goo blog サービス終了のお知らせ 

猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ③

2013年07月25日 21時22分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫③

 さて、父の大臣豊成は、家来の侍を集めて、こう言いました。

「姫の処分を、経春に命じたが、その後、何の報告も無い。急いで、経春の所へ行き子細を

尋ねて参れ。」

侍達が、経春の所へ行き、事の子細を問うと、経春は、

「これはこれは、直ぐにでも、ご報告に上がろうとは思っていましたが、何しろ、姫君の

死骸が、火車によって運び去られてしまったので、報告もできないでいたのです。哀れと思

って、お許し下さるのなら、これより伺候して、姫君の最期のご様子をお話いたしましょう。」

と言うのでした。使いの侍が、館に戻って、経春の返答を伝えると、豊成は怒って、

「居ながらの返事とは、なんと生意気な。命令をし遂げなかったな。つべこべいわせずに、

経春を連れて来い。」

と命じたのでした。二十余人の強者達が、経春の館へと駆けつけました。侍達は、

「如何に経春殿。お殿様の申すには、中将姫の首を見せぬのは何故だ。検使の役の者共はど

こへ行ったのだ。詳しく尋ねることがあるから、急いで来る様に、とのことです。」

と言うのですが、経春は、

「おお、ご尤も。しかしなあ、なんだか今日は、気が進まぬ。又日を改めて、参ることに

いたしましょう。」

と、相手にしません。侍達もむっとして、

「憎っくき、今の物言い。このまま帰るならば、こちらが詰め腹切らされる。さあ、引っ立

てろ。」

と、左右に分かれて飛び掛かりました。本より大力の経春は、飛び掛かる侍どもを、取って

は投げ、取っては投げて応戦します。残りの奴原を、四方へ蹴散らかすと、経春は、郎等ど

もを集めて、言いました。

「きっと、これから追っ手が攻めてくるであろう。とても敵うものではないから、お前達

は、どこへでも落ち延びて、後世を問うてくれ。さあ、早く。」

と言うのでした。しかし、郎等共は、

「なんと、残念な仰せでしょうか。主君の先途を見届けずに、落ち延びることなどできるは

ずもありません。是非、お供させて下さい。」

と、譲りませんでした。経春が、

「おお、それは頼もしい。では、用意いたせ。」

と言うと、皆々勇んで、最期の出立ちを整えました。やがて、豊成方の軍勢が押し寄せて

鬨の声を上げました。経春は、大勢の中に飛んで入り、ここを先途と戦いました。しかし、

多勢に無勢。郎等達も皆悉く討ち殺されていまいました。経春は、もうこれまでと思い、

敵を、四方におっ散らすと、門内につっと入りました。鎧の上帯を切って捨てると、腹を

十文字に掻き切って、自らの首を掻き落としたのでした。この経春の振る舞いは、上下万民

押し並べて、感激しない者はありませんでした。

つづく

Photo_2


忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ②

2013年07月25日 20時15分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫

 八郎経春は、何とかして姫君を助けようと思いましたが、検使の役が付いてしまったので、

思う様に姫を匿うこともできませんでした。とうとう観念した経春は、

『もう、逃げようが無い。この上は、姫君のお首をいただいて、豊成に見せたなら、遁世し

て、姫の菩提を問う外はあるまい。』

と思い定めると、姫君を伴って、雲雀山へと向かうのでした。

 雲雀山の山中の、とある谷川の辺りに輿を止めました。何も知らない姫君は、御輿から

降りると、経春に聞きました。

「経春よ。どうして、こんな寂しい山中に連れて来たのですか。不思議ですね。」

これを聞いた経春は、言葉も無く泣くばかりです。姫君が、

「どうしたというのですか。おかしいですね。何故、何も言わないのです。何があったのですか。」

と、重ねて問い正すと、経春は、ようやく涙をぬぐって、

「ここまで来ては、隠すこともできません。父上様のご命令で、姫君のお命を頂戴いたします。

そのために、ここまでおいで願ったのです。」

と言うのでした。聞いた姫君は、夢現かと驚いて、

「それは、本当ですか。」

と、絶句して泣くばかりです。涙ながらに姫君は、

「母様が亡くなられてからというもの、ひとときも母様のことを忘れた事は無く、心が慰め

られることもなかったので、私を、慰めるために、ここまで連れてきてくれたのかと思って

いましたのに。それどころか、私を殺すというのですか。ああ、これは継母の仕業ですね。

なんという情け無い事でしょうか。」

と口説いて、身を悶えて嘆くばかりです。姫君は、更に続けて、

「やあ、経春よ。前世からの宿業で、お前の手に掛かって死ぬ命を、惜しい等とは露にも

思いません。親の不興を受けた者には、日の光も、月の光をも射さないとききますが、

私は、一体どういうわけで、父から捨てられたのでしょうか。いやいや、それを聞いたとし

ても、もうどうしようもありませんね。

 私は、七歳の時から、母上様の為に、毎日、お経を六巻づつ読誦して参りましたが、今日

はまだ読誦しておりません。これが、最期というのなら、今一度、母のために読経いたしま

すから、暫くの時間を与えて下さい。」

と、言うのでした。聞いて、経春は、

「ああ、なんと勿体ないことでしょうか。姫君様。御最期でありますので、何時もよりも、

お心静に読誦をして下さい。」

と涙ぐむのでした。中将姫も涙ながらに、敷き葉の上に座り直して、右の袂より浄土経を

取り出しました。中将姫は、さらさらと押し開くと、迦陵頻伽(かりょうびんが)のお声で、


忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ①

2013年07月24日 20時14分36秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

「中将姫」は、説経正本集第3の(45)に収められている。巻末の(46)は既に読ん

だ百合若大臣(27)の八太夫版であるので、この外題が、古説経正本シリーズの最後の物

語ということになる。丁度25番で切りが良い。

 佐渡猿八の鳥越文庫に入って直ぐの展示ケースの中に「中将姫」が居ます。以前から、こ

の姫は気になっていましたが、この長身の美しい姫が誰なのか、実はあまり知らないでいま

した。西橋八郎兵衛師匠に尋ねた所、文弥節では無く、折口信夫の小説「死者の書」を元に

した「蓮曼荼羅」という公演で遣ったとのことでした。文弥節でやるとすると、「当麻中将姫」

という近松の浄瑠璃になるのでしょうか。

説経では、中将姫の本地とありますが、語られるのは、奈良の当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」

