猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 23 説経伍大力菩薩 ①

2013年06月29日 16時28分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

残存する説経正本が、元禄後期の武蔵権太夫本であるため、先行する角太夫の古浄瑠璃正本の影響を受けている様な印象もあるが、古い説経本を下敷きにしていることは、ほぼ間違い無い様だ。本地語りの形式を取り戻して、本来の説経語りを聞かせてやろうという権太夫の意欲を感じる。

 伍大力菩薩

 五大力の本地

 住吉つも寺薬師の由来

 武蔵権太夫

 大伝馬三丁目鱗形屋孫兵衛

 刊期不明

 説経正本集第三(42)

この説経の舞台は、大阪住吉三大寺のひとつ「津守寺」である。神仏混淆の昔には、住吉大社と共に薬師如来が有名であったとのことだが、明治維新以降廃寺となってしまい、現在は存在しない。(現在は大阪市立墨江小学校となっている場所)

住吉津守寺薬師の由来 

 富などというものは、僅かに一代限りの宝に過ぎず、死んだ後まで、持って行くことはで

きません。後世の助けとなるものは、只、慈悲心だけですよ。

 ここに、摂州住吉にある津守寺の薬師如来の由来を詳しく尋ねみますと、本朝七十八代

二条天皇の頃のお話です。その頃、和泉と河内両国の守護職を勤めていたのは、浜名の左右

衛門道高(みちたか)という武士でした。御台所を昨年の秋に亡くしましたが、忘れ形見の

姫君が一人ありました。歳は十五歳。大変美しく、花も紅葉も、月雪の例えも及ばない程で

した。常磐の松の枝も、春には一層色鮮やかになりますので、「緑の前」と名付けられて、

父道高は、大層御寵愛なされたということです。

さて、道高の家来はというと、河瀬の形部正行、森本弾正介友、長尾の玄蕃定春とその一子

春近など、何れも劣らぬ強者達が顔を並べ、道高に仕えていたので、靡かない草も無いとい

う程の勢いでした。

 さて、永万元年(1165年)の五月の初めの頃のことでした。道高は、

「わしは、未だ、住吉の御田植というものを見物したことが無い。幸い、今日は、天気も

良いので、住吉の参詣いたすことにしよう。用意をいたせ。」

と言うと、道々の行列も華やかに繰り出して、住吉大社へ参詣したのでした。道高は、

「あら有り難の大神宮。そもそもこの神様は、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の

時に、舟の舳先に顕れ、逆徒を退治なさったのです。そこで、皇后はここに社を建立され、

底筒、中筒、表筒の三神に加えて、住吉四社を御勧進なされました。住吉大社こそ、弓矢の

守護神。武運長久、安全にお守り下さい。」

と礼拝すると、田の方へと降りて行きました。さて、田んぼでは、堺高須(堺市堺区高須)

辺りの遊女達が、盛んに田植えをしております。

(田植え唄)

