猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

山椒太夫ご当地上越 高田世界館公演 終了

2014年04月30日 15時07分31秒 | 公演記録

父、岩城の判官正氏の無実を訴えて、本領安堵の為に都を目指した、厨子王丸一行。遥か福島県信夫(しのぶ)郡からの旅であるが、会津街道で越後に出て船便を利用するのが、一般的な上洛ルートであったのだろう。ひと月程掛かって、直江津に辿り着いたらしい。佐渡の文弥人形が採用している舞鶴市立西図書館所蔵の山本角太夫正本には、会津街道を通ったという定かな記述は無いが、ご当地「直江津」のことを、次の様に書いている。

「歩み慣らわぬ、草鞋(そうあい)に、二人の君達(きんだち)、歩行(かち)の旅
 労り参らす者とては、姥竹親子五人連れ、手を引き勇め、杖となり
 又、柱とも頼もしく
 疲れを背なに「安井の里」、旅寝の枕、夢にだに
 父御にいつか、「扇の橋」
 越後の国に聞こえたる、「直井の浦」にぞ着き給う」

「直井の浦」は「直江津」のことだと分かっているのだから、「安井」も「安江」と、最初に読み替えることができれば良かったのだが、会津街道を沿いを隈無く調べても、「安井の里」は見つからなかった。東光寺(稽古場)の方丈さんからは全国地名辞典までコピーしてもらったが、福島と新潟の該当地域に、とうとう「安井」を見出すことはできなかった。ある時、直江津の地図を眺めて居て、「安江」を発見して驚いた。それも、ちゃんと荒川(関川)の東側にあって、橋に至る直前の地区である。山本角太夫は、どうしてこんな細かい字名を知っていたのだろうか、不思議である。
 「扇の橋」は、「応化」とも「逢岐」とも表記されるが、現在これに該当する橋は存在しない。ここでの掛詞としては、正に「逢岐」が相応しいであろう。「扇の橋」があったであろう所付近には、現在「直江津橋」が掛かっており、山椒太夫のレリーフが、この物語のご当地であることを物語っているのは、嬉しいことである。

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御台、厨子王、安寿姫、姥竹( 乳母の宇和竹)、小八郎の五名は扇の橋まで辿り着いた頃は、もう日暮れであった。通りがかりの農夫に、宿を尋ねるが、旅人を泊めることは禁じられていると言う。人々は、仕方無く橋の上で一夜を明かすことにするのだが・・・
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写真の橋は、現在の直江津橋と、橋の欄干に設置されている山椒太夫のレリーフの内のひとつ。

山角(山岡)の太夫に騙された人々は、関川の河口から沖に連れ出され、安寿と厨子王は、蝦夷の高八に、御台所と姥竹は、佐渡の平次へと、別れ別れに売られて行く。
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そういう物語を思い浮かべながら、関川の河口を眺めてみると、なんでもない風景がもの悲しく見えてくるものである。(安寿姫と厨子王の供養塔付近から、河口を望む)
 姥竹は、別の話からではあるが(瞽女唄や説経祭文では、投身自殺をする)「乳母嶽明神」「乳母嶽神社」としてお祀りされている。(茶屋ヶ原の乳母嶽神社)

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舞台写真の中の舟に乗っている人売りの山岡太夫(山角太夫)は、高田の妙国寺に祀られている。

Photo_2 法頂山妙国寺 山岡神霊位

という様に、上越市と山椒太夫は切っても切れない。そして、このご当地で、山椒太夫を演じる機会を与えていただいたことは、大変名誉なことだと、深く感謝申し上げます。来年には北陸新幹線が開通し、高田開府400年に盛り上がる上越市は、これから更に発展して行くことでしょう。今回お世話になった方々も皆々元気な方ばかりなので、ますます期待が高まります。今回の公演を主催していただきました「山椒太夫高田世界館公演実行委員会」の皆々様、大変ありがとうございました。

 

 


忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ⑥ 終

2014年04月24日 15時07分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ⑥ 終

 罪も無い秋友を讒言によって陥れた本江の左衛門師方は、一旦は栄華に栄えました。翌年の夏の頃のことです。南面の花園でくつろいで居た師方は、弦王丸が助命された事を聞いて、飛び上がって驚きました。直ぐに小二郎を呼びつけると、

「弦王丸が助かったというのは、本当か。何としても、弦王丸を殺せ。」

と、命ずるのでした。小二郎は、

「傍に仕える友定兄弟は、一騎当千の強者ですから、正面切っても、そう簡単に討ち取ることはできないでしょう。私に良い考えがあります。上野山の山賊に化けて攻め込んで、宝物などをわざと取り散らせば、我々の仕業とも分からないでしょう。」

と、再び策を弄するのでした。師方が、流石は小二郎などと褒めるので、小二郎は更に、

「それでは、内々に二十人程の手勢を下さい。」

と、頼みました。こうして、小二郎を総大将とする二十四人は、山賊に化けて上野山へと向かったのでした。

 小二郎達は、夜の更けるの待って、僧正の宿坊へと忍び込みました。友定兄弟は、物音に気が付いて、物陰から良く見てみると、屈強の男どもが忍び込んで来るではありませんか。

「狼藉者。逃がすな。」

と言って、斬り掛かりました。小二郎は、これを見るなり、松明を投げ出して逃げ出しました。弦王丸と友定兄弟は、これを最期と覚悟して戦ったので、夜盗に化けた、小二郎方の者達は、大勢討たれてしまい、その中の一人が生け捕りにされました。僧正は、

「おそらく、上野山の夜盗であろう。」

と言いましたが、友定は、

「いや、この者達には何かもくろみがあるようです。水火の責めをして吐かせてやろう。」

と、睨むのでした。すると、その男は、

「命を助けてくれるのなら、正直に申します。私は、河内の国、本江の左衛門師方の家来です。」

と、命乞いをするのでした。これを聞いた人々は、

「師方の家来が、なんで盗賊に一味しているのだ。」

と、問い正すと、この男は、これまでの師方の悪巧みを、全て白状したのでした。人々は、

横手を打って、納得し、

「成る程、これで分かった。これこそ天の恵みである。この男は、まるで夏の虫だ。全く誠実な者には、必ず仏神の助けがあり、罪の有る者は、自ずとその身を焼くというではないか。今夜の夜討ちがなければ、敵を知ることはなかっただろう。」

と、言って喜び合いました。そして、僧正が、

「急いで上洛し、この者を証拠として、早速に奏聞したしましょう。」

と言うので、一同は、急いで上洛するのでした。都に着いた一行は、直ちに参内して、この件を奏聞するのでした。公卿達の詮議があって、その証拠を示すようにとあったので、僧正は、かの捕虜を御前に引き出して、小二郎の武略によって、別当定吉を滅ぼしたことを始めとして、終わりまでの子細を、証言させたのでした。御門は、

