と、心乱れて泣くばかりでしたが、乳母が後からやって来る国春に気が付きました。

「只今、参られるのが、父国春様ですよ。」

聞いて、明月女は、笠を放り投げると、諸人を掻き分けて一散に父の牢輿に駈け寄りました。

「のう、明月が参りました。私も一緒に沈めてください。」

と言おうとすれば、武士達は、笞を振り上げて追い返します。家包が、追い立てる杖に

縋り付いて、

「やあ、情けもない武士達よ。その人、一人は、面会が許された人であるぞ。」

と言うと、時の奉行上総の守は、

「やあ、静まれ。その人一人ばかりは、訴訟のある方である。少しの間、籠を置き、名

残を惜しませよ。」

と、取りなしてくれたのでした。やがて、牢籠は下ろされました。親子は互いに取り付いて、

さめざめと涙を流しました。束の間の対面ではありますが、念願の対面が叶い、喜びも

またひとしおです。ややあって、父国春は、涙ながらに、

「お前にもう一度会いたいという、志しがあったからこそ、あちらこちらを回って、こ

こまで来たのだよ。親が子を思う心と、子が親を思う心とは違うというが、このような

憂き目に会ったのは、子を思う親の心故のこと。まったく『子は三界の首枷』とは、よ

く言ったものだ。母は、お前への思いが深くて、終に死んでしまった。私も後を追おう

と思ったが、生きていれば又、お前に会えると思って、諸国修行の旅に出たのじゃ。

今、このような憂き目に会うのも、元はといえば、お前にせいなのだ。子は敵か宝かと、

善悪の二つを勘案するに、他人の子は宝であるが、お前は親の敵だな。そうは言ったも

のの、深く恨んでいる訳ではない。この年月、仏神に祈誓をしてきた利生(りしょう)が

あって、生きている内に、お前に会うことができたのだから、何より持って、嬉しいことだ。

このような運命を辿ると分かっていたのなら、母と一緒に長らえて、一緒に会うことができたなら、

どんなにか嬉しかったことか。しかし、このような浅ましい最期の姿を見せなければな

らないのは、なんと言っても恥ずかしいことじゃわい。まあ、それも運命、菩提を問う

て下され。それにしても情けない乳母であるな。このうように近くに居ながら、今まで、

便りのひとつもよこさないとは。」

と、掻き口説いて、流涕焦がれて悶えるのでした。いたわしくも姫君は、

「まったくその通りです。許してください、父上様。私も同じ海へとお供します。御手を

携えて、三途の川を渡り、死出の山を越えて、閻魔の庁へのお供をいたします。

 のう、いかに武士達。私も父上と一緒に、海に沈めてください。みなさんお願いします。」

と悶え焦がれて泣き崩れました。さらに、父国春が泣いては口説き、恨んでは泣く姿は、善知鳥(うとう:善知鳥安方の故事)が、流す血の涙に、勝るとも劣らない労しさです。

 それを見ている人達も、涙を禁じ得ません。このような哀れなことは見たこともないと、

流石に荒ぶる武士達も、皆、涙を流したのでした。上総の守は、この様子を見て、

「御嘆きはごもっともであるが、とても叶わぬことである。どうか、そこをおどき下さ

い、姫君。やあ、武士共。時刻が遅れてはならぬ。気を入れ直して、急げ。」

と下知すると、おうとばかりに、再び牢輿が持ち上げられました。明月女は、更に取り付いて、

「のうのう、情けもない人々よ、のう、しばし」

と、叫びますが、武士達は、姫を引き分けて、浜へと下りて行きました。

この人々の有様、哀れともなかなか、申すばかりはなかりけり。

つづく

Photo


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ④

2012年11月26日 17時14分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ④

 ※以下の記述には、権藤次重元が、一段目の後半で家包を攻めて、明月女を奪還しよ

うとした筋との不一致が見られる。この戦の場面は幸若には無いものであるので、八太

夫が金平風に筋を付け加えたものであると推測される。しかし、ここ四段目においては、

幸若の記述をそのまま受け継ぎ、筋の齟齬を修正していない。家包との戦いに敗れて落

ちた重元が、家包の館と知らずに家包の館に現れるという不自然さを、当時の人達は、

何とも思わなかったのだろうか?逆に、筋はどうあれ、派手な合戦場面を設定しなければ、
興行的人気が出なかったという当時の事情も汲んで取れる。そういう点では、この

作品は、古説経の崩壊を物語る作品とも言えるようである。

 ここに神崎の住人、権藤次重元という優しい人がおりました。(※幸若では、ここで

初めて登場する)

