猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ⑥ 終

2013年02月21日 17時22分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ⑥ 終

 さて、栄華に栄えていた小山太郎は、七月七日の節句のお祝いに、数々の宝物を並べ

立てました。金銀綾羅(りょうら)を取り出している内に、信田玉造の地券の巻物が見

あたらないことに気が付きました。あちこちと探し回りましたが、見つかりません。

小山は、妻に、

「これは、他人の知ることでは無い。お前が盗み取り、誰かに渡したのであろう。お前

の様な、後ろ暗い女を頼みとするわけにはいかん。」

と言うと、労しいことに、妻を追い出してしまったのでした。

 可哀相なことに、信田の姫君は、

「今となっては、頼む当ても無い。信田殿が沈んだ霞ヶ浦に、私も身を投げよう。」

と思い。そのまま、湖畔へと下りました。すると、そこに、千原の後家が、追い掛けてきて、

「そんなに、お嘆きにならないで下さい。信田殿のお命は、我が夫が身代わりになったのですよ。」

と、縋り付くと、信田殿からの数々の文を見せるのでした。姫君は、これを見て、

「それでは、信田殿は、生きているのですね。一縷の望みを掛けて、訴訟のために都に

上がられているのですか。それでは、私も都へ行きましょう。」

と言うと、とある寺で、御髪を下ろすと、旅の装束を調えて、千原の後家と一緒に京都

を目指す旅にでたのでした。

〈道行き〉

三十五日と申するには

花の都に着き給い

先ず清水に参りつつ

信田殿の行く末

知らせてたばせ観世音と

深く祈誓を懸けまくも

熊野の方を心掛け

天王寺、住吉、

根來(根來寺:和歌山県北部岩出市)、粉川(粉河寺:和歌山県紀ノ川市粉河)を打ち過ぎて

三の御山(本宮・速玉・那智)に参りつつ

尋ね給えど、行き方無し

いざや、乳母、四国、九州を尋ねんと

道者船に便船乞うて、打ち乗り

淡路島をも打ち過ぎて

筑紫下りの途次(みちすがら)

長門(山口県西部)のこうや(?)

赤間が関(下関)、芦屋の山(福岡県遠賀郡芦屋町)か博多の津

志賀の崎(志賀島)まで尋ねれど

その行き方はなかりけり

名護屋(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)を出で

瀬戸(平戸瀬戸:長崎県平戸市)を行く

松浦(長崎県松浦市)、弥勒寺(長崎県大村市弥勒寺町)

しつの里(不明:じつ=時津(とぎつ:長崎県西彼杵郡)カ?)

伊王が嶋(旧伊王島町)も近くなりて

いきの(不明:ゆきの=雪浦(長崎県西海市大瀬戸町)カ?)も通り、通にぞ

消えゆるばかりの、我が心

日向の国にとさの島(?)

豊後、豊前や肥後の国

筑前、壱岐の里に至るまで

信田の小太郎、何某と

問えど、答うる者も無し

いざや、乳母、中国を尋ねんと

周防の国に差し掛かり

播磨の国、彼方此方と尋ねつつ

後は、堺の松に出で(?)

そうだの森(?)、烏崎(兵庫県神戸市垂水区東舞子町)

人、松ヶ岡(兵庫県明石市松が丘)を尋ぬれど

その行き方は、無かりけり

須磨の浦(兵庫県神戸市須磨区)、蓮の池(兵庫県神戸市長田区蓮池町)と聞くからに

同じ蓮(はちす)に乗らばやな

兵庫に着けば、湊川

雀の松原(兵庫県神戸市東灘区)、打出の宿(兵庫県芦屋市打出小槌町)

こやの(兵庫県伊丹市昆陽)、伊丹、手嶋の里(?)

太田の町(大阪府茨木市太田)や芥川(大阪府高槻市付近の淀川支流)

神内(大阪府高槻市神内)、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)

きつね川(淀川支流)、久我畷(こがなわて:大山崎~京都府伏見区久我間の街道)

浮き世は、車の輪の如く

巡り巡りて、またここに

花の都に着き給う

いざや、乳母、東路を尋ねんと

我をば誰か松坂や(松坂関峠:京都府山梨区)

逢坂の関の清水に影見えて(滋賀県大津市:旧関清水町)

大津、打出の浜よりも(滋賀県大津市打出浜)

志賀、唐崎を見渡せば(滋賀県大津市)

堅田の浦に引き網の(滋賀県大津市)

目毎に脆き涙かな

尋ぬる人の面影を

映してや見ん鏡山(滋賀県蒲生郡竜王町)

愛知川渡れば

荒れてなかなか優しきは

不破の関屋(岐阜県不破郡関ヶ原町)の、板漏る月見、

垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)

田を植えし、早苗の黒田こそ(岐阜県揖斐郡揖斐川町黒田)

秋は鳴海と打ち眺め(愛知県名古屋市緑区鳴海町)

三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)

蜘蛛手なるやと思うらん

富士を何処と遠江

恋を駿河の身の行方

月も雲間を伊豆の国

信田には何時か、奥州まで

三年三月と申すには

高野郷に着き給い(福島県東白川郡矢祭町付近)

旅の装束なされけり(※とかれけりカ?)