「今はもう、疑う所は無い。師方を討て。」

と宣旨が下り、兵一千余騎を下されたのでした。

 直ちに、弦王丸は、河内の国へと押し寄せて、師方館を一千余騎で取り囲み、鬨の声を上げるのでした。弦王丸は、

「只今、ここに押し寄せた大将軍は、秋友が一子、弦王丸である。御門よりの宣旨を受け、本江の左衛門師方を成敗いたす。早や早や、腹を切れ。」

と、名乗りを上げます。師方は、

「かかれ、討て」

と下知をしますが、多勢に無勢、とうとう全滅です。諦めた師方は、小二郎に、介錯を頼んで自刃しようとしましたが、弦王丸は、生け捕りにさせました。

 人々は、師方と小二郎を絡め取ると、再び上洛して、奏聞するのでした。御門は、

「この者達二名は、そちに取らせる。先ず、秋友を至急、呼び戻せ。」

との宣旨です。早速に父、秋友は、都に召し戻され、弦王丸との涙の対面をするのでした。そして、御門から、

「罪も無い武士を、長い間、流人にして申し訳無かった。以前の本領は、全て安堵する。」

と宣旨が有り。本領安堵の御判が下ったのでした。秋友は、友定に、

 二人の罪人の首を、大掻きに掻き落とせ」

 と、命じました。人々が、師方と小二郎を、河原に引き据えると、師方は、きっと顔を上げ、

 「ええ、いまいましい。今、このように首刎ねられても、死んでも尚、鳴る雷となって、呪ってやる。」

 と、喚きます。小二郎は、これを聞いて、

 「なんと、浅ましいお心でしょうか。この世では、首を切り落とされても、来世では、必ず成仏して下さい。南無阿弥陀仏・。」

 と、諫めるのでした。取り囲む武士達は、

 「ええ、つべこべ言わすな。」

 と、ばっさりと、首を打ち落としてしまいました。その後、秋友は、元の場所に数々の館を建てて、富貴の家と栄えたのでした。昔の家来達も、我も我もと戻って来ました。あんまり沢山の人々が集まったので、馬が立つ場所さえ無い程でした。かの秋友の心の内はいかばかりだったでしょうか。感激しない人はありませんでした。

 (寛永二十年(1643年)やなぎのばば 藤吉開板)

 おわり

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忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ⑤

2014年04月23日 19時32分39秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ⑤

 秋友を流罪にした後、内裏では、秋友の一子、弦王丸の処分について詮議がありました。国家の安泰に関わる罪であるので、斬首との宣旨があり、平の権守正道(ごんのかみまさみち)が、勅使に立つ事になりました。勅使の一行は、大勢の供を連れて、大和の国へと向かったのでした。権守正道は、大和の国吉野郡(奈良県吉野町)に着くと、矢口の四郎友定に、弦王丸を出頭させる様に命じました。友定が、弦王丸に、勅使の到着を告げると、若君は、暇乞いの為、母上の所に来て、

「私には、詳しいことは何も分かりませんが、父の事を尋問したいので参内するようにとの勅命です。天君が私の命を奪う様な事はありませんから、ご安心下さい。」

と、死罪を言い渡されたことを隠しました。母上は、

「しかし、あなたは、幼い時に初冠(ういこうぶり)を許されて参内していますから、人々から足を引かれない様に、気を付けなさいよ。お父上が、日頃より申されていた事には、『宮門は広いが、落とし穴も多いと常に注意を払いなさい。大床を歩く時には、薄氷の上を歩くと思いなさい。玉体を拝せば、役人どもに不満がつのります。』とありました。何事にも心を低く保って、父上様の事を申し開くのですよ。そして、早くお帰り下さい。」

と、気遣うのでした。その時、迎えの武士達が、遅いとばかりに踏み込んで来ましたので、弦王丸は、母上に悟られないようにと、さっと立ち上がって暇乞いすると、表へ急ぎました。付き従うのは、友定兄弟です。御台所は、慌ただしい旅立ちを見て、いぶかしげに表に出てみると、まだ残っていた武士達が、こう言って嘆いているのでした。

「ああ、まだ幼い、花の様な若君が、打ち首にされるとは・・・」

これを聞いた御台所は、驚いて飛び上がり、

「ええ、行かせてはなりません。弦王丸。もう一度、顔を見せなさい。」

と、走って追いかけるのでした。しかし、到底追いつきません。御台様は、道端に倒れ伏して泣くばかりです。その時、乳母は、

「東大寺の行恵僧正(ぎょうえ:歴史的該当者不明)という方は、慈悲第一の御方と聞きますので、その方にご相談なさっては如何ですか。」

と、言うのでした。そこで、泣く泣く、東大寺へと向かったのでした。すると丁度、僧正は法事に出掛ける所でした。御台様は、僧正を見るなり、言葉も詰まって只々泣き崩れるばかりです。僧正は不思議に思って、

「一体、どなたですか。どうぞ御名乗り下さい。」

と、声を掛けました。御台様は、

「この国の守護であった秋友の妻であるが、夫の秋友は、日向という所に流罪となり、後に残った弦王丸は、たった今、武士達に連れて行かれ、首を刎ねられるというのです。どうか、息子の命ばかりはお助けいただき、出家にさせて下さい。」

と、涙ながらに訴えるのでした。僧正は、

「むう、そういうことですか。それでは先ず、あなたは館にお戻り下さい。」

と言うので、御台様は、泣く泣く館へお戻りになられましたが、僧正は、一人で、勅使権守正道の宿所へと向かったのでした。僧正は、正道と対面すると、こう言いました。

「秋友の一子、弦王丸がここに居ると聞きました。愚僧に、一目会わせて下さらんか。」

正道は、お易いご用と、弦王丸を僧正に引き合わせました。労しいことに弦王丸は、二つ折りの狩衣に黒木の数珠を手にして、俯くばかりです。僧正は、この様子をご覧になると、正道に、

「むう、前世の因縁もありましょうが、何とか出来るかも知れません。どうか、刑の執行まで、三日の猶予を戴きたい。」

と、言うのでした。これを聞いた正道は、

「おお、それはそれは、私も、今朝には、首を刎ねるべきところでしたが、余りに不憫で、延び延びとなっておりました。それでは、三日間は待つことにしましょう。しかし、三日を過ぎてしまった時は、残念ながら刑を執行いたします。この正道を恨まないでください。」

と、堅く約束をするのでした。さてそれから、僧正は、急いで都へ向かいました。都に着いた僧正は、直ぐにでも参内しようとしましたが、宮廷は三日間の物忌みとなっており、特に僧尼の院参は叶いませんでした。仕方無く、僧正は三日間、宿所で待つ外ありませんでした。

 さて、大和の国で僧正の帰りを待っていた正道は、矢口の四郎友定を呼ぶと、

「僧正との契約の三日は既に過ぎ、今日は最早、五日目となる。如何に僧正と言えども、お許しの宣旨は得られなかったのであろう。我々も、これ以上、猶予しておくことはできない。

残念ではあるが、上野河原(奈良県五條市上野町)にて、刑を執行することにする。さあ、ご用意下さい。」

と命ずるのでした。友定は仕方無く、弦王丸にその由を伝えました。若君は、躊躇無く、、

「予てより、分かっていたことです。さあ、直ぐに参りましょう。」

と言うと、先に進んで上野河原へと向かいました。お供するのは友定兄弟です。上野河原に着くと、弦王丸は、敷皮の上に、西向きに引き据えられました。今こそ最期と、弦王丸は、友定兄弟を近づけて、

「是まで、長い間、良く奉公してくれました。このように首を刎ねられたことは、絶対に母に言ってはなりません。僧正の勧めにより、都へ上がったと伝えて下さい。その内、分かってしまうかも知れませんが、一旦は、お心を休めさせてあげましょう。さあ、もうよい。館に帰りなさい。」

と、別れの言葉掛けをするのでした。友定は、弟の友清に向かい、

「わしは、今更、館に戻っても仕方無い。弟よ。お前も若君のお供をしたいのだろうが、若君のお供は、お殿様の御遺言により、わしと決まっておる。お前は、館に戻り、御台様を宜しくお守りして貰いたい。分かったな。」

