猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 38 古浄瑠璃 とうだいき③

2015年08月14日 15時00分56秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
燈台鬼③

 一方、西上国で帰りを待つ御台様は、西上軍が全滅して、恋子が捕らえられたことも知らないまま、玉の様な男子をご出産なされました。父の名を取って、「恋坊」(れんぼう)と名付けました。御台様は、大変に喜んで、御乳や乳母を付けて、大事に養育なされたのでした。そうしている内に、あっという間に三年の月日が流れました。しかし、恋子からの連絡はありません。若君に、寂しさを紛らわして、夫の帰りを、ひたすら待ち続ける毎日です。更に月日は重なり、若君は十三歳となりました。ある時、若君は、
「母上様。人間には、皆、父と母が居て、お互いに子育てをしますが、どうして、私には母様しか居ないのですか。焼け野の雉も野飼の牛にも、父があります。どうか、私の父のことを、教えて下さい。母上様。」
と、母に尋ねて泣くのでした。御台様は、これを聞くと、涙を忍んで、こう話すのでした。
「人の持つべき宝で、子供以上に尊いものはありません。しかし、父の事を知りたがる程に成長したことは、かえって哀れな事です。もう長い間、行方不明の恋子の事を問う者もありませんでしたが、あなたの父という方は、天下に名を残す大将なのですよ。御敵退治のその為に、四十万騎を率いて南海国に向かわれました。御出陣の折、生まれてくる子供の為にと、阿弥陀仏を形見に残されました。父上を恋しく思うのならば、この無量寿仏を拝んで、南無阿弥陀仏と唱えなさい。父、母、一仏浄土の縁と祈るのなら、安養世界の浄土にて、父上様に必ず逢うことができるでしょう。」
恋坊は、これを聞き、
「さては、この仏様が、父上様の形見ですか。」
と、三度戴いて泣く外はありません。恋子は、涙の下から、こう言い出しました。
「私に、暇をください。」
驚いた御台様は、
「胎内で、父に別れて、父無し子となり、愛しい可愛いと育てて来たのに、その甲斐も無く、この母を捨てて、見たことも無い父を探しに行くというのですか。なんという儚い事でしょうか。もし、あなたの父が生きているという便りでもあるのなら、お前を行かせもしましょうが、四十万騎の誰一人帰らず、もう十三年もの長い間、なんの知らせもないのです。わざわざ、敵国に送り出すことなどできるはずもありません。母の言葉に背くのなら、あなたは、五逆罪に落ちますよ。その上、どうやって南海国まで行くつもりですか。」
と、泣きつきましたが、恋坊は、
「母上様の仰せは、ご尤もです。母上のお膝の上で育てられたとは言え、人間として生まれ、父の恩を知らないのでは、生まれて来た甲斐がありません。」
と、答えましたが、母は、
「もし、父が敵に捕らえらていたのならば、どうして、助け出すことができましょうか。諦めなさい。」
と、様々に止めようとするのでした。恋坊は、重ねて、
「母の仰せに背くつもりはありませんが、弓矢の家に生まれて、父の行方をも尋ねずに居るならば、それは、木石となんら異なりません。もし、父が道端で亡くなっていたのなら、父のご恩に報じ、又もし、父に逢うことが出来たなら、母上様にご対面させて、生きてご恩返しを致します。お願いですから、お暇を下さい。」
と、強く願うのでした。兎にも角にも、恋坊親子の心の内は、何にも喩えようがありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 38 古浄瑠璃 とうだいき②

2015年08月13日 14時24分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

燈台鬼②

夜明けと共に、いよいよ、出陣です。四十万騎の軍勢が、整然と並びました。大将恋子(れんし)のその日の装束は、一段ときらびやかに見えました。唐綾に身を包み、緋縅の鎧を着けています。五枚兜に鍬形を打って、猪首に被り、大通連(だいとうれん:文殊の智剣)の剣を差して、葦毛の馬に打ち乗りました。四十万騎の西上軍が、一斉の鬨の声を上げて、南海国の王宮に攻め寄せました。南海国の軍勢は、鬨の声に驚いて、上を下への大騒ぎとはなりましたが、すかさず、大手の門から、切って出た者が、
「只今、此処に進み出でた俺は、南海国でも有名な「そゆう」官人と言う者である。さあ、来い。こちらの手並みを見せてくれる。」
と、名乗りを上げました。恋子も、負けじと、大音上げて、名乗ります。
「西上国のご命令により、南海国退治の為に、遙々参った。我こそは、四十万騎の大将、恋子である。いざ、手並みを見せん。」
恋子は、四十万騎の先頭に立って切り込んで行きました。



しかし、南海国の軍勢は、百万騎。西上国の四十万騎は、勇猛果敢に戦いはしましたが、長旅の疲れもあり、多勢に無勢、とうとう全滅してしまうのでした。もうこれまでと、恋子が腹を切ろうとした時、南海国の兵共が駆け寄りました。恋子は高手小手に縛り上げられて、やがて、南海国の王様に前に引き出されました。



南海国の王が、
「恋子というのは、お前か。剛のつわものと聞いたが、生け捕りにされて、さぞ無念なことであろう。」
と言うと、恋子は、
「大将を賜り、敵に後ろは見せるものかと、粉骨砕身に戦いましたが、運も尽き、力も及ばず。自害する所を、生け捕りにされ、本望を遂げられなかったことこそ、口惜しい限りです。魂は怨霊となり、必ずや、その首を頂戴いたします。」
と、大の眼を見開いて、睨み返すのでした。この気迫の有様に、臣下大臣達は、舌を巻かない者はありませんでした。御門は、こう答えました。
「おお、天晴れ。流石は剛の男である。誰でも、この男の様に勇敢であるべきだ。今日からは、お前を我が家臣に加えるぞ。」
これを聞くと恋子は、怒って
「何と言う愚かな。『賢人、二君(じくん)に仕えず』というのは、正にこのことではありませんか。家の名を辱め、後継を恥に曝す。例え、屍(しかばね)が、両門に埋められるとしても、名を埋めることはできないということをご存じ無いのですか。あなたの首を取るという、本意を遂げることすら出来ずに、敵の家来になるなどということは、思いもよりません。さあ、早く、首を刎ねていただきたい。」
と、答えました。これを聞いた王は、
「むう、それなれば、命を絶つことは許さぬ。顔面の皮を剥いで、額に燭台を打ち込み、燭鬼(しょくぎ)にせよ。」
と、命じたのでした。
 なんということでしょう。恋子は顔の皮を剥がされて、額に燭台をくくりつけられたので、昼夜の苦しみは、例え様もありません。しかし、喋ることのできない薬をのまされたので、苦しいとも、辛いとも言うことすらできません。明け暮れ、懐かしい故国の妻と、生まれたであろう子供の事を思うばかりです。彼の恋子の心の中は、何にも例えようがありません。

つづく

忘れ去られた物語たち 38 古浄瑠璃 とうだいき①

2015年08月12日 14時11分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 この所、新曲の制作が続いたので、古浄瑠璃正本集読みは、まったく停滞してしまった。少し、落ち着いて来たので、又、正本読みを再開したいと思っている。先回の「小篠」で正本集第1は終わりとする(付録等を省略)。古浄瑠璃正本集第2の初っ端は、「とうだいき(27)」である。古く鎌倉時代には成立している説話「燈台鬼」を下敷きとした浄瑠璃である。天下一若狭守藤原吉次の正本、慶安3年(1650年)西洞院通長者町、山本長兵衛の板。