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 さてその頃、信田殿は、七月盂蘭盆会の営みとして、父母孝養(ぶもきょうよう)の

為の施行をしておりました。そして、やってきた二人の比丘尼を招き入れたのでした。

持仏堂に招かれた姫君は、御回向の鐘を鳴らして、声高く御回向をなされました。

「父、相馬殿。母、御台。信田殿の成仏なり給え。未だ、この世にあるならば、この御

経の功力によって、今一度、引き合わせてください。」

と祈念すると、泣き崩れるのでした。信田殿は、この回向の声を聞くと、飛び上がって

驚きました。間の障子をさっと開け走り出ると、

「我こそ、信田ですぞ。」

と、姉に抱きついたのでした。なんという巡り合わせでしょうか。二人は、涙々の対面

を果たしたのでした。信田殿は、

「このような目出度い時に、何を嘆き悲しむことがあろうか。さあ、いよいよ本望を

遂げる時です。」

と言うと、奥州五十四郡の中から選りすぐって、十万余騎の兵を集めました。

 小山太郎は、この事態を聞き及ぶと、これは敵わないと思い、都へ向けて逃げ出しました。

その頃、奥州の国司は、都から奥州へ下向中でしたが、ばったりと小山と出会い。国司

は、易々と小山を絡め取ったのでした。やがて、国司は、小山を連行して、信田殿へと

渡しました。喜んだ信田殿は、武蔵の国嬬恋が野辺(群馬県嬬恋村)にて、小山の首を

刎ね、念願を果たしました。それから、信田殿は、国司と共に参内し、坂東八カ国を給

わったのでした。

 その後、信田殿を売り飛ばした辻の藤太を捕らえて斬首し、母が亡くなった時に世話

になった番場(滋賀県米原市)の宿の亭主には、一所の土地を与えました。本国へ戻っ

た信田殿は、浮嶋の三人の孫に、三千町の土地を与え、千原の後家を総政所としたのでした。

こうして、信田殿は、末繁盛と栄えたのでした。この君の御果報。目出度しともなかな

か、申すばかりはなかりけり。

おわり

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忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ⑤

2013年02月21日 13時32分41秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ⑤

 さて、辛くも命が助かった信田殿は、再び都へと向かいました。日数も積もって、や

っと大津に辿り着きましたが、多くの宿が有る中で、人商いをする「辻の藤太」の宿に

投宿する悲しさは、運も尽き果てたとしか、言いようがありません。藤太は、信田殿を

見て、

『こりゃあ、良い商い物が現れたわい。』と思い、声を掛けました。

「これは、これは、何処へいらっしゃるのですか。」

と、聞けば、信田殿は、

「都へ。」

と、答えました。藤太は、

「お見受けするに、まだ、お若くていらっしゃいますが、お一人で大変でしょう。送り

届けてあげましょう。」

と、言うなり、信田殿を馬に乗せ、都へと運びました。都に着くと、藤太は、博労座(ばくろうざ)

へ行き、王三郎を呼び出して、信田殿を料足と取り替えました。信田殿は、それと知ら

ぬ内に、人買いに売り飛ばされてしまったのでした。それから、王三郎は、信田殿を鳥

羽の舟渡(三重県鳥羽市)へと売り飛ばしました。ここでも、更に売り飛ばされ、やがて、

加賀の国は宮腰(石川県金沢市金石町)へと辿り着いたのは、春の頃のことでした。

賎の仕事を教えられ、田んぼでの農作業にこき使われましたが、労しい事に、信田殿は、

鍬の使い方もろくろく分かりません。かの三皇(さんこう:中国伝説)の昔に、神農皇

帝は、自ら鋤(すき)を持って、その一畦の田を耕し、五穀の種を蒔いたので、勧農の

成果も著しく、尺の穂丈も長くなったと伝えられています。賢く徳の高い君主の国が、

栄えることの例えですが、かの信田殿の農業は、涙の種を蒔くようなもので、野でも山

でも、林でも、只ひれ伏して、泣くより外のことはありませんでした。これを見た人々は、

「役立たず」とけなして、隣国に買い取る人すらなくなりました。とうとう人々は、信

田殿を持て余して、ついには追い出してしまいました。もう、哀れというより、愚かと

いう外はありません。

〈放浪の道行き〉

心を他所に白雲の

打ち出でぬれば天の原

身は中空(なかぞら)なる神の

とどろ、とどろと歩めども

泊まり定めぬ、浮かれ鳥

鳴く音に、人も驚きて

開けぬる門を、杉の下

身は、飢え人となるままに

袂に物を乞食草

草場に掛かる命をば

露の宿にや置きぬらん

定まる方の無きままに

足を限りに行く程に

能登の国に聞こえたる

小屋湊に着きにける(石川県輪島市:輪島港の旧名)