の由来です。毎年5月14日に行われるという、練り供養では、ご来迎が再現されると

聞きます。死ぬまでには、参詣したい寺がまた増えました。

説経正本集第3(45)中将姫本地:刊期所属不明:鱗形屋孫兵衛新板

中将姫 

さて、大和の国の当麻(たいま)曼荼羅の由来を詳しく尋ねてみることにいたしましょう。

神武天皇より四十七代の廃帝天皇(淳仁天皇758年~764年)の頃のことです。大職冠

鎌足の四代後の孫で、横佩(よこはぎ)の右大臣、藤原豊成(とよなり)とい方は、又の名

を、難波の大臣と申します。藤原の豊成には、子供が一人おりました。名前は、中将姫と

言いました。十三歳になった中将姫の姿はの美しさは、秋の月と言いましょうか。お顔は、

露が降りた春の花。翡翠の黒髪は、背丈ほど。眦(まなじり)は愛嬌があり、丹花の唇は

鮮やかです。微笑む歯茎は健康で、細い眉は、優しげです。辺りも輝くそのお姿の話を聞い

ただけでも、恋に落ちない男は居ませんでした。

 しかし、可哀想な事に、中将姫は既に母を亡くしていたのでした。父豊成は、これを不憫と思

って、後添えを貰ったのでした。中将姫は、素直に継母を受け入れて、良く従って、親孝行

をしましたので、心の奥底は分かりませんが、継母も表面的には、中将姫を可愛がったので

した。こうして、表面的には、平穏な日々が流れ、豊成も喜んだのでした。

 ところで、中将姫のことを、内々に聞いた御門は、難波の大臣豊成を、内裏に呼ぶと、

中将姫を皇后に迎える由の宣旨を下したのでした。

「年の暮れか、来年の春には、秋の宮に迎えよう。」

これを聞いた豊成は、畏まって退出し、喜び勇んで館へと戻るのでした。天皇家への輿入れ

に、一人を除いて、皆大喜びです。昔から、継子と継母が仲良しだった例しはありません。

この事を聞いた継母は、自分の子供の出世の機会が奪われると感じて、その心は、忽ちに曇りました。

そして、何とかして、姫を殺してしまおうと、恐ろしい計画を立てるのでした。

 御台所は、親近の若者を選ぶと、こう命じたのでした。


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛⑥ 終

2013年07月18日 16時28分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり⑥ 終

 労しいことに、法道丸は、二つの形見を首に掛けて、涙と共に都へと戻りました。御室の

御所に戻った法道丸は、母上に事の初め終わりを話しまして、形見の品を見せるのでした。

驚いた母上は、涙ながらに口説くのでした。

「これは、夢か誠か。そのように父と会うならば、どうして母に知らせなかったのですか。

膝の骨は知りませんが、この筆跡は、紛う事なき敦盛様の筆跡。私にはお姿を見せず、

この様な御筆跡だけを見せるとは、昔のことが思い出されて、切ないだけです。なんと、羨

ましい若君でしょうか。私も、敦盛様に例え夢でも会うことができたなら、尽きない憂き

思いを、語ることができるのに。」

 泣き伏す母上を、法道丸は大人しく慰めて、それから、母上を伴って、黒谷へと急いだのでした。

法道丸は、法然上人と対面すると、事の次第を詳しく話したので、上人様を初め、弟子の

人々も大変驚いたのでした。母上は、涙ながらに、こう願い出ました。

「上人様。このような奇特が有る上は、この若を、上人様に献げます。どうぞ私の髪を剃り、

出家させて下さい。」

しかし、法然上人は、取り合いませんでした。母上は、

「なんと情け無い上人様。私は、出家して、敦盛様の菩提を問いたいのです。そうすれば、

敦盛様もきっとお喜びになるはずです。どうか。袈裟衣のお情けに、ひたすらお願い致します。」

と、手を合わせて、更に頼み込むのでした。上人は、困って返す言葉も有りませんでしたが、

母上の決心が固いことを知ると、

「よろしい。分かりました。」

と、半挿(はんぞう)にぬる湯を用意して、剃刀を額に当てると、

「浄土の要門。流転三界。えんじつほうおうしゅ(不明の呪文)」

と呪文を三度唱え、四方浄土へと髪をそり落としたのでした。

 世が平家の世であるならば、百歳までも長生きをして、撫でるであろう黒髪を、ばっさり

と下ろされて、墨染めの衣を纏って、感慨深くいらっしゃる母上の姿を見て、上人様も弟子

達も、涙を流さない者はありません。御台所は、

「上人様。私も黒谷に柴の庵を結び、上人様の御衣を洗濯したり、法道丸の様子を見て暮ら

したいとも思いますが、前途有望の法道丸に悪い噂が立てられても困りますから。」

と言うと、上人様や法道丸に別れを告げて、八瀨(京都市左京区)の辺りの山の中に柴の

庵を結ぶことにしたのでした。それから母上は、明け暮れ、香華を飾り、敦盛の菩提を弔

って暮らしたのでした。しかし、やがて都へ出ると、御影堂という寺を建立され、自ら、扇

を作ったということです。(京都五条橋西の新善光寺)