いとしおらしく、立ち出でて

早苗、取り取り、様々に

笠の外れも面映ゆく

面を隠し、泡沫の

哀れ儚き、賤の業とは思えども


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ⑥終

2013年06月12日 16時03分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇⑥終

 さて、そうこうしている内に、その夜も白々と明けて来ました。磯部の浦で、無事の再会

を喜んでいますと、沖合を、牢輿を乗せた舟が通って行きます。どうやら流人の舟のようで

すが、葛城が、不審に思って良く見て見れば、逆目の皇子の郎等で、稲瀬の七郎という者が

乗って居るのが見えます。ますます、怪しいと思った葛城の宮は、

「おーい、稲瀬ではないか。私は、葛城の宮だ。」

と、大声で呼ばわれば、

「おお、葛城の宮様でいらしゃいますか。これは、母上、斉明帝の牢輿です。逆目の皇子

の勅命によって、沖の嶋に流す所です。あなた様も、やがては、このようになってしまわれ

ますから、早く落ち延びてくだされ。」

と、返答するのでした。葛城の宮は、驚いて、

「なんと、母上がいらっしゃるのですか。少しの間、舟を泊め、名残を惜しませて下さい。」

と頼みますが、答えも無く、七郎は、舟を速めて遠ざかろうとしました。しかし、不思議に

も、沢山の白鷺が飛んできたかと思うと、百姓が脱ぎ置いた菅笠を咥えて、舟の舳先に飛ん

で行き、咥えた笠で扇ぎ始めたのでした。これが、鵲(かささぎ)の始まりということです。

さて、まったくご神託の通りの事が起こりました。舟は、忽ち港に吹き寄せらてしまったの

でした。行く手を遮られた守護の武士達は怒って、葛城の宮も生け捕って、一緒に流して

しまおうと、我先に上陸してきました。

 又もや、危機一髪という時、どこにいたのでしょうか。金輪の五郎が、忽然と現れ、稲瀬

の七郎めがけて突進してきました。軽々と七郎を掴み上げると、そのまま船縁に叩き付け、

木っ端微塵にしたのでした。その凄まじさにたじろいだ武士達は、逃げ惑って、海に飛び込

んだので、多くの者が溺れ死にました。金輪の五郎は、その隙に牢輿を破って、母斉明帝を

助け出したのでした。葛城の宮は、久しぶりに母上と対面して、そのお喜びは限りもありま

せん。

葛城の宮は、金輪の五郎に、

「やあ、金輪の五郎。逆目の皇子に討ち殺されたと聞いていたのに、不思議な事もあるものだ。」

と言えば、金輪の五郎は、

「確かに、逆目の皇子に首を刎ねられて、晒し首にされましたが、無念は、骨髄に浸透した

ので、金岡の身体を借りることができました。この上は、逆目の皇子を討ち滅ぼしてご覧

に入れましょう。」

と怪気炎を上げるのでした。

 この事件は、九月のことでしたが、折から、秋風が強くなったので、采女は、刈り終わっ

た稲藁を敷き詰めて、葛城の宮と母斉明帝を座らせようとしました。葛城の宮は、これを見て、

「やあ、勿体ない。稲葉は、世界の大本である。例え、このまま露に打たれても、稲藁の

上に座るなどということは、罰当たりである。」 -->


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ⑤

2013年06月12日 09時56分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇⑤

 可哀想に花照姫は、一人寂しく泣きながら、まんじりともできません。あまりに悔しいの

で、夜中にとうとう、榊の前の寝屋の前まで来てしまいました。嫉ましくも、榊の前の囁き

声が聞こえてきます。花照姫は、

『私の肌は、葛城の宮にしか許さないのに、榊の前と契りを結ぶとは、なんと腹立たしいこ

とでしょう。もう、こうなる上は、今宵、忍び出て、磯部の海に身を投げ、この心の炎を

消す外は無い。』

と決心して、書き置きをすると、海に向かって彷徨い出たのでした。

 そうとも知らずに、葛城の宮は、望みもしない床の中で、花照姫のことばかりを思い詰め、

涙を流すばかりです。榊の前は、葛城の宮がふさぎ込んでいるので、榊の前が、様々口説き

ますが、葛城の宮は苦し紛れに、

「仰ることは分かりますが、私は大神宮(内宮)に百日の大願があるのです。それが終わる

までは、待っていただけないでしょうか。」

と言うのでした。榊の前は業を煮やして、

「さては、私を嫌っているのですね。そんなに嫌なら、焦がれ死んでも、生まれ変わり、