この方も、かつて住吉神社で、明月女を見かけて一目惚れをし、数々の恋文を明月女に

送ったのでした。しかし、明月女が行方不明になってしまったので、思い悩んだ末に出

家して諸国修行の旅に出たのでした。どういう機縁でありましょうか、やがて重元は、

丹波の能勢にやって来ました。そして、探し求めている明月女が居るとも知らずに、家

包(いえかね)の門外で、一休みをしました。重元は、国春禅門(くにはるぜんもん)が、

兵庫の浦の人柱に取られたことを浅ましく思って、何気なく一首の歌を口ずさみました。

『浮き世ぞと 思い捨てても 一筋に 人の上にも 憂きにとぞ聞く』

その時、明月女は、この歌を耳にして、胸騒ぎがしたので、家人を出してこの修行者を

呼び止め、何者であるかを聞かせました。重元は、

「浅ましい修行者が、現世に存在しているように、故郷のことなどをいうべきではあり

ませんが、また、隠してどうなるというものでもありません。 私は、摂津の国、神崎の者。」

と、答えました。物陰から様子を窺っていた明月女と乳母は、神崎と聞いて、吹く風も

懐かしくなり、飛んで出ると、修行者に話しかけました。

「のう、修行者。先ほどの歌に、人の上にも憂き事ぞ聞くと、口ずさんだのは、どうい

うことですか。」

答えて重元は、

「人の上と申すのは、ある法師もこと。この法師の由来をお話しすれば、摂津の国、難

波入り江三松に形部左衛門国春という人がおりましたが、一人の姫がありました。この

姫は、大変美しくなられましたが、ある日行方不明となってしまわれました。父母のお

嘆き、悲しみは大きく、母は、昨年の秋のころに亡くなられ、父国春は、高野の峰に遁

世されました。その後、諸国修行の旅に出られましたが、兵庫の浦の人柱に取られて、

六月二十三日には、海中に沈められると聞きました。なんという浅ましい世の中である

かと、何気なく下手な歌を詠みました。」

と、言いました。明月女も乳母も驚いて、さらに夢とも弁えず、

「それは、ほんとうですか。修行者よ。」

と、呆然としています。重元は、

「かく言う私も、このように諸国修行をしているのは、その姫君のせいなのです。」

と、言い残すと何処へとも無く立ち去りました。これを聞いて明月女は、

「さては、今の修行者は、私を恋していたあの方か。私のせいで、あのような修行者に

なってしまわれたのですね。今となっては、なんともしようの無いことです。」

と、簾中に入って、どうしよも無い自分の運命を思い、さめざめと泣きました。しかし、

父の行方を知った明月女は思い切って、どうにかして父の命の代わりになろ

うと思い立ったのでした。

 ちょうどその時は、家包は狩り場に出て留守でしたので、これを良い機会と思い、

明月女は、事の次第を細やかに文に書き置くと、乳母を呼んで、

「この人が、帰って来るなら、父を助けることが出来なくなります。少しも早く、急い

で行って、父の命に替わりましょう。」

と、言うと、乳母も嬉しげに旅の用意をするのでした。

 かくて、二人は兵庫の浦を目指して旅立ったのでした。人目を忍ぶ旅なので、菅笠で

顔を隠し、頼みといえば、竹の杖だけです。しかし、足に任せて辿っていく道は、こ

こがどことも知れない山道です。やがて、二人は道に踏み迷って、山中で一夜を明かしました。

その夜が明けて、涙ながらに峰に上がれば、猿の声しか聞こえません。谷に下れば、6

月の激しい水音がごうごうと響くばかりです。心ははやりますが、行く道はなかなか

見つかりません。太陽が出てきたので、東の方向は分かりましたが、なんとしても南下

する道が見つからないのでした。疲れ果てて休んでいると、そこに一人の山人が現れ、ました。山人は、

『あれ、不思議なことだ。この人は、秋を待つ桔梗、苅萱、女郎花の花が、露が重いと

身をくねるようだ。また、時雨に染まる紅葉葉と、籬(まがき)の八重菊に野干の畏れ

を憚って、打ち萎れる様にも見える。いったい何を標(しるべ)にこのような人倫稀な

深山までやって来たのだろうか。なにやら怪しい。』

と、変化の物かもしれないと怪しんでいます。お互いに咎めることも、問いかけること

もせずに、その場で休んでいましたが、やがて乳母は山人に近づいて、

「如何に山人。尋ねたいことがあります。私たちは東国八箇の郡(埼玉県の辺り:身を偽って言った)

の者です。ここにいらっしゃいます姫君の父上様が、兵庫の浦の築嶋の奉行に参りまし

たが、父上様の居ない間に、継母が姫を殺そうとしますので、宵に紛れてこれまでお供

して参りました。しかし、ここまできて道に迷って困っているところです。どうか、兵

庫までの道を教えて下さい。」

と、まことしやかに嘘をつきました。山人はこれを聞いて、

「そうであれば、早く言ってくだされば良かったのに、さあ、こちらへお出でください。」

と、言うと、谷川を渡り、細い道を掻き分け掻き分け案内してくれたのでした。やがて、

小高い所に辿り着くと、山人は、

「ここは、その昔、『兵庫への追分け』と言いましたが、今は、『一松(ひとまつ:人待)峠』

と呼んでいます。あれ、あれをご覧なさい。西への道が見えますが、あれは高砂へと

下る道。よく気を付けて、そちらへ行ってはいけませんよ。辰巳(南東)の方に少し行きますと、

一段高い所から東の方を見れば、湊川が見えます。さらに、雀の松原(神戸市東灘区魚崎西町付近)