と跡を託すのでしたが、友清は、

「いやいや、兄上こそ、館にお戻り下さい。私が若君のお供をいたします。」

と言い張るのでした。兄弟は、互いに譲らず、言い争いを始めました。若君は、

「二人とも、何を愚かな。冥途の旅のお供よりも、この世にいらっしゃる父上を、再び出世させることこそ、郎等の勤めであろう。何の罪も無いこの身ではあるけれど、このような罪を背負うのも前世の因業が重いからなのだ。十二因縁の流転は、その人間の本性に関わることが原因であるから、供をすることなどできないのだよ。十二の因縁のその始めは、無明と言う。無明とは、前世で起こした悪心から生ずる。二つ目は、行という。無明や行の結果によって、流転していくのが人間であるから、例え災難に遭うとしても、夢の中で夢を見ているようなものだ。そんなに嘆くのはやめなさい。それよりも、一日も早く、父上を再び出世させて、私の供養をして下さい。館に帰れと言うのに、帰らないのであれば、永久に勘当します。」

と、泣く泣く、友定兄弟を諫めるのでした。この有様には、警護の兵達も、涙を流さずにはいられませんでした。しかし、勅使正道は、自らを励ますと、太刀を抜いて立ち上がりました。いたわしい事に、弦王丸は、自ら首を差し延べて、最期の時を待つのでした。正道は、それは勇猛な武士ではありましたが、太刀を握り締めて、わなわなと涙で震えるばかりです。正道は、今にも僧正が帰って来るのでは無いか、早く来いと、縋る様な眼差しを、上野の山の方に泳がせるのでした。すると、御門の御教書を首に掛けた僧正が、走ってやってくるのが見えました。走り付いた、僧正は、御教書を正道に渡すのでした。正道が開いてみると、

『大和の住人、守屋の判官が一子弦王丸。僧正の申し出により、命を助けるなり。』

との宣旨でした。正道は、御教書を巻き納めると、

「最早、命は助けるぞ。弦王丸。」

と宣言しました。まったく夢のようですが、若君も友定兄弟も手を合わせて、ほっとするのでした。正道は、重ねて、

「さあ、もう嘆くのはやめなさい。私も都へ戻って、お父上の恩赦にお力添えいたしましょう。」

と言って、都へ戻って行きました。まったく、弦王丸のお命は、危うい所でありました。

つづく

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忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ④

2014年04月21日 18時03分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 いけとり夜うち ④

  矢口の四郎友定は、秋友と別れて、泣く泣く大和の国へと帰りました。御台所や若君、一門の者達が集まると、友定は、

 「我がお殿様の事を、内裏に讒言した者がおり、無念にも、日向の国に流罪となりました。」

 と、形見の文を手渡すのでした。御台も若君もわっとばかりに泣き出しました。御台様は、

 「いったいどういうことですか。この先、我々はいったいどうなってしまうのですか。」

 と、泣き崩れて口説くばかりです。弦王丸は、健気にも、

 「そんなに嘆き悲しんでは、お体に触ります。少しの間、雪に埋もれたとしても、松は松です。再び、宣旨が下ることもあるかも知れません。さあ、起きて下さい、母上様。」

 と、母を励ますのでした。さて一方、秋友流罪の知らせを聞いた郎等達は、憤慨し、

 「例え、勅命とはいいながら、罪も無い我が殿を、理不尽に流罪にするとは何事か。軍勢を集めて、殿様を奪い取りに行きましょう。それから城郭を構えて、戦うならば、幾万騎攻めて来ようとも、そう簡単には負けますまい。こちらに罪の無いことが、分かってもらえれば本望です。さあ、早くご命令下さい。」

 と、弦王丸に詰め寄りましたが、弦王丸は、

 「皆の言う事は、武士の本懐ではあるが、所詮、私戦でしかないぞ。昔から、朝家に弓引く野心の者は、山背大兄王、守屋の大臣(物部守屋)、文室の宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)、氷上川継(ひがみのかわつぐ)、伊予親王(いよしんのう)太宰の少弐、藤原の弘嗣(だざいのしょうに、ふじわらのひろつぐ)、早良親王(さわらしんのう)、平の将門、安倍の貞任、宗任、その外二十四人、遂に一人として、本懐を遂げた者は無い。朝家に対して弓を引くなどと言うことは、思いもよらぬこと。もし、父秋友や私の首が刎ねられ、屍が山野に埋められようとも、我等には、全く不忠の無い事を、申し開いてもらいたい。そうすることこそ、長く後の世に、名を残す事になるのだ。」

 と、涙ながらも、冷静に諭すのでした。これを聞いた一門の人々も、衣の袖を絞りながら、若君の仰る通りだと、打ち萎れて帰って行きました。それから若君は、友定に、

 「きっと、都から勅使がやって来ることだろう。遠侍(とおさぶらい)に沿道を掃除させよ。」

 と命ずるのでした。屠所の歩みの近付くのを、待ち構えている若君の心の内はなんとも哀れです。

  さて其の頃、都で幽閉されていた秋友は、警護の武士に付き添われて、西海道を下って行ったのでした。大内山の山守りも、これ程までに、惨めな思いはしなかっただろう。(※不明だが、大内守護の源の頼政が以仁王の挙兵で敗北を喫したことを指すかも知れない。)

 《以下、道行き》

 東寺、西寺、四ツ塚や(いずれも京都市南区)
はこの世を秋の山
六田(むつだ)の夜半の虫の音も(京都市南区:菅原道真所縁の六田社)
早や、枯れ枯れになりぬれば
いとど、哀れぞ、優りける
猶、それよりも行く程に
末を遥かに眺むれば
八幡の山に霞み棚引きて
石清水にや濁るらん(京都府八幡市:石清水八幡宮)
解得解脱救世ゆるき(かいとくげだつくぜゆるき)(ゆるき:不明)
真如の月の影清く
心尽くしに生きの松
我をば泊めよ埴生の小屋
御法(みのり)の舟の通う時
心も澄める折からに
池の清水に影写す
世の中の澄み濁るをや
神ぞ知るらん男山(京都府八幡市:石清水八幡宮)
忝くも、この御神
人皇始まり給いて後
十六代の尊者たり(十五代応神天皇の間違いと思われる:石清水八幡宮の中御前)
御裳濯川(みもすそがわ)の底清く(一般には、伊勢神宮内の五十鈴川を指す)
再び、故郷に帰してたべと
心ならずも伏し拝み
さて、灯籠の河原の宮(川原宮であれば、奈良県明日香村川原を指す)
聞く陰陽の風の音
真意の玉や磨くらん
昔、男のねに泣きし
鬼の一口の芥川(伊勢物語、芥川の段)
しどろもどろに流るらん

(※以上、長い都の中での記述は、難解で、良く意味が良く分からない。)

在りし都を立ち出でて

一夜、仮寝の宿は無し

鳥は鳴けども、如何なれば

身を限りとや嘆くらん

濁れり時はなのみして(?)

晒す甲斐無き布引や 

たぎつ白波、響くらん 

筑紫下りの道すがら 

習わぬ旅の憂き枕 

思いやるこそ悲しけれ 

和田の岬を巡れば(和田岬:兵庫県兵庫区) 

海岸遠き松原や 

傾ぶく月の明石潟(兵庫県明石市) 

潮路も波は、高砂や(兵庫県高砂市) 

尾上の松の夕嵐(兵庫県加古川市) 

室山降ろし、いよいよ激しくも(兵庫県たつの市御津町室津) 

憧れ来ぬる我が心 

誠に旅は、牛窓や(うしまど:岡山県瀬戸内市) 

げに荒気無き武士(もののふの)の 

梓の弓に、鞆の浦(とものうら:広島県福山市) 

名所旧跡、打ち過ぎて 

長門の港(こう)に赤間関(あかまがせき:山口県下関市) 

紅葉散るらん志賀島(しかのしま:福岡県福岡市東区) 

名護屋を出でて、瀨戸を行き(佐賀県唐津市) 

平戸の大島、打ち過ぎて(長崎県平戸市、的山大島(あづちおおしま)) 

松は弥勒寺、しずの里(不明:大分県宇佐市、宇佐弥勒寺のことか?) 