燈台鬼 ①

昔、天竺の近くに、西上国という国があり、その王様は、最上王と言う方でした。最上王は、隣国の南海国を手に入れようと、何度も攻め込みましたが、南海国の兵は非常に強かったので、多くの犠牲者が出るばかりでした。最上王は、大変無念に思い、切り札として、恋子(れんし)という家来を大将に命じたのでした。
「恋子よ。四十万騎の大将として、南海国へ向かえ。」
勅命を受けた恋子は、
「これは、大変に有り難い宣旨を戴きました。数多くの家来の中で、私に、大将を賜わることは、何より一家の面目となります。必ずや、敵王の首を取り、鉾の先に差し上げて戻って参ります。我が君様。」
と、答えましたので、国王は、大変にお喜びになられました。恋子は、急ぎ家に戻ると、妻に向かい、
「王様の勅命によって、四十万騎の大将として、南海国に攻め下ることになったぞ。」
と、嬉しそうに告げました。ところが、御台様は、
「この度は、多くの兵が集められるとは聞きましたが、我が身の上の事とは、思いもしませんでした。近い国であるならば、手紙で慰むこともできますが、南海国では、そうもできません。それどころか、実は、私には、お世継ぎが出来ました。今は、九ヶ月の頃と思います。来年の一月頃に生まれますので、どうか、お世継ぎの姿をご覧になってから出陣なさって下さい。」
と、言って泣き崩れるのでした。恋子は、これを聞いて、
「おお、それは、世にも嬉しい事である。三十歳を過ぎても子供ができなかったのに、忘れ形見を得たことは大変に、頼もしいことである。しかし、よいか、四十万騎の大将たる者が、私事にかまけて、出陣を遅らせる事などできるはずも無い。さあ、これを、形見に取らせよ。」
と、常々肌身離さず持たれていた御本尊を取り出すと、御台様に手渡すのでした。その御本尊とは、御丈三寸の黄金阿弥陀像でした。恋子は、
「この御仏は、二世安楽の仏様なのだよ。人々の気根(きこん)は、様々な形を取り、芥子(けし)の中にすら入っているのだ。阿弥陀様は、九品(くほん)の修行をされて、娑婆世界にありながら凡夫に落ちずに、人々の為に法蔵比丘となって現れ、六字の名号を、五刧もの長い間お考え続けなされた。御釈迦様が現れて、八万四千のお経をお説きになったのも、唯々、阿弥陀三尊を説く為なのだよ。三世の諸仏は、弥陀一仏の仏心から始まり、薬師如来は、菩薩を引導し、普賢菩薩は、延命長寿。勢至菩薩は念仏の人に寄り添い、文殊菩薩は学問の菩薩。天に昇れば虚空蔵と変じて空より、諸法を降らせ、地に下っては、地蔵菩薩と現じて、地より宝を開かせる。中にも、女人は、地蔵菩薩を信じなさい。女人であっても必ずお救い下さるのだ。さて、戦では、命を落とすのは当たり前の事だ。私が死んだなら後世の供養を宜しく頼むぞ。」
と、流石に剛の恋子も、涙を流して、別れるのでした。
 こうして、恋子の率いる大軍は、南海国に向けて出陣して行きました。出発から二十日程経ちました。砂漠を通り、険しい葱嶺(そうれい:中央アジアの山岳地帯)では馬を捨てて七日進み、さらに舟乗り、人跡未踏の平原にやってきました。至るところに霧が降り、長夜ともいうべき暗闇です。聞こえてくるのは、谷の梟(ふくろう)や峰の猿、虎狼野干の声ばかりです。こうして、月日を重ねて、九ヶ月をかけて、南海国にようやく辿り着いたのでした。国境には、岩をも砕く激流が逆巻いて、木の葉すら浮かぶことができません。四十万騎の軍勢は、立ち尽くすばかりです。その時、恋子は、
「何を仰々しい。私に考えがある。」
と言うと、雑兵を率いて山に入りました。大木を切り出して、筏を作らせたのでした。こうして、四十万騎の軍勢は向かいの岸に、無事に辿り着きました。もう、その日は、日暮れも近付いたので、近くの山に陣を築くと、暫くの間、休息することにしたのでした。かの恋子は、このような知略にも優れていたのでした。

つづく

忘れ去られた物語たち 37 古浄瑠璃 小篠⑥終

2015年03月25日 15時00分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
こざさ⑥終

 加藤兵衛祐親(すけちか)は、兄弟の若に、
「私が計らって、命を助けたいとは思うが、私の一存ではどうにもならぬ事。御上にお伺いを立てて来る間、暫くお待ちなさい。」
と言うと、関白大臣の所へ行き、ことの次第を言上するのでした。
「本日、仰せつかった兄弟の者達ですが、親の敵討ちの申し出があり、母親が来て、歎く有様は、まったく目も当てられぬほど哀れな次第です。如何取りはからいましょうか。」
関白は、これを聞いて、
「それでは、取りあえず戒めの縄を解いて、これに連れて参れ。」
と、命じました。やがて、兄弟の者達が、関白の前に連れて来られました。関白は、詳しく話しを聞くと、
「おお、なんとも、可哀想な事をしたな。幼い兄弟であるから、うまく申し開く事もできなかったのであろう。それでは、わしが替わって奏聞してあげよう。」
と言って、直ぐに奏聞をしてくれたのでした。御門は、
「そういう事であれば、急いで、国友の庄を取り返すが良い。」
と、三百余騎を下されました。兄弟の若達は、喜んで、早速に長谷へと攻め下りました。兄弟は、国友の城を、二重三重に取り囲むと、
「如何に、人々、聞き給え。御門の御宣旨によって、この庄をいただいた。速やかに、城を引き渡せ。さもないと、怪我するぞ。」
と、呼ばわりました。国友の勢は抵抗もせずに降参し、目出度く城を取り戻すことができたのでした。兄弟が、再び参内して、奏聞すると、御門は、
「おお、それはよくやった。それならば、父の跡、長谷を取らするぞ。」
と、御綸旨を下され、兄の梅若を、衣笠将監家継に叙されました。兄弟が目出度く大和長谷に帰国すると、兄弟は、兵庫の女房に、金五百両を褒美に取らせ、館を建て直して、再び栄華に栄えたということです。