 さて、一方若君、法道丸は、明け暮れ学問に専念され、寺一番の学者となりました。そして

二十五歳の春の頃には、上人の座につかれたのです。

 というのも、その頃に、浄土教の法門は二つに分かれたのです。東山は知恩院(京都市東

山区:浄土宗総本山)、新山として法道丸は、知恩寺(京都市左京区)を開き、父の菩提を

弔いました。これが今の百万遍です。(百万遍知恩寺)この百万遍のお経の功力によって、

仏果を顕す法道丸のお姿の有り難さを、拝まない者はありませんでした。

おわり

Photo_2


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛⑤

2013年07月18日 09時45分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり⑤

母と会うことができた若君でしたが、父のことが忘れ難く、御室の御所に来ても、涙なが

らに暮らしたのでした。ある時、若君は、母に、

「母上様。聞く所によると、賀茂神社の霊験は新たかということです。賀茂神社に祈誓を掛

けて、夢であっても良いので、父上を一目見たいと思います。少しの間、お暇下さい。」

と頼むのでした。母上はこれを聞いて、

「なんと不憫な若君でしょうか。そこまで思い詰めているのなら、必ず利生があるでしょう。

もしも、父上の夢を見ることができたなら、早く戻って来るのですよ。そして、父の様子を

母に教えて下さいね。法道丸。」

と、涙に声を詰まらせました。若君は、涙を抑えて、暇乞いをしたのでした。

 賀茂神社の御前に参詣した法道丸は、鰐口をちょうどと打ち鳴らして、

「南無や帰命頂礼(きみょうちょうらい)。どうか、冥途にまします父上に、夢でも良いので、

会わせて下さい。」

と肝胆を砕いて、祈誓をするのでした。その夜、有り難いことに、賀茂明神は、翁となって

法道丸の枕元に立ちました。

「お前が、まだ幼くて、見たことも無い父に憧れている事は、まったく無残である。それほ

どまでに思うのであれば、これから、摂津の国の生田昆陽野(いくたこやの:神戸市から伊

丹市にかけての広範囲の森や野原)へ行ってごらんなさい。必ず、父に会わせてあげよう。」

賀茂明神はそう告げると、掻き消す様に消え去ったのでした。若君は、夢から覚めると起き

上がり、

「これは有り難い御夢想である。有り難や有り難や。」

と、三度礼拝して、

「これから、母上様に暇乞いをしに行くべきとは思うが、きっと、一緒に行くと言うに違い無い。

申し訳無いとは思うが、これから、直ぐに摂津国に向かおう。」

と心に決めると、涙をぬぐって賀茂神社を出ると、教えに任せて歩き始めました。

(以下道行き)

東寺(京都市南区九条町)四ツ塚(南区四ツ塚町)七瀬川(伏見区深草七瀬川町)

山崎千軒(乙訓郡大山崎町)伏し拝み

まだ、夜は深き高槻(大阪府高槻市)の

塵掻き流す、芥川(淀川水系:高槻市)

富田(高槻市富田町)過ぐれば

宇野辺(大阪府茨木市宇野辺町)の宿

江口の渡し(大阪市東淀川区)弓手に見て

吹田(大阪府吹田市)に高浜八王子(?高浜神社を差すカ:吹田市高浜町)

垂水の宿(吹田市垂水町)に仮寝して

月も傾く、西宮(兵庫県西宮市)

打ち出てみれば、御影の森(神戸市東灘区)


