猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(6)終

2014年03月24日 20時18分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

むらまつ(6)終 

 中納言は、蔵人に、

「急いで、武井の所へ行き、二位の中納言が下向して来ると伝え、馬と輿を用意する様に言え。又、御前の着物を用意するようにと言い添えよ。」

と命じました。早速に蔵人は武井の館に飛んで行きました。武井は、大変驚いて、

「ははあ。中納言様の御下向は、何より目出度いこと。」

と平伏すると、馬、輿、着物を用意して、迎えに向かわせました。今や遅しと、待っていますと、御装束も華やかに中納言は、馬に乗り、御前親子は、御輿にのって、武井の館に到着しました。迎えに出た、武井夫婦は、

「これまでの御下向。お目出度う御座います。」

と畏まるばかりです。女房が、御輿の前に進み、水引を上げますと、御輿から出てきたのは、なんと、あの上﨟です。その後に付いて出てきたのは、草刈り姿のままの一若でした。女房は、呆れ果てて頭を、地に付け、赤面する外はありませんでした。武井もこれを見ると驚いて、物も言わずに平身低頭するばかりです。中納言はこの様子をご覧になり

「さて、武井殿。嬉しいことに、よくぞこの親子を買い取り置いてくれたな。お前が、買い取ってくれたお陰で、再びこのように、巡り逢うことができたぞ。情け容赦も無くこき使った事は、憎いことだが、まあしかし、そのことは目をつぶろう。」

と、機嫌良く言うのでした。夫婦の者は、ほっと息をつき、

「有り難いお言葉。有り難う御座います。事の経緯は、すべて姫御前がご存知です。」

と言うと、その時、姫御前は、武井夫婦をかばって、次の様に話しました。

「お殿様。夫婦の方々は、私が主人であるかのよう、情けを掛けて尽くしてくれました。どちらも、悪くはありません。このような事になったのは、小笹という下女が、御台様に讒言をしたからです。」

中納言は、これを聞くと、

「それでは、小笹を連れて来い。」

と、命じました。小笹は高手後手に縛められて、中納言の前に引き据えられました。中納言は小笹を見ると、

「舌三寸を使って、五尺の身体を害したな。今こそ、思い知らせてやろう。女の舌を抜け。」

と命じました。小笹は、罫引きの端で舌を抜かれ、口を引き裂かれ、指を切り落とされて、嬲り殺しにされました。それから、能登の太夫が呼び出されました。中納言は、

「幼き者や御前を、よくも情けも無く叩いたな。太夫の二十の指を切り落として、追放せよ。」

と命じました。指を切り落とされた能登の太夫の姿を見て、笑わぬ人はありませんでした。

 姫御前や一若殿は、昨日までの田草取りとは一変して、華やかな風情です。この三年の間、世話になったり、仲良くなった人々を呼んで、お礼の金銀をお渡しなりました。やがて、都より共の軍勢五百余騎が到着すると、人々は辛い思いをした武井館を離れて、都へと旅立ったのです。日数も積もって、大津の浦につくと、母子を売り飛ばした長太夫婦を捕まえて、首を討ち落として、晒し首としました。

 さて、都へ着くと、父の大納言も母上様も大喜びです。中納言は、直ちに参内しました。御門もお喜びになり、除目(じもく)の儀式を行いました。中納言は大納言となり、一若殿は、少将に任命されたのです。更に、大納言は、滅ぼされた村松の敵討ちを奏聞しました。これに対して、御門は、尤もであると、重ねて、武蔵の守を賜わりました。

 大納言は、有り難やと、一千余騎の軍勢を揃えて武蔵国に向かいました。武蔵国でさらに軍勢を増やすこと三千余騎。曾我館を四方より取り囲みました。曾我は、これを見るより降参し、腹十文字に掻き切って自害しました。村松殿の供養の為と、その首を刎ねて晒し首とするのでした。それから、主人を裏切った馬屋の忠太を捕まえると、腰より下を地面に埋め、鋸で首を挽かせ、人々の見せしめとしました。一方、母子が落ちるのを助けた金八には、一万町歩の土地を褒美として与えたのでした。有り難い事です。その後、大納言殿は、村松館のその跡に、お城を建てました。小高い所に、塔を建て、川に橋を架け、沢山の僧を集めて武井夫婦の供養を行ったということです。実に頼もしい事だと、感心しない人はありませんでした。ご一家は、ますます御繁栄なされて、富貴の家になったということです。

おわり

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(5)

2014年03月24日 18時00分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

むらまつ(5)

  都に戻ることができた中納言は、母御前に、相模の国の村松はどうしているかと聞きました。御台様は、

「そのことですが、その後、曾我という者が、姫を迎え取ろうと言い出して、村松と対立して、戦となりました。村松は無勢でしたから敗北し、夫婦の方々は自害されました。姫と若とは助かって、忠太と申する者を頼りましたが、この者に裏切られて、どこかへ落ち延びたということですが、行方は知れないそうです。」

と、話すのでした。中納言はこれを聞いて、

「なんと、哀れなことであろうか。島で、何度も自害しようと思いましたが、ひょっとしたら又、逢えるかも知れないと、思い直して、毎日を過ごして来ました。若の行方が知れないのであれば、もう世を厭うて、出家いたしましょう。」

と、肩を落しました。ところが、乳母の蔵人は、これを聞いて、

「なんと愚かなことを、考えてもご覧下さい。日本は小国です。西に東に、北に南に捜し廻っても、たいした広さではありません。どうして、必ず逢えるとお思いになって、お捜しにならないのですか。御契は深いのですから、必ずお逢いすることができるはずです。」

と、大変頼もしげに、励ますのでした。これを聞いて中納言も力を得て、

「それでは、母と子を捜しに出掛けるとしよう。」

と、思い切り、旅の用意をなされました。商人の風情に姿を変え、褐(かちん)の直垂に折烏帽子を被り、千駄櫃を拵えると、下人を二人と、蔵人と、主従四人で都を出発しました。人々は、先ず本国の陸奥の国へ向かうことにしたのでした。

《道行き:□は欠落文字・・・補綴渡部》

恋しき人には粟田口(京都府東山区)

君は留めぬか関山と(逢坂の関)

尋ぬる人に逢坂の

関の清水に掛けさせど、□とより(帝都カ)

今ぞ、大津の浦(滋賀県大津市)

にほの海中(琵琶湖)、舟寄せて

乗りも倣わぬ、旅の空

焦がれて、物をぞ思いける

我を哀れみましませと

□よし(日吉)の山を伏し拝み(比叡山)

堅田の浦に引き網の(滋賀県大津市)

目毎に脆き涙□□(かな)

海津の浦に舟寄せて(滋賀県高島市)

尚、行く末は、愛発山(あらちやま:滋賀県福井県県境)

越前の敦賀□(へ)越え

加賀や能登をも越え過ぎて

越中、越後を指し過ぎて

国々、郡、郷々に

見残す方もあらばこそ

恋しき人に奥州や

ちかの潮屋の夕煙(不明)

崖に忍ぶ(信夫)の里ぞ憂き(福島県福島市)

今、来て見るや衣川(岩手県奥州市衣川区)

名所旧跡、尋ぬれど

恋しき人はなかりけり

けつしよ(不明)本吉(宮城県気仙沼市本吉町)尋ねんと

郡(こおり)に入りて見給えば

涼しき松の木陰あり

しばらく、休みおわします。

 中納言は、松の木陰に腰を下ろすと、弁当を開けました。頃は五月の末頃のことでした。気の毒なことに姫御前は、武井殿にこき使われ、毎日、田草を取って暮らしております。一若は今年、九つになりました。一若も草刈り鎌を持たされて、遊んでいる間もありません。その日も一若殿は、畦に出て、草刈りをしていましたが、暑さにくたびれて、畦を枕に寝てしまいました。姫御前が、気が付くと、能登の太夫が見回りに来ます。姫御前は、慌てて一若を起こしました。

「これ、太夫が来ますよ。」

と、引き起こすと、一若は、目を醒ますなり、母上に縋り付いて泣き出しました。姫御前がどうしたのだと尋ねると、一若は、

「今、不思議な夢を見ていたのです。七十ぐらいの老僧が出てきて、『父に会いたいのならこっちへ来い。会わせてやろう。』と言うので、御僧の袖につかまって、橋を渡りますと、御僧が、『この橋こそ、夢の浮き橋。私を誰と思うか。お前の父の氏神じゃ。今、父に会わせてやるぞ。さあさあ、急げ。』と言うのです。それなのに、そこで、母様に起こされてしまったのです。」

と、泣きじゃくるのでした。これを聞いた母上も、一若に取り付いて、涙を流すのでした。これを見ていた能登の太夫は、突いていた杖で、姫御前を打ち据え始めました。一若殿は、いじらしくも、

「母上には科はありません。私を叩いて下さい。

と、杖に縋り付いて、訴えるのでした。能登の太夫は、今度は、一若を打ち伏せて、あっちこっちへと引きずり回します。今度は、母が取り憑いて、

「幼き者に科はありません。私を叩いてください。」

と泣くのでした。

 中納言は、半町ほど(約50m)離れた所で、この様子を見ていました。この母子が、尋ねる姫御前と一若であるとは、夢にも知りませんでしたが、やはり切れぬ縁があったのでしょう。蔵人を呼ぶと、