上古も今も末代も
例し少なき次第とて
貴賤上下押し並べて
感ぜぬ人ぞなかりけり

とらや左衛門

おわり

忘れ去られた物語たち 37 古浄瑠璃 小篠⑤

2015年03月25日 14時14分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
こざさ⑤

 兄弟の形見を持って小篠は、黒渕へと急ぎました。やがて、御台様に形見の黒髪を届けたのでした。御台様は、驚いてこの形見を取り上げると、
「兄弟の若達は、都へ曳かれていったのですか。それでは私も、京の都へ行き、若達の最期を見届けましょう。」
と言って、取る物も取りあえず、市女笠で顔を隠して、小篠一人を共として、京を目指して旅立ちました。御台様は、兄弟の姿を求めて、あちらこちらと彷徨っている内に、京童(きょうわらんべ)の声を耳にしました。
「今日、六条河原で、幼い兄弟の成敗が行われるってさ。見に行こうぜ。」
御台様は、これを聞いて、
「さては、今日が若達の最期か。」
と、子供達の後を追って、六条河原へ向かうのでした。
 さて、六条河原では、既に兄弟が引き出され、敷皮に西向きに座らされています。加藤兵衛が、
「さあ、若共。最早、最期の時だぞ。念仏申せ。」
と言うと、兄弟の人々は、群衆に向かって、こう告げるのでした。
「やあ、見物の方々、聞き給え。そもそも、我々兄弟は、山賊でも盗賊でも無い。親の敵を討ったので、このように成敗を受けるのだ。名誉の死をご覧下さい。さあ、太刀取り殿。早くお願いします。」
加藤が、後ろに回って、太刀を振り上げると、その時、御台様が走り出でて、加藤の腕に縋り付くのでした。御台様は、
「どうか、お待ち下さい。この兄弟は、どのような罪科を犯して、成敗されるのですか。」
と叫びました。加藤兵衛は、
「この者達は、和州長谷の国友を殺したので、成敗されるのだ。」
と言って、御台様を押しのけました。御台様は、尚も取り付いて、
「のう、のう、太刀取り殿、聞き給え。その国友を討ったのは当然の事。国友は、この兄弟にとっては、親の敵。親の敵を討った者は、陣の口(※大内裏外郭十二門のひとつ)さえ、許されると承るのに、どうして成敗されなければならないのですか。こんなに幼い者達を、どうして殺さなければならないのですか。どうかお助け下さい。」
と、醒め醒めと泣くのでした。兄弟はこれを聞いて、
「おお、これは、母上様ですか。草葉の陰で、父上様も、さぞお喜びの事と思います。これが宿業と諦めて、どうかお帰り下さい。」
と、言うのでした。加藤兵衛は、これを聞き、
「何と歎こうと、綸旨に叛く事はできないぞ。さあ、早く帰れ。」
と言いますが、御台は更に諦めず、涙ながらに懇願するのでした。
「まだ幼い兄弟ですから、どうか二人を助けて、代わりに私を殺して下さい。それが叶わないのなら、この兄は助けて、弟だけを殺して下さい。お願いします。」
加藤兵衛は、これを聞き、
「何、不思議な事を言うものだな。人は、『血の余り』と言って、末っ子を可愛がるものだが、どうして、兄を助けて、弟を切らせるのか。」
と、聞き返しました。御台様は、
「太刀取り殿。どうぞお聞き下さい。この兄は、私にとっては継子で、弟は私の実子です。弟を助けて、兄を切るならば、草葉の陰の彼の母が、継子が憎くて切らせたなと思われるに違いありません。そのような恥はかきたくありませんので、仕方無く、弟の方を殺してもらいたいと、お願いしているのです。」
と、再び泣き崩れました。やがて、御台様は、涙を抑えて梅若殿に近付くと、
「梅若よ。お聞きなさい。私が継母とは、今まで知らなかったことでしょう。悲しいことにあなたが二才の春の頃に、あなたの母様は亡くなられたのです。その後添えが私ですが、あの桜若ができても、私は、分け隔て無く育ててきたつもりです。今更、継子継母のことを聞かされて、無念にお思いかもしれませんが、これも、あなたを助けてお家を再興してもらう為ですよ。」
と、聞かせるのでした。続けて御台様は、泣きながら、
「桜若よ。この母を恨みと思うなよ。継子すら憎まないのに、なんでお前を憎いと思うか。ああ、身も心も苦しや。さあ、母諸共に、切って下さい。」
と居直って、少しも引き下がりません。太刀取りの加藤も、その場に居合わせた者達も、堪えきれずに共に涙に暮れました。とうとう、加藤兵衛は、
「物の哀れを知らない者は、木石と変わらない。成るか成らぬかは分からないが、今一度、御門に奏聞してみるから、皆々、一先ず引き下がれ。」
と言って、処刑を取りやめたのでした。兎にも角にも、この人々の心中は、哀れともなんとも言い様がありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 37 古浄瑠璃 小篠④

2015年03月25日 12時35分01秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
こざさ④

 兄弟を殺した国友は、兵庫の女房を、再び呼んで、
「さて、正成の妻は、何処にいるのか。正直に申せ。」
と、迫りました。女房は、
「さればです。御台様がご存命であるのならば、どうして注進などいたしましょうか。御台様は二十日前にお亡くなりになられました。」
と、答えたのでした。国友は、
「成る程、お前の注進は、山程有り難く思っておるぞ。この度の褒美である。」
と言って、謝金百両を下されました。しかし、女房は受け取らず、
「このような金銀をいただいても、誰に与える者もありません。お情けを懸けていただけるのなら、どうか、下の水仕に召し使って下さい。」
と、願い出るのでした。国友は、これが兵庫の女房の企てとも知らず
「おお、そういう事であるのなら、良きに目を掛け、使ってやろう。これより、お前の名前を、『小篠の局』と付けるぞ。」
と、答えたのは、既に運の末というべきでした。小篠は、人の仕事まで自分で引き受け、人の嫌がる仕事も進んでやったので、国友のお気に入りとなり、彼方此方と召し使う様になりました。ある時、小篠は、
「申し、我が君様。私が浪人していた時に、吉野の権現様に大願を懸けました。そのお礼にお参りをしたいと思うので、少しの暇をいただけませんでしょうか。」
と、申し出ました。国友は、すっかり小篠を信用していましたので、
「おお、神の事であるのなら、どんな用事よりも大切だ。早く行って来なさい。」
と、すんなりと許しました。
小篠は喜んで御前を罷り立つと、早速に長谷を出て、黒渕へと急ぎました。黒渕に着くと、兵庫の女房は、
「どうぞ、ご安心下さい。難なく敵を謀りました。」
と、御台様に告げるのでした。御台様は、
「如何に、主君への忠心とはいえ、我が子を殺し、後に残って悲しまない親があるはずがありません。いつの日にか、この若達が世に出たなら、必ずお礼の恩賞を授けますぞ。女房よ。」
と、すがりつくのでした。女房は、毅然として、
「どうぞ、そんな心配はおやめ下さい。私が、敵の内に潜り込みました以上は、必ず本望を遂げていただきます。」
と言うと、暇乞いをして、立ち上がりました。兄弟の人々は、門送りに立って、
「女房殿。必ず親の敵を討たせて下さい。万事よろしくお願いします。」
と、頼みましたので、女房は、
「良き時を見計らって、必ず、討たせてあげますので、ご安心下さい。明日の夜半に必ず、長谷の館に来て下さい。」
と、答えました。兄弟は喜んで、
「おお、明日は、幸い、父の三年忌です。父上の孝養の為に、敵を討つぞ。」
と息巻きました。女房は、
「必ず、お出でください。」
と言い残して、長谷へと帰って行ったのでした。
 さて、長谷に戻った小篠は、いつものように仕えています。翌日の夜半、小篠は、じっと兄弟が来るのを待ち受けていました。やがて最期の出で立ちを整えた兄弟達がやってきました。小篠は、
「お待ちしておりました。さあ、いよいよ念願の時です。慌てて、し損じなどなさらぬように。さあ、こちらです。」
と、国友が寝ている部屋へと案内しました。
「さあ、早くお討ち下さい。」
と、小篠が言うと、兄弟は、喜びましたが、
「女房殿、私たちは、母上様に暇乞いをしておりません。どうか、これよりお帰りになって、この黒髪を、兄弟の形見として届けて下さい。」
と、言うのでした。女房は、命令に背くことはできず、泣く泣く黒渕へと帰って行くのでした。さて、それから兄弟は、国友の枕元に立って、
「やあ、如何に、国友。大事の敵がありながら、このようにすやすやと寝られるのか。起きろ起きろ。」
と、言うや否や、髪の毛を掻い掴んで、引き起こしました。国友は、枕刀を抜いて起き上がろうとしましたが、桜子が切り付けて、梅若殿が国友の首を討ち落としました。それから、日頃の恨みを晴らそうと、国友の死骸を、散々に切り裂くのでした。
 この騒ぎに、目を醒ました侍達は、前後不覚の大騒ぎとなりましたが、やがて、兄弟は高手小手に捕らえられました。兄弟は都に連行されて、仇討ちの件が奏聞されたのでした。御門は大変ご立腹されて、
「明日の午(うま)の刻、六条河原で処刑せよ。」
と命じられ、処刑人を加藤兵衛に任じました。牢屋に入れられた兄弟の心の内は、哀れとも何とも、言い様がありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 37 古浄瑠璃 小篠③

