猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ⑥終

2013年07月26日 21時02分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫⑥終

宝亀六年四月十三日(775年)のことでした。善尼比丘尼の法談があるということで、

近国の人々が、我も我もと当麻寺に集まって来ました。貴賤の群集夥しい中で、善尼比丘尼は、

「さあ、聴衆の皆様。私は、生年二十九歳。明日十四日には、大往生を遂げるのです。今宵、

ここに集まった皆々様は、ここで通夜をなされ、私の最期の説法を聞きなさい。

 私は女ではありますが、どなたも、疑う事無く、ようく聞いて悟りなさい。忝くも、御釈

迦様の御本心は、この世界の一切の人々を、西方極楽浄土へと救うことなのです。阿弥陀如

来が、まだ法蔵比丘でいらっしゃった時にも、必ず安養世界へ救い取ろうと、固く誓約され

ました。このような有り難い二尊の御慈悲を知らないで、浮き世の栄華を望み、あちらこち

らと迷うことを、妄執と言うのです。また因果とも言い、そのまま、三途の大河に飲み込ま

れて、紅蓮地獄の氷に閉じ込められてしまうのです。そして、餓鬼、畜生、修羅、人天、天

道を流転して、ここで生まれ、あそこで死に、生々世々(しょうじょうぜぜ)のその間に、

浮かばれる事も無いのです。まったく浅ましいことではありませんか。

 しかしながら、弥陀の本願の有り難さは、例え、そのような大罪人であっても、只、一心

不乱に、『南無阿弥陀仏、助け給え』と唱えれば、必ず弥陀は来迎なされて、極楽浄土の上

品上生にお導き下さるのです。何の疑いが有りましょうか。よくよく、ここを聞き分けて、

念仏を唱えなさい。」

と、声高らかに、御説法されるのでした。

 その時のことです。継母の母は、二十丈(約60m)あまりの大蛇となって、中将姫の説

法を妨げてやろうと、現れたのでした。大蛇は、声荒らげて、

「やあ、中将姫、我を誰と思うか。恥ずかしながら、お前の継母であるぞ。浮き世で思い詰

めた怨念は、消えることは無いぞよ。」

と言うと、鱗を奮わせ、角を振り上げ、舌をべろべろと伸ばして、迫って来ます。まったく

恐ろしい有様です。中将姫は、

「なんと、浅ましいお姿でしょうか。その様なお心だからこそ、蛇道に落ちてしまうのです。

しかし、だからといって、あなたを無下にすることはありませんよ。幼くして母を失い、

あなたを、本当の母と思ってお慕い申し上げたのに、為さぬ仲と思いになって、私をお疎み

になられたことは、浅ましい限りです。これからは、その悪念を捨て去って、仏果を受け取

りなさい。」

と、御手を合わせて祈られるのでした。

「諸々の仏の中に、菩薩の御慈悲は、大乗のお慈悲。罪深き、女人悪人であろうとも、有情

無常の草木に至るまで、漏らさず救わんとの御誓願。私の継母もお救い下さい。」

そうして、中将姫は大蛇に向かい、

「さあ、母上。今より、悪心を振り捨てて、念仏を唱えなさい。そもそもこの名号には、

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忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ⑤

2013年07月26日 19時12分20秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫⑤

 さて、中将姫が雲雀山から都にお帰りになられて、暫くした頃のことです。姫君は十六歳

になられました。そして、后の位に就く話が再び持ち上がったのでした。しかし、姫君は、

「例え私が十全万葉の位に就いたとしても、無間八難の底に沈むことから、救われる訳では

無い。出家をして、母も継母も回向しよう。」

と、菩提の心がむくむくと湧いて来たのでした。

「私が、無断で忍び出ることは、親不孝なことかもしれませんが、私が先に浄土へ行き、

父を迎えることこそ、真実の報恩であると信じます。」

と、姫君は誓うと、その夜の内に、奈良の都を出て、七里の道を急いで、当麻の寺へと向か

ったのでした。姫君は、寺に着くと、とある僧坊に立ち寄って、出家の望みを伝えましたが、

上人は、

「まだ、幼いあなた様が、どうして出家などなされるのですか。思い留まりなさい。」

と、諭しました。しかし、姫君は重ねて、

「私は、無縁の者で、頼りにする所もありません。殊に、親のご恩に報いる為に思い立った

出家ですから、どうか平にお願い申し上げます。」

と涙ながらに頼むのでした。さすがに、上人も哀れと思われて、

「それでは、結縁申しましょう。」

と、背丈ほどある黒髪を下ろし、戒を授け、その名を、善尼比丘尼(※実際は法如)と付け

たのでした。

 ある時、善尼比丘尼は、本堂に七日間、籠もられて、

「私は、生身(しょうじん)の弥陀如来を拝むまでは、ここから一歩も出ません。」

と大願を立てられて、一食調菜(いちじきちょうさい)にて、一年間の不断念仏行に入られ

たのでした。

 仏も哀れに思し召したのでしょうか。第六日目の天平宝字七年六月十六日(763年)の

酉の刻頃(午後6時頃)に、五十歳ぐらいの尼が現れ、中将姫の傍にやって来たのでした。

すると、その尼は、

「汝、生身の弥陀を拝みたいのであるならば、蓮の茎を百駄分(馬一頭分の荷駄:135Kg

を調えなさい。そうすれば、極楽の変相を織り表してお目にかけましょう。」

と言うと、掻き消すように消えたのでした。善尼比丘尼は、

「あら、有り難や」

と、西に向かって手を合わせると、

「願いが叶った。」

と御堂を飛んで出るのでした。そして、父の所へ真っ先に行き、事の次第を話すのでした。

不思議に思った父大臣は、この奇跡について、さっそく御門に奏聞しました。すると、御門

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忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ④