「あそこで、幼き者を叩いているのは、親なのか、祖父なのか分からぬが、情けも無い様子。あの子供を連れて来て、弁当を食べさせて、慰めてあげなさい。」

と命じました。蔵人は、すぐに子供を迎えに行き、中納言の前に連れてきました。中納言は、

「さあ、弁当を食べなさい。」

と言って、弁当箱を手渡しました。一若は、弁当を受け取りましたが、彼方を見詰めて泣くばかりです。中納言が、

「何を、悲しんでいるのか。」

と聞くと、一若は、

「お手ずから、弁当をいただいておきながら、このような事を言うのは、憚られますが、あそこで、田草を取っているのは、私の母上です。今朝のご飯も、昼のご飯も食べていないので、とてもお腹がすいているだろうと思うと、涙しか出ません。」

と答えるのでした。中納言は、この言葉に感心して、

『幼い者でありながら、親を哀れむ優しい心。捜している一若も。生きているなら、これぐらいの姿形であろうなあ。』

と思い、涙ぐんで、こう尋ねました。

「お前の、親の名は、なんと申す。」

一若殿は、これを聞くと、尚一層に辛い様子になり、

「父上様が居るのなら、どうしてこんな所で、辛い目に遭うことでしょうか。」

と泣きました。中納言は、重ねて、

「元々は、どこの国の者なのか。」

と尋ねると、一若は、

「都の者です。」

と答えました。中納言が、

「私も都から来たのだ。都にいる父に伝言をしなさい。伝えてあげよう。」

と、言いますと、一若は、

「それでは、憚りながらお願いいたします。私の父は、五条壬生の中納言と申します。相模の国へ御下向されて、若を一人設けました。その若と母は、この国まで売られ来て、武井殿の館に居るということを、知らせて下さい。都のお人。」

と、語るのでした。これを聞いた中納言は飛び上がり、一若に走り寄って、

「さては、お前は一若であるな。中納言とは私のことだぞ。」

と抱き上げるのでした。一若殿もひっしと抱きつき、互いに、はっと涙に暮れました。やがて、中納言が、

「母上は、どこにおる。」

と言えば一若は、向こうの田んぼに居る母上の方を指さしました。一若と中納言は、田んぼの中に走り降りて、姫御前に取り付きました。

「おお、ようやく見つけたぞ。姫御前。」

姫御前は、余りの嬉しさに、これは夢かと取り付いて、只泣くばかりで、言葉も出ません。なにはともあれ、手に手を取り合って田から上がると、先ずは松原でひと息つくのでした。この人々の喜びの激しさを、何かに例え様もありません。

つづく

 


忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(4)

2014年03月23日 17時35分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(4)

   武井殿は、慈悲第一のお人として、名が知れておりましたので、姫御前を座敷に上げると、様々と旅の疲れを労りました。武井殿が北の方に、

 「今日来た美人のお客をもてなして、どんな人なのかを見て参れ。」

 と、言うと、女房は、一揃いの瓶子に肴を添えて、姫御前の部屋を訪れました。姫御前の様子は、旅に疲れ果てて、やつれてはおりますが、ふつうの人とは違う雰囲気がありました。髪の形や着物の着こなしなどは、どう見ても、その辺の女ではありません。又、一若殿のお姿も、例え様も無い程、高貴な感じがします。北の方はこれを見て、

 「まあ、なんと労しいお姿でしょうか。いったい何処の方なのですか。」

 と、聞きますが、姫は、出自を聞かれることさえ、辛そうです。涙に咽びながら、しばらくは返事もできないで居ましたが、やがて、泣きながらこう話しました。

 「私は、相模の国の者ですが、以前に国司様が下向された時、馬屋の下人と夫婦になり、この子を授かりました。それから、夫が都へ帰ってしまったので、後を追いましたが、大津の浦で拐かされ、この国まで、売られてきたのです。」

 これを聞いた北の方は、

 「それはなんとも哀れな事でした。普通の人とは異なるお姿の御方ですから、ここでは、良いように面倒を見て差し上げましょう。」

 と言って、武井殿の所に戻ると、こう話すのでした。

 「あの上﨟は、その辺の普通の女ではありませんよ。髪の形も着物の着こなしもさることながら、三十二相のすべてを備えています。これ程の上﨟を、これまで見たことはありません。又、若君の姿も大変可愛らしく、高貴な感じです。」

 武井は、これを聞くと、

 「おお、さては由緒のある御方に違い無い。不自由の無いようにもてなしてあげなさい。」

 と、言い、新しい御殿を建てて、我が子の様に可愛がったのでした。そうして三年の月日が流れましたが、姫御前は、こんなことを思うようになったのでした。

 『なんと浅ましいことでしょう。もう父母の第三年忌が近付いて来ました。何か大善根を行って、供養をしなければ、生きている甲斐がありません。』

 そして、姫御前は、二人の親の回向に、法華経の写経を始めたのでした。この様子を見ていた武井は、

 「女の身でありながら、法華経をこのように美しく写経するとは、聞いたことも見たことも無い。よっぽど情けの深いお人なのだな。」

 と、思う内に、恋の病に落ちてしまったのでした。驚いた北の方は、そんなこととは知らないで、数々の薬を尽くして看病しましたが、当然のことながら、良くなりません。気が気でない北の方は、武井の病を治す為に、築山の宮(不明:宮城県石巻市築山カ)に参籠して治癒祈願をするのでした。

 さて、北の方が居なくなると、武井殿は手紙を細々と書き記して、小笹という下女を呼ぶと、姫御前へ届けさせました。この文を読んだ姫御前は、大変悲しんで、

 「この三年の間、武井夫婦のお情けに頼って、悲しいことも忘れて過ごして来られたのに、またまた、辛く苦しい事になってしまいました。」

 と溜息をつき、次の様な返書をしたためました。

 『相模の国の下人と結ばれて、この子を授かりましたが、夫が居なくなると、国司様が、私を手に入れようとなされました。それが嫌で、私は国を出たのです。夫を捜して都へ上がる途中、大津の浦で拐かされ、売られ売られて、ここまで来ましたが、北の方のご恩は決して忘れることはできません。いくらお殿様のご命令でも、こればかりは、どうぞお許し下さい。もし、それが憎いとお思いになるならば、どうぞ、何処へなりとも、お売り下さい。武井殿。』

 武井は、この返事を読むと、

 「おお、それはほんとに道理じゃ。これ以上、悲しませては、あまりにも可哀想じゃ。」

 と、深く感じて、恋心も失せて、病も回復したのでした。そこへ、北の方がお帰りになりました。武井殿の加減も良くなっているので、北の方は、祈願の霊験が顕れたと喜んだのでした。しかし、そこへ下女の小笹がやってきてこう告げ口をしたのでした。

 「御台様。お殿様は、この程、客人の所へ通っていました。」

 これを、聞いた北の方は、がらりと態度を変えました。

 「なんですと。それは、不審なこと。この三年の間、本当の子供でも無いのに、情けを掛けて世話をしてきたのに、その恩も忘れて、後ろ目の暗いことをするとは。ええ、これからはこき使ってやる。」

 と叫ぶと、能登の太夫を呼び、

 「あの姫の髪を切り落とせ。」

 と命じるのでした。太夫は容赦もなく、背丈程もある姫御前の髪を、肩の辺りでばっさりと切り落とすと、麻の衣に着替えさせ、庭の外へと、追い落とすのでした。そして、

 「三十二匹の馬どもの水を汲んで来い。」

 と命ずるのでした。可哀想に一若は、母上から離れまいと、必死に袖や袂にしがみついています。母子は、馬屋で暮らすことになりました。4月になると、田の仕事が始まります。田植え、草取り、水替え、一若は、草刈りと、毎日毎日こき使われるのでした。

  さて一方、都では其の頃、三条の大臣の姫君がご懐妊成されましたが、十三月を数えても臨月とならず、母体も弱り果てて、食事も喉を通らない有様です。御門は、大変これをお嘆きになり、貴僧高僧を集めて、祈祷を行いましたが、なんの験(しるし)も顕れません。そこで陰陽の博士に占わせました。博士は、

 「むむ、これは、人の生き霊と、山王権現のお咎めが原因に違いありません。」

 と占いました。これを聞いた大臣達は驚いて、急いで日吉大社へ参拝したのでした。すると、比叡の山から、夥しい猿が降りて来て、烏帽子やら浄衣やらを引き破るのでした。(※猿は山王権現の使い)人々が、

 「山王権現のお咎めだ。」

 と、驚いていると、童巫女が狂い出でて、神託を告げました。

 『千早振る 神(髪)も恨みの 深ければ 落つる涙を 思い知らせん』

 「どうして、中納言と大納言を流罪にしたのか。呼び戻さないならば、今回のことで、神を恨むなよ。」

 そう告げると、神の使いは天に戻って行ったのでした。人々は急いで都に戻り、事の次第を奏聞しました。御門は大変驚いて、

 「それならば、大納言、中納言を急いで、帰洛させよ。」

 と、御免の使いを早速に送りました。やがて、沖の嶋に舟が着きました。大納言と中納言は罪を許され、都へ戻ることができたのでした。人々の喜びは、限りもありません。 

 つづく

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忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(3)

2014年03月22日 21時54分35秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(3)