2015年03月24日 17時44分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
こざさ③

 さて、哀れなのは御台様です。兵庫の妻子が供をして黒渕に隠れて暮らしていましたが、
「いったい、正成殿はどうなされたか。」
と泣くばかりです。若君達が、
「そんなに、歎かないで下さい。」
と大人しく慰めますが、涙は止まりません。兵庫の女房は、これを見て、
「なんと、お優しい若君達でしょう。父上さえいらっしゃれば、こんな苦労はしないで済んだのでしょうが、今となっては、どうか若君達が、母上を労りお助け下さい。」
と言うのでした。
 ところが一方、国友は、郎等の兼光(かねみつ)に向かい、
「聞くところによると、正成の妻子が、落ち延びたとの事。そのまま置いておいては、後の災いとなりかねん。捜し出して、殺せ。」
と命じるのでした。こうして、国友は、正成妻子の取り締まりの触れを出すと共に、辻々に高札を立てさせたのでした。しかし、十日ほども経ちましたが、何の効果もありませんでした。
 その頃、兵庫の女房は、所用の為に長谷に出て来て、高札を見て驚きました。
「ええ、何々。正成の妻、子供、あるいは浪人の所在を知らせる者には、例え、盗賊であっても、その咎を許して、所領を与える。国友。判。何と、恨めしい。このことを、早く御台様にお知らせねば。」
と、兵庫の女房は、黒渕に飛んで帰りました。この知らせを受けた御台様は、
「それが、本当であるならば、もうどうしようもありません。私は、兄弟を刺し殺して、自害いたしましょう。」
と、決心するのでした。しかし、兵庫の女房は、
「いえいえ、それはなりません。私に考えがあります。我が子の竹若と乙若は、幸い若君達とは同年で、恐れながら見た目もそれほど悪くはありませんから、梅若様、桜若様と、言えば、敵を欺くことができるかもしれません。」
と言うと、兄弟の子を呼び、
「さあ、お前達に頼みたい事があるのです。どんな事でも頼まれてくれるか。」
と、言うのでした。兄弟達は、
「何を言っておられるのですか、母上様。私たちは、母様の子ですから、どんな言いつけにも背きはしません。」
と答えました。兵庫の女房は、
「そうか、そうか。それならば、よく聞きなさい。これから、お前達兄弟を、長谷へ連れて行き、これが梅若、これが桜若と言って、敵の目を欺き、若君達をお助け申し上げる。だから、お前達の命を、この母にくれよ。」
と、泣き崩れるのでした。兄弟は、重ねてこう言って母を励ますのでした。
「これは、何より持って、目出度い奉公ができます。母上様。主君の命に身代わりする者は、我々だけのことではありません。漢の孝明帝王が敗戦の時、その子、屠岸賈(トガンカ)太子を山に隠し置いて、家来の程嬰(テイエイ)が、我が子のキクワクの首を敵に見せ、その後、屠岸賈が再び世に出た話しは、日本にまでも聞こえています。(※参考:曾我物語:杵臼・程嬰が事)若年ながら、君の命に替わる事は、何より持って誉れです。さあ、早く連れて行って下さい。」
兄弟は、勇ましく立ち上がりました。母は、
「よくぞ言った。兄弟達よ。」
と涙を抑え、長谷を目指したのでした。兵庫の女房は、一先ず、兄弟を隠し置いて、一人で番所に行くと、こう言いました。
「高札を見て、ここへ参りました。御上にお取り次ぎ願います。」
番所の者が、国友に報告すると、国友は喜んで、兵庫の女房を御前に通しました。国友が、
「お前は、何者か。」
と問うと、女房は、
「私は、正成殿の郎等、下原兵庫の妻です。今まで、山里に潜んでおりましたが、我が身の行く末を大事に思って、御上にご注進に参りました。正成殿の御子兄弟に人々は、あの山陰にいらっしゃいますので、どうぞ捕まえて下さい。その恩賞には、私の命をお救い下さい。」
と、注進するのでした。国友はすぐに、兵を差し向けました。やがて、兄弟が連れてこられました。国友はこれを見て、
「よしよし。早く、首を討ち落とせ。」
と、命じました。兄弟の頭は、白昼に刎ね落とされたのでした。この人々の心の内は、哀れとも何とも、言い様もありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 37 古浄瑠璃 小篠②

2015年03月12日 16時16分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
こざさ②

 その後、国友は、急いで上洛すると、早速に御門に参内するのでした。国友は、
「某が、吉野の権現(金剛蔵王権現)に参詣の折、衣笠の少将正成は、栄耀の余りに大幕を打って、酒盛りをしておりました。我等は、それと知らずに通り過ぎましたが、理不尽にも言いがかり、打ち掛かって参りました。朝廷へご恩を知る者ならば、礼を尽くすべき所を、それどころか、敵呼ばわりする有様です。」
と、讒奏を並べ立てるのでした。御門は、大きに逆鱗されて、
「そういうことであれば、正成を急ぎ成敗いたせよ。」
と言って、愛宕郡(おたぎごおり:京都市北区・左京区辺り)の強者、三千騎を下されたのでした。国友の軍勢三千騎は、やがて、大和路へと向かったのです。
 この事は、すぐに長谷にも聞こえました。正成は、兵庫の介に向かって、
「光尚よ。此の度、国友は、御門に讒奏して、挙兵したとの知らせじゃ。奴ら三千余騎が押し寄せては、我等は無勢。どう考えても敵うまい。そこで、まだ幼い若達を、何処へなりとも落して、生き長らえさせよ。」
と、命ずるのでした。やがて、兵庫の介の妻子が付き添って、御台所と若君二人は、黒渕へと落ち延びることになりました。(奈良県五條市西吉野黒渕)
 さてその後、正成は、僅かの小勢で、寄せ来る敵を待ち受けました。やがて、三千余騎が犇めいて、正成の城郭を二重三重に取り囲んで、鬨の声を、どっととばかりに上げました。寄せ手より進み出た一騎の武者が、大音を上げて呼ばわります。
「ここに、攻め寄せた強者を誰だと思うか。二條の大納言国友なるぞ。御門の宣旨により、正成を成敗致す。さあ、じたばたせずに腹を切れ。」
正成は、これを聞いて、
「おお、国友。待っておったぞ。我等は、たった三百余騎。潔く、花を散らしてみせよう。
そこ、逃げるなよ。」
と言うなり、敵陣へと切り込んで行くのでした。哀れなるかな、正氏の軍勢は、ここを最期と暴れまくりましたが、所詮は多勢に無勢。やがて、悉く討たれました。正成は、最期の力を振り絞って、敵を四方に追い散らすと、
「最早、腹を切るぞ。」
と、自害なされたのでした。兵庫の介は、これを介錯し、再び敵陣に殴り込みましたが、とうとう力尽きて、やはり最期は自害をして果てました。
二人の首を持って国友は、意気揚々と都に戻りました。直ちに参内すると、御門より、
「正成の後、長谷を取らする。その上、和州の国司に任ずる。」
との宣旨が下されたのでした。こうして、国友は、長谷に赴任すると、新たに館を建て直して、目出度く国司の座に着いたのでした。