御影の森、布引(神戸駅付近)、神崎(尼ヶ崎市)、天王寺、住吉神社まで見渡せます。

西の方は、明石、大蔵谷。南の方向に見える渚こそ、兵庫の浦ですから、東西に分かれ

る道に迷わずに、真っ直ぐに下りて行って下さい。名残惜しい夕映えの空ですが、私は、

ここでお暇申し上げます。」

と言うと、山人は又山の中へと消えて行きました。明月も乳母は、

「この恐ろしい山中で、道案内をしていただけるとは、有り難いことです。これは、き

っと人間ではなく、長年、願を掛けてきた鞍馬の大悲多聞天が、山人となって現れたの

に違いありません。ありがたや、ありがたや。」

と、語り合いながら道を急ぎ、ようやく摂津の国、兵庫の浦に到着したのでした。

 兵庫の浦についた二人は、ある浦人に、人柱の行方について尋ねましたが、浦人は、

「人柱の行方をしゃべった者も人柱にすると、高札に書かれておりますから、とてもお

話することはできません。」

と、逃げて行ってしまいました。哀れな二人は、父の行方も知れぬまま、その日は、空

しく、とある庵に宿を取ったのでした。

 一方、丹波の家包は、三日間の狩りを終えて戻って来ると、身内の者が走り出て、

「大変です。姫君が居なくなりました。行方も知れません。」

と言うのでした。家包は、不思議に思って家に入りましたが、確かに姫の姿は見えません。

姫の部屋を見てみると、床の間に置き文があるのを見つけました。いったい、どういう

ことだと、さっと開いて見てみると、こう書いてありました。

『今生ならぬ、花の縁。かように散り果つるべしとは、ゆめゆめ、思わざりしに、

父母の御行方、風の便りに聞きぬれば、身の咎、業の恐ろしく、御身の咎も恨めしや

労しや母上様は、去年の秋、空しくならせ給う。父国春は、高野の峰にて遁世し、諸国

修行なさるるとて、兵庫の浦の人柱に取られ給うと承る。明日とも、御最期を定めぬ由

を承り、情けの縁の尽き場こそ、御身の恨みもおわせめ、少しも急ぎ、疾く行きて、

父の命にかわるべし。自らなからぬその後に、如何なる花に慣れ給うとも、思し召し忘

れずば、菩提を問うてたび給え。かえずがえず。』

家包は、これを読んで、

「兵庫の浦の人柱は、他所の嘆きと思っていたが、我が身の上に降りかかってきたか。

されば、私も兵庫の浦に行こう。」

と思い立ち、直ちに馬を引き出すと、鞭を打ち当て、兵庫の浦に急行しました。兵庫

の浦で家包は、姫の姿をあちらこちらを探し回りましたが、その契りはまだ尽きてはい

なかったのでしょう。探し回る家包の姿を見つけた明月が、するすると走り出て、家包

の袂に取り付いたのでした。再会した二人の喜びは限りもありません。かの家包の志し、

嬉しきともなかなか、申すばかりはなかりけり。

つづく


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ③

2012年11月25日 10時03分01秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ③