やがて帰洛を祝うが島(不明) 

ゆきのもと折り通るにぞ(不明) 

消えゆるばかりの我が心 

都出でて、今日は早や 

四十二日と申すには 

日向の国、土佐の嶋にぞ着き給う(宮崎県) 

長崎から宮崎までの旅程は解読できず。又、流刑地である土佐の嶋というのも不明) 

土佐の郡司三郎太夫 

やがて、受け取り奉り 

良きに労り申しける 

秋友が所存の程 

哀れとも中々、申すばかりはなかりけり 

つづく

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忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ③

2014年04月21日 10時58分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ③

 本江の左衛門師方は、偽の名乗りをして、別当定吉を滅ぼした後、讒言をするために上洛したのでした。師方は参内すると、こんなでたらめな奏聞をするのでした。

「大和の守護、守屋の判官秋友は、驕り高ぶって、自ら王と名乗り、近隣の四カ国の武士を従えて、都へ攻め上り、御門を四国に追い落とし、天下を手に入れようとしております。此の度、同国大和の住人、別当定吉は、この企てに加わらなかった為に、夜討ちに合って滅ぼされてしまいました。私は、河内の国の本江左衛門師方ですが、近国ですので、いつ秋友が攻め込んで来ても良いようにと用心をしております。朝家も御油断をなさらぬように。」

との、まことしやかな讒言に、御門は驚いて、

「それは、大逆罪である。先ずは、秋友を言いくるめて、参内させよ。」

と命ずると、師方には、注進の恩賞として、河内の国の中で三百町歩を与えました。御判を戴いた師方は、しめしめと、三河の国へと帰って行ったのでした。

 さて一方、大和の国へ勅使が立ちました。勅使は、秋友にこう伝えたのでした。

「内々、お望みであった中納言を許す事になったので、急いで上洛されよ。」

秋友は、この宣旨を喜んで、

「おお、これは有り難い次第。それこそ、生きての面目、死しての喜びで御座る。これ以上の名誉はありません。」

と答えるのでした。秋友は、御台所や弦王丸、一門の人々を集めて、

「皆の者、聞きなさい。此の度の都よりの宣旨で、中納言に任命されたぞよ。そもそも、我等が大和の国の春日大明神とは、天児屋命(あめのこやね)をお祀りする。天照大神をお助けするのが天児屋命の使命であるから、我等も、天孫降臨の末裔である御門に対して決して逆らってはならぬぞ。」

と言い残すと、上洛して行ったのでした。衣紋を正して、参内した秋友でしたが、哀れな事に、内裏にも入らぬ内に、検非違使(けびいし)の侍に取り押さえられてしまいました。幽閉された秋友は、最初、人違いであろうと、只呆れていましたが、今度は次のような宣旨が下りました。

「秋友は、長い間、忠臣であったので、死罪は許し遠流とする。流配先は、日向の国。」

という内容でした。これには秋友も観念して、

「むう、この上は仕方無い。国へ形見を送ることにするので、しばしの時間をいただきたい。」

と願い出ると、番人も不憫と思ったのでしょう。戒めの縄を解いたのでした。なんとも無残な次第でしたが、秋友は、一番信頼できる家来の矢口の四郎友定を呼びました。

「友定、頼みが有る。お前は、これより国元に帰り、弦王丸にしかと伝えるのだ。私がこのような罪を着せられる以上は、弦王丸にも必ずその罪は及ぶと伝えよ。例え、その罪が及んだとしても、前世の報いと受け入れて、決して御門を恨んではならぬ。我等は、御門のご恩を被って、現在の様な過分の位まで進むことができたのだ。しかし、その為、我等を恨む誰かが、我等を陥れる為に、讒言をしたとしか思えない。だが、決して神は、非礼を受け入れる事は無い。朝家に仕え、日々、天に祈ってきたことは、決して無駄にはならないはずだ。そのことを、よくよく話して聞かせるのだぞ。」

と秋友は、冷静に話をしましたが、堪えきれずに悔し涙を流すのでした。友定も、共に涙に暮れていましたが、

「形見のお遣いには、誰か若い者をやって下さい。私は、最期までお殿様のお供をいたします。」

と言って、言う事を聞きません。秋友は、重ねて、

「お前が言う事も分からないでは無いが、この様な身となった今、お前を連れて行っても用は無い。それよりも、弦王丸の事を頼みたい。これこそ、誠の忠臣の役目だぞ。」

と、諭すのでした。とうとう友定は、泣く泣く都を離れて、大和路を下って行ったのでした。

兎にも角にも、秋友の心の内の無念さは、言い様もありません。

つづく

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忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ②

2014年04月20日 18時32分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 いけとり夜うち ②

 こうして、守屋の判官秋友は、大和の国で、栄華を極めていたのでした。その話はひと先ず置き、河内の国の高岡の庄(愛知県碧海郡高岡町:現豊田市)には、本江の左衛門師方という悪者の弓取りが居ました。この師方という者も、この地方を知行して、何の不足も無く暮らしておりましたが、ある時、病を受けて寝込む様になりました。そこで一門の人々は集まって、いろいろとお慰めをしました。琵琶や琴が上手な白拍子を呼んで音楽を聴かせたのでした。都から招かれた二人の白拍子は、一晩中、雅な音楽を奏でました。すると、師方は、あまりにも美しい音楽に、浮かれて立ち、「飲めや歌えや」と、踊り出すのでした。それから酒宴が始まりました。すっかり元気になった師方は、白拍子達にこう聞きました。

 「都では、何か面白いことはないか。」

二人の白拍子は、

 「ええ、そうですね。このところ都には、化け物が毎夜現れて大騒ぎとなっていたのですが、大和国の守屋の判官様が、弓矢で撃ち落として、退治なされたのです。そのご恩賞には、山城の国の中に五百町歩に留まらず、御門が御寵愛されていた、更衣の前様を下さったということです。弓矢を取る者は、こういう手柄で面目を立てたいものだと、上下万民押し並べて、この話で持ちきりです。」

 と、思わず話してしまうのでした。師方は、その話に驚いて、突っ立ち上がると、

 「ええ、皆の者よっく聞け。これまで貝が閉じる様に、堅く封印してきたことで、今更ながら、外聞も良くはないが、その更衣の前と言うのは、かつてわしが、恋焦がれた相手であるぞ。この三年の間、憂いのあまり病となり寝込んでいたのも、更衣の前の事が原因なのだ。お上の御意を重んじて、この恋は諦めてはいたが、大和の守屋に下されるとは、無念なことだ。最早、我慢ならぬ。ひとつには君への恨みを晴らし、又には田舎者を誅する為、守屋の城に押し寄せて、更衣の前を奪い取り、判官と討ち死にし、この名を後世に残すより外は無い。さあ、早や、打って立て。」

 と、叫びました。しかし、家来の武久小二郎は、これを押し留めて、

 「お言葉ではありますが、よっくお考え下さい。御前より下された更衣の前を奪い取れば、御門に対する反逆の重罪を犯すことになります。もし、本望を遂げたとしましても、秋友には何の科も無く、師方は法に余る溢れ者という悪評が立つことでしょう。そして、理非検断(裁判)によって死罪の科を受けるのならば、生涯の不覚となることでしょう。どうか、勇気を持って、思い留まり下さい。」

