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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ⑤

2015年01月07日 16時57分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ⑤

 間もなく、若君の事は、鎌倉殿にも聞こえました。鎌倉殿は、
「この国に、不思議な稚児がやって来たと聞いた。連れて参れ。」
と、命じました。直ぐに使者が立ち、若君は、鎌倉殿の御前においでになりました。鎌倉殿は、若君にいろいろな事を尋ねました。
「御稚児は、まだ若いのに、どうして修行に出る事になったのか。」
若君は、
「人の為、又、自分の為、諸国修行の旅に出ました。世間を知らず、憂い事も、辛い事も知らない儘では、立派な人間にはなれないからです。」
と答えました。鎌倉殿は、重ねて、
「おお、それは大変、尤もなことだが、白骨を集めて、千体の地蔵を作ったのは、どういうわけか。」
と尋ねました。若君は、
「白骨を集めて地蔵を作ったのは、外でもありません。『将軍菩薩』こそが、修羅道に落ちた者達を救ってくれるからです。十三年前に、筑前の者達が、由比ヶ浜で討ち死にしましたが、無縁仏となり、弔う者もありません。彼らの修羅の苦患を救う為に、千体の地蔵を作ったのです。」
と答えました。次に、鎌倉殿は、
「御稚児は、毎日、法華経を読誦すると聞くが、その功徳は、どのようなものか。」
と尋ねました。若君は、
「釈迦一代の説法の中でも、法華経は、『一切衆生、即身成仏』にて『草木国土、悉皆成仏』と、説かれました。つまり、草木や土くれですら、仏性を具有し、成仏するということです。殊に、五逆罪の龍女ですら、ついには仏となるのです。このような尊いお経ですから、毎日読めば、成仏は間違いありません。」
と、すらすらと答えます。今度は、
「さて、それでは、夜念仏(よねぶつ)をしているのは何故か。」
と尋ねました。若君が、
「はい、夜念仏とは、『一念弥陀仏、即滅無量罪』と申しまして、一度でも弥陀仏を念ずれば、弘誓(ぐぜい)の舟に救い上げて、浄土の台(うてな)に運び上げようという誓いなのです。殊に、このように危うい世の中で、何に縋って生きて行けば良いのでしょうか。人の心こそが一番、恐ろしい。世の為、人の為、自分の為に、毎日、夜念仏をするのです。」
と答えたので、鎌倉殿は、感心して、
「実に有り難き次第。」
と、お手を合わせて、若君を拝むのでした。周りの人々も、有り難い、有り難いと、拝まない者はありませんでした。それから、鎌倉殿は、
「御稚児殿。寺が欲しければ造らせよう。所領が欲しければ、与えよう。望みは何か。」
と言いましたが、若君は、
「私は、修行の身の上ですから、寺も所領もいりませんが、ひとつだけ望みがあります。叶えて頂けるのなら、申しましょう。」
と答えたのでした。鎌倉殿は、気軽に、
「さあ、申してみよ。」
と言いましたので、若君は、改めて、
「大変に、畏れ多い事ですので、簡単ではありません。ご誓文をなされるのなら、申しましょう。」
と念を押しました。鎌倉殿が、
「それ程に言うのであれば、若宮八幡に誓って、お前の望みを叶えよう。」
と答えたので、若君は、
「分かりました。それならば、申します。鎌倉、谷七郷の牢屋に繋がれて人々を、全ていただきたい。」
と、願い出たのでした。鎌倉殿は、予期せぬ望みに驚いて、しばらく答えることができませんでした。ようやく、鎌倉殿は、
「牢に下した者共には、咎人で有るから、それはできぬ。」
と答えましたが、若君は、立ち上がって、
「だから、言った事ではありませんか。ご誓文というものは、綸言(りんげん)汗の如し、出たら再び帰らぬものです。慈悲の心をもって御世を治めると言われる最明寺殿は、この様な愚人でありましたか。そいうのを『嚙み済んだ後は、舌にも残らぬ』と言うのです。やれやれ、あなたの政(まつりごと)も思いやられますね。」
と、吐き捨てました。これには、鎌倉殿も、ぐうの音もでませんでした。すごすごと、
『三十六人の牢下し者を御稚児に参らす。』という自筆の御判を下されたのでした。
 喜んだ若君は、牢の奉行を呼ぶと、
「鎌倉殿のご命令によって、牢下しの者の身柄を預かった。皆、釈放するので、その由、触れを出せ。」
と命じたのでした。早速に、谷七郷に触れが回り、近国他国より、咎人を引き取ろうと、縁者が駆けつけて来ました。若君は、牢奉行に、
「牢の戸口に、鼠木戸(ねずみきど)を設えて、一人一人呼び出し、その名前をすべて記録いたせ。もしかしたら、父の種直と、名乗る者がいるかもしれないので、ようく気をつけるように。」
と、命じましたので、一人一人の名前を記録しながら、咎人を釈放して行きます。釈放された人々は、次々に親類、眷属の者達が受け取って、我が家へと帰って行きますが、父の種直を名乗る者はいません。若君は、
「いつの日にかは、父に巡り会えると思って、ここまで来たのに、とうとう父には会えなかったか。」
と、悲嘆に暮れて泣くより外はありません。若君の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく


忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ④

2015年01月07日 11時04分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ④

 すっかり寝入っていた若君は、夜半になって目を醒ましました。女房を呼ぶと、こう言いました。
「すみませんが、灯火を貸して下さい。私には、宿願があって、法華経を唱えなければなりません。お願いします。」
女房が、灯火を持ってくると、若君は、金泥の法華経をはったと開いて読誦して、
「このお経の功力によって、母上様を安穏にお守り下さい。又、父の種直に巡り会わせて下さい。又、もうこの世にいらっしゃらないのならば、出離生死頓証菩提。(しゅつりしょうじとんしょうぼだい)」
と、祈られるのでした。その様子は、堅牢地神(けんろうじしん)や十羅刹女(じゅうらせつにょ)がお声を添えている如くに、有り難く聞こえて来るのでした。女房は、これを聞くと、
『この様に、尊い稚児様を、売り飛ばしては、後世での極楽往生が叶わない。この稚児様を助け落としてあげましょう。もし、夫に責め殺されても、私の命と引き替えにこの稚児様をお守りすれば、きっと後世での助けを受ける事ができるでしょう。』
と思い、若君の前に出ると、こう言いました。
「申し、御稚児様。実は、この家の亭主は、人売りなのです。もう、あなたは売られてしまいましたので、早く逃げて下さい。もし、亭主に責め殺されたなら、どうか、後世を弔って下さい。」
そうして女房は、若君を連れて家を飛び出しました。女房は、逃げ道を教えると、
「ずっとお供をして行きたいのですが、亭主が帰って来て、気付かれては詮無い事ですから、ここでお別れです。」
と、涙ながらに家に戻るのでした。
さて、それから亭主が帰って来ました。あちこち探しましたが、稚児が居ません。亭主は驚いて、女房を呼びました。
「御稚児はどうした。」
と聞くと、女房は、
「さて、宵の頃まで、法華経をお唱えでしたが、どうしたのでしょうね。いらっしゃらないのですか。」
と、とぼけました。亭主は、
「お前、知らないわけは無いだろう。偽り事を言うと、鮫の餌食にするぞ。」
と、声を荒げて迫りましたが、女房は、知らぬ存ぜぬです。さすがの亭主も、諦めめて、
「やれやれ、掘り出し物を逃がしたわい。もったいねえなあ。」
と、つぶやくばかりでした。
 一方、逃げ延びた若君は、由比ヶ浜の手前、半里ぐらいの所で、次の宿を見つけました。今度の宿の主人は、大変情け深い人でしたので、一日二日を過ごすことになりました。若君は、この家の人々を信頼して、こう打ち明けました。
「お聞きしますところ、十三年前、筑紫筑前の人々が、由比ヶ浜で討ち死になされたということですが、きっと無縁仏となって、弔う人も無いことと存じます。彼らの修羅の苦患が思いやられてなりません。私は、由比ヶ浜で、あらゆる破骨、白骨を拾い集めて、千体の地蔵を造り、彼らの苦患を助けたいと、思っているのです。」
これを、聞いた夫婦は、若君と一緒に由比ヶ浜に出て、骨拾いをしました。曝れ(され)た白骨が、砂を撒いた様に散らばっています。哀れにも若君は、ひとつ骨を拾っては、
「これは、父上の骨か。」
又、ひとつ拾っては、
「これは、一門の者の骨か。」
と、泣くのでした。夫婦の人々も、若君と共に、沢山の白骨を拾いました。拾い集めた骨を突き砕いて固め、千体の地蔵を造りました。昼間には、夫婦は、柄杓を持って、谷七郷を勧進して回り、若君は地蔵の前で法華経を唱えました。夜になると、若君が鉦鼓を首に掛けて、谷七郷を念仏して廻りました。谷七郷の人々は皆、勧進に入ったので、程無く寺が建立され、多くの人々が集まる様になりました。地蔵の前でお経を唱え、行い澄ましておられる若君の心の内は、例え様もありません。
つづく


忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ③

2015年01月06日 17時59分39秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ③

 都に残された御台様は、種直が捕らえられたことも知らずに過ごしておりましたが、やがて、玉の様な男の子を産んだのでした。御台様は、大変お喜びになって、御乳や乳母を付けて、大切にお育てになりました。そうして、3年の月日が流れたのでした。しかし、種直からは便りも無いので、御台様は、
「恨めしい種直様。鎌倉で美しい花と戯れて、私たちのことを忘れてしまったのでしょうか。」
と、恨み事を言うのでした。御台様は、通りに出て、鎌倉から来る人に、種直の事を聞いてみようと思い立ちました。道端に立っていますと、山伏が三人、通りかかりました。御台様が、
「申し、客僧達。あなた方は、どちらからお出でですか。」
と訪ねますと、客僧達は、
「おお、我等は、鎌倉より来ました。何かご用ですか。」
と答えます。そこで御台様は、
「鎌倉では、何か大きな事件はありませんでしたか。」
と尋ねたのでした。客僧は、
「おお、ありましたよ。ちょうど三年前の事になりますが、原田の二郎種直という者が、由比ヶ浜で、討ち死になされました。」
と、言い捨てて通り過ぎたのでした。これを聞いた御台様は、夢か現かと、泣き崩れました。
「私は、なんと馬鹿なのでしょう。種直殿は、都の事を忘れてしまったと思い込んで恨み、都の事を思い出す様にと、賀茂神社に祈誓を掛けておりました。ああ、恨めしい憂き世です。」
と口説く様子は、哀れな有様です。やがて、涙を押しぬぐった、御台様は、
「三歳になる若君を、出家させて、後世を弔ってもらう外はありません。」
と考えて、若君を山寺に登らせたのでした。
 若君は、大変優秀でした。他の子供達は及びもしません。一字を十字に覚ったので、十三歳になる頃には、山一番の稚児学者と呼ばれる様になりました。御台様は、大変お喜びになり、若君を呼び戻しました。御台様は、立派になった若君に、父の事を話すことにしたのです。
「良く聞きなさい。お前の父親の種直は、十三年前に、由比ヶ浜で討たれたと聞きました。」
と、泣きながら、父の話しをしました。若君は、これを聞くと、
「それでは、私は、鎌倉へ行って、事の子細を確かめて来ます。」
と言いました。御台様は、
「七月半で捨てられた父を恋しく思って、鎌倉まで行くというのですか。しかし、十三年も前のことです。恨めしいことですが、鎌倉へ行ったとしても、白骨すらもみつからないでしょう。」
と、歎くばかりです。しかし、若君は、
「いえ、それでも私は参ります。許して頂けないのなら、如何なる淵へでも身を投げて、死ぬ覚悟です。」
と、がんとして譲りませんでした。とうとう、御台様は、
「それ程までに、思うのであれば、尋ねて行ってごらんなさい。」
と、折れるのでした。若君は、
「このままの姿では、人売りに、売られてしまう。」
と考えて、修行者の姿に身をやつすと、鉦鼓を首に掛けました。御台様はこの姿をご覧になると、
「もし、父と巡り逢った時に、何を証拠とするつもりですか。」
と、守り袋と黄金作りの御佩刀を取り出しました。
「これこそ、父、種直の形見の品ですよ。」
と、若君に手渡すと、
「夫に別れてよりこの方、袖を絞らない日は無いというのに、今日から、子にも別れて、明日からの恋しさを、誰に話して慰めればいいのですか。」
と、重ねて歎き悲しむばかりです。しかし、若君は、名残の袖を振り切って、鎌倉へと旅立ったのでした。
 馴れない旅でしたから、若君の足からは、血が噴き出し、道端の砂や草を朱に染めるのでした。それでも、日数は重なり、いよいよ相模の国に着きました。由比ヶ浜まで、あと三里という辺りです。日が暮れて来ましたので、とある人家に一夜の宿を乞いました。その家の夫婦は、若君を見ると、奥の座敷へと招き入れました。
 しかし、その亭主は人売りだったのです。亭主は、しめしめと、早速に、人買いを呼びに行きます。それとも知らずに若君は、旅の疲れから、前後不覚に寝入ってしまいました。しばらくして、亭主は人買いを連れて戻って来ました。寝入っている若君を見定めた人買いは、
「年寄りでは、鮫の餌にもならぬが、このように若い者であれば、買いましょう。」
と言うと、二人は又連れだって浜の方へと、下りて行きました。若君の心の内は何に例え様もありません。
つづく


忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ②

2015年01月06日 13時25分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ②

 明け方になって、種直は、御僧の寝ている座敷に立ち寄って、声を掛けました。
「申し、御僧様。夕べは、酒に酔って、つまらない事を話してしまいました。あの話しは無かったことにして、鎌倉殿にお伝えするのは、絶対にやめて下さい。さあ、もう夜も明けますので、どうかお起き下さい。」
種直が、障子を開けてみると、御僧の姿はありません。種直が、驚いて座敷に入ると、扇が置かれているのが見えました。
「これは、慌てて、お忘れになったか。」
と、種直が取り上げて、開いて見てみると、
「なになに、原田が本領、返し与える。春になったら、鎌倉を訪ねよ。」
と、鎌倉殿の御判が据えてあるではありませんか。御台所と諸共に、その喜びは限りもありません。この事を聞き付けて、曽ての郎等達も戻ってきました。そうして、明くる年の春になったのです。
 種直が、御台所に、
「鎌倉殿のお言葉に従い、急いで鎌倉へ下ることにするぞ。」
と、告げると、御台所は、
「そうですね。それでは、私もお供をして、都まで参ります。それというのも、私には、宿願があるのです。」
と言うのでした。種直は、輿を整えて、御台所を乗せると、早速に都へと上って行きました。
さて、都に着くと御台様は、あちらこちらの「神虫(しんちゅう)」(厄除け札)を、集めて廻るのでした。そうこうしている内に、もう秋の半ばになってしまいました。種直が、
「さて、鎌倉殿は、春には下れと仰っていたのに、春どころか、もう秋も半ばになってしまったぞ。急いで、鎌倉へ参ろう。」
と言うと、御台様は、
「いつ、お知らせしようかと、思っていましたが、実は、私の胎内には、七月半の嬰児があります。どうか、男の子か、女の子かを、確かめてから、鎌倉へお下りくださいませ。」
と、願うのでした。しかし、種直は、
「その子が生まれて、男子ならば、この形見を取らせよ。」
と、守り袋と、黄金造りの御佩刀(はかせ)を渡すのでした。御台所は、仕方無く、法華経の七の巻きを取り出すと、
「このお経は、安穏長寿の経ですから、道中のお守りとして下さい。」
と言って、互いに形見を取り交わすのでした。こうして、種直主従は、鎌倉へと向かったのでした。
 さて其の頃、鎌倉の一族の者どもの元には、原田が本領を安堵されて、鎌倉へ下って来るらしいという知らせが既に届いていました。種直が、下ってくれば、自分たちの讒奏が明白になり、打ち首は逃れられません。いろいろ評定した結論は、再び讒奏をして、原田追討の軍勢を出せるようにしようということでした。一族の面々は、御前に出ると、
「原田次郎種直が、鎌倉に攻め下って来きます。知らせによると、昨年の秋に、鎌倉殿が筑紫で、原田の館にお泊まりになった折、原田は、鎌倉殿と知らずに逃がしてしまったので、無念と思い、攻め下って来るということです。」
などと、讒奏を繰り返すのでした。しかし、鎌倉殿は、この一族が、讒奏をしたことを知っていましたから、取り合いませんでした。しかし、一族の面々は、
「後々、後悔いたしますな。御覚悟下さい。」
等と、しつこくも、七回も訴訟したということです。あまりしつこいので、鎌倉殿は、
「そこまで言うのならば、あなた方が、迎え撃てば良いでしょう。」
と、言ったのでした。一族の三千余騎が、由比ヶ浜で、種直を迎え撃つことになりました。
 そこへ、待ち伏せのことなど、夢にも知らない種直の一行が来ました。待ち伏せの人々が、
「そこを通るのは、原田殿か。鎌倉殿のご命令により、成敗いたす。腹を切られよ。」
と、呼ばわると、種直は、
「さては、又、讒奏したな。」
と、大勢の中へ飛び込んで入り、ここを最期と戦いました。しかし、多勢に無勢、やがて種直達は、郎等四五人にまで、切り崩されてしまいました。最早これまでと、種直は腹を切ろうとしましたが、藤王という家来が、取り縋って、
「お待ち下さい。君は、ここは先ず、落ち延びて下さい。命を全うする亀は、蓬莱山にも辿り着くと聞きます。畏れ多き事ですが、君の名を名乗って、私が腹をきります。」
と言うのでした。種直は、
「浅ましい死に方をするぐらいなら、腹を切った方がましだ。」
と、はねつけましたが、どうしても藤王が取り付いて離れないので、とうとう、種直は、簑笠を付けて、浜地へと落ちたのでした。寄せ手の者達は、これを見ると、種直とは知らずに捕縛して、落人なりと言いながら、鎌倉へ引いて行きました。それから、藤王は、再び大勢に飛び込んで、散々に戦いましたが、やがて小高い所に駆け上ると、
「我を誰だと思うか。原田の二郎種直。今年二十七歳。剛なる者の腹の切り方を良く見て、手本とせよ。」
と言い放って、腹十文字に掻き切るのでした。藤王の首は、直ちに鎌倉へと運ばれました。種直の心の内は、何にも例え様がありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ①

2015年01月05日 16時36分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
原田種直(はらだたねなお:1140年~1213年)という人は、元々、平家方の武将で、清盛の信頼を得ていた人物でした。平家滅亡の後、幽閉されましたが、1190年に赦免されて、御家人として筑前国を与えられたという、数奇な運命を辿っています。種直が、平家一族を弔う為に建てた言われる地蔵堂は、後に建長寺となりますが、建長寺を創建したのは、北条時頼(1227年~1263年)です。時頼は、出家して「最明寺殿」と呼ばれました。
この二人が、この浄瑠璃「はらた」の登場人物なのですが、ご覧の通り、時代的にはミスマッチです。作者の意図は、良く分かりませんが、古説経や古浄瑠璃は割と史実に沿った設定をしますので、この様に、実在の人物の年代を無視した設定というのは、珍しいことの様に思います。又、後半の主人公になる、種直の子供に関しては、はっきりとした活躍の記録は得られませんでした。おそらく、創作であろうと思われます。

古浄瑠璃正本集第11(22)天下一若狭守藤原吉次正本 正保4年(1647年)正月二條通草紙屋喜右衛門板

はらだ ①
 筑紫筑前の国には、原田次郎種直(はらだのじろうたねなお)という文武二道に優れた武士がおりました。鎌倉に、その一族がおりましたが、種直の繁栄を嫉んでおる者がいたようです。その者が、鎌倉殿に讒奏(ざんそう)をしたので、種直の本領は、全て召し上げられてしまいました。種直は、日々に衰え、眷属郎等も次々に去って行きます。庭に草が生え茂り、館の軒は、蔦に覆われるという凋落の有様です。訪ねる人も無く、とうとう、種直と、北の方の二人だけになってしまったのでした。種直は、いっその事、山に籠もって世を捨てようかとも思いましたが、まだ再興の機会はあると、思い留まるのでした。
さて、時の鎌倉殿は、曲がるを憎み、正直をもって御世を治める方でした。ですから、「最明寺殿」と呼ばれたのでした。最明寺殿は、諸国修行の旅に出られて、やがて、筑紫の国を訪れました。宿を取ろうと、やって来た所は、原田の館でした。しかし、門はありますが扉がありません。軒の檜皮(ひわだ)もこぼれ落ちて、余りにもひどい傷み方でしたので、最明寺殿は、諦めて帰ろうとしました。すると、その時、種直が出てきました。最明寺殿が、
「一夜の宿をお貸し下さい。」
と言いますと、種直は
「ええ、お宿を、お貸ししたくは思いますが、宿らしいおもてなしもできません。それでもよろしいでしょうか。お僧様。」
と言いました。最明寺殿は、
「おもてなしはいりません。只、寝るだけで結構ですので、一夜の宿をお貸し下さい。」
と言うので、種直は、仕方無く僧を招き入れました。それでも、種直と御台様は、御酒を出してもてなしたのでした。最明寺殿は、その様子をご覧になって、
『このような、優しい夫婦の者達が、どうして、このように落ちぶれて居るのだろう。』
と、不思議に思って、色々と話しかけてみました。すると、種直は、
「御僧様は、どちらの方ですか。」
と聞いて来ましたので、最明寺殿は、
「ええ、私は、鎌倉の者です。何か、鎌倉に御用事でもあれば、どうぞ仰って下さい。」
と、答えました。すると、種直は、
「そうですか。鎌倉の方ですか。鎌倉では何か変わった事は起きていませんか。御僧様は御所にお出でになられる事はありますか。」
と、矢継ぎ早に聞いて来ました。最明寺殿が、
「鎌倉には、これといって事件はありません。私は、御所へも時々、出仕いたしますので、何かご用事があれば、お取り次ぎいたしましょう。」
と答えると、種直は喜んで、
「おお、これは実に有り難いことだ。良いついでがありましたなら、鎌倉殿にお取り次ぎ願います。実は私は、筑紫筑前の住人、原田次郎種直という者ですが、一門の中で、讒奏をした者がおり、本領を全て召し上げられてしまい、この様な有様です。しかし、もし明日にでも、鎌倉に一大事が起これば、ご覧下さい。この千切れた具足を身につけ、やせ細ったあの馬に乗り、錆びたこの長刀を掻い込んで、真っ先に討ち死にする覚悟でいるのです。それなのに、本領を召し上げられたことは、本当に無念でなりません。」
と、身の上を吐露するのでした。最明寺殿は、これを聞くと、
「おお、それは、まったく道理というものです。良いついでが、ありましたら、必ずお伝えいたしましょう。」
と、答えるのでした。種直は、更に、
「この事は、絶対に外へは漏らさないで下さい。鎌倉の一門が知ったなら、何をするか分かりませんので。」
と、言い添えると、臥所へと下がりました。最明寺殿は、鎌倉殿でしたから、
「さては、この者は、あの原田であったか。一門の讒奏を真に受けて、浪人させたとは、なんと口惜しいことであるか。よし、これは、なんとしても本領を安堵させなければならん。」
と、扇を取り出すと、扇の面に、
『原田が本領、返し与うる所なり、鎌倉殿 御判』
と、書き置きして、夜陰に紛れて、鎌倉へと帰って行かれたのでした。
つづく


忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ⑥終

2014年12月29日 17時25分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ⑥終

 平家の軍勢二万余騎が、平等院を取り囲んで、鬨の声を上げています。頼政は、討ち死にの覚悟をすると、装束を整えました。赤地色の直垂に、緋縅の鎧を身につけました。猪早太は、黒糸縅の鎧を着けました。主従二人は、切って出ると、
「やあ、如何に。平家の軍兵ら、手並みの程をよっく見よ。」
と、大勢の中に割って入り、ここを最期と戦いました。頼政の手に掛かった者は、五十三名。残りの者どもを、四方へばっと追い散らすと、平等院へと引き戻り、いよいよ切腹と、思い定めました。鎧を脱ぎ捨てると、扇を打ち敷いて座りました。辞世の句は、
『埋もれ木の 花咲く事も なかりしに 身の成る果てぞ 哀れなりけり』
そうして、腹を十文字に掻き切ると、猪早太が介錯しました。早太も自ら、腹を掻き切ると、臓物を掴んで繰りだし、念仏を唱えるのでした。
 二人の首が清盛の所に届けられました。清盛は喜んで、
「これで、もう国々に、気になる源氏もいなくなったわい。それでは、平家一門で官職を思いのままにしてやろう。」
と、嫡子の重盛を小松の太夫に任ずるなど、昔から位の高かった公家大臣を差し置いて、平家の無位無官の者達を、続々と、中将、別当、宰相、右大臣、左大臣と任官して行ったのでした。
 上古も今も末代も、例し少なき次第とて、感ぜぬ者こそ、なかりけり
おわり

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ⑤

2014年12月29日 16時56分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ⑤

さて、特に可哀想でならないのは、都に残された頼政の家族です。御台様は、頼政が、平等院で、平家に討たれたと聞くと、
「かねてより、こうなることは、予期していたことですから、今更、歎く事もありませんが、
やっぱりあの時、夫の手で、殺して貰っていたのなら、こんな思いをしなくても済んだものを、無残にも、あの幼い者達を悲しませる事になってしまった。」
と、口説くのでした。御台所は涙ながらに、子供達に向かい、
「お前達の父は、君のお供をして、亡くなられました。この先、頼政の妻や子として捕らえられ、そこらを引き回され、屈辱を与えられ、殺されるでしょう。なんという惨い(むごい)ことでしょう。」
と、聞かせるのでした。子供達が、一度にどっと泣き叫ぶ有様は、目も当てられません。御台所は、更に、
「さあ、子供達よ。そんな辛い目に会う前に、閻魔様の前で、父が来るのをまつのですよ。さあ、念仏を唱えなさい。」
と勧めるのでした。無残にも若君達は、父に会えると思って、幼気な手を合わせ、
「阿弥陀仏や弥陀仏」
と、四五回、唱えるのでした。御台様は、目も眩れ、心も消え入るばかりですが、思い切って、兄の千代若を引き寄せると、二刀に刺し殺したのでした。これを見た、弟は驚いて、
「ああ、恐ろしの母上や。私を許して下さい。」
と、逃げるかと思えば、殺す母に縋り付いて泣きじゃくります。母は、
「何を言うのです。千代鶴。お前一人、行かないのですか。父も母も、兄も一緒に行くのですよ。」
と言うなり、心元にぐさりとひと刀に突き刺しました。それから、御台様は、肌の守りから朱艶の数珠を取り出すと、
「只でさえ、五障三従(ごしょうさんしょう)に生まれて、女は罪が深いと聞きます。どうか、これから地獄に行く私を、お助け下さい、弥陀仏様。南無阿弥陀や南無阿弥陀や、南無阿弥陀仏、弥陀仏。」
と唱え、これを最期の言葉として、自害なされたのでした。これは都の物語。
 
 さて、平等院に立て籠もった頼政の軍勢は、渡辺党を始めとし、三井寺の法師達に至るまで、壊滅状態となりました。最早これまでと思った頼政は、高倉の宮に
「味方は、悉く討たれました。頼政は、此処で討ち死にを思い定めましたので、君は、これより南興福寺を目指して落ち延び、世の成り行きを見定めて、必ず本意を御遂げ下さい。」
と、涙ながらに申し上げましたが、高倉の宮は、
「今回、謀反を思い立ったのも、張良(ちょうりょう)よりも頼もしく、樊噲(はんかい)にも勝るお前を頼りにしたからであるぞ。今更、ここで、お前と別れたら、いったいどんな事になるのか、想像もつかない。いったいどこまで落ちて行くのか検討もつかない。」
と涙ぐんで、狼狽えるばかりです。頼政が、
「良き大将という者は、攻める時には、十分に攻め込み。引くべき時には、さっと引くものです。」
と、いろいろと賺し宥め(すかしなだめ)ますと、高倉の宮は、ようやく覚悟するのでした。それから頼政は、仲綱を呼ぶと、
「おい、仲綱。お前は、君を守護して南へ落ち延びよ。そして君を、父とも兄とも敬って、しっかりと忠節を尽くすのだぞ」
と、言い含めるのでした。仲綱は時に十五才。まったく、鳳凰は、卵の中に居ながらにして、宇宙を飛び越える翼を持ち、龍の子は、一寸足らずの幼いうちから、雨を降らせることができるというのは、まさにこの子のことです。少しも憶せず、言うことには、
「これは、父上のお言葉とも思えません。二十にもならない、この仲綱が、大事の戦をほったらかして、どこかへ落ち延びるとは、一体どういう事ですか。どこかに落ち延びるにしても、ちゃんと、敵を滅ぼす計略をお立て下さい。あなたは、保元平治の合戦で、度々勝ち抜いて、天下に名を轟かせた弓取りではありませんか。私が防ぎ矢を射て、父も君も共に落ち延びさせ、然る後に、腹切って死ぬのなら、父の為には孝行。君の為には忠義の道ではありませんか。」
と、一歩も引きません。そこで頼政は、
「おお、よくぞ言った。仲綱よ。お前の言う事は、確かに理に適って、当然である。しかし、心を鎮めて、良く考えてみよ。親子諸共に討ち死にすれば、一体誰が、君を助けて、御世に送り出すのだ。先ず今は、何とかして君を落ち延びさせ、やがて、御世に出だすことができたなら、それこそが孝行ではないのか。頼政の命令に背く仲綱は、未来永劫に勘当だぞ。」
と説得するのでした。さすがの仲綱も、これに反することはできません。泣く泣く親子は暇乞いをするのでした。そうして、伊豆の守仲綱は、高倉の宮を守護して南、興福寺へと落ちて行きました。兎にも角にも、頼政親子の心の内の悲しみは、何にも例え様がありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ④