2013年07月26日 16時08分01秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫④

 危うく命拾いをした中将姫は、物憂い山住まいの毎日を過ごしていました。その上、頼み

の綱の経春が討ち死にしたとの知らせもあり、心の内のやるかたない風情も哀れです。そん

な中でも、中井の三郎と経春の女房は、姫君をお守りして、落ち穂を拾い、物乞いをして

支えたのでした。

 しかし、ある時、中井の三郎は重い病に伏してしまいます。中将姫も、女房も、枕元で、

励ましますが、山中のこととて、癒やし様もありません。縋り付いて泣くばかりです。もう

これが最期という時に、中井の三郎は女房に介錯されて起き上がると、

「姫君様。娑婆でのご縁も終わりです。これより冥途の旅に出掛けます。私が生きている限

り、必ず父大臣に申し開き、再び御世に戻して差し上げようと、明け暮れ、このことだけ

を思い続けていたというのに、とても残念です。どうか、必ず姫君様は、お命を全うして

くだされませ。神は正しい者の頭に宿ります。きっと必ず、父上様に再び、お会いになるこ

とは鏡に掛けて明らかです。死する命は惜しくはありませんが、姫君のお心の内を推し量り

ますと、只それだけが、名残惜しく思われます。」

と、最期の言葉を残して、明日の露と消えたのでした。姫も女房もこれはこれはと、泣くよ

り外はありません。姫君は涙の暇より、口説き立て、

「ああ、何という浅ましいことでしょう。父上に捨てられて、経春は討ち死にし、この

寂しい山中で、お前だけを頼りにして暮らして来たのに、今度は、お前まで失って、これか

らどうやって暮らしていけばよいのですか。私も一緒に連れていって下さい。」

と、空しい死骸を押し動かし、押し動かして、慟哭するのでした。女房は、

「お嘆きはご尤もです。しかしながら、最早帰らぬ事です。さあ、どうにかして、この死骸

を葬りましょう。」

と、健気にも励まします。山中には外に頼める僧も無く、女房と姫君二人で、土を掘り死骸

を埋め、塚を築いて、印の松を植えたのでした。それから、姫君自ら、お経を唱え、回向

をするのでした。

 さて、その後も山中の寂しい日々が続いていましたが、姫君は、称賛浄土経を書き写して

暮らしておりました。ある日、姫君は女房に、こう話しました。

「このお経は、釈迦仏の弥陀の浄土を褒め称えたお経です。毎日唱えて、夫の経春の供養を

して下さい。」

女房は、これは有り難いと、お経を給わったのです。それから女房は、髪を剃り落とし尼と

なって暮らしたのでした。

 さて一方、難波の大臣豊成は、ある年の春にこんなことを思い立ちました。

「そろそろ、山の雪も消え、谷の氷も解けたことであろう。雲雀山に登って狩りでもして、

心の憂さを晴らそう。」

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忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ③