 この頃、小屋の湊では、夜盗が出没していたので、家々は、門をぴったりと閉めて

用心をしていました。これを知らない信田殿は、門外に佇んで、

「世に無し者(日陰者)に、慈悲をましませ。」

と、言って歩きました。そこへ、老人が一人通りかかり、

「あら、恐ろしや。盗賊が、下見に来たわ。討ち殺せ。」

と騒ぎ立てました。人々はこれを聞いて、艪櫂(ろかい)、舵をてんでに持って、集ま

って来ました。人々は、ひと杖づつ叩きましたが、老人は、

「そんなことでは、生ぬるい。討ち殺せ。」

と言うので、人々は、更に散々に打ち叩きました。そうして、騒いで居るところへ、浦

の刀禰(とね)の女房がやって来ました。この女房は、情け深い人で、信田殿を見と、

「この子を、私に下さいな。酒をあげるから、助けて上げなさい。」

と、言いました。酒と聞いて人々は、叩くのをやめて退きました。女房は、信田殿を、

家に連れて行くと、様々と労りましたが、その頃、奥州から来ていた塩商人が、信田殿

を欲しがったので、塩と取り替えることになったのでした。

 さて、信田殿は、塩商人に買われて、奥州へと下りました。しかし、奥州で信田殿は、

塩木を切って、塩釜の火を焚く仕事に、毎日こき使われるのでした。

 ある日、この村の長である「塩路の庄司」は、月を愛でるために浜へと出ていましたが、

信田殿を見ると、

「おや、目の内の気高さは、きっと由緒のある人であるに違いない。私には、この年ま

で、子供が出来なかったので、我が子に迎えることにしよう。」

と、信田殿を養子に迎えると、塩路の小太郎と名付けました。信田殿は、人々から慕わ

れて、ようやく人並みの暮らしができるようになったのでした。

 それはさて置いて、その頃、奥州へ新しい国司が下りました。三年の内に、国の政

を確固とするために、国内の長官を全員招集しました。右は、勝田の大夫。左は、柴田

の庄司。総人数は、三百余人。いずれも選りすぐりの武士が出仕したので、その晴れが

ましさは限りがありません。その中に、塩路の庄司は、老体を理由に、養子の嫡孫であ

る信田殿を出仕させたのでした。しかし、役人達は、信田殿を見て、

「お前は誰だ。ここへは入れぬぞ。」

と言うなり、座敷から引きずり出しました。国司は、これを見て、

「どうして、塩路は来ないのか。上を軽んじるならば、領地を召し上げるぞ。」

と、言いました。信田殿は、

『これは、なんという悔しいことか。いやいや、ここで、名乗らなければ、養父の恥となる。』

と思い。ここで、立ち去っては悔いを残すと、立ち上がると、かの巻物を取り出して、

国司の前に出したのでした。国司がこれを見と、こう書いてありました。

「何々、葛原の親王(かずらわらのしんのう:桓武平氏の祖)の後胤、平将門の孫、

相馬の実子、何某」

 これを見た国司は、態度を一変させて、

「これに増したる、家系の証明は無い。」

と国司が認めると、今度は、国司の対座へと、招かれました。なんとも目出度い次第です。国司は、

「なんと、労しいことか。奥州の国司である我が、都へ上って、正しく領地を安堵させ

てあげましょう。」

と言い、座敷を立ったので、国中の侍達は、黙ったまま舌を巻いて、すごすごと、退

出したのでした。

 信田殿の御威勢は、これ以上、申すこともない程の千秋万歳の喜びです。

つづく


忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ④

2013年02月20日 16時28分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ④

 浮嶋大夫夫婦が、刺し違えたのを見た信田殿は、労しいことに、その場で自害をしようとしました。

しかし、小山の郎等が、押し寄せて、折り重なるようにして信田殿を縛り上げると、小

山太郎の前に引き出しました。小山は信田殿を見て、

「人に果報がある内は、何事も心に任せよう。白昼に首を刎ねるのは、天下に畏れがある。

日が暮れて、夜半になったなら、霞ヶ浦に沈めよ。」

と、相馬の郎等であった千原(ちばら)大夫に命じたのでした。千原は、信田殿を預かって、

大変大事な囚人と、信田殿を更に強く締め上げました。更けゆく夜半を待つ信田殿は、

羊の歩みとは、まさにこういうものかと、思い知るのでした。

 さて、ここに哀れを留めたのは、小山太郎に嫁いだ信田殿の姉でした。

「情けないことになってしまいました。きっと、信田殿は、私も夫と心ひとつに、この

ような仇をなすと思っていることでしょう。せめて、最期の様子を一目でも拝見いたし

ましょう。」

と、人々が寝静まった夜半に、千原の館に忍び入りました。信田殿を見た姉君は、

「これは、なんという恨めしい仕業でしょうか。どうして、私には縄を付けずに、信田

殿だけが、縄を受けるのでしょうか。どうして、答えてくれないのですか、信田殿。

私を恨むのは当然なことですが、私はこんなことになるとは、夢にも知らなかったのです。

どうか、神や仏に聞いて下さい。私には、後ろめたいことはひとつもありません。御願

いですから、何か言ってください。信田殿。」

と、縋り付いて泣きました。信田殿も涙ながらに、

「姉上を恨んだりはしておしません。涙に暮れて、言葉も無いだけです。残念ながら、

私には果報も無く、今日を限りに殺されてしまいます。このような所まで来たことが、

小山に知れたなら、姉上様まで、重ねて辛い目に遭いますから、早くお帰り下さい。

姉弟のよしみに、どうか後世を弔ってやって下さい。」

と、言いました。姉は、これを聞いて、

「私は、例え共に沈められても、何の恨みもありません。こんなことになったのも、す

べて、只これのせいです。」

と、言うと、巻物を取り出したのでした。信田殿は、これを見て、

「これは、家の重宝ですね。今更、こんな物を持っても仕方ありません。持ってお帰り

下さい。」

と、受け取りません。姉君は、更に、

「いやいや、そうではありません。お前が死んだとしも、倶生神(くしょうじん:閻魔の庁の役人)