死に替わり、必ず思いを遂げますよ。」

と、寝屋から飛び出しました。妻戸(つまど)を開いて、別室に走り込むと、榊の前は、

書き置きがあるのに気が付きました。開いてみれば、花照姫の書き置きです。これまでの

経緯が書かれていました。これを読んで榊の前は、得心し、

『そうであるなら、宮様の心が、私に靡かないのも当たり前なこと。私の恋心が、花照姫

の命を奪ってしまった。どうしましょう。こうなったら、私も後を追う外は無い。』

と思い詰め、そのまま、花照姫の後を追って出るのでした。

 しばらくして、葛城の宮は、榊の前が居なくなったことに気が付きました。ほっとして、

寝屋から出てみると、書き置きがあります。取って見ると、花照姫の書き置きです。これは、

大変なことになったと、葛城の宮も磯部の海へと急行したのでした。

 葛城の宮が、海岸まで出て、あちらこちらを探し回っていると、とある柳の木に、小袖が

掛かっているのを見つけました。花照姫の小袖と、榊の前の小袖の二枚です。葛城の宮は、

「ああ、既に遅かったか。二人とも身投げをして死んでしまったのか。」

と、突然の惨事に、声を上げて泣く外はありません。騒ぎを聞きつけた采女もやってきました。

我が子の小袖を見るなり、泣き崩れておりましたが、小袖の端に、何かが書き留められています。

榊の前は、入水の前に、こう書き置きをしたのでした。

『此の度、私が縁組みをした、葛城の宮様は、勿体なくも、舒明天皇の第二の宮様です。

帝位をお継ぎになりましたが、逆目の皇子の悪逆によって、ここまで落ちられて来られたの

です。探索の目が厳しく、花照姫様と、兄妹であると仰っていましたが、本当は夫婦の間柄

です。私が、そうとも知らずに、祝言を挙げてしまったので、花照姫様は、それを怨んで

入水なされました。私も、後を追って償います。どうか、葛城の宮様を宜しくお守り下さい。』

これを読んで、采女は驚き、

「ええ、そんなこととは知りませんでした。大変失礼なことを致しました。それなら、そうと、

言って下されば、こんな可哀想な事にはならなかったのに。」

と涙に暮れました。葛城の宮は、

「こうなった上は、もうどうしようも無い。生きていても仕方ない。私も、姫の後を追います。」

と、駆け出すのを、采女が飛びついて止めるていると、正装の老人が三人、どこからともな

く現れて、

「待て、その二人の者共。私が、方便によって、助けることにする。それでは、会わせて

あげよう。」

と言うと、海から二人の姫を返したのでした。葛城の宮も采女も、走り寄って、喜びの涙

に咽びました。三人の翁は、

「我等は、天照神、春日神、住吉神の三社であるぞ。お前の行く末、百王百代に至るまで

守るであろう。」

と、新たな神託を残すと、忽ち姿を変じて、雲井遙かに昇って行くのでした。驚いた人々は、

空に向かって、三度礼拝し見送りました。まったく有り難いともなんとも、尽くす言葉も

ありません。

つづく


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ④

2013年06月11日 14時51分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇④

 さて一方、葛城の宮と花照姫は、九条(京都市南区)の辺りに潜んでおりましたが、逆目

の皇子の探索が厳しくなって、追い詰められて来ました。もう都には、居られないと思った

葛城の宮は、

「花照姫よ。もうこうなっては、いつまでも生き恥を曝しては居られない。お前と差し違え

て、この世の憂さを晴らすぞ。さあ、こちらへ。」

と言うと、姫君は、

「これは、勿体ないお言葉。こんなことを言っては、命が惜しいように聞こえるでしょうが、

お聞き下さい。先ず、よくお考え下さい。あなた様は、既に皇位に就かれておられるのですよ。

お命さえあるならば、必ず、返り咲くことができます。幸い、私の所縁の者が、伊勢の磯部

におります。(三重県志摩市)神野采女(かんのうねめ)と言う、大変頼もしい神職の方です。

この方を頼って、伊勢路へ落ち延びては如何でしょうか。」

と、涙ながらに訴えるのでした。この言葉に、葛城も思い留まり、伊勢路へと旅立つことに

なったのでした。

《以下道行き:省略》

(経路概略=滋賀県大津⇒石部⇒水口⇒地蔵院(三重県亀山)⇒鈴鹿峠⇒明星が茶屋(清めが茶屋)⇒宮川⇒外宮⇒内宮⇒朝熊山(あさまやま)⇒磯部)