2013年07月25日 21時22分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫③

 さて、父の大臣豊成は、家来の侍を集めて、こう言いました。

「姫の処分を、経春に命じたが、その後、何の報告も無い。急いで、経春の所へ行き子細を

尋ねて参れ。」

侍達が、経春の所へ行き、事の子細を問うと、経春は、

「これはこれは、直ぐにでも、ご報告に上がろうとは思っていましたが、何しろ、姫君の

死骸が、火車によって運び去られてしまったので、報告もできないでいたのです。哀れと思

って、お許し下さるのなら、これより伺候して、姫君の最期のご様子をお話いたしましょう。」

と言うのでした。使いの侍が、館に戻って、経春の返答を伝えると、豊成は怒って、

「居ながらの返事とは、なんと生意気な。命令をし遂げなかったな。つべこべいわせずに、

経春を連れて来い。」

と命じたのでした。二十余人の強者達が、経春の館へと駆けつけました。侍達は、

「如何に経春殿。お殿様の申すには、中将姫の首を見せぬのは何故だ。検使の役の者共はど

こへ行ったのだ。詳しく尋ねることがあるから、急いで来る様に、とのことです。」

と言うのですが、経春は、

「おお、ご尤も。しかしなあ、なんだか今日は、気が進まぬ。又日を改めて、参ることに

いたしましょう。」

と、相手にしません。侍達もむっとして、

「憎っくき、今の物言い。このまま帰るならば、こちらが詰め腹切らされる。さあ、引っ立

てろ。」

と、左右に分かれて飛び掛かりました。本より大力の経春は、飛び掛かる侍どもを、取って

は投げ、取っては投げて応戦します。残りの奴原を、四方へ蹴散らかすと、経春は、郎等ど

もを集めて、言いました。

「きっと、これから追っ手が攻めてくるであろう。とても敵うものではないから、お前達

は、どこへでも落ち延びて、後世を問うてくれ。さあ、早く。」

と言うのでした。しかし、郎等共は、

「なんと、残念な仰せでしょうか。主君の先途を見届けずに、落ち延びることなどできるは

ずもありません。是非、お供させて下さい。」

と、譲りませんでした。経春が、

「おお、それは頼もしい。では、用意いたせ。」

と言うと、皆々勇んで、最期の出立ちを整えました。やがて、豊成方の軍勢が押し寄せて

鬨の声を上げました。経春は、大勢の中に飛んで入り、ここを先途と戦いました。しかし、

多勢に無勢。郎等達も皆悉く討ち殺されていまいました。経春は、もうこれまでと思い、

敵を、四方におっ散らすと、門内につっと入りました。鎧の上帯を切って捨てると、腹を

十文字に掻き切って、自らの首を掻き落としたのでした。この経春の振る舞いは、上下万民

押し並べて、感激しない者はありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ②

2013年07月25日 20時15分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

中将姫

 八郎経春は、何とかして姫君を助けようと思いましたが、検使の役が付いてしまったので、

思う様に姫を匿うこともできませんでした。とうとう観念した経春は、

『もう、逃げようが無い。この上は、姫君のお首をいただいて、豊成に見せたなら、遁世し

て、姫の菩提を問う外はあるまい。』

と思い定めると、姫君を伴って、雲雀山へと向かうのでした。

 雲雀山の山中の、とある谷川の辺りに輿を止めました。何も知らない姫君は、御輿から

降りると、経春に聞きました。

「経春よ。どうして、こんな寂しい山中に連れて来たのですか。不思議ですね。」

これを聞いた経春は、言葉も無く泣くばかりです。姫君が、

「どうしたというのですか。おかしいですね。何故、何も言わないのです。何があったのですか。」

と、重ねて問い正すと、経春は、ようやく涙をぬぐって、

「ここまで来ては、隠すこともできません。父上様のご命令で、姫君のお命を頂戴いたします。

そのために、ここまでおいで願ったのです。」

と言うのでした。聞いた姫君は、夢現かと驚いて、

「それは、本当ですか。」

と、絶句して泣くばかりです。涙ながらに姫君は、

「母様が亡くなられてからというもの、ひとときも母様のことを忘れた事は無く、心が慰め

られることもなかったので、私を、慰めるために、ここまで連れてきてくれたのかと思って

いましたのに。それどころか、私を殺すというのですか。ああ、これは継母の仕業ですね。

なんという情け無い事でしょうか。」

と口説いて、身を悶えて嘆くばかりです。姫君は、更に続けて、

「やあ、経春よ。前世からの宿業で、お前の手に掛かって死ぬ命を、惜しい等とは露にも

思いません。親の不興を受けた者には、日の光も、月の光をも射さないとききますが、

私は、一体どういうわけで、父から捨てられたのでしょうか。いやいや、それを聞いたとし

ても、もうどうしようもありませんね。

 私は、七歳の時から、母上様の為に、毎日、お経を六巻づつ読誦して参りましたが、今日

はまだ読誦しておりません。これが、最期というのなら、今一度、母のために読経いたしま

すから、暫くの時間を与えて下さい。」

と、言うのでした。聞いて、経春は、

「ああ、なんと勿体ないことでしょうか。姫君様。御最期でありますので、何時もよりも、

お心静に読誦をして下さい。」

と涙ぐむのでした。中将姫も涙ながらに、敷き葉の上に座り直して、右の袂より浄土経を

取り出しました。中将姫は、さらさらと押し開くと、迦陵頻伽(かりょうびんが)のお声で、

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忘れ去られた物語たち 25 説経中将姫御本地 ①

2013年07月24日 20時14分36秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

「中将姫」は、説経正本集第3の(45)に収められている。巻末の(46)は既に読ん

だ百合若大臣(27)の八太夫版であるので、この外題が、古説経正本シリーズの最後の物

語ということになる。丁度25番で切りが良い。

 佐渡猿八の鳥越文庫に入って直ぐの展示ケースの中に「中将姫」が居ます。以前から、こ

の姫は気になっていましたが、この長身の美しい姫が誰なのか、実はあまり知らないでいま

した。西橋八郎兵衛師匠に尋ねた所、文弥節では無く、折口信夫の小説「死者の書」を元に

した「蓮曼荼羅」という公演で遣ったとのことでした。文弥節でやるとすると、「当麻中将姫」

という近松の浄瑠璃になるのでしょうか。

説経では、中将姫の本地とありますが、語られるのは、奈良の当麻寺に伝わる「当麻曼荼羅」

の由来です。毎年5月14日に行われるという、練り供養では、ご来迎が再現されると

聞きます。死ぬまでには、参詣したい寺がまた増えました。

説経正本集第3(45)中将姫本地:刊期所属不明:鱗形屋孫兵衛新板

中将姫 

さて、大和の国の当麻(たいま)曼荼羅の由来を詳しく尋ねてみることにいたしましょう。

神武天皇より四十七代の廃帝天皇(淳仁天皇758年~764年)の頃のことです。大職冠

鎌足の四代後の孫で、横佩(よこはぎ)の右大臣、藤原豊成(とよなり)とい方は、又の名

を、難波の大臣と申します。藤原の豊成には、子供が一人おりました。名前は、中将姫と

言いました。十三歳になった中将姫の姿はの美しさは、秋の月と言いましょうか。お顔は、

露が降りた春の花。翡翠の黒髪は、背丈ほど。眦(まなじり)は愛嬌があり、丹花の唇は

鮮やかです。微笑む歯茎は健康で、細い眉は、優しげです。辺りも輝くそのお姿の話を聞い

ただけでも、恋に落ちない男は居ませんでした。

 しかし、可哀想な事に、中将姫は既に母を亡くしていたのでした。父豊成は、これを不憫と思

って、後添えを貰ったのでした。中将姫は、素直に継母を受け入れて、良く従って、親孝行

をしましたので、心の奥底は分かりませんが、継母も表面的には、中将姫を可愛がったので

した。こうして、表面的には、平穏な日々が流れ、豊成も喜んだのでした。

 ところで、中将姫のことを、内々に聞いた御門は、難波の大臣豊成を、内裏に呼ぶと、

中将姫を皇后に迎える由の宣旨を下したのでした。

「年の暮れか、来年の春には、秋の宮に迎えよう。」

これを聞いた豊成は、畏まって退出し、喜び勇んで館へと戻るのでした。天皇家への輿入れ

に、一人を除いて、皆大喜びです。昔から、継子と継母が仲良しだった例しはありません。

この事を聞いた継母は、自分の子供の出世の機会が奪われると感じて、その心は、忽ちに曇りました。

そして、何とかして、姫を殺してしまおうと、恐ろしい計画を立てるのでした。

 御台所は、親近の若者を選ぶと、こう命じたのでした。

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忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛⑥ 終

2013年07月18日 16時28分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり⑥ 終

 労しいことに、法道丸は、二つの形見を首に掛けて、涙と共に都へと戻りました。御室の

御所に戻った法道丸は、母上に事の初め終わりを話しまして、形見の品を見せるのでした。

驚いた母上は、涙ながらに口説くのでした。

「これは、夢か誠か。そのように父と会うならば、どうして母に知らせなかったのですか。

膝の骨は知りませんが、この筆跡は、紛う事なき敦盛様の筆跡。私にはお姿を見せず、

この様な御筆跡だけを見せるとは、昔のことが思い出されて、切ないだけです。なんと、羨

ましい若君でしょうか。私も、敦盛様に例え夢でも会うことができたなら、尽きない憂き

思いを、語ることができるのに。」

 泣き伏す母上を、法道丸は大人しく慰めて、それから、母上を伴って、黒谷へと急いだのでした。

法道丸は、法然上人と対面すると、事の次第を詳しく話したので、上人様を初め、弟子の

人々も大変驚いたのでした。母上は、涙ながらに、こう願い出ました。

「上人様。このような奇特が有る上は、この若を、上人様に献げます。どうぞ私の髪を剃り、

出家させて下さい。」

しかし、法然上人は、取り合いませんでした。母上は、

「なんと情け無い上人様。私は、出家して、敦盛様の菩提を問いたいのです。そうすれば、

敦盛様もきっとお喜びになるはずです。どうか。袈裟衣のお情けに、ひたすらお願い致します。」

と、手を合わせて、更に頼み込むのでした。上人は、困って返す言葉も有りませんでしたが、

母上の決心が固いことを知ると、

「よろしい。分かりました。」

と、半挿(はんぞう)にぬる湯を用意して、剃刀を額に当てると、

「浄土の要門。流転三界。えんじつほうおうしゅ(不明の呪文)」

と呪文を三度唱え、四方浄土へと髪をそり落としたのでした。

 世が平家の世であるならば、百歳までも長生きをして、撫でるであろう黒髪を、ばっさり

と下ろされて、墨染めの衣を纏って、感慨深くいらっしゃる母上の姿を見て、上人様も弟子

達も、涙を流さない者はありません。御台所は、

「上人様。私も黒谷に柴の庵を結び、上人様の御衣を洗濯したり、法道丸の様子を見て暮ら

したいとも思いますが、前途有望の法道丸に悪い噂が立てられても困りますから。」

と言うと、上人様や法道丸に別れを告げて、八瀨(京都市左京区)の辺りの山の中に柴の

庵を結ぶことにしたのでした。それから母上は、明け暮れ、香華を飾り、敦盛の菩提を弔

って暮らしたのでした。しかし、やがて都へ出ると、御影堂という寺を建立され、自ら、扇

を作ったということです。(京都五条橋西の新善光寺)

 さて、一方若君、法道丸は、明け暮れ学問に専念され、寺一番の学者となりました。そして

二十五歳の春の頃には、上人の座につかれたのです。

 というのも、その頃に、浄土教の法門は二つに分かれたのです。東山は知恩院(京都市東

山区:浄土宗総本山)、新山として法道丸は、知恩寺(京都市左京区)を開き、父の菩提を

弔いました。これが今の百万遍です。(百万遍知恩寺)この百万遍のお経の功力によって、

仏果を顕す法道丸のお姿の有り難さを、拝まない者はありませんでした。

おわり

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忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛⑤

2013年07月18日 09時45分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり⑤

母と会うことができた若君でしたが、父のことが忘れ難く、御室の御所に来ても、涙なが

らに暮らしたのでした。ある時、若君は、母に、

「母上様。聞く所によると、賀茂神社の霊験は新たかということです。賀茂神社に祈誓を掛

けて、夢であっても良いので、父上を一目見たいと思います。少しの間、お暇下さい。」

と頼むのでした。母上はこれを聞いて、

「なんと不憫な若君でしょうか。そこまで思い詰めているのなら、必ず利生があるでしょう。

もしも、父上の夢を見ることができたなら、早く戻って来るのですよ。そして、父の様子を

母に教えて下さいね。法道丸。」

と、涙に声を詰まらせました。若君は、涙を抑えて、暇乞いをしたのでした。

 賀茂神社の御前に参詣した法道丸は、鰐口をちょうどと打ち鳴らして、

「南無や帰命頂礼(きみょうちょうらい)。どうか、冥途にまします父上に、夢でも良いので、

会わせて下さい。」

と肝胆を砕いて、祈誓をするのでした。その夜、有り難いことに、賀茂明神は、翁となって

法道丸の枕元に立ちました。

「お前が、まだ幼くて、見たことも無い父に憧れている事は、まったく無残である。それほ

どまでに思うのであれば、これから、摂津の国の生田昆陽野(いくたこやの:神戸市から伊

丹市にかけての広範囲の森や野原)へ行ってごらんなさい。必ず、父に会わせてあげよう。」

賀茂明神はそう告げると、掻き消す様に消え去ったのでした。若君は、夢から覚めると起き

上がり、

「これは有り難い御夢想である。有り難や有り難や。」

と、三度礼拝して、

「これから、母上様に暇乞いをしに行くべきとは思うが、きっと、一緒に行くと言うに違い無い。

申し訳無いとは思うが、これから、直ぐに摂津国に向かおう。」

と心に決めると、涙をぬぐって賀茂神社を出ると、教えに任せて歩き始めました。

(以下道行き)

東寺(京都市南区九条町)四ツ塚(南区四ツ塚町)七瀬川(伏見区深草七瀬川町)

山崎千軒(乙訓郡大山崎町)伏し拝み

まだ、夜は深き高槻(大阪府高槻市)の

塵掻き流す、芥川(淀川水系:高槻市)