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛④

2013年07月17日 10時42分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり④

 そうして、七年の月日が流れたのでした。七歳になった若君は、一字を二字と悟り、寺

一番の学者となり、肩を並べる稚児は外にはありませんでした。しかし、ある時、南面へ出

て、花を眺めていた若君は、古巣で卵を暖める鶯をご覧になって、法然上人にこう言いました。

「如何に上人様。あの古巣にいる鶯ですら、父も母も居るというのに、どうして、私には、

父母がいなのですか。」

法然は、

「そうか。私も、お前の父母を知らないのだよ。お前は、七年前に、一条下がり松の下に

置かれていたのを、私が拾って育ててきたのだ。今日からは、私を、父とも母とも思いなさい。」

と言って、衣の袖を濡らすのでした。若君は、是を聞くと

「それは納得行きません。三界を照らす御釈迦様ですら、父も母もいらっしゃるというのに

私は、只、天から降って来たのですか。地から湧いてきたのですか。」

と、嘆き悲しむと、明け暮れ父母が恋しいと、四五日の間、湯も水も口にしなかったので、

段々と弱り果て、とうとう半病人となって、寝込んでしまったのでした。これに困った法然

上人は、弟子達に聞きました。

「みなさん。あの若君の身の上に、何か不審なことはありませんでしたか。」

弟子の中から、熊谷の蓮生は、進み出でて、

「いつか、上人様の御法談がありました折り、年の頃二十歳ばかりの女性が、庵室に入って

若君を、膝の上に抱き上げ、遅れの髪を掻き撫でながら、口説いたり、涙ぐんだりしておりました。」

と、話すのでした。これを聞いた法然上人は、ぴんと来ました。

「それでは、七日の法談をすることにする。」

と決めると、その触れを回しました。新黒谷で、御法談があると聞くと、老いも若きも、貴

賤身分を問わず、大勢の人々が、新黒谷の光明寺に集まって来たのでした。

 法然上人は、高座へと上がり、十万浄土の御法談を説かれたのでした。そして、法談の

後で、人々にこう話しました。

「皆さん。私は、七年前に、一条下がり松の下で、赤ん坊を拾いました。その子が、最近、

父母が恋しいと言って、この四五日の間、湯も水も飲まず弱り果て、寝込んでしまいました。

もし、皆さんの中に、この子の父なり母なりがいらっしゃるのなら、どうか一目、会ってや

っては下さらぬか。」

涙ながらに語る法然を見た聴衆の人々は、世の中に、これ以上可哀想な事は無いと、共に

涙を流すのでした。

 その時、聴衆の人々の中に、二十歳ばかりの女が立ち上がると、人々を押し分けて、法然

上人の前へ出てきたのでした。女は、

「上人様。この子の母は、私です。一目会わせて下さい。」

と言って、泣き崩れました。これを聞いた上人は、

「おお、そうか、さあさあ、こちらへ入りなさい。」

と、庵室へと招き入れました。法然上人は、若君の枕元に立ち寄ると、

「さあ、若よ。お前の母が来ましたよ。」

と起こしました。若君は、母という声を聞くと、かっぱと跳ね起きて、

「ええ、あなた様が、母上ですか。こんなに近くに居ながら、どうして今まで、名乗って

下さらなかったのですか。」

と縋り付くと、母上は、

「上人様の御法談の折々に、この庵室で、あなたを抱っこしていたのは、私なのですよ。」

と答えて、醒め醒めと泣くのでした。若君が、、

「のう、母上様。私の父上は、どのようなお方ですか。」

と聞くと、母上は、

「もうこれ以上辛いこともありませんね。名乗らないでおこうと思っていましたが、すべて

をお話いたしましょう。あなたの父上は、平家の大将、無冠の大夫敦盛と言うお方です。

そこに居る蓮生の手に掛かって死んだのです。」

と答えたのでした。若君は、

「なんと、私の父は、あの蓮生の手に掛かって死んだのですか。ええ、無念なり。今まで

父の敵とも知らずに、昨日も今日も、朋輩として頼りにしてきました。」

と言うなり、守り刀をするりと抜いて、蓮生に飛び掛かりました。御台所と法然上人が、慌

てて中に割って入り、若君を押さえると、

「これ待ちなさい。ようく聞きなさい。あの蓮生も、お前の父を討ったことで、憂き世を捨

てて、出家をしたのだ。今日からは、互いの遺恨を無くして、仏道に専念しなさい。」

と諭すのでした。若君は、

「そうでしたか、知らなかったことなので、許して下さい。蓮生殿。」

と縋り付いて泣くのでした。その心の内が、あまりにも哀れに思えて、母上は、

「どうでしょうか。上人様。少しの間お暇をいただけませんでしょうか。若を御室へ連れ

帰り、しばらくの間、休養を取らせたいと思います。」

と、頼むのでした。法然上人が快諾したので、母上は、若君を伴って、御室の御所(仁和寺)

に帰っていったのでした。兎にも角にも、かの母上の心の内の喜びは、例え様もありません。

つづく

Photo


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛③

2013年07月16日 17時04分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり③

 その頃、敦盛の御台様は、御室の御所(仁和寺)におりましたが、夫の敦盛が西国において、

討たれたと聞いて、天に憧れ、地に伏して、悶え焦がれて、悲しみに沈んでおりました。

涙ながらに、口説く有様は、労しい限りです。

「私も、夫と一緒に、同じ黄泉路を越えて行こうとは思いますが、今、七ヶ月半の身重で、

自害をするのなら、更に罪が深くなってしまいます。赤子を産んでから、どうにでもするこ

とにいたしましょう。」

と決心して、月日を過ごされたのでした。あっという間に七ヶ月が過ぎ、お産の時を迎え

ました。誕生したのは、玉の様な若君でした。御台様は、

「生まれた時から、果報も少なく可哀想に。夫の敦盛が生きていたなら、どんなに喜んで

下さったでしょうか。母一人を頼りに生まれてくるのなら、どうして腹の中で、湯にでも水

にでもなってしまわなかったのですか。そうしたのなら、こんな辛い思いをしないで済んだのに。」

と、声も惜しまずに泣くのでした。御台様は、更に、

「この若を、夫の形見として、どの様な岩木の陰にでも隠して、育てて行きたいとは思いますが、

今の世の中は、平家が衰え、源氏が栄える世の中。平家の者と知られれば切腹は免れず、

幼き者であれば、刺し殺され、体内の嬰児ですら捜し出して殺すと聞く。源氏の武士の手に

掛かって殺され、再び辛い思いをするくらいなら、いっそ、どこかに捨ててしまおう。」

と思い切り、形見の品を調えると、まだ生後七日も経たない若を乳母に抱かせ、一条下がり

松へと急ぐのでした。御台様は、やがて松の下に若君を捨てて、泣く泣く帰って行ったのでした。

※《一条下がり松:一条戻り橋近く。京都市上京区松之下町》という説と《一乗寺下がり松:

京都市左京区下り松町》又、《知恩寺(百万遍):京都市左京区田中門前町》の三説がある。地理的には後に不整合を生じるが、ここでは、一条下がり松として読む。

さて、翌朝になりました。近所の人々は、捨て子を見て、

「きっと、この子は、平家の討ち漏らされの子供に違い無い。身の置き所が無くて、捨てら

れたのだろう。拾ってあげたいのは山々だが、拾えば、こっちの身も危ない。」

と、さわる者もありません。

 その頃、黒谷の法然上人は、賀茂神社にお参りをされましたが、その帰りに、下がり松

をお通りになりました。(地理的には不整合な記述)すると、不思議な事に、松の根元から、

赤ん坊の泣き声が聞こえます。法然上人が立ち寄って見て見ると、まだ生後半月も立たない

赤ん坊に形見の品々を添えて、置き去りにされています。法然上人は、

「これはきっと、平家の討ち漏らされの子供であるな。身の置き所が無く、捨てられたに違

い無い。愚僧が拾ったからといって、まさか罪科に問われる事もあるまい。」

と言うと、若君を拾い上げて、弟子達に抱かせると、新黒谷(金戒光明寺:京都市左京区黒谷町)へ

と戻って行かれたのでした。

法然上人は、門前から貰い乳をして、若君を大切に養育されました。御台様は、このこと

を聞き付けて、

「一体、どんな人が拾っていったのか心配していましたが、法然上人が拾って下さったのな

ら、心配もなく、嬉しい限りです。」

と、喜びの涙が止めども無く溢れて来るのでした。そうして、月日はあっという間に過ぎ、

若君はもう三歳になりました。ある時、熊谷の蓮生坊は、この若君を膝の上に抱だき上げて、

「なんとも、不思議なことがあるものだ。この若君は、私が西国において、討ち取った敦盛

の面影にそっくりだ。」

と、若君の遅れの髪を掻き撫でては、わっと泣き、又抱き上げては、敦盛のことを思い出し、

醒め醒めと泣くのでした。兎にも角にも、蓮生坊の心の内は、哀れともなんとも、申し様

もありません。

つづく

Photo


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛 ②

2013年07月16日 15時08分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり

 無冠の大夫敦盛を討った熊谷直実は、東山黒谷の法然上人を師匠と頼み、出家をなされました。

その名を、蓮生坊と申します。蓮生は、敦盛のお骨を、高野山に埋葬するため、法然上人に

暇乞いをすると、黒谷から旅立って行ったのでした。その心掛けは、大変殊勝です。

(以下道行き)