 磯部の浦に着くと、姫君は、

「若宮様、あそこに見える館が、尋ねる先です。私が行って案内を乞うてきますので、お待

ち下さい。」

と、急いで門番に案内を乞うと、丁度その時、采女が娘の榊の前を連れて、庭に出てきた所

でした。この様子を目にした采女は、侍に、連れてくるようにと命じました。采女は、花照

姫を見ると、

「みれば、身分のあるお方にみえますが、何のご用でいらしたのですか。」

と、尋ねました。花照姫が、

「大変失礼ですが、こちらは、神野采女様のお屋敷ではありませんか。私は、都の左大臣

有澄の一人娘、花照姫と申します。」

と答えると、采女は驚いて、

「何、有澄の姫君ですか。お名前はお聞きしていましたが、これまで会うこともありません

でしたね。いったい、何のご用で、これまでいらしたのですか。」

と心配顔です。花照姫は、涙ながらに、これまでの次第を話し、葛城の身分を隠すために、

「そうして、兄上と共に、ここまで尋ねて来たのです。」

と言うのでした。采女は、更に驚いて、

「それでは、有澄殿は、無実の罪で流されたのですか。私は、まったく知りませんでした。

私を頼りにしてくれて、大変嬉しく思いますよ。」

-->


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ③

2013年06月10日 13時00分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇③

 さて、粟津が原(滋賀県大津市)の辺りに、金岡丸重光という、絵師が住んでおりました。

一年前、宮中における美人揃えの絵合わせの時、逆目の皇子に脅されて、嘘の絵を描いた為、

盲となり、絵筆はもう捨てていました。今は、人の情けに縋り、夫婦諸共に、失意の内に暮らし

ておりましたが、無念の思いは消えず、毎日、粟津権現(大津市中庄)に通い、こう念じて

いるのでした。

「どうか、もう一度目が見えるようになり、舅の敵、逆目の皇子を討たせて下さい。」

 今日も、権現に参拝しようとした重光は、何か胸騒ぎを感じて、女房にこう言いました。

「今日も権現様に行ってくるが、なんとなくいつもより、心細く感じて名残が惜しい。門出

を祝う盃をくれ。」

女房は、言われるままに、銚子盃を出すと、盃を交わして、

「無事に参拝なされて、早くお帰り下さい。」

と、門外に送り出すのでした。重光は、竹の杖を頼りに、粟津権現へと向かいました。いつ

もの様に、祈誓を掛け、帰り道となりましたが、粟津が原に差し掛かった時には、もう日暮

れて黄昏時となってしまいました。鬱蒼とした森陰を歩いていると、土手の上の木の間から、

しわがれた声が聞こえて来ます。

「これこれ、そこを行く人に、話がある。」

重光は、不思議に思って、声のする方へ近付きました。重光は、

「このような、荒れ果てた野原で、私を呼ぶ声がするとは、おかしな事。この森に住む野干

の仕業か。盲人だからといって侮って、怪我するなよ。」

と、大声を上げました。重光には、見えませんでしたが、そこにあったのは、金輪の五郎の

獄門首だったのです。五郎の首は目を開いて、

「おお、ご不審はご尤も。私は、左大臣の後見で、金輪の五郎と言う者です。私は、逆目の

皇子の手に掛かって非業の死を遂げて、ここに晒し首となっております。その無念の思い

が骨髄に貫通し、魂魄は、この頭に懲り固まって、怒りに燃え盛っておるのです。そこで、

声を掛けたのは、あなたにお願いがあるからです。どうか頼まれてはくれませんか。」

と、言うのです。金岡は暫く考え込んでいましたが、やがて、からからと打ち笑って、

「さてさて、いよいよ、狐が狸に間違いなし。そもそも、獄門の晒し首が、これまで物を

言った例しはないぞ。悪ふざけをして、怪我するな。」

と言い捨てて、行こうとすると、金輪の首は、尚も声を上げて、

「これこれ、暫くお待ち下さい。恨みの一念が宿っているのです。まったく虎狼野干の類い

ではありません。あなたは、絵の名人ですよね。一念を込めて描いた龍が、水を撒く様に、

一念の宿った晒し首が、物を言わないはずがないでしょう。」

と、言うのでした。重光は、尤もと思い直して、振り返り、

-->


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ②

2013年06月08日 22時58分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇

 その頃、左大臣有澄は、葛城の宮の名代として、白鬚明神へ参詣しておりました。数々

の珍味、美味をお供えなされ、社人、楽人が、糸竹を演奏する中、国家鎮護の儀式を執り行

っています。神主右近の大夫(だいぶ)が、六根清浄の大祓を切り払い、中臣が、三種の大

祓を執り行い、滞りなく儀式が終わると、御神楽が奉納されました。ところが、すべての行

事が終わりますと、社殿の下から、不思議にも白髪の翁が現れて、お供え物をばくばくと食

べ始めたのです。人々は、

「おお、正しく、白鬚明神が顕れなさった。有り難や。」

と、地に平伏して三拝するのでした。しかし、左大臣有澄は、にやにやしながら、

「何を馬鹿な。神というものは、慈悲をその正体として、人々の尊敬を食とするものだぞ。

白鬚明神が顕れて、お供え物を食うはずがない。どうせ、狐、貉が化けてでたのに違いない。