 と、再三再四、諫めるのでした。しかし、師方は、腹を立て、

 「お前の言う事は、納得できぬ。弓矢を取る武士たる者、死を軽んじ、名を重んじることこそ大事であるぞ。理を非に曲げて、攻め込むのだ。」

 と、大の眼をひんむき、取り縋る小二郎を切り捨てんばかりです。小二郎は、更に押し留めると、諦めて次のような提案をしました。

 「そこまで、思い詰めておられるのであれば、私にひとつ考えが御座います。このように策略いたしましょう。昨年の内裏における除目において守屋判官は、別当の定吉と領地争いをしております。その訴訟は、和解して分領することで決着はしましたが、それから両家は互いに不仲となりました。このことは、宮中の者には周知のことです。そこで、守屋の判官と偽って、別当定吉に夜討ちを掛けておいて、これを守屋の判官の仕業であると讒言すれば、秋友親子は死罪か流罪を免れることはできないでしょう。適わない相手には、謀(はかりごと)をするのが一番です。」

 師方は、これを聞くと喜んで、武久小二郎を大将にして、総勢八十余騎を、早速に大和の国へと差し向けるのでした。

 別当定吉は、門外に押し寄せた軍勢の、思いも寄らぬ鬨の声に驚いて、表の櫓に駆け上がりました。別当定吉が、

 「そこの狼藉者は、何者か。名乗れ。」

 と言うと、寄せ手の方から若武者が一騎進み出て、こう名乗りました。

 「只今、寄せ来た大将軍を誰と思うか。当国の住人、守屋の判官秋友が一子、弦王丸であるぞ。日頃よりの恨みを、今晴らさん為、ここまで押し寄せて来たのだ。さあ、早く腹を切れ。」

 これを聞いた定吉は、首を傾げていましたが、

 「何、秋友の一子だと。領地を分割したとは言え、一方的な私的な命令に、従わなければならない理由は無いぞ。年端も行かないお子様が、竹馬に乗って、石でも投げに来たのか。笑わせるな。さあ、者ども、手並みを見せてやれ。」

 と、答えました。大手の門をばっと開いて飛び出したのは、十七騎の若武者です。ここを先途と戦いましたが、なにしろ突然の襲撃でしたので、とうとう定吉の家来は全滅してしまいました。別当定吉は、もうこれまでと、館に火を放ちました。そして、猛火の中に飛び込んで死骸も残さず死んで行ったのでした。武久小二郎は、うまく行ったとほくそ笑んで、河内の国へと帰りました。兎にも角にも、本江左衛門師方の謀略は、怖ろしいとも何とも、言い様がありません。

 つづく

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忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ①

2014年04月20日 11時50分18秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

  古浄瑠璃正本集第1(9)には、藤原吉次(ふじわらのよしつぐ)という太夫が登場する。1600年代の初頭に京都で活躍し、河内介、若狭掾を受領したというから、人気の太夫であったようだ。この正本には、「キリ」という節が入っているのが特徴的である。例えば、次の様な用例が見られる。

「思い思いに立ち出でて、大和の国へと、(キリ)急ぐに程無く」

普通ならば、「大和の国へと急がるる。急ぐに程無く」となるところであろうが、言葉の繰り返しを廃してテンポ良く運ぼうとする為なのか、前段の述語を省略する「キリ」という節が沢山出て来る。読むだけでは、ぶっきらぼうに、切れている様にしか感じないが、この間を三味線が繋いで、舞台転換をしていると思うと、なるべく余計な事は語らないで、視覚的に分からせようとしているのではないかと思われ、往事の舞台が目に浮かぶ。誤植が多いのか、まったく読解できない箇所が、多数あって難渋した。 

 いけとり夜うち 

 

 人皇九十四代、萩原の院の御代(正しくは95代花園天皇)のことです。大和の国の守護である守屋の判官秋友は、栄耀の身分ではありましたが、四十歳になっても、お世継ぎがありませんでしたので、氏神である春日大社に申し子をしたのでした。満願の夜に春日大明神のお告げがありました。春日大明神は、白木の弓に、鏑矢(かぶらや)を添えて、枕元に投げ置くと、次の様な神託を下されたのでした。

「男子を一人、与える。しかし、この子が十三歳になる年に、母は必ず死ぬであろう。十五歳になったなら、都へ参内し、若君と共にこの弓を、御門のお目に掛けなさい。そうすれば末世の奇特と名を留めるであろう。」

やがて、神託の通り若君が授かりました。若君のお名前は、弓矢に因んで、弦王丸(つるおうまる)と付けられ、大切に育てられました。若君が十三歳になられた年、神慮に偽りは無く、御台様が突然、病に倒れました。一門の人々は驚いて、様々手を尽くして看病しましたが、甲斐も無く、母上様は、三十一歳で亡くなられたのでした。

 さて、その頃、都では不思議な事が起こって、人々を悩ませていました。夜な夜な、東山の方角から、日月の様に光り輝く車輪のような物体が飛んで来ては、宮中の周りを飛び廻るのです。高僧貴僧を集めて祈祷しますが、収まりません。御門の宣旨は、

「広く天下の武士の中から弓矢の名将を選び、その化け物を退治させよ。」

というものでした。公卿達が集まって人選の詮議をしましたが、いろいろな意見が出てまとまりませんでした。そのうちに、都の化け物を退治できる者をさがしているという噂が広がりました。守屋の判官はこれを聞くと、

「おお、これこそ春日明神の霊夢に出てきた参内の機会ぞ。ようし、急いで上洛して、都の化け物を退治し、弓矢の家の名を上げてやるぞ。」

と息を巻き、すぐに若君を連れて上洛するのでした。参内した守屋の判官が、

「大和の国の守護、守屋の判官です。化け物退治を、私に御命じ下さい。」

と奏聞すると、御門は

「おお、それは神妙なことだ。では、秋友よ。化け物退治を頼んだぞ。」

とお答えになりました。秋友は、名誉な役をいただけたと喜んで、早速に宿所に戻ると、化け物退治の準備をして、日の暮れるのを待つのでした。さて、日暮れ方になりますと、秋友は白装束に太刀を帯び、春日大明神からいただいた弓矢を持って、宮中の白砂にやって来ました。傍には弦王丸。家来は、一騎当千の矢口の四郎友定一人だけです。やがて、夜も更けて来ますと、例の化け物が現れました。虚空が、俄に光ったかと思うと、辺りの空気が振動します。秋友は、きっと目を付け、

「南無や春日の大明神」

と、三度唱えて祈ると、三人張りの弓を力一杯に引いて、ヤッとばかりに矢を放ちました。

矢がはったとばかりに化け物に命中すると、化け物は飛び去って行ったのでした。夜が明けると、秋友は急いで参内して、化け物退治の一部始終を、御門に奏聞しました。喜んだ御門は、今回の褒美として、山城の国の中に五百町歩を下されるのでした。そして更に、御門は、

「さて、秋友は、この頃妻を亡くしたと聞いておる。わしの第一の后である、更衣の前を御前の妻として取らせるぞ。」

と、后までも下されたのでした。大変喜んだ秋友は、意気揚々と本国に帰りました。大和の国の御所侍達も我も我もと迎えに出て、悦びは限りもありません。全く、秋友の果報の絶大さは申し様もありません。

 つづく

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アート・ミックス・ジャパン 2014 小栗判官照手車曳き 

2014年04月08日 20時17分50秒 | 公演記録

今年もAMJに参加させていただきました。新潟の春の恒例行事になりそうですね。猿八座は、ご案内の通り、「小栗判官」照手車曳きの段を演じました。説経や浄瑠璃では、道行きという演出法が頻繁に行われますが、その多くは、掛詞を多用しての名所旧跡の羅列になります。おそらく、昔の人には、そうした観光案内みたいなことが受けたのかもしれません。しかし、おそらく現代人には、退屈な段になるだろうと思います。ところが、この照手車曳きの道行きだけは、違う様に思えます。

