猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

三味線の根緒

2015年09月28日 18時21分55秒 | 調査・研究・紀行
 以前から古い根緒が切れてしまっていました。面倒くさいので、テーピングで補強して使っていましたが、いくらなんでも、舞台では使えません。先日、浅草に行ったついでに、新しい根緒をひとつ買ってはきたのですが、自分で組めないものかと、その古い根緒をほどいてみました。すると、うまいことに、テーピングが目印となって、どういう組み方なのが一目瞭然です。そこで、実験的に、山道具の中から細引きを引っ張り出して来て、組んでみました。太棹用ですので、5mm程度の細引きがぴったりです。

(クリックで拡大します。)
左が切れてテーピングだらけの古い根緒。右が細引きで組んでみたもの。形を決めるために、試作品もテープで留めながら、作業しました。
やっと完成。

古い方も元通りにできました。
今度、綺麗な紐がありましたら、オリジナル根緒を作りましょう。細棹用なら3mmぐらいがよさそうです。

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし⑥ 終

2015年09月25日 19時02分55秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
蒲の御曹司 ⑥ 終

 さて、梶原平蔵景時はというと、嫡子の源太景季(かげすえ)を近づけて、
「おい、景季よ。聞くところによると、範頼の子供達が、大島に落ち延びたとのことだ。敵の子供であるから、密かに討ち捨てるのだ。」
と、密談をしていました。
 とこがここに、土肥の二郎実平(どひのじろうさねひら)は、梶原親子が密談しているとも知らずに、憂き世を歎いて、大きい声で独り言を言いました。
「ああ、人間の果報というものは、分からない物だ。なんという憂き世であろうか。あの梶原と言う奴は、栄える者を嫉み(そねみ)、没落する者を笑い、ご兄弟の御仲の事さえ、讒奏して、蒲殿や義経様を失脚させ討ち果たし、自分だけが栄華を手にして驕り高ぶっておるわい。神や仏も無い憂き世だなあ。」
梶原は物越しにこれを聞いて、大いに腹を立てて、
「何だと、憎っくき、土肥の物言いや。」
と、太刀に手を掛け、斬り殺そうとしましたが、漸く心を取り戻し、
「いや、待て。ここで奴と死んで何になる。ひとつ御所に讒奏をして、ひどい目に遭わせてやるぞ。」
と、澄まして御前へと出仕するのでした。まったく、梶原の心中を憎まない者はありません。土肥は、こうした梶原の様子を見ていて、嫌な予感がしました。土肥は、
「どうやら、奴め、次は、このわしを塡める為に、讒奏をする気だな。よし、俺も御所に出仕して、先に申し開きをしておくか。」
とも、思いましたが、その前に、和田や秩父等へ話しをしておいた方がいいだろうと思い直して、和田や秩父の所を訪れました。和田や秩父は、話しを聞くと、
「おお、まったく。あの梶原を、このまま放置しておくならば、後々、我等が身の上の災いとなるのは必定。これは、土肥殿一人の訴訟では無い。皆々の連名で、申し上げようではないか。」
ということになったのでした。こうして連名で、御前に出仕した面々は、北条殿、秩父殿、和田殿、土肥殿、馬場、小山、土屋、川越、三浦介、上総介、その外六十六カ国の武将達でした。この様子をご覧になって頼朝公は、
「いったい、この訴訟事は、何事だ。」
と、驚かれました。人々は、平伏して、同音に、
「申し上げます。御前におります梶原親子の者共は、自分に都合の悪いことを、御前のお耳に入れようとする者がありますと、君に対して讒言をして、その者を陥れてきました。一年前の平家追討の折、御舎弟の義経様の事を猪武者と罵りました。その仕返しを恐れて、義経様に野心があるように讒言をし、追討することになりました。又、梶原の嫉みによって、蒲殿も失ったのです。今迄は、君の御意に畏れて、進言する者もありませんでしたが、我々もいつそのような讒奏をされるか分かりません。そこで、このように皆一堂に申し上げるのです。どうかお願いです。梶原親子の者共を由比が浜で捻首にさせて下さい。もし、これをご承引いただけない時は、奴らに捕らえられぬ内に、お暇をいただき、出家をして憂き世の憂さを晴らそうと思います。」
と、必死の進言をしたのでした。頼朝公は、
「分かった、そのようにせよ。」
と、お答えになりました。これを聞いた梶原は、肌背馬(はだせうま)に跨がって、脱兎の如くに逃げ出しました。
 梶原は行方知れずに逃げて行きましたが、余りに慌てていたので、道々、宇都宮の弥三郎が、弓の稽古をしている所を横切ってしまったのでした。弥三郎は、怒って、
「例え、梶原であろうとも、侍の的矢を射る目の前を、礼儀会釈も無しに、乗り打ちするとは何事か。ええ、閻浮の塵になるならなれ。逃してなるものか。」
と言うと、弓を満々と引き絞りました。はったと射れば、梶原は、背中首(せなくび)に矢を受けてバッタリと馬から落ちて、息絶えました。その後から、人々が駆けつけて来ましたが、この有様を見て、
「天晴れ、よくぞ射たり。」
と喜んで、首を掻き落としたのでした。
 さて、その後、蒲殿の子供達は助けられて、頼朝公の御前に上がることが許されました。頼朝公は、
「咎も無い範頼を亡くしてしまったことは、何よりも口惜しい事である。兄弟の者達に、三河の本領を安堵する。」
と仰せになるのでした。こうして、兄弟は、蒲殿の跡を継いで、三河の国を治めたのでした。目出度し、目出度し。