  その日の夜更け、人々の物音も静まりました。姫御前は、山田の教えに従って、馬屋の忠太の所へ落ち延びて、その戸をとんとんと叩きました。内より、

 「誰ぞ。」

 とあれば、姫君は、

 「村松の姫です。どうかお助け下さい。」

 と、頼みました。ところが、忠太は、戸を開けもせず、

 「何、忌まわしい姫御前か。大納言や中納言が流されたのも、お前のせいじゃ。二人の親が死んだのもお前のせいじゃぞ。ここに入れる訳にはいかん。どこにでも落ちて行け。」

 と、情け容赦も無く、追い払うのでした。

  可哀想に姫御前は、都は西の方と思い定めると、一若を抱いてとぼとぼと、山の中へと分け入りました。それと見ると、忠太は情け無くも、曾我の陣営に走り行き、

 「村松の娘が、私を頼みに落ち延びてきましたが、追い払いました。まだ、大山(おおやま:神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市)の辺りをうろうろしていると思いますので、姫が欲しいのなら、追っ手をお掛けなさい。」

 と、密告するのでした。曾我は、これを聞いて、早速に追っ手を差し向けました。すぐに、追っ手は姫を追い詰めました。追っ手の声を聞いた姫御前は、驚いて逃げ回りますが、三昧原(さんまいばら:墓場)に紛れ込んでしまいました。そこには、新しい棺桶がひとつあるのが見えました。急いで、棺桶を開けてみると、死人が一人入っています。外に隠れるところもありません。姫君は一若を抱いて棺桶に隠れました。息を潜めて、耳を澄ませておりますと、追っ手の者共がばらばらとやってきました。

 「きっと、この墓場辺りに隠れているに違い無い。」

 「この棺桶が怪しいぞ。」

 追っ手の者が、棺桶の蓋を開けようと近付くと、一若が目を醒ましてむずかり、泣き出しました。

 「やはりここだ。」

 と、棺桶の回りに、皆が集まりました。その中に以前は村松の家来だった金八と言う者は、

 『ここで、姫君が見つかっては、可哀想だ。なんとか落としてやりたい。』と思い、とっさにこう言いました。

 「いやいや、お待ちなさい。皆さん良く聞いて下さいよ。只今の一声の泣き声は、姑獲鳥(うぶめ)が泣いた声ではありませんか。気をつけた方がいいですよ。姑獲鳥が人に取り憑けば、三日の内には、命がありません。その上、死人に触るならば、七日の汚れとなります。この正月の初めから、人に忌まれてはしょうがありませんよ。さあさあ、皆さん。離れて下さい。危ない。危ない。」

 これを聞いた人々は、怖ろしくなって、我も我もと、逃げ去って行ったのでした。やがて辺りは又、静かになりました。

 難を逃れた姫御前は、棺桶から出ると、再び都を指して歩き始めました。七日目に、清見関(きよみがせき:静岡県静岡市清水区)まで辿り着きました。姫御前は、

 「ああ、父母が亡くなってから、今日でもう七日。なんと哀れなことでしょう。」

 と言うと、近くの寺を訪ねて、小袖の褄に

 『玉手箱 蓋、身は失せて 哀れにも 甲斐無く残る 掛け子ばかりぞ』

 と書き記すと、御僧に献上し、供養を願いました。やがて、初七日の法要を済ませると、姫御前は、泣く泣く寺を出立し、それから三十日めには、大津の浦(滋賀県大津市)で有名な長太の宿に着いたのでした。宿の女房が、

 「何処においでだね。」

 と尋ねれば、姫君は、

 「私は、相模の者。以前、国司として下向された御方がこの子の父です。その父に会うために、都に上がるのです。」

 と、正直にも答えるのでした。長太は、これを聞くとにやりとし、

 「関山三里と言いまして、逢坂は、大変な難所ですぜ。どうです、舟で送ってあげましょうか。」

 と、騙しました。道を知らない姫君は、喜んで舟を頼みました。なんと労しいことでしょう。さて、明けて七つの鐘(午前4時)が鳴る時分のことでした。姫御前達は、浜地に降りて、恋しき都とは、別の方向へと、湖に漕ぎ出して行ったのでした。長太は、海津の浦へと漕ぎ付けると(滋賀県高島市)、今度は馬に乗せて、敦賀まで連れて行きました。(福井県敦賀市)長太は、敦賀の人買い源三の宿に姫御前を降ろすと、値踏みを始めました。源三は、

 「むう、見目形はよろしいが、ガキが余計だな。そんなに高くは売れまい。」

 と言います。長太はこれを聞くと、

 「そんなら、舟に乗せる時に、海へ捨ててしまえ。」

 と、情けのかけらもありません。これを、聞き付けた姫御前は、間の障子をからりと開けて、

 「ええ、なんと情け無い。都へ送ると偽って、人売りに売り渡すのですか、恨めしい。売るなら二人一緒に、何処へでも売って下さい。しかし、若を殺すなら、私も生きてはいません。」

 と、涙ながらに訴えるのでした。二人は、それは道理だと納得し、絹十疋で手を打ちました。それから、長太は大津に帰りましたが、姫御前は、三国(福井県坂井市)に連れて行かれて、更に絹十五疋で売られました。その次は、宮越(石川県金沢市金石町)、あちらこちらと売られ買われて、越中の六渡寺(ろくどうじ:富山県射水市)へと売られました。六渡寺の七郎は、越後の国に連れて行き、直井の次郎に売った時には、絹五十疋になっていました。

  姫御前は、過酷な生活の中で、こう考えて耐えて居ました。

 『一若がせめて、七歳になるまで、我慢して生きて行こう。七歳になったなら、出家をさせ父母の菩提を弔わせ、私はどうなろうとも一若は、父の中納言と、再び巡り逢う日もあるのに違い無い。』

 直井の次郎は、人売りにしては、情け深い人でした。姫御前の様子を見ると、心の中で、こう思いました。

 『むう、この姿は、普通の人とも思えない。又、重ねてその辺の人売りに売るのなら、どこまでも流れて行くことだろう。それでは、あまりに可哀想だ。そうだ、陸奥の国の武井殿は、有徳な方と聞く。美しい女を買い留めて、情けを掛けて遣っているとのことじゃ。よし、武井殿の所に売ることにしよう。』

  直井の次郎は、姫御前に美しい小袖を着せると、馬に乗せ、一若は、男に背負わせて、陸奥の国へと向かいました。武井の館に着くと、直井の次郎は、

 「私は、直井の者ですが、武井殿の家は、大変目出度い家であり、美しい女を買い留めて召し遣われると聞きましたので、女をこれまで連れて参りました。ご覧下さい。」

 と、言いました。武井はこれを聞いて、

 「越後の国から、遙々と、この国まで尋ねてくれたのですか。有り難い事です。」

 と、見れば、たいした美人です。武井は、

 「長旅で、お疲れでしょう。内へ入れて、おもてなしをしなさい。」

 と言うと、武井は、直井の次郎を呼び寄せて、当座の褒美として、野取りの馬を十匹。上々の絹二百疋を与えたので、直井の次郎は、喜んで飛び上がり、そのまま越後へと跳んで帰ったのでした。

 つづく

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忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(2)

2014年03月22日 19時23分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(2)

 さて、相模の国には、曾我の四郎介又という武士が居ました。介又は、妻に先立たれて、荒んだ生活をするようになっていました。一門の人々は心配して、こんな事を言いました。

村松殿の娘は、大変美しいと聞きます。この姫を後添えとされては如何ですか。そうすれば、心も慰められるでしょう。」

 これを聞いた介又は、それは良いと思い、文を書いて、村松に送りました。村松が、この文を開いてみると、姫が欲しいと書いてあります。村松は、大変立腹して、文を引きちぎって捨てました。村松はこの事を姫御前には知らせませんでした。介又からの手紙は七回に及びましたが、村松は、一度も返事をしませんでした。業を煮やした介又は、一門を集めると、

 「村松へ押し掛けて、姫を奪い取ることにする。」

 と、言いました。文の返事も来ないと聞いた一門の人々は、

 「それは、尤もだ。にっくき村松。」

 と言うと、土井、土屋、岡崎、真田、安達を先頭に、その総勢千五百が、十二月の大晦日に、村松館へと押し寄せたのでした。寄せ手の軍勢の中で、一際華やかな鎧を着た介又は、馬に跨がり、門外に駆け寄せると、

 「ここまで来た強者を誰と思うか。曾我の四郎介又であるぞ。姫をいただきたいと、何度もお願いしたが、返事も無し。どうしても、姫を下さらないならば、攻め込んで奪い取る。」

 と、大音上げて呼ばわりました。城内からは、

 「にっくきものの言い様だな。姫が欲しいなら、もっと近くに寄ってみろ。介又の細首を射切ってやるから、あの世で待っておれ。」

 との返答です。寄せ手の軍勢は、何をこしゃくなと、ここを先途と四方より揉み合い、攻め込みますが、櫓より狙い撃ちに射られて、あっという間に十三騎が落とされ、怪我人は夥しい数です。そうして、その日が暮れましたが、城内の負傷者はゼロでした。やがて明ければ正月元旦。介又は、新たな軍勢五百余騎を引き具して、攻め続けましたが、この日も大勢が討たれて、敗退するのでした。しかし、中村、早川、安達など、更に新手の軍勢を投入して、正月五日まで攻め続けたので、流石の村松軍も、六十三騎が討ち死にし、次第に劣勢に傾きました。そこで、村松殿の弟で、心も剛で大力の山田の七郎家季(いえすえ)は、