東を見れば敷島や

歌の中山、清閑寺(京都市東山区)

鳥野辺に立つ夕煙(京都市東山区)

よその哀れも今は早

我が身の上と思われて

心細さは、限り無し

とても、かくても

徒し(あだし)身を

思い捨つれば、さしもげに

浮き世の闇も晴れ行きて

心も清き、清水寺

田村丸のご建立

大同二年(807年)の御草創

万(よろず)の仏の願いよりも

千年の誓いは頼もしや

枯れたる木にも、花は咲くと

誤りなくば、敦盛の

頓証菩提と、回向して

東寺西寺、四ツ塚や(京都市南区)

年は旧(ふ)れども、老いもせぬ

むつだが原(不明)は、これとかや

山崎千軒、宝寺(宝積寺)

関戸の院(京都府乙訓郡大山崎町)を早や過ぎて

彼処をみれば、鳩の峰(京都府八幡市)

男山(石清水八幡宮)にも、なりしかば

南無や八幡大菩薩

ご神体は、応神天皇

本地は、釈尊の御再誕

さてこそ、八正道を象り(かたどり)

正八幡とは、承る

二世安楽の御誓い

浮き世に望みのあらざれば

後の世、助け給われと

心の内に観念し

交野原(かたのはら)を通るにぞ(大阪府交野市)

禁野の雉は、子を思う

鵜殿(うどの)に繁き、籬垣の(大阪府高槻市)

宿を過ぎれば、糸田の原(大阪府吹田市垂水付近)

窪津の王子、伏し拝み(大阪市中央区天満橋付近)