 何事も、隠し通せる事はありません。壁に耳、岩がものを言う世の習いです。行方知

れずの人々は、兵庫の浦の人柱に取られたということが知れ渡り、人々は、内裏に押し

かけました。これは、丹波の輪田の者、我は播磨の明石の者、また、交野(かたの)の

禁野(きんや)の者、あるいは伊賀、伊勢、尾張の者、口々に、助け給えと叫ぶ有様は、

まるで、冥途へ赴く罪人が、閻魔大王の前で冥官(みょうかん)の裁きを受けているようです。

これはまさに、現世の地獄と、関係のない人々も涙を流して悲しむのでした。これを

見たご一門の人々も

「例え、この嶋ができなくても、何の不足がありましょうか。沈む者も残る者も、深い

悲しみに包まれております。また未来の業ともなりますから、命を助けてください。」

と、嘆願しましたが、浄海は、

「何を言うか。一門の者共。この浄海の大願を妨げる無駄な詮議。

 国綱、庭にひれ伏す奴らを追い出し、固く錠を下ろせ。簡単に人を入れるでない。」

と、内心では腹を立てていた訳ではありませんが、その様に見せかけて立ち上がると、

床板を踏み鳴らして、

「この嶋を無益と思う者は、私の前から消えよ。浄海に教訓できる者など、この天下

にはおらぬ。」


と言い捨てて、音を立てて障子を閉めました。人々は、この様子を見て、厄神天魔が

来ても、この人を止めることは出来ないと諦めました。

 早く三十人の人柱を集めよとの厳命でしたが、二十九人を集めて後、恐れおののいた

人々は、誰も生田辺りに近づかなくなったので、最後の一人を残して、日が過ぎて行きました。

 さて、修業の旅に出た国春は、高野山で修業をした後、熊野、四国、九州と巡り、我

が子明月女の行方も捜しながら旅を重ね、やがて故郷近くまで戻って来たのでした。

とうとう、娘と会う事も出来ませんでした。何も知らない国春は、涙ながらに昆陽野の

辺りに差し掛かったのでした。これを見つけた平家の武士達は、これ幸いと、有無も言

わさず国春を絡め取ったのでした。かくして、人柱が三十人揃ったのでした。

 三十人の人柱の思いは、どの人も劣るということはありませんが、殊に哀れを留めた

のは、国春でした。

「このような事になると分かっていたならば、高野の峰に骨を埋めるべきだった。浮き

世に長らえていれば、いつかは姫に会えると、諸国修行を志したばっかりに、このよう

な憂き目を見ることよ。こんなに薄い親子の縁であるならば、どうして生まれてきたのだ。

せっかく子宝を授かったというのに、かえって敵(かたき)となるとは、なんと恨めし

い浮き世であることか。神も仏も無いのですか。今一度、我が子に会わせてください。

南無阿弥陀仏」

と、消え入るように泣くのでした。かの国春の心の内は、何に喩えるということもできません。

つづく
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忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ②