 「いざいざ、勝負してくれん。」

 と立ち上がりました。その山田の装束は、先ず白綾の肌着をひと重ね着て、緋精好(ひせいごう)の大口袴をはいています。褐(かちん)の直垂に括り(くくり)を結って、梅の腹巻きに黒糸縅の大鎧を二重に重ねて、はらりと着て、五枚兜の緒をしめるのでした。背には四十二に裂いた矢を背負い、塗り籠め籐の弓は五人張りです。四尺五寸の太刀を差して、大薙刀を杖に突くのでした。山田家季は、広縁にずんと立つと、

 「わしが、ひと合戦いたす。橋を渡せ。」

 と、下知しました。城内の軍兵は、えいとばかりに橋を打ち渡しました。しかし、寄せ手の軍勢も、これ幸いと、乱入してきます。山田は、これを見るなり、五人張りの弓で、十四束(約120センチ)の矢を、次から次へと射放って、あっという間に、四十六騎を討ち落としました。しかし、寄せ手の軍勢は、怯みもせずに押し寄せます。これを見た山田は、大薙刀を手にして、いよいよ橋の上に飛んで降りました。山田が大薙刀をぶんまわして、はらり、はらりと切り伏せたので、さすがの寄せ手もたまりません。どっと、退却したのでした。山田も一旦城内に戻り、一息つきました。その時、村松は櫓の上で、四方の様子を覗っていたのですが、一本の矢が、狭間をくぐり、村松殿にはっしと突き刺さったのでした。村松殿は、あっとばかりにもんどり打って倒れました。村松は、山田を近くに呼び、

 「最早、腹を切るぞ。防ぎ矢をいたせ。」

 と、命じました。嘆き悲しむ姫君に向かって、村松が、

 「姫よ。これから、都へ行き、五条の大納言を訪ねよ。大納言の御台様に会って、この事をしかと伝え、父母の菩提を弔ってもらいたい。宜しく頼む。」

 と言うと、母上は、

 「のう、姫君よ。父の仰せに従って、五条壬生に行き、一若をしっかりと育てなさい。そうすれば、きっと恋しき中納言殿とも、いつかは会うことができるでしょう。さあ、名残は惜しいが、親子の別れの時です。一若を今一度、この世の名残に見せておくれ。」

 と、言って一若を抱き寄せました。母上は、一若の後れの髪を掻き撫でて、

 「後世を頼みますよ。一若。」

 と言って泣き崩れました。村松は、山田に、

 「さあ、姫を、乾(北北西)の隅の深い茂みの中に隠してくれ。」

 と頼むと、山田は、姫を小脇に抱えて、小深い茂みの中に隠しに行きました。山田は、

 「姫君、よくお聞き下さい。これから、この城に火を掛けて、全員切腹いたします。そうすれば、敵は、ここまでは来ない事でしょう。夜も更け、人々の物音も静まりましたら、忍び出て、城外の馬屋に住む、忠太をお訪ね下さい。」

 と、丁寧に落ち延び先を教えると、山田は城へと戻りました。姫を無事に隠したことを確認した村松夫婦は、

 「よし、それでは、腹を切る」

 と、西に向かって手を合わせて祈りました。

 「南無や西方、弥陀如来。この世の縁は薄くても、同じ蓮の蓮台にお迎え下さい。南無阿弥陀仏。」

 そして村松は、刀をするりと抜き放って、左の脇にぐっと突き立てました。村松が、右に刀を、ぐぐっと引き回すと、女房は、

 「極楽へ行かれたようですね。村松殿。しばらくお待ち下さい。三途の川を一緒に渡りましょう。」

 と、自分も胸元に刀を突き立てて、明日の露と消えたのでした。山田は、これを見届けると、

 屏風や障子に火を付け、腹を十文字に掻き切りました。その上、念仏を唱えながら、臓物を手で引き出して、ぶちまけましたが、ほんとに剛胆な者というのは、それでも死なないものです。乱入してきた寄せ手の軍勢の中に割ってはいると、武者二人を引っ掴み、両脇に掻い込んで、そのまま炎の中へと飛び込んで行ったのでした。最後の最期まで戦い抜いた山田の姿に、目を驚かさない者はありませんでした。

 つづく

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忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(1)

2014年03月22日 12時09分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古浄瑠璃正本集第1(6)として収録されているのは、「むらまつ」である。寛永十四年(1637年)に、京都の草紙屋太郎左衛門から出版されている。内容的には、既に流布していた説経のモチーフを散りばめているが、全体に言葉遣いや話の展開がぞんざいに感じる。その太夫は不明である。

  ところで、この物語には、おそらく元になったと思われる伝説がある。宮城県気仙沼の羽黒神社(宮城県気仙沼市後九条271)を中心とした伝説を先に見ておこう。

 今からおよそ千百六十年前、嵯峨天皇の弘仁年間、五條民部中納言菅原昭次卿が行くえ知れずとなった妻子(玉姫と一若)を捜し求めて、陸奥の国にやってきた。そこで、神頼みをしたのが、羽黒権現だった。すると二羽の霊鳥が導案内に飛び立ち、今の 陸前高田市米崎町あたりに着くことになる。そこでなれない田植え仕事をしている妻子とめぐり逢えたという話だ。 昭次卿は羽黒権現の神恩に感謝し、当時は 小さな祠であったのをりっぱな社殿とし、 玉姫の守り本尊であった聖観世音像をお祀りして神社を中心に地域の発展に尽くしたのだという。現気仙沼高校付近は昭次卿のやしき趾であったといわれ、卿を祀る祠があるとのことである。また羽黒神社の南西にある 大塚神社は昭次卿の墓所といわれており、この辺一帯を中納言原と呼んだということである。つまり、現在の気仙沼の発祥の伝説が、この中納言伝説である。

 むらまつ(1)

   五条壬生(京都市下京区)の大納言は、中納言殿をお育てになられました。その乳母である蔵人というのは、この私です。

  実は大納言殿は、嵯峨天皇にお仕えになられ、津の国(大阪:兵庫)播磨(兵庫)近江(滋賀)の三カ国を知行されて、何の不自由もありませんでしたが、三十路になられてもまだ、お子様が一人もおいでになりませんでした。そこで、大納言殿は、日吉大社(滋賀県大津市坂本)に参籠されて申し子をなされたのです。深く祈誓なされたので、その霊験が現れて授かった御子が、今の中納言殿なのです。

  さて、この中納言の后として、四条大宮(下京区)の大臣に娘を迎えることになりました。ところが、どういう訳か、中納言は気に入らず、すぐに大宮へ送り返えしてしまったのでした。そして、出家をしたいと言い出しました。ようやく授かった跡取りを出家にする訳には行きません。困った父の大納言は、様々と手を尽くして、なだめますが、中納言はにこりともしません。この事を聞き及んだ御門は哀れんで、

 「人の心を、慰めるのであれば、国司にさせるのが一番良いであろう。東にある相模の国は、心の優しい国であると聞いておる。中納言には相模の国、大納言には、武蔵の国の国司をそれぞれ三年の間、任命するから、向こうでゆっくりして参れ。」

 との宣旨をくだされたのでした。そこで、大納言、中納言親子は、相模と武蔵に下向されたのでした。

  さて、相模の国の住人に、村松という家がありました。その家には、都でも見つからない程大変美しい娘が居りました。やがて娘は、中納言と仲良くなり、子供ができました。この子の名を一若と言います。中納言の御寵愛は、ますます深くなりましたが、三年の任期は既に過ぎ、もう五年もの月日が流れてしまったのでした。都からは、早く上洛せよとの勅使が何度も来ましたが、大納言だけを上洛させて、中納言は尚も相模に留まったので、とうとう御門の逆鱗に触れてしまいました。

  大納言は既に、沖の嶋(福岡県)に流罪となり、今は、中納言を連行するために、都より梶原判官家末と館の判官満弘が、三百余騎を引き連れて、相模の国へ押し寄せていました。

 「御上洛なさらない科により、お迎えにあがりました。」

 これを聞いた中納言は、御台所に向かって、

 「私が、都へ戻らないので、父大納言は、沖の嶋へ流罪となられた。私も同じ島へ流罪となる。もう、おまえと話すことも、一若を可愛がることもできない。手紙を出すことすらできない離れ小島だ。悲しいことだが、なんとも、もう逃れようも無い。」

 と言うと、一若を膝に抱き上げ、

 「父が姿を、よっく見よ。」

 と、涙に暮れるのでした。いじらしいことに一若殿は、何のことかは分かりませんでしたが、

 「父上、のう。」

 と言って、一緒に泣くのでした。御台所は、これを見て、

 「これは、なんと情け無い事になったのでしょうか。都へ帰られることすら、悲しいことなのに、聞いたことも無い離れ小島に流されるとは、その沖の嶋とやらに、私も一緒にお供いたします。虎伏す野辺の果てまでも付いて行きます。」

 と、泣き崩れました。村松夫婦も涙に暮れる外はありません。中納言は、

 「おお、なんと頼もしい言葉であろうか。しかし、流罪とは、単なる旅とは違うのだぞ。家族連れで流罪ということは許されることでは無い。もしも、都へ戻ることがあれば、又必ず巡り逢うことだろう。お前の心が変わらなければ、一若を形見と思って、七歳になるまでは待っていてくれ。さて、村松夫婦よ。一若が育ったならば、出家をさせて、私の弔いをさせて下さい。」

 と頼むのでした。その時、迎えの人々が、縁先まで来て、

 「早く、おいで下さい。」

 と催促するので、中納言は涙と共に立ち上がりました。可哀想に御台所は、多くの武士に連れられた中納言の袂に縋り付いて、泣きじゃくるのでした。やがて、武士達が中納言を馬に乗せますと、名残の一首を詠みました。