2014年12月29日 11時56分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ④

《道行き》
扨も其の後、源三位頼政は、宮を誘い奉り、大和路指して落ちらるる
通らせ給うは、どこどこぞ
新羅の社、伏し拝み(滋賀県大津市)
大関小関打ち過ぎて、東を見れば水海の(琵琶湖)
只、茫々として、波清く
西を、遥かに、眺むれば
峰の小松に訪れて、関山関寺、伏し拝み
行くも帰るも、逢坂の
一本薄(ひともとすすき)の陰よりも
筧(かけい)の水の絶え絶えに
久々井坂(不明)、神無しの(京都府山科区神無森町)
早や、醍醐にぞ差し掛かり(京都府伏見区醍醐)
木幡(こはた)の里をば伝い来て(京都府宇治市木幡)
宇治の里にぞ着き給う

 三井寺と宇治までは、僅か三里ぐらいの道のりでしたから、関所での休みも取りませんでしたが、高倉の宮は、その間に六回も落馬されました。昨夜、一睡もしていなかったからでした。そこで、高倉の宮を休める為に、平等院に御座を設けて、御休息していただくことになりました。一行が、平等院へと集結すると、猪早太は、平家の襲来に備えて、宇治橋の真ん中、三間余りの橋板を引き剥がすと、源氏の白旗を立てました。
 都の六波羅では、大将清盛が、一門を集めて、
「兵庫の守頼政は、高倉の宮に、謀反を勧め、南へと落ち行くとの知らせが入った。急いで追っかけ、討ち滅ぼせ。」
と号令を掛けました。平家の将軍は、左兵衛の尉知盛(とももり)、本三位の中将行盛(ゆきもり)、左中将重衡(しげひら)、薩摩の守忠度(ただのり)。侍大将には、越中の二郎兵衛、上総の五郎兵衛、飛騨の判官、前司の判官、上総の五郎、悪七兵衛景清。平家の軍勢、三万余騎が、宇治橋へと押し寄せました。しかし、橋板が剥がされていて、渡る事ができないまま、徒に時を費やしました。その時、平家方の侍で、下野の住人、年は十八の足利又三郎忠綱という者が、
「この川は、近江の国の水海(琵琶湖)から流れてくるのであるから、いくら待っても、水が引くという事は無い。こんな所で、ぐずぐずしていて、源氏の軍勢に襲撃されたら、一大事であるぞ。浪間を分けて、先陣せよ。」
と、大音上げて、川に駆けて飛び込めば、勇められた強者三百余騎が、一斉に川へと乗り入れました。白波を立てるその有様は、群れ居る叢鳥が一斉に飛び立ち、羽音をたてるが如くです。更に、忠綱は、
「この川は、流れが速く、乱杭もあるぞ。手強い川だから油断するな。水が逆巻く所あれば、岩が隠れていると思え。弱い馬を下流に回し、強い馬を川上に立てて守れ。流された者があれば、弓筈(弓の先)を延ばして助け上げよ。互い助け合い、力を合わせて渡り切れ。」
と、号令するのでし。そうして、この大川を、一騎も失わずに渡りきったのでした。これを見ていた平家の軍勢は、赤旗を差し上げて、鬨の声を上げました。忠綱は、対岸に上がると、大音声で呼ばわりました。
「只今、ここに進み出でたる強者を誰と思うか。下野の住人、足利又三郎忠綱であるぞ。年積もって十八才。宇治川の先陣は我なり。」
さて、源氏方からは、渡辺党の大将、木村の判官重次が、名乗って、
「天晴れ、大剛一の忠綱に、見参せん。」
と飛んで出ました。忠綱は、
「おお、互いに良い相手だ。さあ、来い。」
といって、馬上で互いに組み合うと、双方、両馬の間にどうと落ちるのでした。忠綱は判官重次を取り押さえると、判官の首を掻き切るのでした。そうして、敵味方入り乱れての合戦の火ぶたが切って落とされました。源氏の方から出てきた二人の法師は、
「園城寺(三井寺)に隠れ無き、筒井の浄妙明春(みょうしゅん)」
「同、一来法師(いちらいほうし)。寺門(三井寺)他門に憎まれて、その名を上げた悪僧だ。」
と名乗ると、東西南北縦横無尽に走り回り、手にした長刀を蜘蛛手結果(くもでかくなわ)十文字、八つ花形にぶん回して、ここを最期と奮戦しました。この二人が、切り伏せた平家方の軍兵は、380人。残りの軍勢を四方へ追っ散らして、ふと、我が身を見て見ると、夥しい傷で血だらけです。明春は、
「ええ、これ以上は、防ぎ様が無い。最早、これまでぞ。一来。」
と言うと、師弟主従は、南の方へと落ちて行くのでした。明春・一来法師の手柄を褒めない者はありませんでした。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ③