おわり

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし⑤

2015年09月25日 17時06分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ⑤

 それから、御台様と、三郎義清殿は、範頼のご供養をしましたが、あまりの疲れと、思い煩いの為、其の場で寝入ってしまうのでした。その時、草葉の陰の範頼殿は、枕元に立ってこう告げるのでした。
「私は、娑婆の縁も尽き果てて、この様な姿に成り果てましたが、決して悲しみ歎いてはなりません。落ち延びた他の兄弟達に会いたいのであれば、私の名と、ここで北の方と三郎が菩提を弔っていることを、木の葉に書き記して、明け暮れ、海に流しなさい。そうすれば、必ず巡り逢うことだろう。さあ、早く起きなさい。」
起こされた、二人は、驚いてかっぱと起き上がると、さめざめとお泣きになりましたが、やがて三郎は、
「草葉の陰の父上様が、私たちを憐れんで、夢枕にお立ちになった。教えに任せて、書きましょう。」
と、木の葉を沢山集めてくると、書き付けをしては、海へと流すのでした。
 さて、一方の為頼、頼氏兄弟は、同じく城から無事に逃げ延び、伊豆の浦で月日を送っておりました。しかし、毎日は物憂いばかりです。そんな或る日、二人は憂さを晴らそうと、浜辺に出ました。すると、浪間に漂う木の葉の中に、書き付けの有る物が目に入りました。いったいなんであろうかと、見て見れば、父の名字が書き付けてあり、更に、
『伊豆の国大島 範頼の菩提なり 義清 父の為』
とあるではありませんか。二人は、飛び上がって驚きました。
「おお、さては、母上様は、三郎を連れて、大島へと落ちられたのか。父上は、お亡くなりになられので、菩提を問うこの木の葉。ここまで波に揺られて届いたか。ああ、これは誠かあ。なんという悲しい事か。」
と、泣くより外はありません。しかし、涙を払うと、兄の為頼は、
「ここから、大島はそれ程遠くはない。どうだ頼氏。これより、漁船を探して大島へ行こうではないか。」
と言うのでした。二人は、早速に漁船を捜すと、丁度、誰の舟とも分からない舟をみつけたのでした。兄弟は、これはおあつらえ向きだと、急いで舟に乗り込むと、幸い風は追い風でした。天も味方してくれたと漕ぎに漕いで、一日一夜で、大島へと漕ぎ付けたのでした。兄弟の人々が、舟から飛んで降りて、見て見ると、丁度、御台様と三郎殿が墓参りの為に歩いて来たのと出くわしました。親子四人の人々は、顔と顔とを見合わせて、これはこれはとばかりです。久しぶりの再会を喜び合いましたが、やがて、兄の為頼は、
「父上はどちらですか。」
と尋ねました。そうして、御台様は、事の次第を語り聞かせながらお墓へと向かうのでした。
「これこそ、御父上様の御墓所ですよ。」
と、言うも果てずに、兄弟は、塚に倒れ伏して、泣き崩れました。為頼と為氏は、父が恋しい余りに、墓守に向かい、
「娑婆でのお姿を、もう一度、見たい。墓を掘り返して父の姿を見せて下さい。」
と訴えるのでした。墓守は驚いて、
「いやあ、大変、お労しい事ではありますが、もう既に一年近くも経つ死骸を、掘り返すなどということは、あり得ません。」
と答えました。兄弟の人々は、
「それは、そうかもしれないが、長らく物憂い牢のお住まい。きっと最期の御時には、我々兄弟のことを、恋しく思い出されたに、違いありません。お願いですから、もう一度、お姿を見させて下さい。ああ、恋しい父上様。」
と、伏し拝んで泣くばかりです。とうとう墓守は負けて、仕方無く、死骸を堀り起こすことにしました。人々は、父の死骸の枕の元に集まると、
「のう、のう、父上様。私たち兄弟は、父上を探して、ここまでやって来ました。今一度、お声をお聞かせ下さい。」
と、死骸に抱き付いて、さらに涙に暮れるのでした。見るに見兼ねた墓守は、
「仏になった死人に、そのように涙がかかっては、勿体ない。」
と、頓て、死骸を元の様に埋め戻しました。この人々の心の内の哀れさは、何に例えて良いか分からない程です。