 照手の夫である小栗判官は毒殺されましたが、この世に餓鬼阿弥として戻り、土車に乗せられています。その餓鬼阿弥には、熊野湯の峰まで曳くようにとの札が掛かっているのでした。この餓鬼阿弥は生きているのか、死んでいるのか。青墓の宿(岐阜県大垣市)まで来た時に、照手が働く萬屋の前から、ぴくりとも動かなくなったのは、餓鬼阿弥の意識が働いたからだとしか思えません。

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大勢が掛かっても、全く動かなかった餓鬼阿弥車でしたが、照手が触れた途端、嬉々としてころころと動き出すのでした。照手は、この餓鬼阿弥が、夫の小栗とは夢にも知りませんでしたが、夫の供養の為に施主に付くことにしたのでした。

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照手は、青墓から大津(滋賀県)までの間を、三日間で曳き通します。最後には、この餓鬼阿弥が夫の小栗の様に思えて、涙ながらに別れるのでした。


忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(3)終

2014年04月03日 15時19分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

大ぶ下巻 6段目 (3) 終

 そうして、小太夫は、安綱との計画の通り、源蔵のお気に入りになるように、日々努力したのでした。やがて、源蔵の信頼を勝ち取った小太夫は、とうとう牢屋の鍵を預かることに成功しました。小太夫は、これは天の導きだと喜んで、

「南無や諸方の仏神三宝。科無き我が主君をお助け下さい。」

と、朝夕に祈りながら、救出の機会を窺うのでした。ある激しい雨の夜のことです。源蔵は小太夫を呼んで、

「雨風が激しくなってきたから、番の者に、警戒を怠らぬ様に申し付けるように。」

と命じました。小太夫は、

「そうであれば、酒を少しいただけますか。」

と聞きました。源蔵は、尤もと思い、酒や肴を小太夫に持たせました。小太夫は、喜んで早速、牢に押し入ろうと、牢番のところまで来ますと、番の者は、高鼾で眠りこけているではありませんか。小太夫は、ひょっとしたら、狸寝入りで騙そうとしているかも知れないと思って、声を掛けてみました。

「もし、番の者。大事の番をする者が、眠りこけていて良いのですか。さあ、起きなさいよ。」

しかし、答えはありません。どうやら、本当に居眠りをしている様子です。小太夫は、意を決して、牢の傍へと立ち寄りました。小太夫が、

「朝正殿はおいでですか。」

と、声を掛けると、中から、

「私です。」

と、答えがありました。朝正殿は、終夜、念仏をして過ごされて居たのですが、こんな真夜中に女の声を聞いたので、不審に思い、

「何者じゃ。」

と言うと、

「安綱の妻です。」

という返答です。朝正は、驚き喜んで、牢の格子から手を延ばします。小太夫も、嬉しさの余り涙が止まりません。朝正が、

「おお、我が子供達は、貪欲不道の景信に殺されてしまったか、それとも落ち延びたか。」

と、涙ながらに尋ねますと、小太夫は、

「ご安心下さい。若君達は、安綱が御共いたしまして、碓氷峠に落ち延びられました。」

と答えるのでした。これを聞いた朝正は、

「牢から出さえすれば、直ぐにでも、子供達を出世させてあげられるのに。」

と悔しがるのでした。そこで、小太夫は、慌てて鍵を取り出すと鍵を開け、牢の扉を押し開くのでした。しかし、長い間閉じ込められていた朝正は、ようやく牢から這い出でましたが、一人で歩くこともできませんでした。小太夫が、後ろから支えて抱え上げて、よろよろよろと門外へ脱出するのでした。とある木の根元に、ようやく辿り着くと、小太夫は、

「安綱殿。夫の安綱殿は、おいでですか。」

と、大声で夫を呼びました。その声を聞き付けて安綱は、森の陰から飛んで出でると、主君朝正殿と抱き合って、喜び合いましたが、小太夫は、

「急いで下さい。安綱殿。こうなることは、予定したことではありませんか。さあさあ、直に追っ手が掛かります。泣いてる場合ではありません。早く逃げましょう。」

と急かせました。安綱は、朝正殿を背負い上げると、飛ぶ鳥の様に、上野へと駆け抜けて行ったのでした。

 脱獄を知った源蔵は、

「やあ、さては小太夫に騙されたか。おのれ、このままにしてはおかぬぞ。」

と景信に、報告をしました。景信は、立腹して、

「都へ上らせてはならぬ。」

と、追っ手の勢を差し向けるのでした。

 さて、一方朝正殿は、安綱夫婦のお供で、碓氷峠までやってきました。すると、三人の夜盗の者と出くわしました。安綱は驚いて、

「何者か。」

と、咎めましたが、夜盗の者は、こう答えるのでした。

「いやいや、私どもは、怪しい者ではありません。碓氷峠におられます御台所や若君達に食べ物を届け、炊爨(すいさん)のお手伝いに参る者でございます。」

安綱は、聞いて、

「おお、それは有り難いことじゃ。ご苦労、ご苦労。それでは、一緒に参ろう。」

と、道を急ぐのでした。庵に着けば、涙涙の親子の対面となりました。やがて、朝正は、

「あの三人は何者なのだ。」

と聞きますと、若君は、父に、是までのことを話して聞かせるのでした。朝正は、これを聞くと、

「さては、あなた方は人間ではありませんね。」

と平伏し、手を合わせて夜盗を拝むのでした。夜盗達は、

「これはまあ、光栄なことです。先ず、此の度は、都へ上洛なされて、科の無いことを奏聞なされ、帰国して敵を討ちなさい。私たちも、甲斐甲斐しくお供いたしましょう。」

と、答えるのでした。しかし、安綱は、

「皆様方のご意見もご尤もですが、景信の勢が迫って来るでしょう。私は先ず、回文を回して勢を募り、敵を討った後に上洛した方が良いと存じます。」

と言うので、朝正もそうすることにしました。やがて、夜盗の三人は、回文を持って触れ歩きましので、かつての郎等達が、雲霞の如くに集まって来るのでした。其の数は、一日一夜にして、一千余騎を数えました。これに勢いを得た朝正殿は、強者どもを率いて下野へと進軍を開始しました。

 さて一方、景信の軍勢は、朝正を追っかけて都方面へと進軍中です。碓氷峠から下りてきた朝正の軍勢は、これを見つけ、鬨の声をどっと上げました。朝正殿は、一陣に進み出で、

「やあやあ、景信。我が儘放題やってくれたな。追討の宣旨により、ここまで押し寄せて参った。さあ、武士らしく腹を切れ。」

と呼ばわれば、景信は、

「なんだと、そういうお前は朝正か。長い間の牢屋暮らしは、ご苦労であった。逃げ出した朝正の息の根止めるために、わざわざ来てやったぞ。さあ、討ち取れ者ども。」

と下知するのでした。景信の軍勢は、我も我もと襲いかかりますが、ここを先途と、大太刀を振るう安綱の敵ではありません。朝正軍の方が圧倒的に多勢だったので、景信はあっけなく敗走しました。やがて景信は捕らえられて、囚人として都へ連れていかれたのでした。

 都に到着すると、直ぐに参内しました。これまでの事柄を奏聞しますと、御門は、

「景信の我が儘は明白。景信の処分は任せる。嫡子朝春は親孝行であるので、三位の中将を与える。」

とのご叡覧でした。人々は、宿所に帰ると、早速に景信の首を刎ねました。それから朝正は上野へと戻り、また館を建て直しました。昔の家臣達も皆戻り、朝正殿にお仕えしたので、門前は、馬の立つ場所が無い程に賑やかに栄えたということです。例し少ない出世だと、感心しない者はありません。

おわり

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忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(2)

2014年04月02日 19時53分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こ大ぶ下巻 5段目 (2)