2012年11月23日 15時03分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ②

 それはさて置き、浄海(平清盛)は、陰陽師安倍晴明の流れである安倍安親、安則の

三代の後胤、安氏という天下の吉凶を占う博士を御前に召して、

「如何に安氏。輪田の岬を筋交いに、海上を三町(約300m)ばかり埋めさせ、嶋を

造り、舟の泊まりを造らせようと思うが、この勧請が成功するか否か占い、また、吉日

を占って、明国の水夫に任せて嶋成就の祈誓を行うように。」

と、命じたのでした。安氏は承って、干支、五行、宿曜、十二道、六明、算術と、あり

とあらゆる王相(おうそう:占星術)を極めて占いました。

「間違いは無いと存じますが、占いにひとつ、不審な点がございます。この嶋は、一度

には、成就はいたしません。占いによりますと、吉日は、三月十八日。辰の一点と出ております。」

これを聞いた浄海は、国綱に奉行を命じて、輪田泊の工事に着手したのでした。

 

 大和、山城、伊賀、伊勢、播磨、摂津、丹波の七カ国から人夫を集め、「武庫山」(宝塚付近)の

岩、岩石を、くわっくわっと引き崩し、輪田の泊まりへと運び出されました。しかし、

潮が速く、埋めても埋めても、翌日には流されて、まるで、蟻が砂を運ぶようなものでした。

五万人の人夫が、十日がかりで、昼夜埋め続けましたが、まったく効果がありません。

国綱が、この有様を浄海に報告すると、浄海は大変に腹を立て、博士の安氏を呼びつけて、

「未だ、ひとつの嶋もできていない。水夫を潜らせて見てみれば、埋めるところには石も

無く、あちらこちらに散らかるだけ。そこには、波も無く、ことの外静かであるという。

いったい、どうしてこのようなことが起こっているのか。まったく無念なことだ。何か

よい方法は無いか。」

と言いました。安氏は、承りましたが、本当のことを言うべきかどうか、迷いに迷って

ようやくこう言いました。

「実は、占いのままに申すならば、我が身の仇となり、言わなければ天子の権威を失墜

させてしまうことになるでしょう。どちらにしても罪を受ける身となりました。

 さて、人間に限らず、生を受けたものには、命以上のい宝は有りません。ですから、

仏の五百戒のその中でも、殺生戒を第一に守れと教化されたのです。

 恐れながら、この大願に咎があると思われます。これは偏に、この安氏の業となるかと

思われますが、人柱を立てなくては、この嶋の成就は無いと占いに出ております。誠に

由々しき罪業となります。しかも、この人柱は、一人ならず二人ならず、全部で三十人

の人柱を立てなければなりません。」

これを聞いた浄海は、手にした扇で、畳の表をちょうどと打つと、

「やあ、このこと、外部に漏れぬようにせよ。何としても、この嶋を完成させなければならない。

堂塔伽藍を建てるにしても、一時は、民の心を悩まし、善も悪を先とする。つまり、善

悪の二法は、裏と表の関係だ。今、この人柱に取られる者にも、必ず過去の宿縁があるのだ。

しかしながら、一気に人柱を集めようとすれば、民の知る所となり、人々の行き来も途

絶えることになろう。少しずつ、気づかれぬように人柱を集めよ。」

と、言うのでした。

 さて、武士達は、生田や昆陽野(こやの)の辺りの草原に身を隠し、京より下る人、初めて京に

上る人を、取って押し込めては、獄中に投じる有様は無惨な次第です。

 突然に投獄された人々が、故郷を恋し懐かしむ有様こそ哀れです。人柱に取られると

わかっているのなら、老いたる親に暇乞いをし、名残惜しい妻子には形見を取らせてき