つづく

忘れ去られた物語たち 37 古浄瑠璃 小篠①

2015年03月10日 21時34分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
中国の前漢時代の人で、「劉向(りゅう きょう)」という人が書いた「列女伝」の中に(第5巻節義伝)「斉義継母」という話しがある。その話しというのは、兄弟の母が、どちらかの死を選ぶのに、実子の方の死を選ぶという話しである。紀元前の話しであるが、この話しをモチーフとした能が「正儀世守」(しょうぎせしゅ)であり、浄瑠璃にしたのが、大坂二郎兵衛正本の「小篠」(こざさ)である。
古浄瑠璃正本集第1(26)小篠:大坂二郎兵衛正本:とらや左兵衛板:正保年間頃と推定(1644年~1648年)

こざさ①

 冷泉天皇の時代(在位967年~969年)のことです。奈良の吉野郡、丹生(にゅう)、長谷(ながたに)(奈良県吉野郡下市町長谷)の主は、衣笠少将正成(きぬがさのしょうしょうまさしげ)と言う方でした。正成殿は、身内には厳しく、外に向かっては礼儀正しく、仁をもって国を治めましたから、領民から慕われておりました。正成殿には、子供が二人おりました。総領は、梅若十八才。次男は桜若、十二才。そして、臣下には、下原兵庫介光尚(しもはらひょうごのすけみつなお)という、文武二道の強者が控えます。
 ある時、正成は、兵庫の介に、
「光尚よ。吉野山の桜は、今が盛りと聞いた。早速、花見に行くぞ。支度をせよ。」
と、言うのでした。正成殿は、兄弟を伴い、多くの共を具し連れて、吉野山へ花見に出掛けました。山に着くと、大幕を張り巡らせて、大瓶の酒を並べて、飲めや歌えやの宴会が始まりました。
さて、酒宴も一段落すると、正成は、皆々に向かってこう言うのでした。
「さて、皆の者、良く聞けよ。私が、今、この様に栄華の身であるのは、全て我が君様のお陰である。この国にあって、我が君さまのご恩を忘れる様なことがあるのなら、万死に値する。人間というものは、今日は今日、明日は明日と思っているところがあるが、そうではないぞ。幼少の内から、道の正しい友を選び、悪い友は遠ざけよ。水は方円の器に随うというが、人の善悪は、友に依るという。このように心して、君の様な良き人を選ぶことこそ、肝要であるぞ。」
侍達は、尤もで有ると、感じ入るのでした。
 これは扨置き、二條大納言国友(にじょうのだいなごんくにとも)は、御門の宣旨によって、諸国の視察を行っていました。伊賀、伊勢、熊野と視察をしてきた國友の一行は、大和路へ出て来ました。すると、大幕を打って酒盛りをしているのに出くわしました。国友は、
「あれは、いったい誰だ。聞いて参れ。」
と命じました。使いの者が幕の辺に立ち寄って、尋ねますと、幕内の侍が、
「この所の主、衣笠少将正成殿の花見の宴です。」
と、答えました。使いが飛んで帰り報告しますと、国友は、
「なに、正成だと。御門の宣旨によっての諸国検見で、この国友が下向することを、知らないはずがない。ましてや、ここに来ることは、三日前に触れてあるのに、偉そうに酒盛りをしておるとは、御上を恐れぬ不届き者。踏み破って通るぞ。刃向かえば切って捨てよ。」
と、怒るのでした。国友の一行が、喚き叫んで進むと、驚いた正成が、
「いったい何者か。幕の前を断らずに通るとは、なんたる無礼。尋ねて参れ。」
と命じました。使いに立った侍は、
「これは、二條大納言国友の一行です。御門よりの宣旨により国廻りをしており、今、ここに御下向されたとのことです。言いがかりを付けるのなら、切って捨てると言っております。」
と報告しました。正成は、
「何、例え国友であろうが、なんたる雑言。討って捨てよ。」
と怒ると、大長刀の鞘を外して、追っかけました。
「お止まり有れ。」と、
正成の軍勢が、国友一行を取り囲みました。強がっていた国友でしたが、これは多勢に無勢であると判断し、下手に出ることにしました。
「これはこれは、正成殿がお遊びの所を、打ち通るとは、ご無礼をした。こちらの郎等の誤りである。お許し下され。」
と国友は、ぬるりと躱して通って行くのでした。これには、正成も手出しができませんでした。

つづく



忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき⑤終

2015年02月25日 13時57分36秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ⑤終

 さて、天台座主延昌が高座に上がられました。貴賤の人々が、聴衆として集まっています。やがて、真文(しんもん)が読まれ、表白(ひょうびゃく)が終わり、願文へと進みました。
導師が、諷誦(ふじゅ)を取り上げました。中を見てみますと、女性の筆跡なのでしょうか、仮名書きの諷誦文(ふじゅもん)でした。導師は、諷誦を読み上げ始めました。
「敬って、申し受ける。諷誦文の事。三法修法の御布施。志す所は、ひとつに、二親の尊霊、並びに、兄玉松丸の菩提。かれこれ三十三回忌の供養の為一通の諷誦を献げ奉る。それ、春の花は梢に咲くが、風に従って散る悲しみがあり。又、秋の月は、誠を照らし出すが、雲に隠れる悲しみあり。これは、皆、生者必滅の理なり。大善根の余恵を頼れば、三界の火宅から解放されて、一仏成道に達すること疑い無し。乃至法界平等利益(ないしほうかいびょうどうりやく)の為。加州、頭川の里、松野尾、玉鶴女。」
と導師は、読み終えるなり、諷誦を顔に当てて、むせび泣きました。しばらくして、導師は、
「私こそ、玉松丸です。」
と、声を上げるのでした。御簾の内に居た玉鶴は、転げ出て、
「私は、ここに居ます。」
と、導師延昌の袖に縋り付くのでした。互いに、これは、これはと涙々の再会です。やがて、導師は錦の袋から、弓の折れを取り出しました。
「一張の弓の折れの霊験によって、親の教えを貫いて、学問を究めることができたのです。」
と、声高く詠嘆いたしました。すると今度は、群衆の中に居た松野尾夫婦が、これは、我が子に疑い無しと、簑笠を投げ捨てて、飛び出して来ました。
「松野尾夫婦とは、我等のことである。これ、弓の本末も、ここにあるぞ。」
驚いた、玉鶴も導師も、高座から駆け下りて、親子四人は、消え入る様に泣くばかりです。
やがて、天台座主延昌は、互いの弓の折れを取り合わせて、一張の弓とすると、こう言いました。
「もう、歎く事は無い。親子の縁は一世と言うけれど、我等は二世の契りを果たすも同然。浦島太郎が、七世先の孫に会った奇蹟と同じことだ。親孝行の志が強かったので、諸天三宝がお助け下さって、再び親子が対面できたのだ。」
まったく、例し少なき次第であると、感激しない者はありませんでした。