富田(高槻市富田町)過ぐれば

宇野辺(大阪府茨木市宇野辺町)の宿

江口の渡し(大阪市東淀川区)弓手に見て

吹田(大阪府吹田市)に高浜八王子(?高浜神社を差すカ:吹田市高浜町)

垂水の宿(吹田市垂水町)に仮寝して

月も傾く、西宮(兵庫県西宮市)

打ち出てみれば、御影の森(神戸市東灘区)

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忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛④

2013年07月17日 10時42分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり④

 そうして、七年の月日が流れたのでした。七歳になった若君は、一字を二字と悟り、寺

一番の学者となり、肩を並べる稚児は外にはありませんでした。しかし、ある時、南面へ出

て、花を眺めていた若君は、古巣で卵を暖める鶯をご覧になって、法然上人にこう言いました。

「如何に上人様。あの古巣にいる鶯ですら、父も母も居るというのに、どうして、私には、

父母がいなのですか。」

法然は、

「そうか。私も、お前の父母を知らないのだよ。お前は、七年前に、一条下がり松の下に

置かれていたのを、私が拾って育ててきたのだ。今日からは、私を、父とも母とも思いなさい。」

と言って、衣の袖を濡らすのでした。若君は、是を聞くと

「それは納得行きません。三界を照らす御釈迦様ですら、父も母もいらっしゃるというのに

私は、只、天から降って来たのですか。地から湧いてきたのですか。」

と、嘆き悲しむと、明け暮れ父母が恋しいと、四五日の間、湯も水も口にしなかったので、

段々と弱り果て、とうとう半病人となって、寝込んでしまったのでした。これに困った法然

上人は、弟子達に聞きました。

「みなさん。あの若君の身の上に、何か不審なことはありませんでしたか。」

弟子の中から、熊谷の蓮生は、進み出でて、

「いつか、上人様の御法談がありました折り、年の頃二十歳ばかりの女性が、庵室に入って

若君を、膝の上に抱き上げ、遅れの髪を掻き撫でながら、口説いたり、涙ぐんだりしておりました。」

と、話すのでした。これを聞いた法然上人は、ぴんと来ました。

「それでは、七日の法談をすることにする。」

と決めると、その触れを回しました。新黒谷で、御法談があると聞くと、老いも若きも、貴

賤身分を問わず、大勢の人々が、新黒谷の光明寺に集まって来たのでした。

 法然上人は、高座へと上がり、十万浄土の御法談を説かれたのでした。そして、法談の

後で、人々にこう話しました。

「皆さん。私は、七年前に、一条下がり松の下で、赤ん坊を拾いました。その子が、最近、

父母が恋しいと言って、この四五日の間、湯も水も飲まず弱り果て、寝込んでしまいました。

もし、皆さんの中に、この子の父なり母なりがいらっしゃるのなら、どうか一目、会ってや

っては下さらぬか。」

涙ながらに語る法然を見た聴衆の人々は、世の中に、これ以上可哀想な事は無いと、共に

涙を流すのでした。

 その時、聴衆の人々の中に、二十歳ばかりの女が立ち上がると、人々を押し分けて、法然

上人の前へ出てきたのでした。女は、

「上人様。この子の母は、私です。一目会わせて下さい。」

と言って、泣き崩れました。これを聞いた上人は、

「おお、そうか、さあさあ、こちらへ入りなさい。」

と、庵室へと招き入れました。法然上人は、若君の枕元に立ち寄ると、

「さあ、若よ。お前の母が来ましたよ。」

と起こしました。若君は、母という声を聞くと、かっぱと跳ね起きて、

「ええ、あなた様が、母上ですか。こんなに近くに居ながら、どうして今まで、名乗って

下さらなかったのですか。」

と縋り付くと、母上は、

「上人様の御法談の折々に、この庵室で、あなたを抱っこしていたのは、私なのですよ。」

と答えて、醒め醒めと泣くのでした。若君が、、

「のう、母上様。私の父上は、どのようなお方ですか。」

と聞くと、母上は、

「もうこれ以上辛いこともありませんね。名乗らないでおこうと思っていましたが、すべて

をお話いたしましょう。あなたの父上は、平家の大将、無冠の大夫敦盛と言うお方です。

そこに居る蓮生の手に掛かって死んだのです。」

と答えたのでした。若君は、

「なんと、私の父は、あの蓮生の手に掛かって死んだのですか。ええ、無念なり。今まで

父の敵とも知らずに、昨日も今日も、朋輩として頼りにしてきました。」

と言うなり、守り刀をするりと抜いて、蓮生に飛び掛かりました。御台所と法然上人が、慌

てて中に割って入り、若君を押さえると、

「これ待ちなさい。ようく聞きなさい。あの蓮生も、お前の父を討ったことで、憂き世を捨

てて、出家をしたのだ。今日からは、互いの遺恨を無くして、仏道に専念しなさい。」

と諭すのでした。若君は、

「そうでしたか、知らなかったことなので、許して下さい。蓮生殿。」

と縋り付いて泣くのでした。その心の内が、あまりにも哀れに思えて、母上は、

「どうでしょうか。上人様。少しの間お暇をいただけませんでしょうか。若を御室へ連れ

帰り、しばらくの間、休養を取らせたいと思います。」

と、頼むのでした。法然上人が快諾したので、母上は、若君を伴って、御室の御所(仁和寺)

に帰っていったのでした。兎にも角にも、かの母上の心の内の喜びは、例え様もありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛③