たものをと、牢の扉に取り付いて、悲しみ合って泣き明かしております。いつまで、こ

うしているのかすら分かりません。突然の行方不明で、捜しようも無いでしょうから、

いくら助けを待っても仕方ありません。自分の運命も尽きて果ててしまったと嘆く様子

は、見るに耐ない有様です。

 一人、二人に留まらす、二十九人を拉致したので、生田、昆陽野の辺りでは、妖怪変

化のものが、道行く人を宙に取ると、巷の噂となりました。

 やがて、親を取られた者、一人持った子を取られた者達が、丹波、播磨、伊賀、伊勢

など近国より、生田の周辺に集まってきて、行方知れずの者達の行方を捜し始めました。

例え魔物が、我が父、我が子を取ったとしても、せめて死骸を見せてくれと、消えた旅

人を探し求める姿は、野飼いの牛が夕暮れに、子牛を捜すが如く、まったく哀れとも、

なかなか喩え様もありません。

つづく


忘れ去られた物語たち14 説経兵庫の築嶋  ①

2012年11月23日 12時42分45秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ①

天下一石見掾正本(天満八太夫) 日比谷横丁又右衛門板 寛文期(1600代後半)

(説経正本集第二 29)

平清盛が行った大輪田泊竣工に関する物語。室町時代の幸若を下敷きとしている。
不明な文言は、永禄三年写本の「築島」を参考とした。(説経正本集第二 付録9)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、奢れる者久しからず。

ただ、春の夜の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。偏に、風前の灯火。光有りと言えども

悪風に消えぬ。政をも究めず、天下の乱れをも覚らずし、民間の嬉しかる所知らざりしは、

久しからず。

 桓武天皇の第五皇子、一品(いちぼん)式部卿葛原(かずらはら)親王の九代の後胤である

讃岐の守清盛は、御出家されて、浄海(じょうかい)と申されました。天下の政を我が

儘に取り仕切り、津の国(摂津)、兵庫の浦に内裏を建て、福原の新京と呼んで、ここ

に住まわれました。

 これはさておき、難波入り江の三松には、形部左衛門国春という者がおりました。

明月女という娘を持ち、豊かな生活を送っておりました。明月女は、父母の愛情を一身

に受けて、美しく成長しました。明月女、十四歳の春のことです。乳母を伴って、芦屋

の野辺に遊山に出かけました。

 折しもそこに、丹波の国、仁和寺の蔵人兼家の子である藤兵衛家包(とうびょうえいえかね)

は、小鳥狩りに来ていて、偶然に明月女の姿を見かけました。家包は、姫の姿を一目見るなり、

そのムラサキ草のような可憐な姿に魅せられてしまいました。供人を遠くに控えさせると、

ススキの原に身を隠して、姫の姿を追いました。

 それとも知らず、姫君は、コマツナギの一房を手にして、一首の歌を詠じました。

『春はまず こまつなぎにぞ 若葉さす 古葉の色も 見え若葉こそ』

すると、隠れていた家包は、すかさず、

『春の野に 主も見えざる 離れ駒 蜘蛛の糸(い)にても 繋ぎとめばや』

と、強引な歌を返したかと思うと、飛び出して、乳母諸共に奪い取って、丹波の能勢へと

飛んで帰ったのでした。
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 ここに哀れを留めたのは、難波入り江三松の国春夫婦でした。突然の姫君の失踪に嘆き悲しみ、