誰かある。」

と、言うと、執権金輪の五郎輝元生年十八歳が、さっと駆け寄って、翁を取り押さえました。

金輪の五郎は、

「何者だ、正直に申せ。そうでなければ、首を刎ねるぞ。」

と、詰め寄ると、老人は、ぶるぶると震えながら、

「やや、お間違いなされるな。金輪殿。私を、見忘れなさったか。私は、絵師の金岡です。

この度、宮中における美人揃えの絵姿を、誓詞を持って描きましたが、逆目の皇子は、ご息

女、花照姫殿へ横恋慕いたし、叶わないことを嫉み、私に、醜く描くように脅かしてきました。

断れば、命が無かったので、花照姫を醜く描きましたが、誓詞の罰が当たり、倅は、忽ちに

めくらとなり、私は、このように五体が竦んでしまったのです。そして、獄屋に押し込まれて

おりましたが、この社殿の裏に捨てられ、倅も、行方知れずとなりました。もう三日の間、

何も食べておりません。神へのお供え物を勿体なくは、思いましたが、仕方なく食した次第。

お許し下さい。」

と、涙を流すのでした。これを聞いた左大臣有澄は、

「なんと、お前は金岡か。神は正しい心に宿るものだ。お前は、邪(よこしま)な者に従っ

たから天罰を受けても仕方ない。例えどれほど醜く描こうとも、花照姫の生まれ付いての

容姿が変わるわけでもない。さて、しかし、後日の証拠の為に、金岡は、神主右近の大夫に

預け置くぞ。」

と言うと、都へ向けて帰って行きました。

 さて、内裏では、斉明天皇が、美人揃えに出された、醜い絵に激怒なされておりました。

逆目の皇子は、しゃしゃり出て、

「左大臣有澄が、おのれの威勢をいいことに、あの様な醜い絵を、美人と偽って奏聞したこ

とは、上を軽んじ、行く末の逆心の現れと存じます。どうか世の中に正道をお示し下さい。

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忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ①

2013年06月08日 10時02分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「天智天皇」という浄瑠璃は、近松門左衛門三十七歳の作品であり、元禄二年に初演され、当時、大変な人気を集めたらしい。内容的にも奇想天外のストーリーで、確かに面白い。

その舞台は、様々な絡繰りを展開して、観客をあっと言わせたようである。これを、江戸の人々も見たかったのだろう。天満重太夫は、「天智天皇」を説経に焼き直して、江戸で演じた。元禄五年(1692年)のことである。(説経正本集第三(41))

天智天皇 

思無邪(しむじゃ)の三字は、神を拝む心の大本であり、怖不敬(ふふけい)の三字は、

祭典を行うに当たって尤も重要な心掛けである。神を祀る時には、神がそこに居ると思って、

勤めなければならない。

 さて、斉明天皇という方は、舒明天皇のお后様でしたが、十全の位に就かれ、一天四海

の浪も静まり、家の戸を閉める必要も無い程の泰平の世を治められたのです。斉明天皇には、

皇子が二人おりました。第一の皇子を「逆目の皇子」(架空)と言い、その背丈は一丈あま

り(約3m)で、色は浅黒く、その目は逆様についていたと言うことです。そのお姿は、夜

叉の様で、その性格も、生まれつき放逸でありましたから、父舒明天皇の勘気に触れて、

二条の館に蟄居させられておりましたが、母斉明天皇の嘆願によって、舒明天皇の崩御の折

に、恩赦を受けて、参内できるようになりました。

 第二の皇子は、「葛城の宮」(中大兄皇子)と言い、そのお姿は、大変艶やかで、慈悲第一

のお心をお持ちでしたので、次期天皇の位は、葛城の宮が継ぐことになっていました。諸卿

は皆、葛城の宮を尊敬して、仕えていたのでした。

 時の摂政は、左大臣の有澄と右大臣の是澄(架空)が勤め、民の事を考えて天下の政を

行っておりました。

それは、天智元年(662年)のことでありました。斉明天皇は、諸卿を集めて、次の様

に宣旨を下されました。

「今月十六日、葛城の宮へ、位を譲ります。そこで、眉目(みめ)貌(かたち)の美しい

姫があれば、后にしたいと思います。」

右大臣是澄は、

「これは、大変有り難い宣旨です。左大臣有澄の姫こそ、三国一の美女と聞いております。」

と答えました。しかし、その時、逆目の皇子は進み出で、

「確かに、それはそうかもしれませんが、広く姫探しをしては如何でしょうか。姫の絵を

描かせて、これを見比べ、一番の美人を后とするべきです。丁度、金岡という老人の絵師

がおりますが、この者は、いずれの奥へも出入りを許され、姫達の姿も良く知っております。

金岡親子に絵を描かせるようにお申し付け下さい。」

と言うのでした。斉明天皇は、尤もであると思い、金岡を内裏に召し、諸卿の姫を絵に写す

ように命じたのでした。吉田の少将が、熊野誓詞を取り出すと、金岡親子は、贔屓をしない

という誓いを立てさせられました。それから、親子は姫達の絵を見たままに描いたのでした。

一方、左大臣有澄は、天下安全の祈願の為、その頃、白鬚明神(滋賀県高島市)に参詣しておりました。

 さて、逆目の皇子は、家来達を集めて、こう話しました。

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