猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 34 古浄瑠璃 よりまさ ③

2014年12月29日 10時21分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
よりまさ③

 兵庫守源頼政は、御殿の上の鵺退治で、その名声をさらに高めました。しかし頼政は、そんな事よりも、奢る平家に押さえ付けられている、源氏の無念を、どう晴らそうかと日夜、思案していました。そうして、治承四年の夏の頃、高倉殿(以仁王)の館を尋ねた頼政は、高倉殿に謀反を勧めたのでした。高倉の宮は、
「よし、それでは八幡へ参詣いたしましょう。」
と言って、戦勝祈願に社参するのでした。八幡様もお悩みだったのでしょうか、ご神体が顕れて、社壇の回りを漂ったので、人々は大変驚いたということです。
 ところが、頼政の軍勢といっても、渡辺党の省(はぶく)、授(さずく)、覚(さとる)、競(きおう)以下、三百余騎程度しかおりません。そこで頼政は、三井寺の法師の力を借りることにしました。高倉の宮を三井寺に護送した後、頼政は、御年十五才になる嫡子、伊豆の守仲綱(なかつな)を連れて、近衛河原の自宅に一度、戻りました。
 頼政は、御台所を近付けると、
「共に年老いて、念仏を唱えて暮らすのが本来だろうが、わしは、老いても武士であるから、甲冑、弓矢を携えて、老いの名を残す為に出陣いたす。おまえも一緒に連れて行きたいとも思うが、戦場に妻子を伴うわけにも行かぬ。もしも、討ち死にしたなら、若達を形見として、忍んで生きながらえ、後世を弔ってもらいたい。ただし、伊豆の守仲綱は、後ろ楯として連れて行くぞ。」
と、涙ながらに言うのでした。驚いた御台は、
「これは、まあ、なんという事でしょうか。女の私独りで、五つや三つの若達を、どうして守って置けましょうか。敵の手に掛かって死ぬよりも、どうかあなたの手で殺して下さい。」
と言って、泣き崩れました。日頃、鬼神と言われた頼政も、今の別れの悲しさに、
「例え、朝、出陣し、夕べに帰れたとしても、名残惜しい思いをするであろうに、まして、此の度は、再び帰る当ての無い戦。この頼政ですら、目が眩れ、心も潰れる。ああ、こんな悲しみを味わうくらいなら、妻も子も持つべきではないものだ。」
と、涙に暮れるばかりです。御台様は、零れる涙をぬぐい、子供達に向かい、
「果報のある人の子は、成長して年老いるまで、親に付き従って生きて行くのに、お前達は五つや三つで、親に離れ、なんと親に縁の無い子供たちでしょうか。今夜、父に別れたなら、明日からは、夢の中でしか会えないのですよ。よく父の姿を、心に刻みなさい。」
と、言って号泣するのでした。子供達は、事情はよく分かりませんが、
「父よ、父よ。」
と、泣きつくので、頼政は、堪えかねて、
「夫婦妹背の縁の深さに比べたら、滄海さえも浅く、親子の契りの高さは、例え須弥山であろうとも叶うものではない。そんなに、歎いては、この頼政の弓矢の傷、未練の基になるぞ。今は、ただ我慢して、隠れているのだ。事が穏やかに済めば、また、会うこともできよう。」
と、言い捨てると、ふっつと袖を払って、心強くも立ち上がるのでした。
 武士が、一度番えた弓を下ろすわけには行きません。頼政は、只一筋に思い切り、嫡子仲綱と、親子諸共に、三井寺へと急行したのでした。三井寺に立て籠もった軍勢は、渡辺党をはじめ三百余騎、三井寺法師が三百余騎、その外の強者が八百余騎でした。頼政は、
「この軍勢では、平家の大軍を防ぐのは、難しい。これより、南に向かい、興福寺の衆徒を味方につけるぞ。高倉の宮をお守り申せ。」
と、号令するのでした。かの頼政が心中は、天晴れ、頼もしいばかりです。
つづく

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