2014年12月29日 10時21分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ③

 兵庫守源頼政は、御殿の上の鵺退治で、その名声をさらに高めました。しかし頼政は、そんな事よりも、奢る平家に押さえ付けられている、源氏の無念を、どう晴らそうかと日夜、思案していました。そうして、治承四年の夏の頃、高倉殿(以仁王)の館を尋ねた頼政は、高倉殿に謀反を勧めたのでした。高倉の宮は、
「よし、それでは八幡へ参詣いたしましょう。」
と言って、戦勝祈願に社参するのでした。八幡様もお悩みだったのでしょうか、ご神体が顕れて、社壇の回りを漂ったので、人々は大変驚いたということです。
 ところが、頼政の軍勢といっても、渡辺党の省(はぶく)、授(さずく)、覚(さとる)、競(きおう)以下、三百余騎程度しかおりません。そこで頼政は、三井寺の法師の力を借りることにしました。高倉の宮を三井寺に護送した後、頼政は、御年十五才になる嫡子、伊豆の守仲綱(なかつな)を連れて、近衛河原の自宅に一度、戻りました。
 頼政は、御台所を近付けると、
「共に年老いて、念仏を唱えて暮らすのが本来だろうが、わしは、老いても武士であるから、甲冑、弓矢を携えて、老いの名を残す為に出陣いたす。おまえも一緒に連れて行きたいとも思うが、戦場に妻子を伴うわけにも行かぬ。もしも、討ち死にしたなら、若達を形見として、忍んで生きながらえ、後世を弔ってもらいたい。ただし、伊豆の守仲綱は、後ろ楯として連れて行くぞ。」
と、涙ながらに言うのでした。驚いた御台は、
「これは、まあ、なんという事でしょうか。女の私独りで、五つや三つの若達を、どうして守って置けましょうか。敵の手に掛かって死ぬよりも、どうかあなたの手で殺して下さい。」
と言って、泣き崩れました。日頃、鬼神と言われた頼政も、今の別れの悲しさに、
「例え、朝、出陣し、夕べに帰れたとしても、名残惜しい思いをするであろうに、まして、此の度は、再び帰る当ての無い戦。この頼政ですら、目が眩れ、心も潰れる。ああ、こんな悲しみを味わうくらいなら、妻も子も持つべきではないものだ。」
と、涙に暮れるばかりです。御台様は、零れる涙をぬぐい、子供達に向かい、
「果報のある人の子は、成長して年老いるまで、親に付き従って生きて行くのに、お前達は五つや三つで、親に離れ、なんと親に縁の無い子供たちでしょうか。今夜、父に別れたなら、明日からは、夢の中でしか会えないのですよ。よく父の姿を、心に刻みなさい。」
と、言って号泣するのでした。子供達は、事情はよく分かりませんが、
「父よ、父よ。」
と、泣きつくので、頼政は、堪えかねて、
「夫婦妹背の縁の深さに比べたら、滄海さえも浅く、親子の契りの高さは、例え須弥山であろうとも叶うものではない。そんなに、歎いては、この頼政の弓矢の傷、未練の基になるぞ。今は、ただ我慢して、隠れているのだ。事が穏やかに済めば、また、会うこともできよう。」
と、言い捨てると、ふっつと袖を払って、心強くも立ち上がるのでした。
 武士が、一度番えた弓を下ろすわけには行きません。頼政は、只一筋に思い切り、嫡子仲綱と、親子諸共に、三井寺へと急行したのでした。三井寺に立て籠もった軍勢は、渡辺党をはじめ三百余騎、三井寺法師が三百余騎、その外の強者が八百余騎でした。頼政は、
「この軍勢では、平家の大軍を防ぐのは、難しい。これより、南に向かい、興福寺の衆徒を味方につけるぞ。高倉の宮をお守り申せ。」
と、号令するのでした。かの頼政が心中は、天晴れ、頼もしいばかりです。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ②

2014年12月27日 15時24分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ②
 都の人々を悩ます化け物を、祈祷では封じ込めることができませんでした。内裏では、論議百出して喧喧諤諤です。その中で、徳大寺の左大臣(実能:さねよし)は、
「目に見えぬ物に対しては、祈祷も効くであろうが、この化け物は、形を現すくせ者である。誰か武士に命じて、退治させては如何か。」
と、言いました。それでは、試してみようということになり、源平の両家の中から、化け物退治に相応しい武士を、選びました。選ばれたのは、源の頼政でした。早速に勅使が立ち、頼政が召されました。こうして、頼政に、化け物退治の勅命が下ったのでした。
 館に戻った頼政は、郎等の猪早太(いのはやた)を呼んで、こう告げました。
「この程、都に出没の化け物を、射落とせとの宣旨を給わった。どうしたものだろうか。」
早太はこれを聞くと、気色を変えて、
「これは、我が君のお言葉とも思えません。考えるまでもありません。源平両家の中から選ばれて、化け物退治の命を受けた以上は、この早太めに退治の役を御命じ下さい。例え、十丈、百丈の鬼神であろうと、退治してみせまする。もしも、射損じたその時は、御首を給わり、腹、十文字に掻き切って、死出の山まで御共いたします。」
と、迫りました。頼政は、
「いや、これも、お前の心底を、確かめる為だ。さあ、源氏の名を濯ぐ時ぞ。用意をいたせ。」
と答えると、早速に出陣の用意をしました。頼政は、赤地色の狩衣に、直垂、小袴を身につけ、早太は、黒糸縅の鎧を着ると、三尺八寸の「骨食」という太刀を差しました。
 頼政が、化け物退治をするというので、公卿大臣は言うに及ばず、源平両家の名だたる人々が、内裏につめかけて、大騒ぎです。頃は五月の闇の夜。正体不明の化け物を、射落とす事が出来るのか、武士としての運の極めでもあります。皆々、固唾を飲んで見守る中、頼政が、内裏の広庭に入りました。重藤の弓に大の雁股(かりまた:矢の種類)を番えて、化け物が現れるのを、今や遅しと待ち構えておりまと、午前0時を廻った頃のことです。東三條の森から黒雲が湧き起こりました。御殿の上を這いずり回り、火炎を吹きながら、雄叫びを上げています。この時、頼政は、
「南無八幡大菩薩。」
と、心の中で、祈念して、ひょうどとばかりに矢を放ちました。はたと手応えがありました。化け物が、御殿の庭にもんどり打って落ち、虚空に逃げようと悶えるところに、猪早太が駆けつけて、取り押さえ、九つの太刀を浴びせて、刺し殺したのでした。人々は、やったとばかりに、どよめきました。急いで火を灯して見て見ると、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の様で、その鳴き声は鵺(ぬえ)にそっくりの化け物でした。余りに気味が悪いので、七条河原に捨てられたのでした。御門は、その武勇に感激して、頼政に「獅子王」という名の御剣を褒美に取らせました。弓の名人と言えば、唐には、雲上の雁を射落とした養由(ようゆう)。我が日本に於いては、御殿の上を射た頼政であると、感動しない人はおりませんでした。
つづく

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ①

2014年12月25日 18時31分43秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
「よりまさ」とは、源頼政のことである。以仁王(高倉の宮)が、平家追討の令旨を出すに至るのは、頼政が平氏打倒を持ちかけたからである。その辺りの消息は、平家物語に詳しい。この古浄瑠璃は、平家物語をベースとして、頼政の鵺(ぬえ)退治と、平等院・宇治川の合戦の様子を描いている。
出展:古浄瑠璃正本集第1(21)「よりまさ」天下一若狭守藤原吉次正本。刊期は、正保三年(1646年)。版元は、二條通丁子屋町 とらや左兵衛。

よりまさ ①
清和天皇の第6子、貞純親王より二代後の多田満仲(源満仲:まんじゅう)。その満仲の嫡子、源頼光より更に三代の後胤であり、三河の守源頼綱の孫であり、兵庫の守源仲政の子であるのが、源頼政である。
 さて、頼政は、大将として保元の合戦を戦いました。勝ち組だったので、殿上人にはなりましたが、平家の人々と比べれば、たいした恩賞も無いままでした。これを、長年、恨みとしていた頼政は、やがて打倒平家の野望を巡らすのでした。しかし、この企みは、やがて六波羅の知れる所となりました。清盛は、直ちに一門を集めると、
「兵庫の守(頼政)には、我等平家を滅ぼし、天下を治める野心があると聞く。かの頼政の力など知れたもの、攻め寄せて、絡め取り、平家一門を更に勢い付けよ」
と、言うのでした。しかし、一門の者達は、色よい返事をしません。すると、嫡子重盛が進み出て、
「恐れながら、申しあげます。あの様な微力な者が、昼夜、付け狙って来たとしても、何の危害となりましょうや。頼政の様な似非者(えせもの)を討ち取ることは、簡単ですが、宣旨、院宣の無い私戦をするならば、上を軽んずる事になります。その上、検使の軍勢をも相手にしなければならなくなります。これまで、上を重んじて、御門を敬い、平家の運を開いて来たではありませんか。どうか、只々、理を曲げて、この戦を思い留まり下さい。」
と、諫めるのでした。重盛が、どうしても譲らないので、流石の清盛も折れたのでした。小松殿(重盛)の心を褒めない者は、ありませんでした。
 これは、源平両家の物語。さて一方、内裏では、不思議な事件が起きていました。東の方の三条の森から、黒雲が湧き上がり、火炎を噴き出します。形はよくは見えないのですが、蜘蛛の糸を吐き出して、天上を這い回ったり、雲の中を飛び廻ると言った次第です。御門は、ひどく心配をなされました。不思議な事が起こったと、人々も大騒ぎです。公卿大臣は、集まって善後策を話し合いました。結局、貴僧高僧を呼び集めて、大法・秘法を尽くしましたが、化け物を封じることはできませんでした。
つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ⑥終