天王寺へぞ参りける

聖徳太子の御願所


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛 ①

2013年07月15日 17時58分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

御伽草子や浄瑠璃等、様々なジャンルで取り扱われた人気の題材である。説経独自の物語

とは言えないだろうが、かなり古い年代から古説経に取り上げられていたことは、間違い無い。説経正本集第3(44)に収録された本正本は、所属も刊期も不明で有る。

こあつもり 

 源氏と平家の両家というものは、鳥の二つの羽交いのようなものであり、又、車の両輪

が回る様に天下を治めて来ました。一度は、源氏が打ち負けて、平家統一の世の中となり、

源氏の八男、九郎判官義経は、奥州の秀衡(ひでひら)を頼みとして、逃れていました。

しかし、今度は源氏方が、とうとう都を撃ち破ったので、平家の人々は、哀れにも、一ノ谷

へと落ち延びて行ったのでした。義経は、この様子を見て、

「平家の奴らめ。高麗(こうらい)、契丹(きったん)まで逃げても、攻め殺してくれる。」

と思い。元暦元年(寿永3年:1184年)二月七日に、一ノ谷の鉄拐山(てっかいさん)を

攻略したのでした。平家の人々は、ひとたまりもなく、皆、屋島へと落ちて行きました。

その日に落ちていった部隊は十六組と伝わっていますが、その中でも、特に哀れだったのは、

平清盛の弟である経盛のご子息、無冠の大夫敦盛殿でした。

 敦盛の北の方は、二条の按察使(あぜち)大納言資賢(すけかた)の姫君でありました。

何時のことでしたか、御室の御所(仁和寺:京都市右京区)にて、毎月の管弦が行われる時、

敦盛は笛を勤め、姫君は、御簾の中で琴をお弾きになりました。敦盛は、その姿をつくづく

とご覧になって、文を通わせ、恋文を遣って、遂に夫婦となったのでした。この二人のご様

子を例えるなら、天においては比翼の鳥、地にあっては連理の枝。偕老同穴の語らいも、こ

の二人の睦まじさには、かなうものではありませんでした。

 敦盛は、西国へと下り行く時に、姫君に近付いて、

「御台よ。私は、これから西国へと落ち延びる。屋島にまで下るならば、討ち死には、必定

である。お前の胎内には、七ヶ月半の嬰児がいるが、もし男子ならが、この黄金造りの佩刀

(はかせ)を取らせよ。又、女子ならば、十一面観音を肌の守りとして残し置く。形見など

残すと、亡き後に思いの種を残すとも言うけれど、父の形見として、見せる様に頼んだぞ。

名残は惜しいけれど、お暇申す。さらば。」

と言い残して、ご一門と共に、落ち延びて行かれたのでした。

 さて、話を一ノ谷の合戦に戻します。奇襲に圧倒されて、落ち行く時に敦盛は、一ノ谷

の内裏に、笛を忘れてきたことに気が付きました。笛など捨てておけば、このようなことに

は、ならなかったのでしょうが、ご運が尽きてしまった悲しさでしょうか。そのまま捨て置

いては、一門の名折れとお思いになって、笛を取りに戻ったのでした。さて、平家方の御座

船は、その間に、遙かの沖へと漕ぎだしてしまいました。仕方無く敦盛は、塩屋の方を目指

して、波打ち際を、駒に乗って落ちて行くのでした。

 そこに通り掛かったのは、武蔵国の住人、熊谷次郎直実でした。直実は、一ノ谷の先陣

を切りながらも、大した高名も上げぬままでしたので、大変残念がっていました。もし、


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ⑥終

2013年07月06日 18時21分09秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ⑥終

 それから、緑の前は、形部夫婦、乳母忍達を共として、都を目指しました。姫君の一向が、

漸く、母方の祖父、二条の大臣の館に着いた頃、父の道高も蝦夷征伐を終えて、無事に帰国

してきました。二条の大臣の館に目出度く一同が再会したのでした。人々の喜びは限りありません。

留守中の様々を聞いた道高は、形部を許して、

「お前の忠義は抜群であった。此の度の恩賞には、これまでの本領に加えて、弾正の領分

を与える。」

と、有り難いお言葉をお掛けになったのでした。形部が、余りの忝さに、畏まっていますと、

そこに勅使が来ました。何事かと、道高が、応接すると、勅使は笏を取り直して、

「龍神のお告げによって、道高が献上致した閻浮檀金(えんぶだごん)の仏像を、住吉大社

の近くに、御堂を建立して安置せよ。導師は源空上人(法然)とし、奉行は、道高が行え。」

と、命じたのでした。

 そうして、道高は、畿内の職人達をかき集めると、住吉大社の北側に御堂を建立して、

神宮寺と名付けました。(住吉三大寺:神宮寺・津守寺・荘厳浄土寺)入仏の供養には、

導師源空上人が香華を供えて、浄土経三部・妙典(法華経)を高らかに読誦なされました。

大変、有り難いことです。ところが、その時に不思議な事が起こりました。住吉大社の方

から、金色の光に包まれた神々しい一人の童子が顕れたのです。その童子は、

「この頃、疫病が流行り、人々は皆大変悲しんでいる。これを救う本尊といえば、五大力

を置いて外は無い。さあ顕れよ。有り難い住吉明神の神徳。さあ見よ。薬師如来の本願。

衆病悉除(しゅびょうしつじょ)を。」

と告げると、一枚の絵像をさっと広げて、仏前に掛けたのでした。その仏画をようく見て

みますと、この絵は、五大力の尊体を、大変恐ろしげに描き表したものでした。髪は逆立っ

て、生い立ち、口が耳まで裂けている金剛憤怒の凄まじさには、どのような悪魔も厄神も、

恐れをなして逃げていくことでしょう。源空上人は、大変お喜びになられて、

「和合同塵(わごうどうじん)の利益は、今に始まる事ではありませんが、これは本当に末

世における奇特です。どうか、御本地の妙なる姿を顕されて、衆生を済度して下さい。」

と御念じになられました。すると、忽ちの内に、五大力のお姿は、五智の如来に変化して、

八十種好(はちじっしゅこう)のお姿を顕して、光を放ち始めたのでした。すると、十方

の世界から、数え切れない程、沢山の菩薩が下られて、五智の如来の回りを取り囲むのでした。

大変有り難い次第です。その時、彼の童子は、

「この五大力菩薩は、五智如来の本地垂迹です。先ず中尊には、大日如来がいらっしゃいます。

右上は、西方安養浄土(あんにょうじょうど)の阿弥陀如来。右下は南方に当たって、宝生

如来がお立ちになっておられます。さて左の上は、北の方丈を指し、釈迦如来がいらっしぃます。

左の下は、東方の浄瑠璃世界に阿閦如来(あしゅくにょらい)がいらっしゃるのでございます。

皆、法性の台から降りられて、現世の塵に交わり、諸々の病苦を取り除くだけでなく、来世

において、無為安全の浄土に入れる様に、御方便をお示しになられるのですから、努々(ゆ

めゆめ)疎かにしてはなりません。」

と、説法をして、仏前の狛犬に跨がりました。すると、不思議にも、木像の狛犬は、忽ち

自由に動き出し、雲井に向かって飛び立ちました。最後に童子が、

「我々は、一切の邪魔の障礙を打ち払う、大聖不動明王であるぞ。」

と、言い放つと、その姿は不動明王と変化して、迦楼羅炎(かるらえん)の光明に包まれて、

天高くに昇って行ったのでした。貴賤僧俗を問わず、渇仰の頭を傾けて、拝んだということ

です。誠に有り難いともなんとも、申し様もありません。

終わり

Photo


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ⑤

2013年07月05日 17時34分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ⑤

 さて、良薬口に苦く、忠言に耳が逆らうというのは、まったく、河瀬形部正行の身の上