つづく

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし④

2015年09月25日 11時36分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ④

 更に哀れでありましたのは、大島に流されて、土の牢の中に居る、蒲の冠者範頼様でした。流されたのは、つい昨日の様に思えますが、既に三年の月日が流れました。日の光も月の光も見ない生活にやつれ果てて、見るからに無残なお姿です。範頼は、自分の命がもう長くは無いことを覚りました。
「牢守り殿、聞いてくだされ。私の命は、最早、消え消えと失せる寸前です。今生の結縁に情けを掛けて、牢の外で死なせて下さい。」
範頼は、こう訴えて、涙するのでした。牢守りは、これを聞いて、
「ああ、なんと労しい有様でしょうか。しかし、主命ですからご勘弁下さい。もし、牢からお出ししたことがバレたなら、死罪は免れません。とは、言うものの、あまりにお気の毒に過ぎます。仕方ありません。今生にて、言いたいことがあるのなら、どうぞ、仰って下さい。」
と言うと、範頼を牢から出すのでした。範頼は、
「おお、なんと有り難い事か。今は早、憂き世の妄執は晴れました。牢守り殿のお情けは決して忘れません。お願いがあります。もし、私を訪ねる者があれば、これを形見として渡して戴きたいのです。」
と言いながら、肌の守りを取り出し、牢守りに渡すと、安心したのでしょか、バッタリと倒れ込みました。ややあって、蒲殿は、意識も遠くなる中、西に向かって手を合わせると、念仏を十遍ばかり唱え、遂に息絶えたのでした。牢守りが、いろいろと介抱しましたが、もう手遅れでした。牢守りは、道の辺に塚を築いて蒲殿を葬りました。哀れともなんとも言い様もありません。
 一方、御台様と三郎殿が乗ったまま漂流していた舟は、嵐に吹き流されてから、大島に漂着したのでした。二人は、急いで島に上がりましたが、夢がさめたように、ただただ、唖然とするばかりです。やがて、御台様は、気を取り直しました。辺りを見回すと、そばに、新しい卒塔婆が立っており、こう書き付けてあったのでした。
「蒲の冠者範頼の廟所なり。所縁の者があるならば、形見の物を渡すべし。牢守二郎太夫。」
これを見るや、御台様は、驚いて、
「ええ、それでは、ここは、大島か。これは夢か現か。我が君様。」
と、消え入る様に泣くばかりです。やがて御台様は、落ちる涙を払って、牢守りを尋ねました。事の次第を聞いた牢守りは、
「おお、そうでありましたか。私は、蒲殿をお預かりしていた者です。」
と、丁寧に持てなし、蒲殿の最期を語るのでした。牢守りが、範頼の形見を手渡しました。御台様は、
「これが最期の形見か。」
と、胸に当て、顔に当てて、流涕焦がれて泣くばかりです。牢守りは見兼ねて、
「お嘆きは、ご尤もではありますが、前世からの定めと諦めて、深く菩提をお弔い下さい。」
と慰めるのでした。この牢守りの心の優しさを、褒めない者はありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし③