2014年11月06日 11時05分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ⑥終

 さて、津軽に流された明石の三郎は、土牢に入れられ、昼夜五十人の番人が、警戒する物々しさです。明石殿は、
『自分程の武士が、この程度の牢を破ることなど、簡単な事であるはずだが、これまで、ろくな食べ物も与えられていないので、どれほどの力が出るのかも分からない。御台は、もう天下の宮の所に送られてしまったか。』
と落胆して、既に3年の月日が過ぎました。弱り切った明石殿の命が、風前の灯火となった時、どこからとも無く、山伏が二人現れて、戸をしきりに叩いて、
「牢を破れ、破れ。」
と、言うのでした。これに力を得た明石殿は、立ち上がると、渾身の力で、えいやっとばかりに、牢格子を押しました。すると、頑丈な牢格子が、ばらばらと崩れ落ちたのでした。飛び出した明石殿は、そのまま駆けに駆けて、都を目指しました。その途中、五月五日には、信夫の里まで辿り着きました。明石殿は、庄司基隆の屋敷を通り掛かり、若者達が、庭乗りをして興じているのを目にしました。明石殿は思わず、
「おお、奥では、珍しい乗り方をするものですね。そもそも、庭乗りとは、四本の庭木を植えて、四本掛かりに、手綱の手を訓練するものでしょうに。そんなことも知らないとは。」
と、言って笑ったのでした。これを、聞いた若者達は、直ぐに、基隆殿に報告をしました。庄司基隆は、これを聞くと、明石殿を招き入れて、
「当家の若者達の馬の乗り方を、お笑いになられたとのこと。遠国であれば、馬の作法も良く存ぜず、恥ずかしい次第です。ところで、あなた様は、どちらのお国の方ですか。」
と、尋ねました。明石が、都の者だと答えると、基隆は喜んで、酒宴を開いたのでした。元より明石殿は、文武に秀でた人物でしたから、進められる酒を、たんぶと受けては、軽々と干します。基隆は、すっかり明石殿を気に入って、親子の契約まで交わすことになったので、
明石殿は、暫くここで、休養をすることにしました。
 ところで、今は庄司基隆の屋敷に仕えている乳母の常磐は、客人をつくづくと見れば、どう見ても、明石の三郎重時殿の面影に間違いありません。常磐は、夢か現かと飛び出して、
するすると立ち寄って取り付けば、明石殿も驚いて縋り付き、言葉もありませんでしたが、
「どうして、遙々、このような所まで、来たのだ。さて、御台は、天子の宮の所へ行ったのか。」
と、聞くのでした。常磐が、
「御台所も、若君も、このお屋敷にいらっしゃいます。」
と言うので、急いで御台所の館へ向かいました。驚いて走り出てきた御台様と明石殿は互いに手と手を取り合って、涙、涙の再会です。明石殿は、
「お前のせいで、このような難行に遭ったと、恨んだ事もあったが、いつも恋しく思っていたのだぞ。再び、逢えて本当に良かった。これもすべて、熊野権現のお陰であると、感謝しなければならない。」
と言って、喜びの涙は尽きないのでした。これを聞いた、庄司夫婦は、益々喜んで、喜びの祝杯を挙げるのでした。
 さて、それから明石殿は、上洛の準備を始めました。庄司基隆の号令で集まった武士は三千余騎。早速に都へ向けて進軍しました。都七条の天下の宮は、これを聞くと、これは叶わないと尻尾を丸めて、高野山へ逃げて出家してしまいました。津の国の多田の刑部も、同様に怖じ気づき、慌てて出家をしましたが、余りに動顛していた為、髭を剃り忘れました。
 やがて、明石殿は、参内して、これまでの経緯を奏聞しました。御門は叡覧されて、
「まだ、若い身の上での様々の苦労、大義であった。以前の領地をすべて安堵する。」
との御判をいただくことができたのでした。
 それから、明石殿は、津の国向かいました。多田の刑部を召し出すと、
「おや、これは刑部殿。お久しぶりです。あなたは、いつ出家なされたのですかな。それにしても、どうして髭は剃らないのですか。」
と、言いました。多田は赤面して平身低頭、言葉もありません。明石はさらに、
「あなたの罪状を、ひとつひとつ言い立てて、刻み殺しても飽き足らない程ですが、我が御台所の父上ですから、命は助けましょう。」
と、言いましたので、刑部は、手を合わせて、「有り難や。有り難や。」と拝む外はありません。最後に明石殿は、
「あなたのお好みの婿殿は、高野山に居るらしいですね。その婿殿に付け届けでもしたらどうです。」
と、多田を追放したのでした。それから、明石殿は、多田の三郎と四郎を引き据えると、斬首としました。又、太郎、二郎を召して、
「あなた達は、誠に忠臣でありまたから、その返礼に、多田の跡目をお継ぎなさい。」
と、本領を安堵したのでした。
 そうして、播磨の国に帰って明石殿は、再び数々の屋敷を再興し、栄華に栄えたということです。兎にも角にも、重時殿の果報の程、貴賤上下押し並べて、感ぜぬ人こそなかりけり