2013年07月16日 17時04分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり③

 その頃、敦盛の御台様は、御室の御所(仁和寺)におりましたが、夫の敦盛が西国において、

討たれたと聞いて、天に憧れ、地に伏して、悶え焦がれて、悲しみに沈んでおりました。

涙ながらに、口説く有様は、労しい限りです。

「私も、夫と一緒に、同じ黄泉路を越えて行こうとは思いますが、今、七ヶ月半の身重で、

自害をするのなら、更に罪が深くなってしまいます。赤子を産んでから、どうにでもするこ

とにいたしましょう。」

と決心して、月日を過ごされたのでした。あっという間に七ヶ月が過ぎ、お産の時を迎え

ました。誕生したのは、玉の様な若君でした。御台様は、

「生まれた時から、果報も少なく可哀想に。夫の敦盛が生きていたなら、どんなに喜んで

下さったでしょうか。母一人を頼りに生まれてくるのなら、どうして腹の中で、湯にでも水

にでもなってしまわなかったのですか。そうしたのなら、こんな辛い思いをしないで済んだのに。」

と、声も惜しまずに泣くのでした。御台様は、更に、

「この若を、夫の形見として、どの様な岩木の陰にでも隠して、育てて行きたいとは思いますが、

今の世の中は、平家が衰え、源氏が栄える世の中。平家の者と知られれば切腹は免れず、

幼き者であれば、刺し殺され、体内の嬰児ですら捜し出して殺すと聞く。源氏の武士の手に

掛かって殺され、再び辛い思いをするくらいなら、いっそ、どこかに捨ててしまおう。」

と思い切り、形見の品を調えると、まだ生後七日も経たない若を乳母に抱かせ、一条下がり

松へと急ぐのでした。御台様は、やがて松の下に若君を捨てて、泣く泣く帰って行ったのでした。

※《一条下がり松:一条戻り橋近く。京都市上京区松之下町》という説と《一乗寺下がり松:

京都市左京区下り松町》又、《知恩寺(百万遍):京都市左京区田中門前町》の三説がある。地理的には後に不整合を生じるが、ここでは、一条下がり松として読む。

さて、翌朝になりました。近所の人々は、捨て子を見て、

「きっと、この子は、平家の討ち漏らされの子供に違い無い。身の置き所が無くて、捨てら

れたのだろう。拾ってあげたいのは山々だが、拾えば、こっちの身も危ない。」

と、さわる者もありません。

 その頃、黒谷の法然上人は、賀茂神社にお参りをされましたが、その帰りに、下がり松

をお通りになりました。(地理的には不整合な記述)すると、不思議な事に、松の根元から、

赤ん坊の泣き声が聞こえます。法然上人が立ち寄って見て見ると、まだ生後半月も立たない

赤ん坊に形見の品々を添えて、置き去りにされています。法然上人は、

「これはきっと、平家の討ち漏らされの子供であるな。身の置き所が無く、捨てられたに違

い無い。愚僧が拾ったからといって、まさか罪科に問われる事もあるまい。」

と言うと、若君を拾い上げて、弟子達に抱かせると、新黒谷(金戒光明寺:京都市左京区黒谷町)へ

と戻って行かれたのでした。

法然上人は、門前から貰い乳をして、若君を大切に養育されました。御台様は、このこと

を聞き付けて、

「一体、どんな人が拾っていったのか心配していましたが、法然上人が拾って下さったのな

ら、心配もなく、嬉しい限りです。」

と、喜びの涙が止めども無く溢れて来るのでした。そうして、月日はあっという間に過ぎ、

若君はもう三歳になりました。ある時、熊谷の蓮生坊は、この若君を膝の上に抱だき上げて、

「なんとも、不思議なことがあるものだ。この若君は、私が西国において、討ち取った敦盛

の面影にそっくりだ。」

と、若君の遅れの髪を掻き撫でては、わっと泣き、又抱き上げては、敦盛のことを思い出し、

醒め醒めと泣くのでした。兎にも角にも、蓮生坊の心の内は、哀れともなんとも、申し様

もありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛 ②

2013年07月16日 15時08分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり

 無冠の大夫敦盛を討った熊谷直実は、東山黒谷の法然上人を師匠と頼み、出家をなされました。

その名を、蓮生坊と申します。蓮生は、敦盛のお骨を、高野山に埋葬するため、法然上人に

暇乞いをすると、黒谷から旅立って行ったのでした。その心掛けは、大変殊勝です。

(以下道行き)

東を見れば敷島や

歌の中山、清閑寺(京都市東山区)

鳥野辺に立つ夕煙(京都市東山区)

よその哀れも今は早

我が身の上と思われて

心細さは、限り無し

とても、かくても

徒し(あだし)身を

思い捨つれば、さしもげに

浮き世の闇も晴れ行きて

心も清き、清水寺

田村丸のご建立

大同二年(807年)の御草創

万(よろず)の仏の願いよりも

千年の誓いは頼もしや

枯れたる木にも、花は咲くと

誤りなくば、敦盛の

頓証菩提と、回向して

東寺西寺、四ツ塚や(京都市南区)

年は旧(ふ)れども、老いもせぬ

むつだが原(不明)は、これとかや

山崎千軒、宝寺(宝積寺)

関戸の院(京都府乙訓郡大山崎町)を早や過ぎて

彼処をみれば、鳩の峰(京都府八幡市)

男山(石清水八幡宮)にも、なりしかば

南無や八幡大菩薩

ご神体は、応神天皇

本地は、釈尊の御再誕

さてこそ、八正道を象り(かたどり)

正八幡とは、承る

二世安楽の御誓い

浮き世に望みのあらざれば

後の世、助け給われと

心の内に観念し

交野原(かたのはら)を通るにぞ(大阪府交野市)

禁野の雉は、子を思う

鵜殿(うどの)に繁き、籬垣の(大阪府高槻市)

宿を過ぎれば、糸田の原(大阪府吹田市垂水付近)

窪津の王子、伏し拝み(大阪市中央区天満橋付近)