2015年09月20日 22時41分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ③

 それから、哀れであったのは、範頼公の御台様と公達でした。御台様は三郎殿を連れて、城外へと落ち延びましたが、東西も知れぬ山の中を、さまよい歩くことになりました。城の騒ぎも聞こえぬ程に、遠く逃げて来ると、御台様は、三郎に向かい、
「三郎や、為頼や頼氏(長男・次男)はどうしたかねえ。無事ににげのびたかねえ。」
と、つぶやきました。暫く、来た方を眺めては、泣き崩れて動きません。この様子を見た三郎は、健気にも、
「私も心配ですが、今となっては、確かめ様もありません。しかしながら、こうしている間にも、敵の追っ手は、きっと迫っていることでしょう。さあ、一歩でも先に落ちのびましょう。」
と、励ますのでした。親子共々に手を取り合って、山の中を進みましたが、日暮れ頃になって、ようやくある尼寺に辿り着きました。一夜の宿を乞うと、一人の尼公(にこう)が出て来ました。御台様と公達のお姿を見て驚いたのは、尼公の方でした。
「これはこれは、三郎義清様。私は御乳母で御座います。」
と、名乗るのでした。御台様は、名乗りもあえずそのまま倒れ伏し、消え入る様に泣き崩れましたが、やがてこれまでの経緯を詳しくお話になるのでした。
「万事宜しく頼む。」
と、言われて尼公は、
「なんと、労しい事でしょうか。どうかこれよりは、お心安くなさって下さい。ここは、人知れぬ草深き山中です。必ず深くお隠し申し上げます。」
と答えて、人々を奥の部屋へとお隠しになり、様々心を尽くして仕えるのでした。
 さて一方、梶原は、炎上する城の中を捜索し、御台所や公達の首を探しましたが、見つかりません。
「ええ、さては、落ちのびたか。まだそれ程、遠くへは行ってはおるまい。早く追っ手を向かわせよ。」
と命じて、軍勢を山狩りへと向かわせました。梶原は、小高い山に上がって、遠目をして目を光らせるのでした。
 尼寺では、尼公の情けによって、御台様はようやく一息つくことができました。ところで、この尼寺には、尼公が寵愛する手飼いの虎がおります。今は三月も末、木々の梢は新緑に覆われ、庭には草花、牡丹、芍薬が咲き乱れています。花に戯れる胡蝶が飛び廻れば、これを狙って、引き綱を引き摺り飛び出すのは例の虎でした。その戯れ遊ぶ姿は、何とも例え様も無く面白く、幼い三郎には、黙って見ていることなど出来ません。
「あら、面白の風情や。」
と喜んで、広縁に走り出るのでした。驚いた御台様は、
「これ、だめですよ。山の上では、梶原が遠目をして見張っていると聞きます。早く中へ入りなさい。」
と、たしなめました。御台所は三郎を抱えて、奥の部屋へと籠もりましたが、時、既に遅し。目速い梶原は、この様子を見つけて、にやりと笑いました。
「こんな所に隠れておったか。」
と、つぶやいて、早速に尼寺へ駆けつけると、大音をあげました。
「範頼の北の方、公達が隠れておるだろう。関東へお供致す。早く出せ。」
驚いた尼公でしたが、
「これは、何事ですか。ここは尼公の住み処です。そのような人々は居りませぬ。お門違いではありませんか。」
と、とぼけましたが、梶原は聞いて、
「何だと、いくら隠し立てをしても、居ることは分かっておる。出さぬと言うのなら、踏み込むまでのことだ。」
と、情けも無い言い様です。物越しに聞いていた御台様は、
「ああ、もう見つかってしまったのか、露の身は、置き所も無く、悲しい事だ。」
と、忍び泣くのでした。尼公は、これを聞くともう観念して、
「こうなっては、隠しようも有りません。どうでしょうか梶原様。御台様は、この寺へお出でになって、出家をなされたいとお申しなされるので、滞留していただいております。血走る獣、空を駆ける鳥類までも情けの道は知ると言います。命を助けて、出家をする時間をお与え下さい。」
と、泣きながら訴えるのでした。梶原はこれを聞いて、
「鎌倉殿へお供をしてから、良き様にお取りなしをして、其の後又、ここへお連れいたしましょう。」
と、うまいことを言って、御台所と三郎を捕まえるのでした。やがてその日も暮れ方になると、梶原は、家来にこう命じました。
「沈めに掛けよ。」
家来達は、漁船を取り寄せて、御台所と三郎は乗せると、沖へと漕ぎ出します。ところが不思議な事に、突然嵐となり、突風が吹き荒れ、舟を上へ下へと揺らします。これには、家来共も堪らず、
「咎も無い人を、沈めようとするから、こんなことになるんだ。南無三宝。龍神様。この人々を助けるので、磯へと舟を寄せて下さい。」
と、喚いて祈るのでした。やがて、水際に近付くと、家来達は、舟より飛んで降り、命からがら逃げて行きました。それから、人々を乗せた舟は、行方も知らずに海を漂っていくのでした。哀れとも中々、申すばかりはありません。