碓氷峠に御台所と若君達を残して、安綱は下野の国に潜入しました。先ず、どうにかして、甘楽太夫が捕らえられている牢に近付いて、様子を探ろうと思案をしました。

『そうだ、乞食の姿に化けて、牢の様子を探ることにしよう。』

と思い定めると、ぼろぼろの簑を着て、破れ笠を被り、手足を汚して、杖をついてよろよろと歩いて見ました。我ながら、惨めで哀れな姿です。

 『これも、主君の為。恨みは塵ほどもなし。』

 と、自らを奮い立て、牢の近くまでやって来ました。甘楽太夫が捕らえられている牢と覚しき所に、竹林が見えます。その周りには掘が切られています。掘に添って道がありますが、行き交う人もありません。日夜、厳しい警護の武士が詰めていて、鳥ででもなければ、牢に近付くことは出来そうにありません。このように厳しい警護の中にも、どこかに隙があるだろうと、安綱は我慢強く偵察を続けますが、そう簡単には、隙を見せません。安綱は、

 『むう、この牢の番頭は、長沢の源蔵と聞く。源蔵の館の様子を探ってみるか。』

 と思い立ち、牢の前を通り過ぎると、門外に立って、

 「くたびれ果てた乞食に、お恵みを。」

 と物乞いをしてみました。すると、門番が跳んで来ました。

 「やい、ここは、乞食に限らず、誰であろうとも通行禁止であるぞ。門外の制札が見えぬか。」

 と、杖を振り上げて、安綱を打ち叩きました。安綱は打たれるままに、打ち萎れて、

 「これは、申し訳ありません。ここまで来てしまったのも、このような乞食には、札というものが読めないからで御座います。どうか、お許し下さい。」

 と言うのでした。門番は、

 「なんと、口強情な乞食か。」

 と腹を立て、更に杖を振り上げましたが、その時、源蔵が走り出て来て、

 「やあやあ、そんなむごいことをするな。そのような乞食に、そんなことを言っても分かる筈も無い。あの乞食も、その昔は、由緒ある者のなれの果てかもしれないではないか。日々厳食(いつじき)を求めて、露の命を繋いでいる者に可哀想な事をするな。あの牢屋の甘楽を見よ。人の一生の行方は分からんものだ。お前にも、どんな怖ろしい報いが訪れるか、分からないのだぞ。さあ、施行を取らせてから、帰しなさい。」

 と、慈悲深い事を言うのでした。やがて、施行が出されました。源蔵は、

 「この場所は、何人たりとも、固く立ち入りが禁じられておる。もう二度と来てはならぬ。」

 と念を押して、奥に戻りました。安綱は、源蔵の後ろ姿をつくづくと見ながら、

 『むう、こいつは、なかなか立派な武士であるな。また、うろうろしていて、再び叱責されては、怪しまれる。』

 と考え、一旦、上野の国へと戻って行きました。

 安綱は、上野の国に戻ると女房の所へ戻りました。女房は驚いて、

 「おや、御台所や若君達は、どうなされましたか。もしや、打ち捨てて来たのではないでしょうね。そうであれば、早く戻ってあげて下さい。私も、長い間、打ち捨てられたままで、その寂しさに耐えていますが、主君の為ならば、露程も恨みはいたしません。」

 と、言うのでした。安綱は、これを聞いて、

 「おお、長い間、捨て置いたのに、恨み辛みをも言わずに耐えてくれるか、有り難い。それ程、主君の事を思っていてくれるのか。御台様も若君達もお元気にしているので、安心してくれ。あれから、私と有重でお供をして逃げたが、松枝(松井田:群馬県安中市)の宿で追っ手が迫り、有重が残って防戦する間に、碓氷の峠までなんとか落ち延びることができたのだ。」

 と、話すのでした。女房は聞いて、

 「それでも、住み慣れないそんな山奥で、誰が、水を汲み、薪を取ってくれるのですか。可哀想に。」

 と悲しむのでした。そこで安綱は、

 「実は、お前に頼みがある。」

 と、膝を詰めました。 

 「どうか、お前は、源蔵の所の下の水仕になってくれないか。そして、例え源蔵が、西を東と言っても、これに従うのだぞ。お前は、年増とは言え、まだまだ色っぽい所も十分あるから、きっと源蔵もお前に言い寄って来るだろうが、それにも従うのだ。そうして、機を見てお殿様を救い出すのだ。しかし、私を恨んでくれるなよ。夫婦は、一夜を共にしただけでも五百生の縁となると聞く。ましてや、お前と私は、もう数年の契りを込めた仲。夫の為に二世まで、平にお願い申す。」

 女房は、これを聞くと、

 「主君の為、夫の為のお役に立てるならば、例え、身を刻まれ、骨をばらばらにされても、この命は惜しくはありません。」

 と、覚悟するのでした。それから、安綱夫婦は、早速、下野の源蔵館に向かいました。

  源蔵館の近くまで来ると安綱は、

 「あそこの門が源蔵の館よ。私は、この木の本から離れずに待っているから、何か用がある時は、ここまで出て来るのだぞ。」

 と涙ながらに、女房を送り出すのでした。女房が源蔵館の門外に佇んでいると、内より下女が出てきて、

 「おまえは、この内に用でもあるのかね。」

 と尋ねました。女房は、

 「はい、私は、この国の隣の那須の国の者ですが、昨年の春、夫を亡くしました。夫の叔父が私を売り飛ばそうとするので、ここへ逃げて参りました。どうか哀れと思って、この内の下の水仕にさせて下さい。」

 と、答えるのでした。下女が源蔵に取り次ぎますと、源蔵は、女房を呼び入れました。女房を見た源蔵は、

 「いやいや、下女にしておくには勿体ない。取り上げて使うことにしよう。」

 と言って、女房に小大夫と名を付けて、重宝するようになりました。元々小大夫は、何事にもそつが無く、朝夕身を惜しまずに立ち働き、良く気が付き、身内だけで無く外様の家までにも気を配ったので、小太夫程の女房は無いとまで言われる程になりました。かの小大夫の頼もしさは、言い様もありません。

 つづく

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忘れ去られた物語 29 古浄瑠璃 小大夫(1)

2014年04月01日 22時09分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

  古浄瑠璃正本集第1(7)は、「やしま」である。(寛永16年:1639年板)女太夫である六字南無右衛門の唯一の正本である点で面白いが、「屋島」又は「八島」と言いながら、ようやく義経が奥州から出兵したと思ったら、三河矢作の宿まで来て、「浄瑠璃姫は何故来ないの。」で終わっているので、がっくりする。尚一段目は、都から奥州秀衡を頼って行く、お決まりの「道行き」である等、面白味に欠ける。
  古浄瑠璃正本集第1(8)は、「こ大ぶ」とある。(寛永18年五月山本久兵衛板)これは、「小大夫」(こたゆう)と読んで良いのだろう。謡曲「甘楽大夫」(かんらたゆう)を下敷きにしている。残念なことに、四段目から六段目までの下巻しか現存しないが、これは、中々面白い話である。前段の流れを、謡曲(新謡曲百番:佐々木信綱 M45年)から抜いておく。 

 甘楽大夫 

浮き雲掛かる月に風。月に風。待たるる風ぞ待たるる。是は上野国、甘楽の郡、多々良の城。甘楽の大夫、朝正郷(ともまさきょう)の御台所や二人の公達。小太郎殿、亀若殿にて御座候。某は、甘楽譜代の侍、安綱(やすつな)と申す者にて候。扨も朝正郷は、去年の秋、下野国、足利の住人、荒間の兵衛景信(あれまのひょうえかげのぶ)に遺恨の子細候て、謀り生け捕られ給い候えしを、長沢の源蔵が預かり申し。牢舎なされ候に付き、御台所、公達は落人となり、この碓井の山深く分け入り、忍びて御座候
 

こ大ぶ下巻 4段目 (1)
 