天王寺へぞ参りける

聖徳太子の御願所 -->


忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛 ①

2013年07月15日 17時58分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

御伽草子や浄瑠璃等、様々なジャンルで取り扱われた人気の題材である。説経独自の物語

とは言えないだろうが、かなり古い年代から古説経に取り上げられていたことは、間違い無い。説経正本集第3(44)に収録された本正本は、所属も刊期も不明で有る。

こあつもり 

 源氏と平家の両家というものは、鳥の二つの羽交いのようなものであり、又、車の両輪

が回る様に天下を治めて来ました。一度は、源氏が打ち負けて、平家統一の世の中となり、

源氏の八男、九郎判官義経は、奥州の秀衡(ひでひら)を頼みとして、逃れていました。

しかし、今度は源氏方が、とうとう都を撃ち破ったので、平家の人々は、哀れにも、一ノ谷

へと落ち延びて行ったのでした。義経は、この様子を見て、

「平家の奴らめ。高麗(こうらい)、契丹(きったん)まで逃げても、攻め殺してくれる。」

と思い。元暦元年(寿永3年:1184年)二月七日に、一ノ谷の鉄拐山(てっかいさん)を

攻略したのでした。平家の人々は、ひとたまりもなく、皆、屋島へと落ちて行きました。

その日に落ちていった部隊は十六組と伝わっていますが、その中でも、特に哀れだったのは、

平清盛の弟である経盛のご子息、無冠の大夫敦盛殿でした。

 敦盛の北の方は、二条の按察使(あぜち)大納言資賢(すけかた)の姫君でありました。

何時のことでしたか、御室の御所(仁和寺:京都市右京区)にて、毎月の管弦が行われる時、

敦盛は笛を勤め、姫君は、御簾の中で琴をお弾きになりました。敦盛は、その姿をつくづく

とご覧になって、文を通わせ、恋文を遣って、遂に夫婦となったのでした。この二人のご様

子を例えるなら、天においては比翼の鳥、地にあっては連理の枝。偕老同穴の語らいも、こ

の二人の睦まじさには、かなうものではありませんでした。

 敦盛は、西国へと下り行く時に、姫君に近付いて、

「御台よ。私は、これから西国へと落ち延びる。屋島にまで下るならば、討ち死には、必定

である。お前の胎内には、七ヶ月半の嬰児がいるが、もし男子ならが、この黄金造りの佩刀

(はかせ)を取らせよ。又、女子ならば、十一面観音を肌の守りとして残し置く。形見など

残すと、亡き後に思いの種を残すとも言うけれど、父の形見として、見せる様に頼んだぞ。

名残は惜しいけれど、お暇申す。さらば。」

と言い残して、ご一門と共に、落ち延びて行かれたのでした。

 さて、話を一ノ谷の合戦に戻します。奇襲に圧倒されて、落ち行く時に敦盛は、一ノ谷

の内裏に、笛を忘れてきたことに気が付きました。笛など捨てておけば、このようなことに

は、ならなかったのでしょうが、ご運が尽きてしまった悲しさでしょうか。そのまま捨て置

いては、一門の名折れとお思いになって、笛を取りに戻ったのでした。さて、平家方の御座

船は、その間に、遙かの沖へと漕ぎだしてしまいました。仕方無く敦盛は、塩屋の方を目指

して、波打ち際を、駒に乗って落ちて行くのでした。

 そこに通り掛かったのは、武蔵国の住人、熊谷次郎直実でした。直実は、一ノ谷の先陣

を切りながらも、大した高名も上げぬままでしたので、大変残念がっていました。もし、

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佐渡 真明座 長岡公演 

2013年07月12日 22時30分14秒 | 調査・研究・紀行

平成25年7月7日(日)七夕。新潟は時折、集中豪雨の一日。梅雨明けしたという関東平野とは

別世界でした。それは、さて置き、真明座の平均年齢が若返り、座長の川野名さんの操りまで

若々しくなった今年の舞台は、沈滞ムードの文弥人形に新風を吹き込んだ感じです。高校生の

若林君の弁慶が光りました。若者の緊張感は、舞台全体を引き締めますね。やっぱり、年寄り

ばかりで、馴れ合った舞台はよくありません。今後の真明座が楽しみです。

201307071132170011

写真の場面は、五条橋での弁慶と義経の戦いの場面ですが、近松門左衛門が、義経の母、

常磐御前に着目して。「孕常磐」という浄瑠璃を書いた分けがなんとなく分かる気がします。常

磐御前は、さぞいい女だったのだろうなあと、読む度に思うのです。源義朝の側室でありなが

ら、敵の平清盛の妾にならざるを得なかった常磐御前の数奇な運命。と言うか、清盛に入れ込

めたからこそ、その後の源氏の再興を成し遂げることができた女。清盛が女ぼけしていたとい

えば、それまでですが、虎視眈々と生きた常磐御前に惹かれるのです。


忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ⑥終

2013年07月06日 18時21分09秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ⑥終

 それから、緑の前は、形部夫婦、乳母忍達を共として、都を目指しました。姫君の一向が、

漸く、母方の祖父、二条の大臣の館に着いた頃、父の道高も蝦夷征伐を終えて、無事に帰国

してきました。二条の大臣の館に目出度く一同が再会したのでした。人々の喜びは限りありません。

留守中の様々を聞いた道高は、形部を許して、

「お前の忠義は抜群であった。此の度の恩賞には、これまでの本領に加えて、弾正の領分

を与える。」

と、有り難いお言葉をお掛けになったのでした。形部が、余りの忝さに、畏まっていますと、

そこに勅使が来ました。何事かと、道高が、応接すると、勅使は笏を取り直して、

「龍神のお告げによって、道高が献上致した閻浮檀金(えんぶだごん)の仏像を、住吉大社

の近くに、御堂を建立して安置せよ。導師は源空上人(法然)とし、奉行は、道高が行え。」

と、命じたのでした。