つづく

府中市立新町小学校 道徳授業地区公開講座で葛の葉

2015年09月19日 16時02分16秒 | 公演記録
 東京都の小学校で行われる道徳授業地区公開講座は、道徳の授業を公開すると同時に、父母や地域の方々と、身近な道徳について考えを深めたり共有する為の機会を提供してくれます。私は、現職時代は勿論、企画する側でしたが、此の度は、教員時代の仲間からお声掛けを戴き、有り難くも講師としてお招きに預かりました。演目は、説経祭文「蘆谷道満大内鑑葛の葉子別れの段」ですが、道徳的には、「互いの違いを尊重し合うことで、自分の世界を豊かに広げよう。」ということで、同じく講師の姜信子氏に、若干の解説をしてもらい、約30分の弾き語りを聴いて戴きました。章句等の映写をしましたが、1年生から6年生まで、皆さんよく頑張って聞きました。大変偉かったです。

中村八月撮影

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし②

2015年09月18日 18時35分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

蒲の御曹司 ②

梶原景時は、まんまと蒲殿を大島に流してから、頼朝公の御前に上がり、事の次第を報告しました。聞いた頼朝は、
「蒲の妻子は如何いたした。生かしておいてはならん。」
と言うのでした。梶原は、早速に三百余騎を引き具して三河へと向かいました。蒲殿の居城を二重三重に取り囲むと、鬨の声を上げました。城内は、予期せぬ事に大混乱です。そこに当麻の太郎が憶せず、名乗って出ました。
「現在、我が君蒲殿は、頼朝公の名代として、都へ上がられた。いったいこの狼藉は、なんのつもりか。名を名乗れ。」
その時、梶原が言う様は、
「蒲殿は、義経と内通し、御謀反の心があることは、関東中の知るところだ。頼朝公の命令により、蒲殿は、最早既に、流人となられた。さあさあ、早く御台殿と公達を渡されよ。鎌倉まで連行するのが、この梶原の仕事じゃわい。」
しかし、そんな事に騙される当麻ではありません。
「何。さては、お前が讒言をして、蒲殿を討ったのだなあ。くそ、なんと口惜しい事か。ええ、そこで、暫く待っておれ、我等が手並みを見せてやるわい。」
と言うと、城内に駆け戻り、御台様と公達に事の次第を伝えるのでした。人々は、余りの事にわっとばかりに泣くばかりですが、当麻は、
「さあ、こうなっては、泣いても仕方ありません。皆様は、ここを落ち延びて、必ず未来でお家をご再興して下さい。」
と励まして、二人の兄に当麻の太郎が、御台様と三郎殿につげの刑部が、お供をして、裏門より、逃がすのでした。人々を落とした後、二人の武者は立ち帰って、大勢の中へと切り込んで行きました。戦は花を散らし、当麻の太郎重義の手に掛かって八十余騎。つげの刑部の手に掛かったのが、五十騎余り、やがて、二人は、城内に戻って、しばしの休息を取りました。当麻の太郎が、
「さあ、そろそろ、腹を切るか。」
と、言えば、つげの刑部は、
「いやいや、もうひと合戦。」
と言うのでした。「ようし。」と言うと、二人は再び切って出て、向かって来る者は、取って伏せ、生き首を引っこ抜いては、人礫(つぶて)に投げ散らすのでした。目を驚かせるばかりの活躍です。二人は、残党を四方に追い散らすと、今はもう、本望遂げたとばかりに、城内に戻りました。やがて、城郭に火を掛けると、二人は差し違えて、死んだのでした。この二人の活躍は、彼の樊噲もこうであっただろうと、褒めない者はありません。