おわり

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき④

2015年02月24日 18時44分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ④

都に入った松野尾夫婦の人々は、東山清水寺にお参りすることにしました。夫婦は鰐口をガラガラと鳴らして、
「南無や、大悲の観世音。私どもが探し求めている子供達に、どうか引き合わせて下さい。そうしてこの狂気の思いを止めて下さい。」
と、伏し拝むのでした。それから夫婦は、西門に佇んで、遥か北の空を眺めました。
「ああ、古里が恋しい。この雲の空と同じように、私達の心も晴れることが無い。しかし、いつかは、兄妹を連れて故郷へ帰る日が来るにちがいない。ああ、儚い我が心。子供はどこに、子供はどこに」
と、狂い狂って、町中へと下りてくのでした。京の童どもが、この夫婦を見つけて、騒ぎ立てました。
「面白い物狂いがいるぞ。夫婦そろって狂っているぞ。首に掛けているのは、ありゃなんだ。狂え狂え、踊れ踊れ」
と、囃し立てます。松野尾夫婦は、これを聞いて、こう言って廻ります。
「なんと、心無い、物言いか。私どもには、玉松、玉鶴という二人の子供がおります。兄の玉松を寺に上らせましたが、ある時、諫めの為に、弓の杖で打ち叩きました。兄は、それを恨みに家出をして、行き方知らずになりました。妹もその後、行方が分かりません。都は、諸国の人々が沢山行き来をしておりますから、知っている事がありましたら、教えて下さい。」
二人は、乱れ衣の裾を結んで、肩に掛け、菅筵(すがむしろ)や菰(こも)を、錦の茵(しとね)と巻き付けて、頼りにするのは、竹の杖だけです。首に掛けた弓の折れを、胸に当て、顔に当てして、
「本、末、中を一筋に、合わせて下さい、神仏(かみほとけ)。我が子に逢う、その為ならば、いくらでも、物に狂って、踊りましょ。これこそ玉松、これこそ玉鶴。いつかは、私の心も晴れるだろ。」
と踊っては、
「親は子を思えど、子は親を思わぬとは、いったい誰が言ったのか。あら、恨めしの子供達。」と、泣くのでした。

 さて、国司国光の后となった玉鶴姫は、多くの子宝に恵まれて、元気に暮らしておりましたが、父母兄の事を忘れたことはありませんでした。ある時、国光卿に、
「私が、古里を出てから、もう三十三年にもなります。父母の菩提を弔いたいと存じます。」
と、涙ながらに願うのでした。国光は、
「それは、容易いこと。思いの通りに、やりなさい。」
と、許してくれましたので、早速三七日先に、施行を行うことになりました。国光は更に、
「さて、供養の導師は誰がよいかな。尊っとき導師といえば、東大寺の長吏(ちょうり)か、三井寺の別当か、又は比叡山の延昌座主ぐらいのものだろう。」
と、言うのでした。玉鶴姫は
「『越鳥、南枝に巣を喰い、胡馬、北風にいななく』(中国故事)と、申しますので、古里を懐かしんで、古里に近い天台座主を招きたく思います。」
と、答えましたので、早速に使者が立ちました。
 さて、その日にもなれば、高座を荘厳に飾り、金銀珠玉を散りばめ、旗鉾を立て並べました。笛や太鼓、簫(しょう)、篳篥(ひちりき)等で、舞楽を演奏して管弦を鳴らして、導師の入場を、今や遅しと、待ち受けるのでした。やがて、天台座主が、御輿に乗って到着しました。十僧、十弟子を連れて現れたそのお姿は、釈尊が檀特山で、十大弟子、十六羅漢の前で御説法をなされた姿に、勝るとも劣らないと、感激しない者は、ありませんでした。
つづく

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき③

2015年02月24日 14時48分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ③

 さて、玉松殿は、学問を究めて天台座主となりましたが、父母や妹の玉鶴がどうしているかが気がかりでなりませんでした。ある夜の暁方に、延昌座主は、不思議な夢を見ました。
故郷の頭川は、荒れ果てていて、どことも知らない土地のように見えます。松野尾夫婦の行方を尋ねますと、人々は、『兄妹を失ってから、行方不明となりました。』と答えるのでした。はっと、目覚めた延昌座主は、
「これは、正夢か。天の教えか。」
と、呆然としました。やがて、延昌座主は、
「私は、故郷を出る時、学問を究めるまでは、故郷へは帰らないと決心したが、今や、学問を究めたのだから、一度、帰ろう。」
と思い、早速に山王権現に、暇を告げに行くことにしました。延昌座主が、山を下りて行くと、忽然と白髪の老翁が現れて、こう言いました。
「お前は、これから、故郷へ帰ろうとしているな。お前は、この山の貫首であろう。それ、神と仏は表裏一体。影と形の如きものである。今、故郷へ帰るならば、お前の寿命は終わり、死んでしまうだろう。そこで、長寿延寿の秘法をお前に与える。急いで本坊に戻り、毎朝、この経を唱えよ。」
そして、巻物を一巻、延昌座主にあたえるのでした。延昌は、不思議に思って、
「あなたは、どなたですか。」
と問うと、老翁は、
「私は、この山の主である。」
と答えて、虚空に消え去りました。さあ、延昌は、困りました。親の行方は知りたいが、山王権現が、留める以上、下山することもできません。どうしたものかと思い煩っておりましたが、やがて、使いの者を故郷へ送ったのでした。やはり、夢のお告げのように、父も母も妹も、行方は知れませんでした。延昌は、仕方無く、人々の菩提を、深く弔うのでした。

 さて、頭川の松野尾夫婦は、飛び出して行った玉松丸は、親類を頼って、身を寄せているのだろうと考えていました。越後の国、柏崎に一番近い親戚がありましたから、そこに居るだろうと思って、夫婦は、尋ねて行ったのでした。しかし、玉松の行方は、知れませんでした。それからというもの、夫婦は、それぞれの本弭(もとはず)、末弭(うらはず)を首に掛け、取り上げては、打ち眺めて、寝ても起きても、ちらつくのは、玉松丸の面影ばかりです。ある時は、人も住まない山奥で日を送り、苔の筵に草枕。岩の床に泣き明かして、夢さえもみません。あちこちと彷徨い歩き、玉松を探すのでした。

《道行き》
越後の国を立ち出でて
出羽、ねんちゅう、かめはりさか(不明)
信夫山、忍ぶ甲斐なく、色に出でて(福島県福島市)
秋は、紅葉の摺り衣
今来て、月を、松島や(宮城県松島町)
平泉の郡まで、残らず尋ね巡れども(岩手県平泉町)
その行き方は、なかりけり
思い駿河の富士の根を(静岡県)
他所ながらも、よう打ち眺め
『風に靡くは、富士の煙
空に消えて、行方も知らぬ、我が想いかな』
(新古今和歌集:西行法師)
と、詠せし人の心をも
今、身の上に、白雪の
薄き契や、親と子の
一世に限り、夢の世に
仲、絶え絶えの蔦の細道分け行けば(静岡県静岡市)
一夜、岡部の宿を過ぎ(静岡県岡部町)
小夜の中山、掛川や(静岡県掛川市)
三河に架けし、八橋や(愛知県知立市八橋)
蜘蛛手に物を思うらん
伊良湖崎より、舟に乗り(愛知県田原市:渥美半島先端)
伊勢の泊(とまり)に上がりけり(三重県伊勢市)
大神宮に参りつつ、我が子に逢うせと祈念して(伊勢神宮)
それよりも、行く程に
熊野の参り、三つの山、尋ね給えど、行き方無し(熊野三社)
三十三年、尋ぬれど、その行き方はなかりけり
風には、脆き露の身の
只、つれなきは、命なり
九国中国、尋ねんと
四国に渡り、淡路島
豊後豊前に差し掛かり(大分県・福岡県)
「如何に、我が子の玉松」
と、問えど答うる者は無し
丹後の国に聞こえたる
天橋立、成り合し久世戸の文殊を伏し仰ぎ(知恩寺文殊堂)
但馬、過ぐれば、播磨なる(兵庫県)
こしや々かくかは(不明)宵の宿
過ぐれば、これぞ、須磨明石
早、津の国に聞こえたる
求塚(神戸市中央区生田)、箕面山(みのおやま:大阪市箕面市)
麗々と鳴る瀧の水(箕面滝)
落ちて、逢瀬となるものを
南無や楊柳観音の引く椀、もらし給わずば
兄妹がその中に、せめて一人、引き合わせ
思いを晴らさせ給うべし
あら、有り難やと、伏し拝み
豊島(てしま:大阪府豊中市)、瀬川(豊島河原瀬川宿:現箕面市)、芥川(大阪府高槻市)
行く春、春の花の散り
しどろもどろと泣かるらん
山崎、過ぎて淀の川(京都府大山崎町)
鳥羽の恋塚、眺むれば(京都市伏見区)
時雨ぞ、染むる秋の山
他所は色めく玉絹の
袖を連ぬる都人に
『行方や知ろしめされんや』と
行き来の人に尋ぬれど
その行き方は、無かりけり
哀れとも中々、申すばかりはなかりけり