おわり

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ⑤

2014年11月05日 21時53分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ⑤

 さても哀れな御台様は、都を立ち出でて東路を目指しました。
《以下、道行き:省略》
東海道を何日も掛けて旅した二人は、12月2日に、遠江の小夜の中山に着きました。ところが、御台様は、常磐にこんなことを言って、あわてさせました。
「私は、妊娠しています。もう苦しくて歩くこともできません。御産とは、どうするものですか。」
と、言うのです。飛び上がった常磐は、
「ええ、それは、大変です。急いで人里へ下りて、助けを呼びましょう。」
と、御台様の手を引きますが、もう一歩も歩けません。御台様は、その場に倒れ込んでしまいました。既に辺りは夜陰に包まれはじめ、その上、雪まで降り出しました。御台様が、微かな声で、水が欲しいと言うので、常磐は、雪を分けて水を探し始めました。谷の下の方で水音がします。常磐が、水を汲んで帰ろうとした時、降り積もる雪に道を失ったことに気が付きました。常磐は焦って、彼方此方とさまよいました。どうしても御台様の所に帰り付けません。やがて、夜が明けて来ました。すると、遠くから、赤ん坊の泣く声が聞こえてきます。常磐が、急いで駆け寄ってみると、若君が生まれていました。常磐は、若君を抱き上げて、御台様を懸命に暖めますが、その甲斐も無く、御台様は、既に亡くなっていました。
 その時、不思議な事に、どこからともなく、紫の袴を着た女が現れ、御台様の口に薬を入れたのでした。すると、御台様は蘇りました。二人が、
「あら、有り難や。」
と、手を合わせて拝むと、その女は、
「私は、熊野権現のお使いの者です。余りに不憫なので、命を助けにきました。しかし、命の代わりに、その子を捨てて行きなさい。」
と、言って消え失せたのでした。二人は、泣く泣く若君を捨てて、山を下ったのでした。
 一方、陸奥の国の住人で、信夫の庄司基隆(もとたか)という人は、申し子の為に熊野へ参詣して、権現から、ある霊夢を授けられました。そして、小夜の中山を通った時に、この赤ん坊を拾うのでした。赤ん坊を抱いた基隆は、駿河の国で、御台所と常磐と行き会い、
「小夜の中山で、ご出産なされたのは、あなたではありませんか。」
と尋ねるのでした。御台様は、言葉も無く、只、醒め醒めと泣くばかりです。この子の母が御台所であると分かった基隆は、信夫の里に親子共々を、連れ帰りました。そうして、御台様は、信夫の里で暮らすことになったのでした。
かの姫君の心の内の哀れさは、何に例えん方もなし
つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ④

2014年11月05日 20時48分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ④

 さて、御台様と乳母の常磐は、明石の消息を知る為に、都に行こうと考えましたが、追っ手の者から逃れる為に、山道を辿り、知らない谷や渚を回りました。冥途の道かと思う様な恐ろしい所を通り、書写山(兵庫県姫路市)の裏側に出ました。暫く休んでいると、道行く人が、
「あなた方の事かも知れませんが、後ろの方で、大勢の人々が捜し廻っていましたよ。」
と言い捨てて行きました。御台様と常磐は、驚いておろおろするばかりです。泣く泣く常磐は、
「今、里へ出るのは危険です。今夜は、この山中で夜を明かしましょう。」
と言いました。二人は、千草に鳴く虫たちと一緒に、泣き明かすのでした。さて、夜が明けると二人は、二重の衣装を、脱ぎ捨てて、落ちて行きました。
 やがて追っ手の者がやって来ましたが、脱ぎ捨てられている衣装を見ると、
「さては、身投げをしたな。」
と思い。あちこちと、捜し廻りました。しかし、とうとう死骸も発見できなかったので、諦めて帰って行きました。
 こうして、御台所と常磐は、ようやく都に辿り着き、五条の辺りに宿を取ると、先ず清水へとお参りに向かったのでした。明石殿の無事を祈って、深く祈誓を掛けていると、十八九の女房が、近付いて、話しかけて来ました。
「お見受けいたします所、深い思いがおありのようですが、こう申す私も、深い思いがあって、ここに参ったのです。と申しますのもこう言う次第なのです。播磨の国の住人で、明石の三郎重時様の御台様は、津の国の住人、多田の刑部という人の娘です。一昨年、熊野へご参詣の折、同じくご参詣の高松の中将殿に見初められました。中将殿は、明石殿の御台様を手に入れる為に、父の多田に明石殿を討つ様に命じました。多田は、いろいろと手を打ちましたが、討つ事ができず、とうとう、合戦となったのです。一日一夜の合戦で疲れ切った明石殿は、生け捕られて、奥州に流されたということです。かく言う私は、二条西の洞院(京都市中京区)の遊女、熊王と申す者で、明石殿が在京の折に宮仕えした者です。」
と、醒め醒めと泣くのでした。御台所は、心の内に、
『このような者まで、明石の身を心配してくれて、なんと心の優しいことか。』
と思い、涙に袖を濡らすのでした。それから、二人は終夜、語り合い、夜明けに泣く泣く別れをするのでした。御台様は、常磐に、
「常磐よ。明石殿は、陸奥という国で、まだ生きておられますよ。さあ、捜しに行きましょう。」
と言うと、立ち上がりました。御台所の心の内の哀れさ、何に例えん方も無し

つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ③

2014年11月05日 19時36分24秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ③

 播磨の明石に残された御台所は、都での出来事を夢にも知りませんでしたが、何やら胸騒ぎを感じている所へ、美山が明石殿の手紙をもたらしました。急いで、開いて見てみると、
『浅ましいことに、神では無いこの身の悲しさは、お前が引いた袂を引き分けたその日が、
今生の別れであるとは、分からなかった。どういうことかというと、高松の中将、天下の宮は、お前を妻として手に入れる為に、父の多田殿に沢山の褒美を与えて、私を殺そうとしていたのだ。こうなっては、もう討ち死にする外は無い。』
と、書いてあり、その辞世は、
『忘るるな 一夜、契りし呉竹の 葉に浮く露の ふちとなるまで』
とありました。御台所は、夢か現かと、泣き伏す外はありません。御台所は、
「親に背けば、五逆罪。夫には、二世の契り。私も、自害いたします。」
と、懐剣に手を掛けますと、乳母の常磐が駆け寄って、押し留め、
「おお、勿体ない。お待ち下さい。私が、何とかお隠しいたします。」
と、兎に角も、天下の宮の追っ手から逃れることにしたのでした。
 さて、都では、孝尚の太夫国春(たかなおのたゆうくにはる)を大将とする天下の宮の軍勢一千余騎が、明石殿へと押し寄せて、鬨の声を上げています。国春が門外に駆け寄せて、大音声を上げました。
「只今、ここへ寄せ来たる強者を、誰だと思うか。天下の宮の御内に、孝尚の太夫国春であるぞ。明石殿、覚悟いたせい。」
館の内で、これを聞いた、加藤輔高は、
「何、孝尚の太夫国春だと。我を誰と思うか。明石の乳母に、加藤の太夫輔高なるぞ。歳積もって七十四。出陣したる合戦は五十七度。ええ、いで手並みを見せん。」
と、名乗り合い、ここを最期と激戦となりました。加藤は、大勢に傷を負わせましたが、自らも十三カ所の傷を負い、明石殿の前に戻って来ると、
「都にての合戦で、この輔高、一番に討ち死にすること、なによりもって幸いなり。」
と言い残すと、かっぱと腹を十文字に掻き切って果てたのでした。明石殿は、
「輔高が、討ち死にする上は、もう惜しい命も無い。中将に一太刀浴びせて、返す刀で腹切って、死出の山に追いつくぞ。」
と言うと、駒引き寄せて、ゆらりと乗り出しました。七条の御所の前で、明石殿は、大音声で上げて、
「只今、ここに押し寄せた強者を、誰と思うか。播磨の国の住人、明石の三郎重時なるぞ。
歳積もって、十八歳。中将殿に見参。見参。」
と名乗られました。ここを先途と、再び激戦が始まりましたが、一日一夜の合戦に明石殿も疲れ果て、とうとう生け捕りにされてしまったのでした。明石殿は、高手小手に縛り上げられて、天下の宮の前に引き出されました。天下の宮は喜んで、直ぐに首を刎ねようとしましたが、母の女院が、止めました。女院は、牢舎させなさいと言うので、明石殿は、陸奥の国の住人、津軽の源八のところに幽閉されることになったのでした。無念なるとも中々、申すばかりはなかりけり


つづく