つづく



忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし①

2015年09月17日 18時49分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

慶安3年(1651年)の山本久兵衛板。太夫は、江戸伊勢嶋宮内である。
「宮内」は、寛永期の代表的太夫のひとりであると言われている。『閑際随筆』に,「間の山両町芝居之事 寛永十二年浄瑠璃芝居 太夫本/勧進本 伊勢嶋宮内」とあり,寛永十二年には伊勢間の山で勧進本をしていたことが知られる。又、吉田城主水野忠清に仕えた大野治右衛門定寛の日記「定寛日記」の寛永十八年に,「伊勢より参宮内太夫,上留リかたる」という記載があり、伊勢出身者であることが分かる。この宮内はその後、江戸に行き,そこから京都に上ったらしい。『東海道名所記』に「ちかきころに,江戸より,宮内といふもの上りて,左内とせり合,いろいろ,めずらしき操をいたしける。」とある。また『隔冥記』には寛永二十一年正月に、四条河原で宮内が興行している記録もあり,宮内の上洛によって、同時期の山城左内と共に、京都の浄瑠璃界を大いに盛り上げたということである。
蒲の御曹司とは、源頼朝の異母弟である源範頼である。頼朝から、義経と同様に、謀反の疑いを掛けられ誅殺された。

蒲の御曹司 ①

 後鳥羽の院の御代の事です。三河の国に、蒲の御曹司範頼(遠江国蒲御厨:静岡県浜松市)という武士がおりました。武勇の誉れが高く、並ぶ者もありません。子供は三人おりました。嫡男は、吉見の冠者為頼(ためより)、二男は、頼氏(よりうじ)、三男は義清(よしきよ)といい、大変優れた子供達でしたので、範頼や御台様のお喜びは、何にも例え様もありません。(※史実では、子は二人、範圓と源昭。為頼は範頼の孫。頼氏・義清は不明である)信頼は、郎等の当麻の太郎重義、つげの刑部恒世(不明)に守られて、心頼もしく暮らしていたのでした。
 さて一方、鎌倉では、逆櫓論争で恥をかいた梶原平蔵景時(かじわらへいぞうかげとき)が、義経への遺恨を晴らす為に、頼朝に讒奏をしたのでした。頼朝は、和田や秩父を近づけると、
「各々方、今度の義経の謀反は、疑う所が無い。急ぎ上洛して追討せよ。」
と命じましたが、秩父、和田は、
「これは又、勿体ないお言葉ではありますが、ご兄弟同士の事でありますから、私どもでは引き受けかねます。」
と、断るのでした。頼朝は、これを聞くと、
「では、範頼を上洛させよう。」
と、すぐに使いを立てました。知らせを聞いた範頼は、早速に鎌倉に上がりました。頼朝は、範頼に、
「如何に範頼。都を任せた義経であるが、院に取り入って、我が儘顔に振る舞い、それどころがこの頃は、我に敵対し、天下の主になろうとする動きがある。御前は、急ぎ上洛して、義経を追討せよ。」
と命じました。蒲殿はこれを聞くとお引き受けになり、鎌倉勢八万余騎を率いて、上洛することになったのでした。これを見ていた梶原は、
「蒲殿が、都へ行くとなると、俺が讒奏した事がばれてしまい、この首が危ないぞ。」
と思って、更に讒奏を重ねるのでした。梶原は、頼朝公の御前に出ると、小声になって、
「お殿様は、ご存知ありませんか。此の度の義経の御謀反ですが、蒲殿も内通しておりますぞ。今、上洛させれば、日本が動くことはあっても、追討はあり得ないでしょう。この儘では大事に至りますぞ。」