つづく

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき②

2015年02月24日 12時34分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ②

そうして、玉松は比叡山へと向かいましたが、哀れにも玉鶴は道に迷ってしまい、帰る道が分かりません。そうこうしているうちに、能登国の人商人が、玉鶴を見かけるのでした。人商人が
「どこから来たのか。」
と尋ねますと、玉鶴はまだ十一才です。有りの儘に答えてしまうのでした。人商人は、喜んで、筑紫船に玉鶴を売りました。筑紫の人商人が買い取って、又あちらこちらと売られて行きました。そして、とうとう太宰府の山田右五右衛門という裕福な家に買い取られました。ここで、玉鶴は、蚕を飼う仕事を与えられ、毎日桑取りをする生活を送るのでした。
 その頃、筑紫の国司は、橘の国光卿でしたが、御門よりの宣旨があり、上洛することになりました。さて、国司様の行列がやって来ます。桑畑に差し掛かりますと、沿道には、国司様をひと目見ようと、人々が押し寄せていました。国光が、遙かの桑畑を見回しますと、ひとりで仕事をしている玉鶴の姿が目に入りました。国光は、
「私は、この国の国司として、いろいろ見聞してきたが、あの少女のように、ひとり真剣に仕事をする者を見たことが無い。何か事情があるのかもしれない。あの女を連れて参れ。」
と命じました。家来達が、急いで玉鶴を連れて来ると、国光は、
「私は、この国の国司であるが、おまえ一人が、真剣に桑摘みをしているのには、何か訳があるのか。子細があれば、申してみよ。」
と、問い掛けました。玉鶴は、
「はい、私は、加賀の国、頭川の者なのですが、人商人に拐かされ、この太宰府の山田の庄司と言う人に買い留められております。蚕を飼う仕事を命ぜられ、桑の葉を摘まなければならないので、御国司様のお通りを拝みたくても、手を離すことができませんでした。」
と泣く泣く答えるのでした。これを聞いた国光は、
「それは、気の毒なことであった。中国にも、ある娘が薪を拾っていて、王の御幸を拝まなかった話しがあるが、その娘も、この少女と同じ答えをしたという。その王は、人に仕える心の誠実さに打たれて、その娘を最愛したということだ。よし、お前達。この少女の身の代を主に与えて、身請けしてこい。」
と、命じたのでした。周りで見ていた大勢の女房共は驚いて、我も我もと、館に飛んで帰って、この事を山田の庄司に知らせるのでした。
 山田の庄司は、大変に腹を立てて、五人の子供らを集めました。子供達は、
「ええ、馬鹿にしくさって。その娘が欲しいのならば、一言、言ってくれれば、嫌とは言わないものを、なんと礼儀知らずな国司であるか。急ぎ追っかけ、討ち殺せ。」
と、五人の子供を大将に、その勢二百余騎で飛び出して行きました。やがて、山田の軍勢は、追いついて、鬨の声を上げました。
 ここに、国光の郎等、高馬(たかま)の七郎兄弟が、
「狼藉者は、何者か。名乗れ。聞かん。」
と呼ばわると、山田の太郎時春が、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で答えます。
「そこに居るのは、橘の朝臣、国光卿と存じ上げる。我が家で買い置くその女を、押さえて奪い取るとは、言語道断。その女をこちらに返されよ。返さなければ、一人残らずたたき切るぞ。」
高馬の七郎は、これを聞いて、カラカラと笑い、
「さてさて、もっともらしい口上をするものだな。山賊ならば、米銭(べいせん)をくれてやる。早々、帰れ。」
と、相手にもしません。五人の兄弟は、
「なんだと、憎っくき、今の雑言。ええ、思い知らせてくれる。」
と突進し、入れ違え揉み違えての戦となりました。両軍が互いに引いて息をつくと、国光は、
「いやいや、無益な合戦をするな。都への聞こえも悪い。もう、よい。姫を返せ。」
と、命ずるのでした。兄弟五人は、これを聞くと、
「まあ、そういう事でしたら、無理矢理に姫を取り戻そうという訳でもありません。弓矢の礼儀はこれまでとしましょう。どうぞ御上洛下さい。」
と、互いに挨拶を正して、別れたのでした。
こうして、国光は玉鶴を伴って上洛し、玉鶴姫は、やがて国光の一の后となりました。しかし、玉鶴は、片時も父母兄のことを忘れずに、月日を送ったのでした。


さて、一方、比叡山を目指した玉松殿は、やがて、山王権現に着きました。玉松は、神前で、
「ああ、有り難や。ようやくここに参ることができました。今日から、一心に祈りますので、我が心をお導き下さい。」
と、天を仰ぎ、地に伏して、一心不乱に祈るのでした。やがて、権現様も御納受されたのでしょうか、その頃、天台山に、その名も轟く慈覚(じかく)大師(円仁)の一の弟子で、長意(ちょうい)という僧が、山王権現にやってきたのでした。(※慈覚大師・長意、共に天台座主に就いた僧)長意は、玉松を見ると、
「どこから、いらしたのか。」
と、尋ねました。玉松が
「私は、加賀の国、頭川の里の者です。学問をするために、これまで参りましたが、誰一人知った方もなく、只、ひたすらに、権現様に祈誓ばかりです。」
と、答えますと、長意は、
「おお、それは中々、殊勝なお志ですね。そういうことであるならば、愚僧がお引き受けいたしましょう。」
と、玉松を伴って、天台山へと上がったのでした。玉松殿は、長意和尚の弟子となって、学問に精を出しました。元々、利発でありましたから、すぐに顕教密教の両方を修め、人々は、文殊菩薩の化身かと驚いたということです。十九の年で出家をなされると、やがて八宗兼学の大智者と認められ、御年三十五才にして、天台山の第十五代座主延昌とおなりになられました。親の教えのなんと有り難いことでしょうか。

つづく

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき①

2015年02月23日 14時25分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
 日蓮聖人の「御遺文講義」の中には、「杖刀難事」に関して、天台座主延昌(えんしょう)の故事を引いて、次の様な解説が出て来る。『延昌は子供のころ、父親から、槻の木の弓で打たれ、その怠惰を叱咤された。打たれたそのときは父が恨めしく、槻の木がにくかった。しかし、学問も増進し、境涯も開いて、人々を利益するほどの高僧となった時、この父の恩を身にしみて感じ、父への報恩のために槻の木で率搭婆を作り供養したという。』
 延昌(880年~964年):平安中期の天台僧。加賀国江沼郡出身。「弓継」(ゆみつぎ)とは、この天台座主延昌の故事を浄瑠璃化したものです。
古浄瑠璃正本集第1(25)正保5年(1648年)三月吉祥日 西洞院通長者町 長兵衛板