の前に献げれば、物事の是非はこちらにあるのですから、一方の罪科を逃れることがで

きるでしょう。どうか、平にお受け取り下さい。」

と、巻物を押しつけると、さらばさらばと涙ながらの別れをするのでした。誠に哀れな

次第です。

 その夜も夜半となり、小山から、信田を沈めよとの使いが来ました。しかし、元々、

相馬の家臣であった千原は苦しんでいました。仕方なく信田殿を小船に乗せましたが、

ここに沈めようか、あそこに沈めようかと、行ったり来たりするだけです。とうとう、

今は、沈めかねて、涙ながらに立ち往生してしまいました。

「ああ、さて。この世の中に、するべきでないのは宮仕え。そうでなければ、こんな憂

き目には、遭わなかったものを。その昔、相馬に仕えていた時には、この君を、月とも

日とも思ってお仕えしたのに。移り変わるのが、世の中とは言え、我が手に掛けて殺す

のなら、草場の陰の相馬殿が、どんなにか私を恨むことだどうか。」

と、千原は、迷った挙げ句、

『ええ、明日は、どうにでも、なるならなれ。一旦は、この君を助けよう。』

と、心に決めると、

「只今が、御最期ですぞ。」

と、信田殿に言いました。信田殿が、大きな声で、念仏を唱え始めると、千原も共に

念仏して、腰の刀を抜くや、縄をずんずんに切り捨てて、沈め石だけを、だんぶとばかりに

沈めたのでした。さらに、

「南無三宝、今が、見納め。」

と、声高に叫んで、沈めた様に見せかけたのでした。

 翌朝、小山太郎は千原を呼んで聞きました。

「信田は沈めたか。」

千原は、「はい」と答えましたが、小山はさらに問いただし、

「どうして、検死役を付けなかったのか。お前は、相馬代々の郎等だから、心変わり

をして、逃がしたのではないか。そうだろう。正直に申せ。只聞いただけでは、申さぬ

な。おい、拷問いたせ。」

と、千原を縛り上げると取って伏せて、様々に拷問をしましたが、千原は、何もしゃべ

りませんでした。剛煮やした小山は、古木に千原を吊り下げて責め立てました。引き上

げては、息も絶え、引き降ろしては、少し蘇るを繰り返し、

「ええ、白状せい。」

と迫りましたが、千原は、

「いやいや、この千原はもう入り日。信田殿は、出ずる日、蕾の花。我が命にお代わりあれ。」

と言うと、舌をふっつり喰いちぎって、死んだのでした。小山は、更に腹を立てて、

「妻子を連れてこい。」

と怒鳴ると、千原の女房と子供を引き出させました。小山が問い質すと、千原の女房は、

「なんであれ、知らない事は、申し上げることはできません。有りの儘に言うのなら、

昨夜、夫は、信田殿を小船に乗せて、遙かの沖に漕ぎ出しました。あまりに可哀相なので、

私も、湖畔に出て、事の様子を窺っておりましたが、やがて、信田殿のお声で念仏が聞

こえ、その後、ざんぶと水音がしました。それからの事は何も分かりません。これを、

偽りであるというのなら、浦人達にも聞いてご覧なさい。」

と、毅然と答えましたが、夫の死骸に縋り付いて、

「このように死ぬ事が分かっていたなら、信田殿を逃がすはずはありません。」

と、声を上げて、泣き崩れました。それから、小山は、浦人を集めて、尋問しましたが、

千田の女房が言った事以外の話しはきけませんでした。小山は、

「さては、千原は、信田を沈めていたのに、誤って拷問してしまったのか。」

と、千原の妻子を解放しました。千原の女房は、若の手を引いて館へと帰りましたが、

その道すがら、

「あっぱれな我が夫よ。こんな立派な死に方をする者はそうは居ないでしょう。しかし、

因果の車は輪の如くに巡り巡って、若も千原の様に拷問されることになるのでしょうか。」

と、嘆くのでした。この人々の心中は、前代未聞のことであると、感じ無い者は、ありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ③

2013年02月20日 12時44分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ③

 小山太郎は、信田殿が浮嶋大夫の城に身を寄せ、戦の準備を始めたことを知ると、

「まだ、力を付けない内に、先手を取って討ち滅ぼせ。」

と、横須賀を大将にして、出陣しました。五百余騎で、攻めましたが、敵わず、大勢の

死者を出して敗走したのでした。二番手は、小山の舎弟、三郎行光が、三千余騎の兵力

で城を取り囲みましたが、それでも手に負えませんでした。これを見た小山は、驚いて、

総力を挙げて、小山自身が出陣することになりましたので、常陸・下総の両国が、から

っぽになりました。さすがに浮嶋の城も、大軍に攻められて、一の木戸、二の木戸が

破られ、浮嶋大夫の軍勢は、詰めの城に閉じこもることになりました。浮嶋大夫は、大

手の櫓に上ると、大音声に言いました。

「如何に、子ども達よ。世にある人を主人とすれば、命も惜しくなるが、今日を生き延

びて、出世をしようなどと思うなよ。さあ、子供ども、討ち死にせよ。我も心静かに

最期を迎えるぞ。子供達は何処へ行った。」

それから浮嶋の大夫は、大弓を手にして、矢櫃(やびつ)三つを肩に掛けると、

「やあ、女房よ。こっちへ来て、狭間(さま)を開けてくれ。」

と、言いました。女房は、生年56歳。残り少ない髪の毛を、唐輪(からわ:髪型)に

結って、大手の櫓に駆け上がると、

「どうしたのじゃ、子ども達は。遅いぞ、何をしておる。」

と、出陣を急かしました。

 さて、浮嶋大夫は、その日が最期と覚悟して、堂々たる装束でした。龍を縫った直垂を着て、

鬼形を描いた籠手をはめています。熊の皮で拵えた揉みの足袋を履き、白銀で縁金した

白檀磨きの脛当てを、開口高(あぐちだか:上に引き上げて)しっかりとはきました。

獅子に牡丹の脇楯(わいだて)に、緋縅(ひおどし)の鎧を付けて、肩上(わたがみ)

を懸け、草摺りを長く垂らしました。上帯をしっかりと締めるその姿は、今こそ、巳の

時に輝くばかりです。

 