と、有りそうな嘘を囁くのでした。聞いた頼朝は、
「なに、そういう事であるなら、お前に任せるから、良きに計らえ。」
と、言うのでした。梶原は、急いで御前を立つと、多くの郎等を引き連れて、蒲殿を追いかけました。駆け通しに駆けたので、やがて、駿河の国の辺りで追い付きました。早速に蒲殿に対面すると、梶原は、又、出鱈目な事を並べるのでした。
「我が君様、お聞き下さい。頼朝公からのご命令です。此の度の討っ手には、和田、秩父を向かわせる事になりました。和田秩父では手に負えない時には、蒲殿を上洛させるという事ですので、一先ずは、鎌倉へお戻り下さい。大勢の軍兵は、和田秩父が引き継ぎますので、そのまま、ここに待たせて下さい。帰路は私がお供致します。」
と梶原が、頭を地に付け言上するので、範頼は、
「兎にも角にも、頼朝公のお心次第。」
と、大軍を残して、鎌倉へと駒を返しました。ところが、軍勢から遥かに遠ざかった所で、梶原は、突然、
「蒲殿、頼朝殿のご命令により、伊豆の国大島に、御流し申す。」
と言って、蒲殿を取り押さえてしまったのでした。無念にも無実の範頼は、梶原の計略に嵌められ、大島に島流しとされてしまったのです。大島では、牢守りの二郎太夫が、親身にお仕えしましたが、範頼の心中の無念さは、言い様もありません。

つづく

平成27年 秋巡業の旅 <Project カタリ: 信夫組> & 猿八座 

2015年09月14日 15時06分19秒 | 公演記録
 学生時代に山登りに行って以来、何十年ぶりという九州の公演旅行と、第3回目の「てぃーだかんかん小劇場」が連続して、秋の巡業となりました。行く先々で、皆々様の御声援に支えられ、無事に勤め終えることができてほっとしております。それぞれの会場で、お世話になりました皆々様に、深く感謝申し上げます。

Projectカタリ:信夫組

巡業その1:姜信子作「はじまりはじまりはじまり」出版記念イベント



熊本市の橙書店にて:旅する神「まゆんがなし」が降りる為に、植物模様の服を衣装としました。写真左は、コーディネイター役の熊本大学准教授跡上先生。

巡業その2:熊本学園大学での集中講義に、「語り物」の実演者として、お邪魔しました。

その様子はフェースブックをご覧下さい。

巡業その3:医療法人千歳会 デイサービス みんなの時間 (久留米市)でのイベント

古民家を活用したデイサービスの一間をお借りしました。久しぶりのパワーポイント映写を交えて、「説経祭文信徳丸一代記」と「文弥浄瑠璃耳なし芳一」を聞いていただきました。耳の肥えた方々ばかりで驚きました。



「耳なし芳一」の演奏中、耳を引き千切る場面で、私の脇のライトが、突然消えて会場は真っ暗になりました・・・・皆さんは、てっきり照明効果と思われたらしいですが、こちらには、そんな事する余裕はありません。オーナーさんに話しましたら、「そうでしたか、出るんですよね・・・」ということでした。亡霊を引き寄せましたかね・・・・

猿八座豊田市公演

巡業その4:第3回 てぃーだかんかん小劇場

「古説経角田川」と新作「耳なし芳一」



角田川の一場面:梅若の亡霊が現れる。

巡業その5: 豊田市岩倉の顕正寺にて



耳なし芳一の一場面:住持が法事から戻ると、辺りは一面の血の海だった。


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