さて、景信の追っ手の軍勢を、有重(ありしげ)が食い止めている其の隙に、主従四人の人々は、辛くも落ち延びましたが、無残にも、有重は討ち死にしたのでした。人々は、涙ながらに、ようやく碓氷峠まで逃げ延びて来ました。 

安綱は、碓井峠の山中に、柴の庵を建て、御台所や公達を住まわせました。安綱は甲斐甲斐しく働きました。昼間は、人目を憚り、夜になると、山を巡って薪を集め、又谷に降りて水汲みをするのでした。こうした日々がしばらく続きましたが、ある時安綱は、御台様に、
 

「何時までも、ここでこうして居る訳には行きません。私は、先ず下野に行き、何とか計略を図って、お殿様を牢より助け出したいと思います。」

と、涙ながらに言うのでした。御台所は、これを聞いて、 


「ええ、無理なことを言うのではない。安綱殿。甘楽家の重臣として、あなたの顔を知らない者はありませんよ。それに、あなたが居なくなっては、この兄弟達を、どうやって出世させればよいのですか。どうか、そんな無謀なことはやめて下さい。」
 


と、引き留めるのでしたが、朝春殿(ともはる
謡曲では小太郎)は、これをお聞きになり 


「母上様こそ愚かなお考えです。よくぞ言ったぞ、安綱。何とかして、父上を牢から助け出して下さい。」

と、懇願しました。幼い亀若も、

「何と、安綱は、父をお迎えに行くのですか。お国にお戻りなされても、長居をせずに、早く帰って来て下さい。」

と、言うのでした。これが、今生の別れになるかも知れないと思った安綱は、涙に咽びましたが、名残の袖を振り切って立ち上がると、下野の国へと向かったのでした。

 安綱が山を下りると、働き手は朝春です。毎日薪を集め、水汲みにと、慣れない山路で、傷だらけです。それに、負けじと、亀若丸も付いて来ます。朝春は立ち止まり、

「亀若、良く聞け。このような凄まじい山奥で生活することを恨むのではないぞ。仏様もその昔、檀特山(だんどくせん)という険しい山で、辛い難行をなされて、遂には、悟りを開かれ、三界道のお釈迦様となられたのだ。さあ、早く庵に帰って、母上を慰めなさい。」

と諭しましたが、亀若は、

「そのお話に従うならば、私も難行して、父上や兄上をお守り出来る様になり、私も仏になります。兄上こそ、お帰り下さい。」

と、聞きません。朝春殿は、少し困って、

「お前が、言う事は間違ってはいないけれど、兄のした難行で弟が助かる訳ではないし、又、弟のした難行で、兄が助かることも無いのだよ。早く帰りなさい。亀若。」

と言いました。きつく言われて、亀若殿は、仕方無く庵に戻って行くのでした。朝春殿は、

「まだ年端も行かぬ内から、このような辛い目に会わせるとは・・・」

と嘆きながら、涙と共に水を汲んで、帰って行きました。ところが、その帰り道に、朝春殿は、碓氷峠の山賊どもに見つかってしまったのです。山賊駄どもは、

「このような山奥で、水汲みとは、変な奴。まあいいだろう。なんであれ、良い拾いものだ。売っぱらってやるわい。」

と言うなり、朝春殿を引っ立てたのでした。朝春殿は諦めて、

「この様に連れ去られ、売り飛ばされるのも、前世の報いだと思うので、少しも恨みはしませんが、すこしだけ時間をいただけませんか。母や弟がおりますので、お別れをさせて下さい。」

盗人どもは、これを聞くと、

「ええ、うるさい。つべこべ言うな。歩かないと、ぶったたくぞ。」

と、言って引っ立てて行くばかりです。するとそこに、兄の帰りが遅いのを心配した亀若がやってきて、この様子を見たのでした。亀若殿は、

「のうのう、人々。いったい兄上を何処に連れていくのですか。」

と、縋り付きました。夜盗の者達は、

「おお、一人でも嬉しいのに、二人に増えれば、言うこと無しだな。」

と、亀若も引っ立てて歩き始めました。朝春殿は驚いて、

「なんと、情け無い。庵に母上様がいらっしゃいますが、一人どころか、二人まで、売られてしまっては、母上は、生きては行けません。どうか、お許し下さい。」

と、流涕焦がれて泣き崩れるのでした。この様子を見ていた年寄りの夜盗は、少し可哀想になったのでしょうか、

「そんなら、お前は、許してやろう。」

と、亀若殿を、突き放しました。ところが、亀若丸は、飛びついて、

「いやいや、人々。よくご覧下さい。兄上の手足は、傷だらけで、大した価値はありませんよ。私は、年も若いので、まだまだ長く使えます。兄に替えて、私を売って下さい。」

と、訴えるのでした。朝春は、

「よいか、亀若。庵に帰れ。母上には、この事は言うなよ。兄は、谷に水汲みに行ったまま行方知れずになったと言うのだぞ。さあ、お許しのある内に、早く帰れ、亀若。」

と、説得する外ありません。夜盗達は、業を煮やして、

「ああ、うっとしい奴らだ。」

と、朝春を引っ立てて行きかけますが、亀若は更に取り付いて、

「のう、のう、人々。私に替えてください。」

と喚きます。あんまり強く悲しんで、泣いたため、とうとう亀若は、引きつけを起こして、その場にばったりと倒れてしまったのでした。朝春は、驚いて、

「ああ、弟が死んでしまいました。」

と叫んで、亀若に取り付きますが、もう既に事切れてしまったようです。朝春は夢とも弁えず、亀若に抱きついて、

「ああ、これは、夢か現か。最後まで、一緒に生きる事の出来ない、儚い憂き世だ。」

と嘆き、叫びますが、どうすることもできません。その時、夜盗の者どもは、谷に降りて水を汲んで来ると、亀若の口に水を含ませるのでした。すると、亀若は、少し息を取り戻し、うわごとの様に、

「ああ、兄上は、どこに、いらっしゃいますか。私に替えて下さい。」

と言うのでした。亀若は、また意識を失いかけましたが、夜盗が、

「なんとまあ、不憫なことか、そこまで言うのなら、二人とも許すことにしよう。」

と言うと、かっぱと跳ね起きて、

「これは、有り難い。」

と、手を合わせて拝むのでした。夜盗の者は、

「さて、そもそも、お前達は、誰の子供なのか。どうして、このような山奥に住んでいるのか。」

と聞きました。朝春殿は、名乗らないでいようと思っていたのですが、弟亀若の命を助けてくれたので、名乗ることにしました。

「私は、上野の住人、甘楽太夫朝正の子供です。」

と、朝春が名乗ると、夜盗達は、思わず立ち退いて、

「はあ、これは、何と有り難いことか。私たちも上野の国の者です。朝正様がお殿様であった頃は、民を憐れみ、我々の様な者にも、慈悲をもっての御治世でした。しかし、景信が国を横領してからは、何かにつけて駆り出され、取り立てられ、やりたくも無い山賊に手を染めるようになったのです。まったく残念なことです。今までのことは、どうぞお許し下さい。さあ、庵までお供いたしましょう。」

と、謝ると、兄弟を背負って、庵へと向かったのでした。庵に着くと、母上に事の次第を話して聞かせました。母上は、

「何と辛い目に会うのでしょう。」

と、泣くのでした。夜盗の人々は、是をみると気の毒に思って、谷に降りて水を汲んできたり、山に上がって、薪を集めたりと働いたのでした。夜盗の者達は、

「又、手伝いに来ます。」

と言い残して、山を下りて行きました。この世の中で、哀れな事と言えば、この人々のことだと、上下を問わず、憐れんだということです。兎にも角にも、この人々の心の内の哀れさは、例え様もありません。

 つづく

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