 さらに、右の脇には、九寸五分の鎧通し(短刀)を差し、左の脇には、一尺八寸の打

ち刀に、三尺八寸の赤銅造りの太刀を差し、背中には、切斑(きりう)の矢を四十二本、

筈高に背負いました。五枚兜の緒をきりっと締めて、白綾の母衣(ほろ)を被ると、塗

籠弓(ぬりごめゆみ)の四人張りに攻めの関弦(せきづる)を懸けさせた、剛の者しか

扱えない弓の真ん中を横持ちにするのでした。

 そして、七寸八分(ななきはちぶ:馬の丈四尺を基準として、それよりも七寸八分高

い)の六歳馬に金覆輪(きんぶくりん)の鞍を着けて、ゆらりと跨がるのでした。

 やがて、兄弟4人がそれぞれの馬に乗って、場外へと出陣しました。敵も味方も、あっ

ぱれな武者ぶりであると、誉めない者はありません。浮嶋大夫は、櫓からこれを見て、

「おお、あれを見なさい、女房よ。何れも劣らぬ器量の子ども達よ。これほど立派な

子ども達を、世に送り出しておきながら、領主にしてやることもできずに、殺してしま

う口惜しさよ。早、死ね子供どもとは、言いながら、今日を限りのことであるから、今

一度、よっく顔を見せよ。」

と、さすがに剛の浮嶋も、涙をはらはらと流すのでした。女房もこれを見て、涙が溢れ

て仕方ありませんが、悲しみを振り払ってこう言うのでした。

「老いぼれたか、大夫殿。泣いている場合じゃ無いぞえ。ええ、如何に、子ども達よ。

戦は、心が剛であるばかりで、兵法を知らなければ勤まらぬぞ。味方が、無勢である時

の攻め方は、「魚鱗」「鶴翼」の陣形ぞ。魚鱗というのは、魚の鱗の形で突っ込み、鶴翼

とは、鶴の羽の様に、敵を包囲するのじゃ。

 駒の手綱さばきがへたくそでは、向かう敵を切られぬぞ。向かう敵を切るときは、蹴

上げの鞭をちょうど打て。表返しの手綱をすくって、拝み切りに切り捨てよ。左側の敵

には、反対の手綱をさっと引いて、葱行(そうこう)の鞭を打って、切るのじゃ。父も

母も、これにて見ておるぞ。桟敷の前の晴れ戦に不覚を掻くな。子供ども。」

浮嶋の女房は、子ども達に檄を飛ばし、勇気づけるために、狭間の板を打ち叩いて、か

んらかんらと笑うのでした。さあ、血気盛んの子ども達は、父にも母にも、気合いを入

れられ、叫び声を上げて駆け出しました。敵勢に駆け込んでは、さっと引き、また、駆

け込んでは、さっと引き、五、六度の競り合いで、河原の石より多いのは、敵の死人でした。

女房は、これを見と、我慢ができなくなって、

「ええ、子ども達が面白いように戦うわい。よし、後ろ詰めをしてやろう。」

と、被っていた布を、ぱっと脱ぎ捨てると、その下は、なんと武者姿です。紅の袴に、

膝鎧(ひざよろい)をつけ、脛当てもしています。大夫が使っている黄楊(つげ)の棒

を、持ち出すと、大手の門を押し開いて、馬に打ち乗り駆け出しました。

「只今、ここに、進み出たのは、津の守頼光(らいこう:源頼光(みなもとよりみつ))

に五代なる渡辺党(渡辺綱)の大将軍、弥陀の源次が娘、弥陀夜叉女(みだやしゃにょ)であるぞ。

二つと無きこの命を、信田殿に奉る。我と思わん者は、いざ、尋常に勝負せよ。如何に、

如何に。」

と呼ばわったのでした。浮嶋大夫は、その有様を櫓の上からつづくと見て、

「おお、子供が剛なるのも道理である。これほどの者達が、親子兄弟、夫婦となって、

ここで戦うのも、不思議な巡り合わせ。如何に、信田殿。こちらへお出でになり、女の

戦をご覧下さい。

 平の将門公の御目には、瞳が二つあり、八カ国の主となられました。あなた様にも

左の目に瞳が二つありますから、必ず坂東八カ国の主となられます。我等も、そのお姿

を目にしたいとは思いますが、武士としての恥を掻かぬ為、皆、討ち死にの覚悟。

あなた様は、小山に生け捕られても、命長らえて喜びの時をお待ちなされて下さい。

必ず、二十五歳までには、ご出世なされることでしょう。さて、最早これまで、さらば。」

と、言い残すと、櫓からゆらりと、飛んで降りました。

 浮嶋太夫は、大荒目(おおあらめ)の袖を引き抜いて、からりと捨てると、胴の鎧だけとなり、

箙刀(えびらかたな)、首切り刀を三腰まで差しました。更に、その日の最後の武器と

して、女房の長刀を手にすると、四尺五寸の柄を、更に二尺伸ばしました。数矢(かず

や:足軽の矢)を取って、ばっさりと切り捨てると、

「むう、なかなかの切れ味。」

と、打ち肯いて、

「南無三宝、南無三宝。どれ程の者達がこの長刀に当たって、死ぬことか。さあ、最期に

目に物見せてくれる。のう、女房よ。」

と言うと、夫婦諸共、城外へと駆け出ました。余りの勢いに、向かって来る者もありません。

さて、棒を使う兵法には、芝薙ぎ、石突き、払い打ち。長刀の兵法には、浪の腰切り、

稲妻きり、車返し。やあとばかりに、女房が突進して行けば、大夫が後から切り回り、

敵陣に向かって切って入りました。これを、物に例えるならば、天竺州(天竺将棋)の

戦いで、歩兵(ぶひょう)が先を駆け回れば、王行(おうぎょう)角行が、駆け出で、

金銀桂馬が駆け回れば、太子が襲いかかるようなものですが、弥陀夜叉女と浮嶋大夫

の戦いぶりは、将棋盤の戦いには比べものにもならない程の凄まじさでした。しかし、

寄せ手の軍勢は数多く、やがて、五人の子ども達も散り散りとなり、とうとう一人も残

らず討たれ、大夫の長刀は三つに折れ砕けてしまいました。それでも浮嶋大夫は、大手

を広げて、打ち組むと、敵の首を捻じ切り、引っこ抜き、人礫に投げ飛ばし、また幹竹

割(からたけわり)に引き裂いて、死力を尽くしましたので、向かって来る敵もいませ

んでした。やがて、浮嶋大夫は、

「こんなに沢山の人を殺したのでは、未来の業となる。さあ、これで最期。いざ、姥御前よ。」

と、互いに刀を抜き持つと、刺し違えて往生したのでした。この二人を惜しまぬ者は

ありません。

つづく

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アート ミックス ジャパン 新潟2013 ご案内

2013年02月20日 08時36分41秒 | お知らせ

「にいがた総おどり」が企画する「ART MIX JAPAN」に猿八座も参加いたします。

テーマは、「侘と寂」となっていて、さまざまな芸能が参加します。

猿八座の公演予定

日時 4月20日(土) 10:30開場 11:00開演 

会場 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 能楽堂

演目 山椒太夫 鳴子曳き (上演時間45分)

問い合わせは、「にいがた総おどり」まで www.soh-odori.net

詳細は、

▼「ART MIX JAPAN2013」公式サイト

http://www.soh-odori.net/amj2013/

https://www.facebook.com/artmixjapan をご覧下さい。

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満員御礼 新潟県民会館 「阿弥陀胸割」公演

2013年02月18日 21時22分15秒 | 公演記録

2月16日、17日。新潟大学主催の「阿弥陀胸割」公演を、無事に終えることができました。

両日とも、1月中には満席となってしまい。多くの問い合わせを頂きながらも、

お答えできなたかった方々が多数いらしゃいましたことをお詫び申し上げます。

今年は、雪も少なく、天候にも恵まれました。多くのご声援を頂きましたことに感謝申し上げます。

次の「阿弥陀胸割」の公演は、9月7日、8日愛知県豊田市を予定しています。

詳細が分かりましたらご案内申し上げます。

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阿弥陀如来のお告げを授かった天寿・ていれい姉弟は、大萬長者の館へ向かいます。