 『命あらば またもや君に 逢うべきと 思うからにこそ 惜しき玉の緒』 玉の緒=命)

御台所は、

『慰めに 命あらばの 言の葉を 答えん隙も 無き涙かな』

と返歌したのでした。互いに見つめ合う内にやがて、馬は門外に引き出されました。人々は別れを惜しむ涙に咽ぶのでした。

さて、村松殿は、小田原まで送り別れました。それから一行は駒を速め、十三日目には、大津の浦に到着したのでした。すると、都からの勅使が来ました。勅諚は、

「これより、伏見へ行き、そのまま舟に乗せ、沖の嶋に流罪とせよ。」

と、いうことでした。宣旨に従って、中納言は、伏見から舟に乗せられ、とうとう大納言の居る沖の嶋へと流されたのでした。島の粗末な伏屋で、親子は手を取り合って泣くより外はありません。大納言は、

「もうこうなっては、一度は捨てられた神や仏に、再び祈りを掛ける外はあるまい。」

と言うと、山王権現(日吉大社の神)の神像を作り上げ、毎日、体を清めては、

「都に帰して下さい。」

と、伏し拝み祈るのでした。なんとも哀れな次第です。

つづく

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高田開府400年記念 猿八座 高田世界館公演 ご案内 

2014年03月19日 15時02分09秒 | お知らせ

上越の高田は、今、開府400年で盛り上がっています。「高田開府400年祭実行委員会」の主要なメンバーでいらっしゃる上越教育大の川村知行先生のご推薦をいただき、猿八座も、開府400年のお祝いに参加することになりました。まさにご当地物語である「山椒太夫」を上演して、高田開府400年を盛り上げたいと思います。「高田開府400年実行委員会」のホームページもご覧下さい。

http://www.takada-kaifu400th.jp/2014/03/18/%e3%80%90%e5%be%8c%e6%8f%b4%e4%ba%8b%e6%a5%ad%e3%81%ae%e3%81%94%e7%b4%b9%e4%bb%8b%e3%80%91%e4%ba%ba%e5%bd%a2%e6%b5%84%e7%91%a0%e7%92%83%e3%83%bb%e7%8c%bf%e5%85%ab%e5%ba%a7%e3%80%8c%e5%b1%b1%e6%a4%92/

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若き傀儡師達 八王子車人形研究会

2014年03月16日 17時56分39秒 | 公演記録

 春の暖かな日射しの中、八王子車人形研究会の第1回公演が終了いたしました。地域の皆様名沢山の応援、ありがとうございました。研究生の最年長の子と話していたら、24歳になると言っていましたので、由井中学校三味線部の皆さんと、説経節の稽古を始めてから少なくとも、もう11年は経つ事になります。ちょっとびっくり。この様に活動が長く続いているのも、家元西川古柳氏が、さまざまなプログラムを提供をしておられるからでしょう。若者達からエネルギーをいただきました。

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日高川入相桜:渡し場

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東海道中膝栗毛:卵塔場

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初日の出演者達

人形の操りは、勿論ですが、元三味線部ですから、とにかく三味線が上手。これで、さらに太夫が立派に育てば、言う事無し。これからが楽しみです。


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(6)終

2014年03月14日 15時28分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あぐちの判官(6)終

 御台所は、泣いて暮らしておりましたが、思い余って、春日大社へお参りすることにしました。

「南無や、帰命頂礼。(きみょうちょうらい)どうか、我が子重範に逢わせて下さい。」

と涙ながらに祈るのでした。主従四人は、その日、春日大社にお籠もりなりました。すると春日の大明神は、ありがたいことに、この様子を哀れにお思いになられ、翁の姿となって枕元に立たれたのでした。

「なんと不憫な者たちじゃ。お前が尋ねる重範は、兵部の追っ手に寄り、芦屋の浦で既に死んだぞよ。又、夫の判官も、兵部が調伏したために、命を落としたのだ。さあ、これから後は、もう嘆くのをおやめなさい。弟若をしっかり育てるのです。やがて、本望を遂げさせてあげますから、命を大事にするのですよ。」

と言い捨てて、神は天上へと昇られたのでした。主従四人は、夢から覚めて、かっぱと起き上がり、あら有り難やと礼拝すると、又宿へもどりました。

 しかし、人々は、次第次第に、餓え疲れ、とうとう、路頭に迷出でて、乞食と成り果てました。都の人々は、珍しい乞食が居ると言って、慈悲深く施しをするのでした。そんなある日、四人の人々が、春日大社の辺りで物乞いをしていると、横佩(よこはぎ)の右大臣豊成(藤原豊成:とよなり)が、春日大社に参籠するために、大勢の共を引き連れてやって来るのでした。右大臣は、乞食を見つけると、

「珍しい乞食もあるものだ。どうやら、この者共には、何か訳がありそうだ。おい、尋ねてみよ。」

と、命じました。郎等一人が駆け寄って、

「おい、お前達。お殿様の仰せであるぞ。何処の国の何者か。」

と言うので、御台所は、これこそ、名乗りをする良い機会と心得て、涙混じりに、有りの儘に名乗り上げるのでした。

「私どもは、筑紫、筑前の国、安口の判官重行の妻子です。このような姿となったのは、外でもありません。今から八年前、我が夫の重行殿は、都の警護を務めましたが、国に残った兵部の太夫という者が、国を奪う為に、我が夫を祈り殺し、その上私や、兄弟の若達を殺そうとするので、二手に分かれて国を逃れてきましたが、残念ながら、兄の太郎重範は、追っ手に遭って、芦屋の浦で討ち果てました。私どもは、弟若を連れて、奇跡的に都には辿り着きましたが、御門に奏聞する頼りもありません。もし、不憫とお思いいただくのなら、どうかこの事を、奏聞して下されや。」

右大臣は、これを聞くと、早速に主従四人を連れて参内し、奏聞をしたのでした。御門も叡覧ましまして、

「なんと不憫な事か。そいう事であるならば、その弟若に、本国を安堵するので、急いで討伐の兵を挙げよ。」

との綸言です。その上、三千余騎を付けて御判を下されたのでした。弟重房は、喜んで、早速に、三千余騎を率いて、筑前へと向かったのでした。

 やがて、兵部の館は、重房の軍勢に、二重三重に取り囲まれました。重房軍は、一度にどっと鬨の声を上げます。突然のことに驚いた兵部は、櫓に駆け上がって、

「ええ、狼藉な。いったい何者か。名乗れ。」

と言えば、重房殿は、一軍より、駒で駆け寄せて、大音声に呼ばわりました。

「只今、ここへ進み出でた強者を、誰と思うか。安口の判官重行が子に、次郎重房とは、私のことだ。兵部よ、ようく聞け。おまえの悪事はお見通しだ。天命は既に尽きたぞ。お前の首を刎ねて、父上と兄上の追善供養をするために、これまでやってきたのだ。さあ、尋常に勝負せよ。」

兵部は、これを聞いて、

「なに、それは重房か。やれるものなら、やってみよ。」

と、見下すと、寄せ手の軍から飛んで出たのは、源太夫でした。

「我は、その昔、柏原の竹王丸と申して、判官殿に仕えた者。三世の機縁は朽ちぬ故、この戦の大将を仕る。いざいざ。」

兵部が、掛かれや討てやと下知すると、兵部方の軍勢が、どっと繰り出しましたが、源太夫は事ともせずに、大太刀抜いて切り払います。ここを先途と戦う源太夫には敵なしです。兵部方は手も足も出ません。多勢に無勢、兵部太夫父子三人が諦めて、自害しようとする所を取り押さえて、生け捕りにしたのでした。

 それから、重房は、兵部太夫父子三人を連行して、都へ戻り、成敗の次第を奏聞しました。御門は、

「親の敵(かたき)であるから、処分は重房に任せる。」

とご叡覧なされたので、重房は、源太夫に兵部太夫父子三人の首を刎ねさせました。そして、都に残しておいた母上や乳母を連れて、やがて筑前の国へとお戻りなされました。

 そうして重房は、昔の館の跡に、新しい館を建てて親子二代の栄華に栄えたのでした。源太夫には、此の度の恩賞として、総政所をお与えになりました。そして、昔の家来達も皆戻って、再び仕えたのでした。目出度し目出度しと、貴賤上下を問わず、感心しない人はありませんでした。

おわり

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(5)

2014年03月14日 11時33分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(5)

 さて一方、御台様は、長男重範が討たれた事を知る由も無く、弟若を連れて、乳母の紅葉(もみじ)一人を供として、下道を落ちて行きました。やがて、御台達は、肥後国の高瀬浦に着きました。(熊本県玉名市高瀬)御台様は、ここから、便船を乞おうとお考えになりました。しかし、なんとも哀れな事ですが、水際には沢山の舟が並んでいると言うのに、事もあろうに、紀州に隠れ無い、人商人の源太夫という者の舟に乗ってしまったのでした。源太夫は人々を見るなり、

 『へへ、これは天のお恵みじゃ。この人々を売り飛ばせば、これから楽に暮らせるわい。嬉しや嬉しや。』

 とほくそ笑むのでした。やがて、人々を舟に乗せると、艫綱をほどいて、出港させました。二三里も、漕ぎ出た頃に、源太夫は、

 「さあさあ、皆さん。良くお聞きなさい。皆様のお姿をお見受け致しますと、何やら訳ありのご様子ですが、幼い子供を連れて、何処へいらっしゃるのですかな。お名前をお聞かせ下さい。私は、情け深い人間でありますので、何処へとも、お送りいたしましょう。」