 そうして、道高は、畿内の職人達をかき集めると、住吉大社の北側に御堂を建立して、

神宮寺と名付けました。(住吉三大寺:神宮寺・津守寺・荘厳浄土寺)入仏の供養には、

導師源空上人が香華を供えて、浄土経三部・妙典(法華経)を高らかに読誦なされました。

大変、有り難いことです。ところが、その時に不思議な事が起こりました。住吉大社の方

から、金色の光に包まれた神々しい一人の童子が顕れたのです。その童子は、

「この頃、疫病が流行り、人々は皆大変悲しんでいる。これを救う本尊といえば、五大力

を置いて外は無い。さあ顕れよ。有り難い住吉明神の神徳。さあ見よ。薬師如来の本願。

衆病悉除(しゅびょうしつじょ)を。」

と告げると、一枚の絵像をさっと広げて、仏前に掛けたのでした。その仏画をようく見て

みますと、この絵は、五大力の尊体を、大変恐ろしげに描き表したものでした。髪は逆立っ

て、生い立ち、口が耳まで裂けている金剛憤怒の凄まじさには、どのような悪魔も厄神も、

恐れをなして逃げていくことでしょう。源空上人は、大変お喜びになられて、

「和合同塵(わごうどうじん)の利益は、今に始まる事ではありませんが、これは本当に末

世における奇特です。どうか、御本地の妙なる姿を顕されて、衆生を済度して下さい。」

と御念じになられました。すると、忽ちの内に、五大力のお姿は、五智の如来に変化して、

八十種好(はちじっしゅこう)のお姿を顕して、光を放ち始めたのでした。すると、十方

の世界から、数え切れない程、沢山の菩薩が下られて、五智の如来の回りを取り囲むのでした。

大変有り難い次第です。その時、彼の童子は、

「この五大力菩薩は、五智如来の本地垂迹です。先ず中尊には、大日如来がいらっしゃいます。

右上は、西方安養浄土(あんにょうじょうど)の阿弥陀如来。右下は南方に当たって、宝生

如来がお立ちになっておられます。さて左の上は、北の方丈を指し、釈迦如来がいらっしぃます。

左の下は、東方の浄瑠璃世界に阿閦如来(あしゅくにょらい)がいらっしゃるのでございます。

皆、法性の台から降りられて、現世の塵に交わり、諸々の病苦を取り除くだけでなく、来世

において、無為安全の浄土に入れる様に、御方便をお示しになられるのですから、努々(ゆ

めゆめ)疎かにしてはなりません。」

と、説法をして、仏前の狛犬に跨がりました。すると、不思議にも、木像の狛犬は、忽ち

自由に動き出し、雲井に向かって飛び立ちました。最後に童子が、

「我々は、一切の邪魔の障礙を打ち払う、大聖不動明王であるぞ。」

と、言い放つと、その姿は不動明王と変化して、迦楼羅炎(かるらえん)の光明に包まれて、

天高くに昇って行ったのでした。貴賤僧俗を問わず、渇仰の頭を傾けて、拝んだということ

です。誠に有り難いともなんとも、申し様もありません。

終わり

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忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ⑤

2013年07月05日 17時34分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

住吉津守寺薬師の由来 ⑤

 さて、良薬口に苦く、忠言に耳が逆らうというのは、まったく、河瀬形部正行の身の上

のことです。主君の勘気を蒙って、和泉国を追放されてから、縁あって、渚の里(不明)に

庵を結んで、親子三人で暮らしておりましたが、それはもう、侘びしい生活でした。

 やがて、弾正の悪逆によって、姫君が行方知れずになってしまったという話を、聞き付け

た形部は、

「これは、なんということか。国外追放の身の上ではあれども、これを聞き捨てにしては、

君臣の礼を知らないことと同じである。こんなことになったのも、全て弾正の仕業であるか

らは、先ずは、和泉に帰って、弾正めを討ち捨てる外はあるまい。それから、姫の行方を

探すことにしよう。しかし、このことが女房に知れるならば、きっと一緒に行くと言い出す

のに違い無い。幼き者も居ることであるから、足手纏いになるだろう。密かに出るしか無いな。」

と考えたのでした。ようやく日暮れ近くになって、女房は、用事をしに出掛けました。形部

正行は、待ってましたとばかりに、用意を始め、一通の書き置きをしたためたのでした。

ところが、息子の花若が、

「何処へ行くのですか。母上も居ない時に、私を捨てて行くのですか。私も連れて行って

下さい。」

と泣きながら、袂に縋り付いて来たのでした。形部は、

「おお、その悲しみは、道理である。しかし、父は、どうしても行かなければならない用事

ができた。すぐ近くなので、行って来るぞ。母も其の内帰ってくるであろう。母が帰るまで

は、外へ出ずに、大人しく留守番を頼むぞ。ちゃんと留守番ができるなら、なんでも好きな

物えお土産に買ってきてやろう。」

と、様々にすかして、宥めましたので、まだ幼い花若は喜んで、

「それなら、可愛い人形を沢山買って下さい。」

と、ねだりました。形部は、

「よしよし、さすがは、我が子。聞き分けが良い。それでは、直ぐに帰るからな。さらばじゃ。」

と言って、出る所に、女房が帰ってきてしまいました。女房は驚いて、

「私の帰りも待たないで、幼い子供を捨てて、この夕暮れ時に何処へ行こうというのですか。

何かあったのですか。」

と、言いますと、さすがの形部も仕方無く、

「むう、最早、隠しても仕方無い。主君の道高様が、奥州の狄退治に行かれた後、弾正介友

が反乱を起こし、姫君を襲ったが、姫君は逃れて行方は知れずとなったという。弾正は、そ

の後、逆らう者を悉く攻め滅ぼしているとも聞く。私は、埋もれ木の身ではあるが、主君へ

の不忠の逆臣を、そのままのさばらせておくことはできない。弾正を討ち捨てて、姫君の

行方も捜そうと考えたのだ。しかし、敵は多勢であり、そう簡単にはいかない。もし、私が

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