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天寿は、自分だけを売って、親の菩提を弔おうとします。

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大萬長者の息子松若の為に、生き肝を薬として与える天寿

詳しい内容は、こちらをご覧下さい。

忘れ去られた物語たちシリーズ1

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20111020


忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ②

2013年02月08日 11時34分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ②

 さて、小山太郎行重は、信田殿が、都へ直訴に及んだことを聞き知ると、郎等共を集めて、

「信田を都へ上らせては、まずい。追っかけて、討ち取れ。」

と、命じました。郎等の横須賀は、

「殿の御諚ではございますが、理由も無く追討したとあっては、上への聞こえも悪くなります。

考えまするに、調伏(ちょうぶく)なされるのが良い方法と思われまする。」

と、進言しました。小山は、成る程と思い、早速、鹿島神社に使いと立てると、神主を

呼び出しました。小山は、やってきた神主を様々にもてなすと、神主の袂を掴んで、

「この度、ご足労を願ったのは、外でもない。信田を調伏してもらいたい。」

と、頼んだのでした。これを聞いた神主は、驚いて、

「いえいえ、天地長久、御願円満、息災延命と祈ることの外に、そのような秘術などありません。

調伏など、神仏の照覧も恐ろしい。」

と、逃げ出しました。小山は、ずんと立ち上がって、立ちふさがり、

「やあ、一期の浮沈の一大事を聞いておいて、どうでも、厭だとは言わせぬぞ。」

と、腰の刀に手を掛けました。神主は、万策尽き果て、仕方なく調伏を引き受けざるを

得ませんでした。

突然のことでしたから、吉日を選んでいる間も無く、壇を設えると、飾り付けをし、

何やら恐ろしげな供物を並べました。護摩焚きの乳木(にゅうぼく)、山空木(やまうつぎ)。

濯水(しゃすい)の水にイモリの血。それに羊の肉を盛りました。この供物は、毎日

違う物が供えられました。初めの七日は、地蔵菩薩の南向きに、次の七日は、阿弥陀如

来の北向きに、祈りました。次の七日は、内縛(ないばく)、外縛(げばく)の印を結んで、

不動明王、金剛童子に索の縄をぐるぐる巻きにすると、一心不乱に祈祷をしました。

しかし、やったことも無い調伏が、そう簡単にできるはずもありません。神主の面目

は丸つぶれです。いよいよ、追い込まれた神主は、更に十四日間、加持祈祷を一心に続けました。

「オン、コロコロ、センダリマトウギ」(薬師如来真言)

「ソワタヤウンタラタ、カンマン」(不動明王真言)

と、その有様は、狂わんばかりです。とうとう、数珠は切れ飛び、五鈷で膝を叩き、三

鈷で胸を叩き、独鈷で頭を叩きます。頭蓋骨は割れて、血が噴き出しました。全身血だ

らけになった神主は、その血を不動明王の利剣に押し塗ると

「これは、調伏人の血であるぞ」

と、目玉を剥き、天地を響かせるばかりに祈祷したので、いよいよ五大尊(五大明王)