 と、情け顔をして、騙すのでした。御台所は、

 『もしかして、兵部の一味かもしれない。きっと騙しているのに違い無い。怖ろしや怖ろしや。名乗らない方が良い。』

 と思っていたのですが、情け深い人間だと聞くと、安心して、

 「それでは、名乗りましょう。我々は誰あろう、恥ずかしながら、安口の判官重行の妻子です。」

 と言うなり泣き崩れてしまったのでした。かの源太夫というのは、実はその昔の若い頃、判官殿に仕えていたことがありました。御台の名乗りを聞いた源太夫は、飛び上がって驚き、

 「やや、これは夢か現か。浅ましいことではありますが、私は、その昔、判官殿にお仕え申しあげた、柏原の竹王丸のなれの果てでございます。」

 と言うなり、畏まって涙をぬぐうのでした。源太夫は続けて、

 「さてもさても、判官殿の機嫌を損ねてから、行く当てもなく、人商人となり、この浦に棲み、柏原の源太夫と名乗って、過ごしておりました。今日、御台様達がこの舟にお乗りになったのを、良い売り物が乗ったと喜んでおりました。どうか、お許し下さい。」

 と言うなり、櫓櫂を捨てて、号泣するのでした。御台所は、夢心地で、

 「ええ、お前は、昔の竹王丸なのですか。ああ、それは懐かしいことです。」

 と、又さめざめと泣きました。源太夫は、

 「さて、それにしても、どうしてそのようなお姿をして、何処へ行こうとされているのですか。」

 と尋ねれば、御台様は、

 「実は、こんなことがあったのです。重行殿が、御門の御番で都へ上がられたのですが、ご病気なされて亡くなりました。すると、後を任されていた兵部太夫が、国を横領し、その上、私や若達を殺そうとするのです。そこで、夜半に紛れて、国を逃れました。これから都へ行って、この事態を奏聞するのです。兄の太郎重範は、右近と共に、上道を行かせましたので、なんとか都へ辿り着くことでしょう。さあ、都まで案内しておくれ。竹王丸。」

 と、事の次第を涙ながらに話すのでした。源太夫は、

 「むう、これは、なんとも口惜しい。兵部太夫といえば、判官殿の正しく譜代相伝の家臣ではないですか。そんなことをしたなら、天命からは逃れられませんぞ。ええ、それはともかくも、私は、どこまででもお供を申しあげます。どうぞ、ご安心下さい。」

 と言うと、櫓櫂を立て直し、風に任せて、舟を走らせるのでした。そうして、源太夫は、

 「此の度の、心づくしに、浦々島々、名所旧跡をご案内申しましょう。どうぞ、お心をお慰み下さい。」

 と語るのでした。

 《以下道行き》

 豊後豊前の潮境

 さて、その末に続きしは

 あれこそ、本国、筑前の浦ぞかし

 さぞや恋しく思うらん

 漕がれ(焦がれ)来ぬれば程も無く

 土佐の国に聞こえたる高岡(土佐市高岡町)、幡多(高知県幡多郡)の浦を過ぎ

 心細くも、阿波の鳴門を余所になし

 淡路の島山、漕ぎ来る舟ぞ、面白や

 風に任せて行く程に

 これぞ、播磨の国なれや

 室山降ろし(兵庫県たつの市御津町室津港)激しくて

 波に揺らるる、釣の舟

 思わぬ方に、漕がれける

 御身の上に、思い合わせて

 いとど、哀れを、催うせり

 名は、高砂の浦ぞかし(兵庫県高砂市)

 夜は、ほのぼのと、明石の浦(兵庫県明石市)

 そのいにしえの人丸(柿本人麻呂)の

 昔語りと、打ち過ぎし

 ようよう行けば、これやこの

 津の国に聞こえたる(摂津:大阪)

 兵庫の岬、難波潟、須崎(不明)に寄する波の音

 沖の鴎に、浜千鳥の

 友呼ぶ声は、我を問うかと、哀れなり

 急がせ給えば、程も無く

 日数積もりて、今は早

 津の国に聞こえたる、難波の浦に舟が着く。

 さて、人々は、無事に大阪に到着し、喜び勇んで意気揚々と、更に都を目指したのでした。都に着くと、一行は、とりあえず貧しい者が泊まる木賃宿に暮らしました。太郎重範は、もう既に都のどこかにいるだろうと、都中を捜し回りましたが、見つかりません。明け方から夕方まで、あっちこっちを捜しますが、もう既に死んでいますから、見つかるはずもありません。今日も、疲れ果てて宿に戻ると、御台様は、

 「これほどに、毎日捜し廻ってみつからないのであれば、おそらく追っ手の手に掛かって殺されたに違いありません。ああ、可哀想に。」

 と、泣き崩れました。主従四人の人々の心の内の哀れさは、何とも言い表す言葉もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(4)

2014年03月14日 09時45分09秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あぐちの判官(4)

  さて、嫡子重範は哀れにも、旅の装束を調えて、右近一人を共として、上道を落ちて行きました。

 一方、兵部の太夫は、子供達を集めて、

 「厳重に秘密としたにもかかわらず、どうした訳か、我等の企てが漏れ聞こえたらしく、御台達は逃げたぞよ。なんとも、不思議な事だ。きっと、都へ向かうのに違いない。御門に奏聞されては、我が身の一大事じゃ。直ぐに、追っ手を差し向けよ。」

と言えば、式部の太夫を大将として、強者五十騎ばかりが、人々を追いかけたのでした。

  さて、若君達は、ようやく芦屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)に辿り着きましたが、式部一行も直ぐに追いついてしまいました。式部は若君を見つけると、喜んで、

「そこを、落ち行くのは、判官殿の御嫡子、重範殿とお見受け申す。何処に落ちようとしておられるのか。早く、自害をなされなさい。さあさあ。」

 と迫るのでした。右近は、重範に

 「やや、もう討っ手が掛かったのか。しかし、予てより、想い設けていたことですので、そんなに驚きなされるな。」

 と言うと、立ち戻り、

 「何だ、そう言うお前は、式部か。珍しい雑言を聞く。昨日までは、正しき譜代相伝の郎等であるのに、なんたることか。天の神の報いは、必ず訪れるぞ。」

 と、対峙しました。式部太夫は、これを聞いて

 「何と、そう言う前は、右近だな。お前こそ雑言を吐く。昔は、そうであったかもしれないが、時と共に、世の中は変わって行くものよ。判官殿は、ご運が尽き果て、命も縮まったのよ。無駄な抵抗をして命を落とすよりも、「名付き」を下げて降参せよ。そうであれば、昔のよしみで命だけは助けてやる。」

 と答えるのでした。その時、嫡子重範は小高い所に立ち上がって、大音声に名乗りました。

 「我を誰だと思うか。安口の判官重行が子、重範とは、私のことだ。郎等の心変わりを恨んではいない。只、我等の善根が少なかったということだ。日頃のよしみに、今一度見参。」

 ところが、式部の太夫は、返事もせず、

 「ええ、無益の論はいらぬわ。いざ、掛かれ、討て。」

 と下知するのでした。寄せ手の軍勢が一度にどっと押し寄せました。右近は、これを事ともせず、達を抜いて応戦しました。ここを最期と、奮戦し、敵の強者二十騎余りを、薙ぎ伏せましたので、残りの軍勢は驚いて、四方へぱっと、退きました。しかし、良くみると、右近も沢山の傷を負っています。流石の右近も、太刀を杖にして、よろよろと、若君の所へ戻りました。右近は、

 「若君様。先ず、この隙に、一足も早く、落ち延びましょう。」

 と促しました。若君は、忝くも右近を肩に掛けて、力の限り逃げて行きます。しかし、式部の太夫は、怖じ気づいて、さっさと館へ逃げ帰ってしまっていたのでした。

  逃げ帰ってきた式部の太夫を見て、兵部太夫は、激怒して、今度は、次郎を大将として追っ手の軍勢を差し向けました。さて、幼い若君は、心は焦りますが、足は進みません。無残にも。右近の尉は深手を負っていたのです。最早、一歩も歩けなくなり、とうとうとある道端に倒れ伏してしまいました。若君は、右近に取り付いて泣くばかりです。そうこうするうちに、既に次郎の軍勢も追いつきました。次郎は、

 「そこを、落ちて行くのは、判官殿の御嫡子、重範殿とお見受け申す。兵部太夫の次男、次郎が見参。どこへ、逃げるつもりか。早く自害されよ。さあさあ。」

 と迫りました。労しい事に、若君が、

 「追っ手が来ましたよ。自害いたしましょう。」

 と、右近を揺すりますが、既に返事もありません。仕方無く、若君は、父の重代の刀をするりと抜くと、先ず、右近の首を切り落とし、返す刀で、自分の腹を切りました。享年十二歳で、明日の露と消えたのでした。かの若君の心の内の哀れさは、なんとも言い様がありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(3)

2014年03月13日 18時21分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(3)

  兵部の太夫時成(ときなり)は、表には嘆く様子を見せながら、その下には喜悦の眉を開くのでした。そして、兵部は、御台所や兄弟の若君にも劣らない程に、供養をして、七日七夜どころか、百日に至るまで、篤く法要を行ったのでした。人々は、これを見て、