のことです。主君の勘気を蒙って、和泉国を追放されてから、縁あって、渚の里(不明)に

庵を結んで、親子三人で暮らしておりましたが、それはもう、侘びしい生活でした。

 やがて、弾正の悪逆によって、姫君が行方知れずになってしまったという話を、聞き付け

た形部は、

「これは、なんということか。国外追放の身の上ではあれども、これを聞き捨てにしては、

君臣の礼を知らないことと同じである。こんなことになったのも、全て弾正の仕業であるか

らは、先ずは、和泉に帰って、弾正めを討ち捨てる外はあるまい。それから、姫の行方を

探すことにしよう。しかし、このことが女房に知れるならば、きっと一緒に行くと言い出す

のに違い無い。幼き者も居ることであるから、足手纏いになるだろう。密かに出るしか無いな。」

と考えたのでした。ようやく日暮れ近くになって、女房は、用事をしに出掛けました。形部

正行は、待ってましたとばかりに、用意を始め、一通の書き置きをしたためたのでした。

ところが、息子の花若が、

「何処へ行くのですか。母上も居ない時に、私を捨てて行くのですか。私も連れて行って

下さい。」

と泣きながら、袂に縋り付いて来たのでした。形部は、

「おお、その悲しみは、道理である。しかし、父は、どうしても行かなければならない用事

ができた。すぐ近くなので、行って来るぞ。母も其の内帰ってくるであろう。母が帰るまで

は、外へ出ずに、大人しく留守番を頼むぞ。ちゃんと留守番ができるなら、なんでも好きな

物えお土産に買ってきてやろう。」

と、様々にすかして、宥めましたので、まだ幼い花若は喜んで、

「それなら、可愛い人形を沢山買って下さい。」

と、ねだりました。形部は、

「よしよし、さすがは、我が子。聞き分けが良い。それでは、直ぐに帰るからな。さらばじゃ。」

と言って、出る所に、女房が帰ってきてしまいました。女房は驚いて、

「私の帰りも待たないで、幼い子供を捨てて、この夕暮れ時に何処へ行こうというのですか。

何かあったのですか。」

と、言いますと、さすがの形部も仕方無く、

「むう、最早、隠しても仕方無い。主君の道高様が、奥州の狄退治に行かれた後、弾正介友

が反乱を起こし、姫君を襲ったが、姫君は逃れて行方は知れずとなったという。弾正は、そ

の後、逆らう者を悉く攻め滅ぼしているとも聞く。私は、埋もれ木の身ではあるが、主君へ

の不忠の逆臣を、そのままのさばらせておくことはできない。弾正を討ち捨てて、姫君の

行方も捜そうと考えたのだ。しかし、敵は多勢であり、そう簡単にはいかない。もし、私が


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ④

2013年07月05日 10時16分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ④

 さて、長尾の玄蕃定春は、緑の前様を守護して、自分の館へと戻って来ましたが、突然の

事態に、互いに目と目を見合わせて、泣くより外にしようがありません。玄蕃定春は、

「河瀬形部は、君の御勘気により追放され、行方も知らず。我が君様は、遙か遠国への御出

陣のお留守。このような時に、弾正の悪逆を、いったい誰が、止められましょうか。

 彼奴には、眷属が多くいますので、姫様がここに居ることが知れれば、直ぐに押し寄せて

来るに違いありません。これより直ぐに、祖父の三条大臣殿を頼って、京へと上がりましょ

う。そして、この事態の詳細を御門に奏聞して、朝廷よりの処罰を戴き、弾正めを八つ裂き

にしてやりましょう。」

と言って、緑の前を励ますと、輿に乗せ、夜陰に紛れて、京都へと旅立ったのでした。

 さて、弾正は、姫君を取り逃したことが残念で仕方ありません。あらゆる手を使って、姫

の行方を探索した所、玄蕃定春がお供をして、京都へと向かったことが分かりました。弾正

は、素早く辺りの手勢の者共を借り集めると、阿倍野が原(大阪市阿倍野区付近)に待ち伏

せをすることにしたのでした。

それとは知らずにやってきた姫君の一行は、阿倍野の辺りで賊に取り囲まれました。玄蕃が、

「盗賊共か。無闇に手を出して、怪我をするなよ。」

と、太刀を抜いて、姫の御輿の前に飛び出せば、弾正は、

「森本弾正、ここにあり。命が惜しいのなら、姫君を置いて、立ち去れ。」

と、言うのでした。もう手が回ったかと、定春は獅子の歯嚙みをして怒り狂いました。先ず

五郎兄弟を、右に左に薙ぎ伏すと、信太の八郎とがっぷりに組み合って、大力でねじふせ、

その首を掻き切って、放り捨てました。さて、玄蕃が立ち上がろうとする所を、今度は弾正

が透かさず、ちょうと切りつけたので、玄蕃は高腿を切り付けられ、その場にかっぱと転が

ってしまいました。無念にも、玄蕃定春の首は、弾正によって討ち落とされてしまったのでした。

もう敵は無しと、安心した弾正は、姫の輿に近付いて、

「このように、粉骨砕身して、意地を通すにも、只偏に、姫様のお情けを受ける為です。

こうなった上からは、兎にも角にも、お心をお開いたらどうですか。そうすれば、助けてあ

げましょう。」

と、さも憎々しげに言うのでした。姫君は、胸も塞がって、涙に暮れていましたが、

「さてもお前は、畜類にも遙かに劣る奴。相伝の主君に身を捨てて忠義を尽くすべきなのに、

自分の色事を通して、罪も無い人々を沢山殺し、私に悲しい思いをさせて置きながら、今の

言いぐさはなんですか。例え、体を奪われたとしても、お前等に従ってたまるものですか。

私がお前なら、助け置くなどとは言いませんよ。ああ、どんな因果で、女と生まれて来たの

か。口惜しい。」

と、声を張り上げて、弾正をなじりました。姫君の見幕に弾正は、


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ③

2013年07月04日 09時34分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ③

 さて、和泉の国にいらっしゃいます緑の前は、

「一体どのような前世の因縁なのでしょうか。母上様には先立たれ、父上様だけを只一人、

頼りにしてきたのに、都へ行ったままお帰りになりません。それどころか、辛い宣旨が下り、

蝦夷などという所の逆臣を退治するために、御出陣なされてしまわれました。狄という者

達は、大変、獰猛であると聞きます。もし、お命が危うくなるならば、私は、どうしたらい

いのでしょうか。ああ、私は、便りも来ない捨て小舟に乗って、大海原に彷徨っているよう

な気持ちです。」

と、自らの運命を恨んで泣くのでした。乳母の忍は、この様子を見て、

「これはまあ、仕方の無いことを仰います。母上様はとても帰らぬ死出の旅。御回向をしっ

かりなされませ。父上様は、本より武略に優れた御大将。狄などに負ける様なことはございません。

つまらないことで、お心を悩ませることはおやめください。丁度今は、住吉の花盛りと聞きます。

お花見をして、心を晴らしましょう。」

と、花見を勧めたので、早速に花見をすることになりました。

忍や小桜、その外の女房達がお供をして、住吉へ出掛けると、幕を張り巡らせて、姫を慰

める酒宴が始まりました。緑の前は、満開の桜を打ち眺めて、

「あら、美しい春の野辺ですねえ。目を離すこともできない程、見事な桜花です。唯々、

色を争うように咲き乱れる糸桜。涙に濡れて湿っぽい袖を乾かしてくれるような緋桜(ひざくら)

の色は、もっと鮮やかですね。きっと東国の果では、江戸桜が父を慰めることでしょう。

若木の花は盛んですが、老い木の姥桜も風情があります。そんな中でも、楊貴妃桜の花の色

には、誰もが皆、深く心を動かされるでしょう。又、あそこに可愛らしく見えているのは、

稚児桜ですね。」

と、久しぶりの笑顔で、打ち笑い、楽しげに幕の中へと入って行ったのでした。

 