弓継 ①

加賀の国の頭川(ずかわ)の里(富山県高岡市頭川)を治めていたのは、左衛門権の太夫、松野尾の信隆という武士でした。信隆は、大変に慈悲深い方でした。子供が二人おりました。嫡男は、十六才の玉松丸。下に、十一才になる妹の玉鶴御前がおります。夫婦は、ある時、末世の有様を儚み、夜半の鐘の音に諸行無常を感じると、
「なんと、儚い世の中であることか。昨日の栄華は、今日に残らず、例え百才まで生きたにしろ、必ず死んで、二度とこの世には戻らない。それが、有為転変の理である。つまり、一番大事なことは、後世を祈ることだ。」
と考えて、後世を弔ってもらうために、玉松丸を大聖寺(石川県加賀市大聖寺町)へと上らせたのでした。
 玉松丸は、大変に優秀であったので、一字を聞いて、十字を悟り、忽ちに稚児学者と呼ばれるようになったのでした。しかし、月見、花見の酒宴ともなれば、他の僧達と共に、舞楽を演奏し、笛や太鼓に明け暮れるということも珍しくはありませんでした。父の松野尾は、こうした山での生活の様子を伝え聞くと、玉松丸を呼び返しました。松野尾は、
「おまえを、寺へ上がらせたのは、別のことではないぞ。学問をさせて法師にし、我々の後世を頼む為だ。弓馬の家から寺へ上らせたのは、酒宴、管弦の道に長ずるためではないのだぞ。親の本意に背いて、学問に精を出さず、遊んでばかりいるならば、堅牢地神の罰を受けるぞ。よいか、只々、読むべきは、諸経の数々。習うべきは文章である。将棋や碁、双六などは、浮き世人のすることで、法師のするべきことでは無い。学問して、高僧貴僧になることこそが大事なのだ。この、不心得者。」
と、激怒したのでした。玉松は、
「お言葉ですが、そうした事は、山寺の習いです。私は、それほど好みませんが、法師が稚児を弄ぶ事等、今に始まったことではありません。謂わば、朱に交わればと、申しますように、寺にあっては、酒宴を断る事はとてもできません。」
と、答えましたが、父松野尾は、
「朱に、身を汚すというのなら、今日よりは、親でも子でも無い。」
と、にべもありません。玉松は重ねて、
「それは、困りますが、しかし、例えば和歌は、本朝の風俗として神代から始まり、目に見えない鬼神の心も、勇猛な武士の心も、和ますことができます。又、管弦は極楽浄土の菩薩聖衆が用いるものであります。管弦の道を知らないと言うことは、耳しいと同じです。別に、その道を究めようというわけではありませんが、ある程度は、身につけておく必要があるのです。」
と、言いますと、父は更に怒って、
「なんと、生意気な口をききおって、親に向かっての返答に、耳しいとは何事か。」
と言うなり、立ててあった弓を手に取って、玉松殿を叩きました。玉松殿は、畏まってじっと堪えましたが、父は、弓を折れよとばかりに叩きました。とうとう弓は、三つに折れました。玉松殿は、折れた真ん中を手に取ると、家を飛び出したのでした。
「その昔、伯兪(はくゆ:「伯兪泣杖」の故事)は、親に打たれた杖(鞭)の弱った事を悲しんだ。今、私は、この折れた弓を、慈悲の杖と感じて、親の形見としよう。」
と固く決意をすると、その夜は、道端の御堂で一夜を明かしたのでした。
 そのころ、妹の玉鶴女は、兄を押し留めようと、後を追いかけましたが、月の無い晩でしたので、とうとう行き暮れてしまい、野宿をすることになってしまったのでした。
 翌朝、玉松殿は、比叡山を目指すことにして、御堂を出ました。やがて、捜し廻る玉鶴女に出合います。玉鶴女は、兄の袖に縋り付いて泣きじゃくりなら、訴えました。
「なんと、浅ましいお兄様。どこに子を憎く思う親があるでしょうか。只の折檻で、弓を折ったわけではありません。どうかお戻り下さい。」
玉松殿は、
「私も、それは、分かっておる。しかし、親の不興を被ることは、天神地神も許すまい。学問を究めて、人となってから、再びお目に掛かることにしたい。」
と、きっぱりと袖を払うのでした。この人々の心の内は、例えようもありません。
つづく

忘れ去られた物語たち 35 古浄瑠璃 はらた ⑥終

2015年01月08日 12時54分31秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
はらだ ⑥終

 とうとう、父、種直と名乗る者はありません。若君は、未だ牢内に居る者があるかも知れないと、牢内に立ち入ってみると、果たして、牢の奥に男が一人残って居るではありませんか。若君は、近付いて、
「どうして、牢を出ないのか。早く、牢から出なさい。」
と言いますと、男は、
「牢を出たとしても、行く当ても無い。牢屋に居させてもらいたい。」
と、涙を流して言うのでした。若君が、
「あなた一人の為に、これまでの大願を無に帰する訳には行きません。さあ、とにかく、牢の外に出なさい。」
と、重ねて説得すると、格子の所まで、やっと出てきました。しかし、やはり外へは出ず、醒め醒めと涙を流すばかりです。若君は、
「名前は何と言うのです。」
と尋ねましたが、
「名前など無いので、名乗りもできません。何とでもお書き下さい。」
と、言うばかりです。若君は、更に、
「後世を大事に思うのなら、とにかく名乗りなさい。」
と、ねばりました。やがて、男は、
「名乗らないつもりでしたが、それ程言うのなら申しましょう。私は、筑紫筑前の住人、原田の二郎種直と言う者です。」
と、名乗ったのでした。喜んだ若君は、
「私は、あなたの子供です。」
と言って、醒め醒めと泣きましたが、種直は、
「私には、子供などありません。どういうことですか。」
と、不審顔です。若君は、
「不思議に思われるのは、ご尤もですが、父上とは、母の胎内、七月半でお別れいたしました。母に暇乞いをして、これまで父上を探しに参ったのです。母上は、これを形見として見せなさいと言っておりました。」
と言うと、肌の守りと、黄金造りの御佩刀を取り出して見せました。
「又、この法華経の末の七巻を、父上はお持ちのはずです。」
種直は、最早、疑う所もありませんでした。
「おお、母の胎内で別れた子に巡り逢うことができたのか。ああ、嬉しや嬉しや。」
と、泣くより外はありません。
 この事は、直ちに、鎌倉殿に知らされました。鎌倉殿は、
「何、あの御稚児は、あの原田の子であったのか。すぐに親子を連れて参れ。」
と命じました。種直は喜び、鎌倉殿の御前に上がりました。鎌倉殿は、
「久しぶりの種直よ。一門の讒奏を、誠と思い、投獄させたことは、大変残念であった。日頃よりの無念を晴らされよ。それそれ。」
と言うと、一門の者共に縄を掛けて、引き出しました。そうして、全員を打ち首にしたのでした。それから鎌倉殿は、種直に、
「本領であるから、筑前の国を返し与える。」
と、御判を出されたのでした。又、若君には、三百町歩を下されました。そうして、親子の人々は、御前を立って、都を指して旅立ちました。
 種直は、若君が、相模の国の由比ヶ浜で世話になった夫婦に、数々の宝を下され、やがて都の御台様とも再会されました。夫婦は、十三年間の憂き辛さを語り合うのでした。そして、筑前の国へと戻りました。館を建て直し、かつての郎等達も、我も我もと戻って来たので、原田種直は、再び富貴の家と栄えたのでした。今に至るまで、筑紫筑前には、原田という名前が、富貴の家として栄えています。かの種直の心の内を、貴賤上下押し並べて、感じない人はいませんでした。
おわり