 「神を祀る時は、神の威を増す様に行い、死に仕える時は、生に仕える様に仕えるのだな。」

 と、愚かにも感心するのでした。

 その年も暮れ過ぎて、1月を越して、2月の半ばの頃のことです。兵部太夫とその子供達は更にかさねて密談をするのでした。兵部太夫が、

 「やあ、子供どもよく聞け。昔も今も、敵の子孫を助けておいて、良いことがあった例しは無い。可哀想には思うが、御台所と若君達を殺してこい。」

 と言うと、嫡子の太郎は、

 「父の仰せはご尤も。夕暮れ時に、山遊びと言って、花園山(福岡県東峰村小石原)に誘い出して、密かに切って捨てましょう。父上様。」

 と、答えるのでした。兵部太夫は、よしよしと喜びましたが、三男式部の三郎は、心の中でこう叫んでいました。

 『なんと、情け無い。無念にも急死された判官殿を、世にも不憫と思うのに、その上、兄弟の若君までも殺そうとするとは、なんと無念なことか。親兄弟を刺し殺して、自害する外ないはと思うが、いや待て暫し。親に敵対するならば五逆罪を犯すことになる。こうなっては、この事を御台様に知らせて、何処へでも落ち延びさせる外は無い。』

 心の優しい三郎です。それから、三郎は急いで御前に進み出でて、畏まると、何も言わずに只、さめざめと泣くのでした。御台所や若君が、

 「いったいどうしたのですか。三郎。」

 と問いかけると、三郎は、涙を押し留めて

 「さて、その事です。私の親である兵部太夫は、乱心いたしました。御台所や若君を討ち殺そうと企んでおります。余りに不憫でありますので、この事をお知らせして、何処へとも落ち延びていただくために、是まで参りました。」

 と、言うのでした。御台所も若達も、答える言葉も見つからず、只々、泣く外はありませんでしたが、御台所は、若君達を近づけて、涙ながらに、

 「さてさて、夫の判官殿が、兵部に万事頼むと、所領を加増したその恩賞をも忘れて、早くも心変わりをして、このような悪巧みをするのですか。まだ幼いお前達や、何の力も無い私を殺して、栄華を独り占めにしても、必ず因果は報うものです。その上、三代相恩の主君を何と思っているのか。頼りにしていた家臣に裏切られるような世の中で、どこに落ちて行くにも、頼む当てもありません。ああ、これと言うのも、前世からの戒行(かいぎょう)が、足りなかったのですから、嘆くのはやめなさい。」

 と、健気にも言うのでした。それでも、涙は止まりません。落ちる涙の合間に、御台所は三郎に向かって、

 「三郎、お聞きなさい。嘲斎坊(ちょうさいぼう)が害に遭うのも、相手を騙す心が無いからです。世の中は、笑いながらに、その後ろで刀を抜いているものです。人の心ほど、分からないものは有りません。それにしても、私たちを殺そうとするのは、お前の親なのに、それを知らせに来るとは不思議なことです。お前も、我々を騙しているのではありませんか。本気で殺しに来るのなら、何処へ逃げようと、逃げ切ることなどできないでしょう。卑しい者の手に掛かって殺されるくらいなら、いっそ、今ここで、お前の手に掛けて、若君の首を刎ねて、父に見せなさい。」

 と、迫るのでした。三郎は、これを聞いて

 「仰る通り、ままならないのは人の心です。その様にお考えになるのも無理なことではありませんが、もし、これが偽りであるなら、宇佐八幡の御法度を被り、弓矢の冥加は永遠に失われるでしょう。お疑いあるならば、今此処で自害いたします。」

 と、涙ながらに答えるのでした。これを聞いた御台所が、

 「それでは、どのようにしたら良いですか。」

 と、問うと、三郎は、

 「先ずは、何処へとも、落ち延び下さい。私も、お供をしたいのは山々ですが、親の不興を受けることは間違いありませんので、出家を致します。」

 と言うと、直ぐに諸国修行の旅に出たのでした。かの三郎の心の内を、褒めない者はありません。

  それから、御台所は、乳母の右近を呼ぶと、事の次第を話しました。右近は驚いて、

 「これは、なんと、口惜しいことでしょうか。しかし、どうこう言っている場合ではありません。討っ手が攻めて来る前に、一刻も早く、逃げましょう。」

 と答えます。御台所が、

 「何処へ落ちれば良いのでしょうか。」

 と問えば、右近は、

 「むう、先ずは、都へ参りましょう。御門へ奏聞申し上げて、兵部の罪を訴え、兵部の首を討つのです。」

 と、頼もしく答えます。御台はさらに、

 「お前の言うことは、確かに尤もですが、落ちたことが知れれば、直ぐに追っ手が、掛かるでしょう。皆が一所に落ちるならば、一人も生き残れないでしょう。お前は、太郎を連れて上道を通って行きなさい。私は、次郎を連れて、下道を通って行きます。お互いに、無事、都に辿り着いたのなら、再び対面いたしましょう。もしも、討たれる様なことがある時は、今が別れの時と思って、来世で又巡り逢いましょう。」

 と、言うのでした。御台所は、心の中で、

 『南無筑紫宇佐八幡。あなた様は、氏子を百代百王に渡ってお守り下さると聞いております。どうか兄弟の若達の行く末をお守り下さい。』

 と、深く念じて旅立ちました。親子の人々の心の内の哀れさは、何とも言い様もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(2)

2014年03月13日 16時06分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(2)

 さて、僧正は、甥の頼みに、困り果てていましたが、仕方無く、壇の飾りを荘厳にして、安口の判官の調伏を始めました。まったく怖ろしいことです。僧正は、初め三日のご本尊には、来迎の阿弥陀三尊を立て、六道能化の地蔵菩薩を兵部太夫の所願成就の為に祀りました。

 「判官重行殿の二つと無き命を取り、来世にては、観音勢至よ、蓮台を傾けて、安養浄土にお導き下さい。地獄には落とさない様お願いいたします。」

 と、余念無く祈ると、五七日の本尊には、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)、金剛童子、五大明王の利験をありがたくも、四方に飾り、紫の袈裟を掛けて、様々に壇を飾りました。僧正は、再び肝胆を砕いて祈るのでした。昔が今に至るまで、仏法護持の御力は、絶大でありますから、七日の満行の寅の頃に(午前4時)明王不動の剣先が、元気いっぱいの重行殿の首を貫くのが見えました。そして、剣は、壇上に落ちたのでした。僧正は、

 「さては、威厳が現れたな。」

 と言うなり、祭壇を壊しました。なんとも怖ろしい有様です。

  これはさて置き、可哀想なのは、奈良の都の警護に当たっている安口の判官重行殿です。判官殿は、そんな調伏がなされているとは、夢にも思わず、春日大社に参籠することになりました。それは、もう夏も終わろうとする頃のことです。重行は、峰々に重なる木々の間を吹き下ろしてくる風に当たって、突然病気になってしまったのでした。家来の侍達は、驚いて、様々手を尽くして、治療に当たりましたが、回復する様子も見えません。安口の判官は死期が近付いた事を悟って、家来を集めてこう言いました。

 「さて、皆の衆。私は、娑婆に別れて、これより冥途の旅に赴く。国元に、形見を届けてくれ。膚の守りと鬢の髪を、御台所に、太刀を太郎に、刀は次郎に、それぞれ取らせよ。何が起こるか分からないという世の習いを今こそ、思い知ったぞよ。若達が、さぞ嘆くことであろうが、今生において、縁が薄くとも、来世に於いては、必ず巡り逢うと、伝えてくれ。頼んだぞ。」

 安口の判官は、さめざめと泣きながら、さらに続けました。

 「さて又、兵部に伝えてほしいことは、急いで太郎を参内させて、重行の跡目相続を奏聞してほしいということだ。そして、これまでと変わらずに国を治めていってもらいたい。まだ若達は幼いから、万事は、兵部に頼んだと、懇ろに伝えてくれ。ああ、名残惜しいことじゃ。」

 安口の判官重行は、そう言うと、西に向かって手を合わせ、念仏を四五遍唱えました。そして、まったく惜しいことに、四十三歳の生涯を閉じたのでした。家来達は、判官の死骸に取り付いて、

 「おお、これは、夢か現か・・・」

 と、嘆き悲しみましたが、もうどうしようもありません。やがて、多くの僧を頼んで、野辺送りをするのでした。人々は、涙ながらに骨を拾い形見とし、国元へと帰って行きました。

  さて、安口の判官の遺骨を携えた、人々は、筑前の国へと帰り着きました。まず、兵部太夫に事の次第を報告すると、涙ながらに形見を取りだして、渡しました。兵部太夫は、『さては、祈祷の甲斐あって、判官は死んだのか』と、心の中で喜びながらも、驚き悲しむふりをして、形見を、御台所に取り次ぐと、空泣きをするのでした。突然の訃報に御台所は、泣き崩れる外はありませんでした。やがて、御台は心を取り直して、

 「もうすぐ、都の御番も終わり、目出度い御下向を、今や遅しとお待ち申して、あなた様からの便りを何よりも楽しみにしていたのに、形見の物とは、いったいどういうことですか。ああ、今になって、思い返してみれば、都へ立たれるその時、名残惜しげにされていたのを、目出度く出立させようと、勇め申し上げましたが、このような事になると知っていたなら、樊籠(ばんろう)の涙をもってしても、お止め申しあげたのに。今更ながら、神でないこの身が、なんと浅ましいことでしょう。」