 ところで、姫君の世話を任されていた長尾の玄蕃定春の一子、長尾の左門春近は、以前か

ら、女房の小桜と心を通わせていましたが、人目を憚って、中々逢うこともできないでいました。

春近は、この花見を機会にして、ちょっとの間でも、小桜と話ができないかと、幕の外から、

様子を窺っております。

 緑の前は、花の心を歌に読んで短冊に書き込むと、小桜に、花に付けるようにと言いました。

小桜が幕の外に出て、とある小枝に、短冊を結びつけるところを、左門は見落としませんでした。

さっと走り寄ると、春近は、

「なんと、つれない心根でしょうか。あなたに逢うために、朝からずっと、待っているのに。

知らん顔をなされるのですか。恨めしや。」

と、言い寄りました。小桜は、


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ②

2013年07月01日 17時11分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ②

道高は、館に戻ると、別殿に薬師如来を安置して祀りました。ある時、道高は、

「私は、和泉河内両国の主として、なんの不足も無い。ましてや、龍宮より、薬師如来を

いただいたので、益々の家の繁盛は、間違いが無い。」

と言いました。すると、森本弾正介友は、進み出て、

「殿のお言葉通り、珍しい霊仏が手に入りましたことは、大変目出度い出来事です。しかし、

このように尊いご本尊様を、不浄の在家に置いておいては、不都合も生じましょう。内裏に

委細を奏聞して、ご本尊を献上いたすならば、天皇もお喜びになり、国や郡も拝領あるに違

いありません。そうすれば、もっとお家が繁盛いたすことでしょう。」

と、勧めるのでした。しかし、河瀬の形部は、違う考えを持っていました。

「いや、それはおかしいぞ、弾正。我が君様は、村上天皇の末裔であられるからこそ、和

泉、河内の両国を治められ、金銀珠玉は蔵に溢れ、叶う者も居ないのである。

我が君様お聞き下さい。宝を持って入る者は、持ったまま出るということは無いと言います。

裕福なのにもかかわらず、不必要な富を、重ねて求めることは、人倫の道に外れます。この

ような不思議の霊仏が、手に入ったのですから、貪欲愚痴の妄念は、全て振り捨てて、平等

大恵の慈悲心こそを渇仰なされれば、求めなくとも、富は訪れ、願わなくとも、家は栄えま

しょうぞ。我が君様にご縁の神仏を、御門へ献上しては、神仏が残念に思われるのではない

でしょうか。」

と、眉をしかめて反対しました。これを聞いた弾正は、顔色を変え、

「ええ、愚かな形部め。『長者も富には飽きない』と言うのは、世俗の詞だぞ。この世では、

誰でも、出世を願うものだ。より良き事を選ぶのが当たり前。お殿様のお考えも聞かぬ内

から、まるで座敷に誰も居ないかのように、お前一人が物知り顔に諫言立てとは、片腹痛いわ。

黙れ黙れ。」

と、似非笑いをして言い放ちました。形部が、

「何を生意気な、やあ、弾正。心を落ち着けてようく聞けよ。この様に言うのも、お前の為

だ。我が君様は、お心掛けが良かったから、仏神のお心に叶い、龍宮の霊仏を戴いたのだ。

だからこそ、人々は、羨むだろうが、宣旨も無い内から、所領目当てに、仏様を献上しよう

などとすれば、今度は、人々は誹るのに違い無い。主君が非を犯そうとする時、従わない

のが臣下の道というもの。もし、殿がそのような欲心をお持ちであるならば、お諫め申し

ましょう。弾正よ。お前は、自分の欲に仁義を忘れ、返って不義を奨めているのだぞ。お前

の様に、欲の深い者は、人とは言わず、犬猫の類いと言うのだ。可哀想にのう。」

と、言い返すと、弾正は歯がみをして口惜しがり、

「ええ、事の是非は置いておいても、侍を畜生呼ばわりするとは、身の程も知らぬ溢れ口(あぶれぐち)。

御前でなければ、この犬の刀を、お前の口に突き刺して、その声が出なくもしてやろうが、


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ①

2013年06月29日 16時28分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

残存する説経正本が、元禄後期の武蔵権太夫本であるため、先行する角太夫の古浄瑠璃正本の影響を受けている様な印象もあるが、古い説経本を下敷きにしていることは、ほぼ間違い無い様だ。本地語りの形式を取り戻して、本来の説経語りを聞かせてやろうという権太夫の意欲を感じる。

 伍大力菩薩

 五大力の本地

 住吉つも寺薬師の由来

 武蔵権太夫

 大伝馬三丁目鱗形屋孫兵衛

 刊期不明

 説経正本集第三(42)

この説経の舞台は、大阪住吉三大寺のひとつ「津守寺」である。神仏混淆の昔には、住吉大社と共に薬師如来が有名であったとのことだが、明治維新以降廃寺となってしまい、現在は存在しない。(現在は大阪市立墨江小学校となっている場所)

住吉津守寺薬師の由来 

 富などというものは、僅かに一代限りの宝に過ぎず、死んだ後まで、持って行くことはで

きません。後世の助けとなるものは、只、慈悲心だけですよ。

 ここに、摂州住吉にある津守寺の薬師如来の由来を詳しく尋ねみますと、本朝七十八代

二条天皇の頃のお話です。その頃、和泉と河内両国の守護職を勤めていたのは、浜名の左右

衛門道高(みちたか)という武士でした。御台所を昨年の秋に亡くしましたが、忘れ形見の

姫君が一人ありました。歳は十五歳。大変美しく、花も紅葉も、月雪の例えも及ばない程で

した。常磐の松の枝も、春には一層色鮮やかになりますので、「緑の前」と名付けられて、

父道高は、大層御寵愛なされたということです。

さて、道高の家来はというと、河瀬の形部正行、森本弾正介友、長尾の玄蕃定春とその一子

春近など、何れも劣らぬ強者達が顔を並べ、道高に仕えていたので、靡かない草も無いとい

う程の勢いでした。

 さて、永万元年(1165年)の五月の初めの頃のことでした。道高は、

「わしは、未だ、住吉の御田植というものを見物したことが無い。幸い、今日は、天気も

良いので、住吉の参詣いたすことにしよう。用意をいたせ。」

と言うと、道々の行列も華やかに繰り出して、住吉大社へ参詣したのでした。道高は、

「あら有り難の大神宮。そもそもこの神様は、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の

時に、舟の舳先に顕れ、逆徒を退治なさったのです。そこで、皇后はここに社を建立され、

底筒、中筒、表筒の三神に加えて、住吉四社を御勧進なされました。住吉大社こそ、弓矢の

守護神。武運長久、安全にお守り下さい。」

と礼拝すると、田の方へと降りて行きました。さて、田んぼでは、堺高須(堺市堺区高須)

辺りの遊女達が、盛んに田植えをしております。

(田植え唄)

いとしおらしく、立ち出でて

早苗、取り取り、様々に

笠の外れも面映ゆく

面を隠し、泡沫の

哀れ儚き、賤の業とは思えども