御台様は、心労から病の床に伏してしまいました。驚いた国春が、いろいろと看病を

尽くしましたが、その甲斐も無く、御台様は、

「これは人間の習いではありますが、他人の良い子よりも、自分の悪い子の方が愛おし

く思われるものです。まして我が子は、仏神に祈誓を掛けて只一人持った子ですから、

世に類も無いと思っていたのに、行方知れずになった今、私はどうしたら良いのでしょう。

人の子は宝でも、我が子は親の敵(かたき)になってしまいました。こんなことを言って

いますが、恨んでいるわけではありません。ああ、恋しい明月姫よ。」

と、言い残すと、三十三歳の若さで亡ってしまわれました。国春は、死骸に取り付き

嘆き悲しんでいましたが、やがて、

「姫には生き別れ、夫には死別し、我が身はなんとするべきか。」

と、妻の野辺送りをすると、出家して、諸国修行の旅に出たのでした。

 さて、一方、神崎(兵庫県神崎郡)の住人で重元(しげもと)という者は、以前より

明月女に気がありましたが、この事件を聞きつけると、郎等の石山源五に、

「如何に源五。かの国春の娘が、仁和寺の家包に奪われたことは、誠に無念なことである。

押し寄せて、きゃつと討ち死にするぞ。」

と言いました。石山も、尤もと、総勢三千余騎の軍勢で、家包の城郭を取り囲むと、鬨の

声を上げました。城内より、桂の左衛門が進み出でて、

「何者だ。名乗れ、名乗れ。」

と言うと、寄せ手の陣から、武者一人が進み出でて、大音声に名乗りました。

「神崎の住人。権藤次重元(ごんとうじしげもと)が郎等、石山源五とは某なり。

難波入り江三松の姫君を奪い取ること、奇っ怪である。今すぐに、姫君を渡せ。さも

なくば、腹を切れ。」

これを聞いて、左衛門は、

「何、権藤次が寄せて来たのか。若君に先を越され、重ねて恥を掻く前に、その陣を退け。」

と、言い返しました。石山は、相手にもせずに、いきなり出陣を下知しましたので、合

戦が始まりました。我も我もと、戦の花を散らしましたが、残念ながら、権藤次、石山

主従、二騎ばかりを残すだけとなってしまいました。重元が、最早自害とするところ、

石山は押しとどめ、重元を落ち延びさせました。石山は、重元を無事に落とすために、

小高き所に立ち上がると、

「重元が郎等、石山が最期、これ見たまえや、人々。」

と、腹を十文字に掻ききって果てたのでした。

かの石山が最期の体、無念なりともなかなか、申すばかりはなかりけり

つづく

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阿弥陀胸割初演 上越高田公演 御礼

2012年11月06日 09時56分12秒 | 公演記録

 11月3日、4日に、高田世界館で行われた「阿弥陀胸割」は、新潟日報や朝日新聞新潟版で、大きく取り扱っていただきました。お陰様で、会場は満員の盛況で、両日とも約130名の方々にご鑑賞いただくことができました。大きな声援をいただきまして、有り難うございました。

新潟日報http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20121103010257.html
朝日新聞 http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000001211050009

壬辰の年に、この物語を演じることができたのは、偏に上越教育大の川村教授と、同大振興協力会の皆様のお陰でした。また、当日は、監修をしていただいた早稲田大学の鳥越文蔵先生や、国文学研究資料館の武井先生、小林先生にもご来場いただき、ご指導をいただくことができました。演出的には、まだまだで、改善工夫が必要ですので、今後ともご指導を願いたいと思います。

 会場の「世界館」は、明治時代の建築物で、元々は芝居小屋として建てられたものが、後に映画館として利用されてきたということです。レトロな雰囲気が、芝居の雰囲気を盛り上げてくれました。

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阿弥陀胸割上段の始めは、口上人形が絵解きをするという、浄瑠璃以前の古い演出を採用。
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上段の見せ場。鍾馗が火炎を吹き、剣を溶かす場面。説経は、からくりを多用して、観客を楽しませた。
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中段での天寿姫のくどきの場面
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下段、阿弥陀の胸が割れるクライマックスの場面
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「阿弥陀棟割」の次回公演予定は、新潟大学主催で、
平成25年2月16日(土)17日(日)新潟県民会館です。
詳細はまた、お知らせいたします。