 と口説くと、再び、流涕焦がれるのでした。若君達も、共に涙を流して悲しみましたが、兄の太郎重範は、気丈にも、

 「のうのう、母上様。そんなに悲しまないで下さい。それよりも、我々兄弟を刺し殺して、あなたも御自害なされて、もう一度父上様に会いましょう。」

 と言うのでした。母上は、これを聞いて、

 「おお、大人のように優しく、言う事は確かに尤もなことではありますが、人間、誰しも死よりも、生きることが大切であり、受けたこの身を尊く思い、最期まで尽くすことこそ、親孝行というものですよ。今、お前達が死んだならば、草葉の陰の父上様は、返って、悩み苦しむことでしょう。死んで父に会うことよりも、生きて跡目を継ぐ事こそ親孝行になるのではありませんか。今より後は、雲居の満月のように出世をする為にも、心も身も献げて、会稽の恥を濯ぎなさい。」

 と、懇ろに諭すのでした。若君達は、これを聞くと、

 「父上様の御諚にも、母上の仰せに従う様にとありましたから、必ずそのように致します。」と答えて、泣く泣く立ち上がると、父、安口の判官重行殿の冥福を弔うのでした。親子の人々の心の内の哀れさは、何にも譬えようもありません。

 つづく

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忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(1)

2014年03月12日 09時50分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

古浄瑠璃正本集第1の(4)は、「ともなが」である。相模の国の「和田の判官朝長」のお話である。残念ながら、前半三段分の正本しか発見されていない。
 古浄瑠璃正本集第1の(5)は、「あぐちの判官」である。寛永十四年(1637年)山本久兵衛の板である。この物語も、「ともなが」と同様に、主君の死後に、その郎等が、国盗りを企む趣向となっている。但し、「朝長」の死が、鬼人の祟りが原因であるのに対して、「安口」の死は、郎等の調伏であるのは、大きな違いに映る。しかし、人売りが介在したり、春日大明神が助けに入ったりして、まだ説経の匂いが残っているような所もある。 

あぐちの判官(1)
 

その昔、奈良の都の継体天皇の御代のことです。(507年~531年) 

筑紫筑前の国には、安口(あぐち)の判官重行(しげゆき)という、文武両道に優れた、有名なお方がいらっしゃいました。その一族は大変に豊かに栄え、子供が二人おりました。嫡子、太郎重範(しげのり)は九つ、弟に次郎重房(しげふさ)は七つです。 

ところが、思いも寄らぬ事が起こる物です。判官殿に、御門の御番の役が命じられたのでした。判官殿は、御台所に 

「さて、この度、御門の御番を命ぜられ、三年の間、都の警護に当たらなければならなくなった。二人の若の養育を、宜しく頼む。」 

と、涙ながらに語るのでした。北の方も、悲しみますが、晴れの門出を祝うために、 

「ご無事に御下向下さい。二人の若君は、しっかりしておりますから、ご安心下さい。」 

と、気丈にも答えるのでした。安口の判官は、安心すると、家臣の兵部の太夫にこう命じました。 

「さて、兵部。よく聞け。私が都の警護に出ている三年の間、領内の事どもは、すべて御前 

に任せる。御台や若君達によく仕える様に。当座の褒美として、二百町を加増する。」 

と、御判を賜わるのでした。兵部は、 

「ありがたや。」 

と、三度礼拝して、御判をいただき 

「都では、ご安心して、警護に御当たり下さい。」 

と、さも頼もしそうに答えるのでした。やがて、安口の判官は、二百余騎を引き連れて都の警護の御番に着きました。 

 さて、国元に残った兵部太夫は、三年の間、国を預かることになりました。兵部は最初、 

兄弟の人々によく仕えていましたが、家来の侍に対して、やがてこんなことを言う様になりました。 

「皆の者、良く聞け。わしは、この国を三年の間、預かる者である。どのような訴訟であれ、 

わしが、事の理非を判断するように言われておる。もしも、異議などを申したてるならば、それなりの処遇をするから、覚悟しろ。昼も夜も、精勤せよ。」 

急に偉そうになった兵部に、家来の人々は、 

「なんとも、悔しい事だか仕方無い。短い間のお当番であるから、ここは、我慢しよう。」 

と思い、兄弟若君を差し置いて、兵部太夫を判官殿同然に崇めるようになったのでした。 

まったく、口惜しい次第です。 

 こうして、二年の月日が過ぎた頃、兵部太夫は、思いのままに国を操って、私腹を肥やしていましたが、こんな事を考える様になったのでした。 

「来年の春の頃には、判官重行が、当番を終えて帰国してくる。そうしたら、この栄華もおしまいだ。又元の兵部に戻って、判官に仕えなければならない。ええ、なんとも口惜しい。なんとかならないものか。」 

兵部太夫は、散々に考えあぐねて、子供達を集めて、こう話しました。 

「よいか、主君の判官殿を討ち取って、この国を横領するぞ。そして、我が一族は、上を見る鷹の様に栄えるのだ。どうだ。」 

長男の式部太夫、次男兵部の次郎は、その義ご尤もと尻馬に乗りますが、三男式部の三郎は、 

「これは、父のお言葉とも思えません。今、このように栄華を得ているのも、全て、判官殿のご恩に寄るものですぞ。このご恩情を忘れるとは、なんたることですか。例え、御門の宣旨によって、国を下されても、主を重んじるのが、賢人の振るまいと申すものです。故事を 

引くならば、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽という二人の王がおります。国争いも既に八年も経った頃、高祖が負け戦をして、自害しようとした時の事です。ある家臣は、主君の命に替わる為に、主君の馬に乗って、『高祖は降参いたす。』と、大音声で飛び出して行ったのです。これを聞いた項羽が、戦いの手を休めた隙に、高祖は落ち延び、代わりにその家臣が自害したのです。弓矢を取る武士の習いには、二心(ふたごころ)の無い義心こそ、大事ではありませんか。どうか、思い留まり下さい。」 

と、涙ながらに訴えるのでした。兵部の太夫は、大変にはらを立て、 

「昔の譬えが、何だというのか。わしは、もう年を取って、明日をも知らぬ身であるけれど、お前達は、これから出世するのだぞ。その為に、思い立った事であるから、明日は閻浮の塵となろうとも、思い留まっている場合ではないぞ。」 

と、歯ぎしりをして喚くのでした。その時、嫡子の式部太夫は、 

「父上がそれ程までに、思い詰められておられるならば、どうでしょうか。敵わない敵には神や仏に祈るという習いがあります。判官重行殿を、調伏するのは如何でしょうか、父上。」 

と、言うのでした。兵部太夫は、喜んで、 

「成る程、それは良い考えじゃ。しかし、他人に頼む訳にもいかない。よし、叔父の僧正に頼むことに致そう。」 

と、言うと、早速、僧正を呼び寄せました。兵部太夫は、僧正に対面すると、 

「あなたを、招きましたのは、別の事ではありません。判官重行殿を、調伏していただきたい。」 

と、小声で言うのでした。僧正が、飛び上がって驚き、 

「これは、なんという企みか。あなたの主君の命を奪うなら、天のご加護も無くなりますぞ。閻魔大王の照覧も怖ろしい。愚僧は、幼少より、五戒を守り、生き物の命を殺したこともありません。ましてや、判官殿の命を奪うなどと言うことは、思いも寄らぬことです。」 

と、辞退しますと、兵部太夫は、面目を失って、 

「それでは、もうどうしようもない。このような大事な秘密を話した以上は、いつ北の方に漏れ聞こえるとも限らない。難儀に遭うその前に自害をいたす。」 

と、その場で刀を抜こうとするのでした。僧正は、驚いて押し留めると、 

「それ程までに、思い詰めておられるのなら、できるかどうかわかりませんが、調伏いたしましょう。」 

と、言わざるを得ませんでした。兵部太夫は、ようやく機嫌を直しましたが、すごすごと帰って行く僧正の心の内の苦しみは、なんとも言い様もありません。

 

つづく

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山椒太夫 新潟公演 御礼

2014年03月10日 14時27分15秒 | 公演記録

3月8日は、風は強く気温は上がりませんでしたが、日射しがあり、足下が良くてよ
かったです。新潟市内には、全く雪がありませんでした。そのお陰か、二回公演の二回目は、二百名
を越える方々にご来場戴くことができました。
企画していただいた、新潟大学人文学部付属地域文化連携センターの栗原先生をはじ
め、ご協力いただいた皆々様、大変ありがとうございました。

新潟県民会館小ホール仕込み風景

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400年前の浄瑠璃小屋には、照明施設はなかったでしょうが、照明の効果はやはり
絶大です。照明を調整する伊藤裕一氏(左下)。伊藤さんには、新潟での公演での
照明でお世話になっています。平明かりでの芝居も素朴でいいですが、ホール等の
空間では、やはりそれなりの演出技術が必要になるようです。さすがは、プロの仕事だなと、感心しています。

第一段:直井の浦・・・ライトアップが漆黒の海上での人売りを、効果的に見せます。

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第二段:山椒太夫館・・・安寿折檻の場面,照明はばっちりですが、操りは失敗でした。

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第三段:母開眼・・・沢山の拍手、有り難う御座いました。

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拙い人形浄瑠璃に沢山の応援をいただき、誠にありがとうございました。

次の公演は、4月5日(土)アートミックスジャパン(りゅーとぴあ 能楽堂)です。演目は、「小栗判官:照手車曳きの段」です。既にご紹介しましたように、
能楽堂の橋掛かりや舞台特性を生かす演出に変更して、お届けいたします。