は振動し、金剛夜叉は矛を振り、大威徳明王が乗る牛が、角を振って吠え立てたのでした。

 さて、命を懸けた調伏の験(しるし)は、やっと現れましたが、信田殿にまでは届き

ませんでした。信田殿一行は、中山道番場の宿(滋賀県米原市)の辺りを急いでおりましたが、

俄に、御台所の具合が悪くなったのです。信田殿は、とある所に宿を取り、御台を休ま

せることにしました。人々は、御台所を取り巻いて、あれやこれやと看病しましたが、

容態は次第に悪化するばかりです。苦しみながら御台所は、

「ああ、苦しい。皆の衆。もう、私は終わりです。私が死んだなら、兎にも角にも、信

田殿の事をよろしくお願いしますよ。世の中は、何故、思い通りにならぬのでしょうか。

信田殿のことのみが、思いやられ、黄泉路の支障となりましょう。ああ、名残惜しい

信田殿よ。」

と、言い残して、儚くもこの世を去ったのでした。人々は、突然のことに、泣くより外

にはありません。信田殿は、死骸に抱きついて、

「これは、恨めしい母上様。あなたのことのみを思って、遙々と都を目指して来たのに。

こんなことになると分かっていたのなら、家来達と諸共に、小山の館に攻め入って、一

矢報いてやったものを。それなのに、私を振り捨てて行ってしまうなんて、これから、

どうしたら良いのですか。私も一緒に連れて行って下さい。」

と、嘆くのでした。家来達は、

「生死無情は、世の習い。嘆いてばかりいても仕方ありません。」

と言うと、信田殿から死骸を引き離して、野辺の送りをしたのでした。労しいことに、

心労のあまり、信田殿も床に伏して、動けなくなってしまいました。十一人の家来達は、

「信田殿の運命も尽き果ててしまったようだ。これ以上、信田殿に従っても、京や

田舎を彷徨って、苦労するだけ。かといって、外の家に仕官するのは、武士の恥。これ

を、菩提の種として、出家をしよう。」

と、皆、密かに元結いを切り落とすと、信田殿の枕元に置いて、去って行ったのでした。

 さて、ようやく目覚めた信田殿が、

「さあ、皆の衆。いつまで嘆いていても仕方ありません。気を取り直して、都へ参りましょう。」

と、言いますが、誰も返事をしません。おかしいなと思った信田殿が、跳ね起きると、

家来達は、誰も居らず、枕元に人々の髻(たぶさ)があるばかりです。信田殿は、驚いて、

「ええ、私を捨てて行ったのか。ああ、もう生きていても仕方ない。」

と、刀に手を掛け、自害するところに、宿の亭主が飛んで来て、止めたのでした。宿の

亭主が、事の次第を尋ねると、信田殿は、これまでの様々な身の上を話しました。亭主は、

「それ程に正しい道理があるのでしたら、どうして訴訟をされないのですか。私が、都

まで送り届けてあげましょう。」

と、言うと、信田殿を馬に乗せて、都へと向かったのでした。亭主は、五條の辺りに宿

を借りてあげると、訴訟の仕方を丁寧に教えて、戻って行きました。

 しかし、労しいことに信田殿は、片輪車の縄が切れた様に、やる気も無く、只一人、

ふらふらと無為な時間を費やすだけでした。

「誰か、道連れと頼る人もいない。やはり、常陸に戻って、小山と刺し違えて死ぬ外は

無い。」

と、思った信田殿は、また常陸の国へと戻って行くのでした。

 やがて、信田殿は、常陸に戻り、小山の館にやってきました。

「信田である。先ずは、平に降参いたす。」

と言うと、小山は、

「おお、分かっておるぞ。俺に一刀報いに来たな。お前を殺すことは簡単だが、降参した

者を討つのは、武士の道に外れる。命は助けるぞ。」

と、信田殿を、門外に放り出しました。信田殿は、一矢報いることもできず、すごすごと

立ち去ると、父の墓へ詣でて、一人嘆くのでした。

「どうして、こんなに果報の少ない私を、この世に残して置くのですか、どうして、

上品上生(じょうぼんじょうしょう)の台(うてな)に、お迎え下さらないのですか。」

信田殿が、泣く泣く墓を後にしようとした時、編み笠を深々と被った武士が、近づきました。

武士は、

「信田殿では、ありませんか。」

と、袂を取りました。かの浮嶋大夫でした。二人は、再会を喜び合い、浮嶋が隠居している

下の河内へと向かったのでした。

 浮嶋大夫は、館に着くと、女房や子供達を集めて、

「日頃より、皆が祈ってきたので、天のご加護があり、偶然にも信田殿の巡り会ったぞ。

信田殿がここに来たことは、隠そうとしても、いずれ知れ渡る。この城は、昔より守り

が固く、そう簡単には、落とすことは出来ない。お前達に戦をさせ、内戦に耐えておれば、

きっと都より、咎めの使者が下る事だろう。そうしたならば、越訴(おっそ)を行うのだ。

様々な苦難があるであろうが、必ず、国を取り返すことができる。さてしかし、俄に慌

てて、出兵するのではないぞ。人夫を集めて谷々に掘りを切り、山々にかがり火を焚かせ、

垣楯(かいだて)を巡らせて、気を許すな。よいか。」

と、命じました。女房も子ども達も、この君の為に、儚い命を捧げようと、躍り上がって、

喜んだのでした。この人々の姿は、あっぱれであると、誉めない人はいませんでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ①

2013年02月07日 16時42分17秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天満八太夫 宝永年間  (説経正本集第3(34)天理本)

幸若の「信田」(幸若小八郎:慶長十六年)の簡略版という風情の作品である。残って

いる本の所属や出版年代は不明で、天満八大夫、宝永年間と推定されている。幸若の「信

田」と比較すると無理矢理な省略が、随所に散見される。人売り、流浪、道行きと、説

経らしいモチーフは、有るにはあるが、やや粗雑な作りになっていると言わざるを得な

い。古説経の凋落を感じさせる作品である。

 常陸の国を治める相馬家は、平将門の末裔である。ところが、嫡子である信田小太郎

は、姉婿の小山に追われて、落ちぶれて流浪を余儀なくされる。姉も追い出され、小太

郎を捜して流浪する。小太郎と姉は再び巡り会い、最後には、敵を討ち、自分の国を取

り戻す。

しだの小太郎 ①

 承平(しょうへい:931年~938年)年間は、七年間で終わり、天慶(てんぎょう:

938年~947年)の九年間の後、天暦十年(956年)の3月の末のことでした。

相馬殿の姫君は、小山の太郎行重(おやまのたろうゆきしげ)の所に嫁ぎました。父の

相馬殿は、既に亡くなっておりましたので、小山は、相馬殿の供養を、大変厚く営んだのでした。

信田(しだ:信太郡、茨城県の霞ヶ浦西岸部)にいらっしゃった、御台様は、この様子を聞くと、

「小山殿は、心の優しい方ですね。どうでしょう、浮嶋大夫(相馬家家臣)。相馬殿は、

御最期の時、きっと忘れてしまわれたのだと思いますが、沢山の領地があるにもかかわらず、

姫には、一所も所領をお与えになりませんでした。婿の小山殿の望みもありことですから、

信田の庄を、半分、小山殿に与えては、如何でしょうか。そうすれば、信田にとって

頼もしい後ろ盾になることでしょう。百騎二百騎の雇い兵を頼まなくても、小山が、先

に立って守ってくれるでしょう。どうですか。」

と、仰いましたが、浮嶋は、返事もせずに、俯いたままです。しばらくして、浮嶋大夫は、

「どうか、剛の者の悪い行いを、お忘れならぬように。弓取りの娘は、必ず、他人とな

り、婿は、居城の近くに置くべきではありません。移り変わるのが、世の習い。人には、

貪欲、虚妄(こもう)という欲心を内に秘めており、いくら親しくとも、すぐに疎まし

い関係になるものです。できることならば、折々の引き出物の宝を尽くしても、所領

においては、一切、お与えになってはいけません。」

と、すっぱりと言うと、御前を下がりました。御台所は、これを聞いて、

「相馬殿に過ぎ遅れて、いつしか、家臣の者さえ、私を軽んじるようになりました。果

報も尽き果ててしまったようです。もっともらしい顔をして、家を持って暮らしていて

も仕方無い。」

と、息子の信田殿(信田小太郎)に、暇を乞い、遁世すると言い出しました。驚いた信田殿は、

「もう、明日は、なんとでもなれ。たった一人の母上のお考えを、かなえてあげましょう。」

と、信田の庄を半分、母上に献上したのでした。喜んだ御台所は、信田の庄の半分を

小山の太郎へと与えました。これには、小山も喜んで、姫君を伴って、早速、信田の

館へと移って来たのでした。

 相馬家代々の郎等は、小山に従い、日々に出仕しましたが、浮嶋大夫親子六人は、従

いませんでした。浮嶋大夫は、

「御台からの信頼も失って、万事につけて、悪いことばかりが重なり、世の末も危うい。

しかし、最早、没落は避けられまい。いつまでも、相馬家にしがみついていても仕方ない。」

と、思い切ると、下の河内(河内郡:こうちぐん:信田郡の南部)に隠居してしまいました。

御台は、このことを聞くと、

「浅はかな浮嶋大夫じゃな。大夫が居ないとは、世間体も悪い。しかし、小山が居れば、

問題はないであろう。」

と、思うのでした。相馬家を支えていた浮嶋大夫が居なくなり、まだ、信田殿も幼少

であったため、御台は、家に伝わる宝物や重要な文書を、小山に預けることにしました。

 小山は、預けられた、将門代々の証文を見て、つぶやきました。

「何々、信田、玉造(現茨城県行方市:霞ヶ浦北西岸部)、東条(信田郡の東側地域)

は、八万町。なんと、広大な領地であろうか。このうち、一万町でも手にするだけでも、

何の不足も無いところだ。ましてや、常陸、下総の長官となるならば、思うがままだ。

俺以外に、それに相応しい者は、この国はおるまい。」

小山には、むくむくと、大欲心が湧き上がりました。小山は、熊野詣を口実にして、

直ぐに都へ上り、朝廷に参内すると、相馬家の弱体化を報告し、自分に本領を安堵する

ように奏聞したのでした。朝廷への数々の貢ぎ物の効果もあって、やがて、小山に対し

て本領が安堵されたのでした。小山は、喜んで常陸へと帰りました。小山は、邪魔にな

る、信田殿と御台所を、殺してしまうかとも思いましたが、流石に、表だった理由も無

いので、国外追放にすることにしました。

 信田の館に、突然、国払いの使いがやって来ました。御台所は、

「いったい、小山殿の心には、如何なる天魔が入り込んで、その様に、狂ってしまった

のでしょうか。ああ、浮嶋大夫の言葉通りになってしまった。なんということでしょう。」

と、泣き崩れる外はありません。しかし、情けも無い小山は、手のひらを返して振る舞

い、嘆願を受け入れなかったので、御台所と信田殿は、泣く泣く御所を後にしたのでした。

御台所は、甲斐の国の板垣(現甲府市里垣町)の知人を頼って、落ちることにしました。

しかし、『いたがき』(居るに掛ける)と言うのに、尋ねる人は、居ませんでした。仕方なく、

御台と信田殿は、とある荒ら屋に宿を借りておりますと、そこに、譜代の郎等達が駆け

つけて来ました。猿島兵衛、村岡五郎、岡部彌太郎、田上左右衛門ら、以上十一名です。

御台の喜びは一入です。猿島兵衛は、こう言いました。

「私の祖父が、相馬家の家臣となってから、私で三代。承平の合戦よりこの方、一度も

不覚は取ったことがなかったのに、信田殿も幼く、私も若輩者で、小山に卑しめられて、

無二の本領を取り上げられたとは、無念の限り。このような事態に、いつまで我慢でき

ましょうか。敵は、多勢ではありますが、無勢の我々にできることは、夜討ちを掛ける

事以外にはありません。勝手知ったる御所に、三方より火を掛け、一方より切って入れ

ば、千騎万騎が来ようとも、小山を討つことができまする。」

岡部彌太郎は、これを聞くと、

「何を、しょうもないこと。こちらに理があるのに、殊更事を荒立てることは無い。

一問答、二問答、三問三答(さんもんさんとう:訴訟手続き)を行って、敗訴しても、

越訴付款(おっそふかん:再審請求)と言って、再度、訴訟を取り上げるのが法というもの。

ましてや、この事は、一度も訴訟に掛けたわけでは無い。君に報うためには、これより、

申し直しをして、安堵を給わることであろう。小山は、全くの他人。若君が、相馬家の

御曹司であることは、世に隠れ無き事実である。例え、証文が、小山の手元にあったとしても、

盗み取られたとの所見を立て、何とかして、取り返そうではないか。」

と、理路整然と言うのでした。人々もこれに賛成すると、信田殿にお供して、都を目指して

旅立ちました。この人達の心中を誉めない者は、ありませんでした。

つづく

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猿八座 4月公演の予定 ご案内

2013年02月03日 09時20分29秒 | お知らせ

あっという間に今年も一ヶ月が過ぎてしまいました。一月は行く、二月は逃げる、

三月は去ると、教員時代に良く言いましたが、年齢と共にその速度が加速して

いるように感じます。

さて、今月2月は、既にお知らせしましたように、「阿弥陀胸割」の新潟公演があ

ります。既に、2月17日(日)は満席となり、締め切らせていただいております。

大変有り難うございました。2月16日(土)も残り僅かですので、お早めにご予約

下さい。詳しくは、以下をご参照下さい。

http://saru8ken.blogzine.jp/blog/2013/01/post_e562.html

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20130118

さて、今後の猿八座公演予定をご案内いたします。

4月15日(月)「新保まつり・郷土芸能鑑賞会」

会場 大慶寺 : 新潟県佐渡市金井新保乙1110

演目 山椒太夫 鳴子曳き

予定時間 毎年 おおよそ 1時ごろから琴の演奏があり、続いて人形芝居で  

       す。だいたい1:45頃、開演の予定。

4月20日(土) 仮称「春のにいがた総おどり」

会場 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館  能楽堂

     新潟県新潟市中央区一番堀通町3- 2

演目 山椒太夫 鳴子曳き

まだ、詳細未定ですので、決まり次第、再度ご案内いたします。