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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ②

2014年11月05日 17時46分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
あかし ②

前の御台の子であった太郎と二郎は遁世してしまったので、多田の刑部は、今の御台の子である三郎と四郎を呼んで、明石を討つ手を考えさせました。三郎は、
「明石の命を取る事など容易いことです。明石を騙して呼び出し、酒を飲ませ、べろべろに酔わせた所を、切って捨てれば良いことです。どうです。父上。」
と、答えました。多田の刑部は喜んで、
「おうおう、良い考えじゃ。お前達兄弟が生まれた時に植えた二本の松が、この頃、勢いよく伸びて来たが、どうやら、お前達の末繁盛を占っているようじゃ。」
と、まだ見ぬ夢物語をして、どっと笑いましたが、それこそ、運の尽き場としか、言い様がありません。


 それから多田は、明石に、遊びに来る様にとの文を書いて送りました。明石は喜んで参りますと返事をしたので、多田は喜んで、今や遅しと、明石の来訪を、手ぐすね引いて待ち構えるのでした。
 さて、明石殿は、乳母の加藤を大将として、五百余騎を率いて、津の国へと向かわれました。多田の館に着きますと、山海の珍味に、国土の菓子で迎えられ、沢山の酒を飲まされましたが、明石はまったく乱れる所を見せません。業を煮やした多田は、三郎、四郎を近づけて、相談を始めました。三郎が、
「それでは、毒の酒を盛りましょう。」
と提案したので、多田は早速に、毒酒を持って酌に立ちました。多田は、
「さあさあ、婿殿。この酒は、我が家に伝わる特別の薬酒じゃ。門外不出であるが、婿殿には進ぜましょう。」
と、毒酒を差すのでした。明石殿は、
「おお、これは、忝い。」
と受けると、ぐいと干されました。多田一門が、すわやと見守りますが、何も起こりません。明石殿は、熊野権現の申し子でありましたので、常に権現様がお守りになり、どんな毒酒を盛ろうと、たちまちに甘露の酒に変わってしまうのでした。その上、明石殿のそばには、乳母の加藤太夫輔高(すけたか)等が、左右に付き添い、常に守っているので、容易には手も出せません。とうとう、多田一門は、何もできないまま、明石殿は、播磨の国へお帰りになったのでした。
 多田の刑部は、地団駄を踏んで悔しがり、更なる計略を巡らし、今度はこんな嘘の手紙を書き送りました。
『都、天下の宮様よりの宣旨によしますと、此の度、聟揃えを行うということです。近国の聟は、急ぎ上洛せよとのお達しですから、明石殿も、急いで御上洛下さい。しかし、上洛には、沢山の兵は連れては行けませんので、お供は四、五人にとどめて下さい。』
この手紙を見た明石殿は、御受けなされて、11月10日に出立すると返事をしたのでした。
多田は、この返事を受けると、喜んで上洛し、天下の宮に早速に報告しました。
「此の度、国元で、明石を討ち取ろうと、色々企てましたが、うまく行きませんでした。そこで、偽りの手紙によって誘い出すことにしました。明石は、11月10日に播磨を出立するということですので、急ぎ軍勢を集めて、討伐なされませ。我が君様。」
これを聞いた天下の宮が、早速に号令されると、一千余騎の軍勢が集結したのでした。
 さて、11月10日になりました。明石殿は、乳母の加藤を大将として、選び抜いた強者五十人を共にして、京に向けて出発なされようとしましたが、御台所が、袂(たもと)に取り縋って、
「何故かわかりませんが、今日は、夢見が悪かったので、大変心配しています。どうか今回は、行くのをおやめください。」
と、言って離さないのでした。明石殿は、
「心配ない。直ぐ帰る。」
と言い残して、都へと向かったのでした。明石一行は、都に着くと、三条高倉に宿を取りました。すると、「熊王」という遊君が尋ねて来て、こう告げるのでした。
「あなたは、きっとご存じ無いと思いますが、あなたの妻が、熊野へ参詣した折、七条の天下の宮、高松の中将も同じく参詣しおりました。天下の宮は、御台所をご覧になって、横恋慕をされました。舅の多田を抱き込んで、あなたを殺し、姫を手に入れようとたくらんでいるのです。播磨六カ国を餌に踊らされた多田は、あなたを国元に呼んで殺そうとしましたが、うまく行かなかったので、今度、聟揃えなどと偽って、都へおびき出したのです。今、七条の御所には、雲霞の如くの軍勢が集まっています。」
熊王は、涙を流しながら、訴えました。明石は、これを聞くと、
「今にも、天下の宮の軍勢が、ここに攻めてくるでしょう。私は、潔く討ち死にいたしましょう。あなたは、早くお帰りなさい。」
と言うと、故郷の妻に宛てて、細々と文を書き綴りました。その文を、美山の安三郎に託すと、名残の酒宴を催すのでした。明石殿は、心の中で
『只、一筋に駆け入って、中将に一太刀くらわせてくれるわ』
と、決意するのでした。
彼の明石重時の勢いには、如何なる天魔鬼神も、面を向くべき様も無し
恐ろしし共中々、何に例えん方もなし

つづく

忘れ去られた物語 33 古浄瑠璃 明石 ①

2014年11月04日 18時33分02秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
しばらく、このシリーズの発表が停滞してしまったが、古浄瑠璃正本集から離れて居たわけでは無い。前回の32:「親鸞記」の後、正本(14)から順番に読み進めてはいたが、説経の焼き直しであったり、完本でない物、主観的に面白く無い物も含めて、訳出に至らなかったというのが実情である。
古浄瑠璃正本集第1の(18)は、「あかし」である。若狭守藤原吉次の作品として、正保2年、山本久兵衛板として出版された。この物語は、御伽草子「明石物語」の焼き直しであるが、ようやく訳出し甲斐がありそうである。

あかし ①
その昔、播磨の国に、明石左衛門重次(あかしさえもんしげつぐ)というお殿様がおりましたが、年取っても世継ぎがありませんでしたので、熊野権現に申し子をしました。祈誓の霊験が現れて、生まれて来たのは、男の子でした。その子は、成長するに従って、文武両道に人並み以上の能力を発揮しました。そして、十五の歳に、元服し、明石三郎重時(しげとき)と名乗ったのでした。次に、父重次は、重時の嫁探しをしました。津の国の多田刑部家高(ただのぎょうぶいえたか)が、器量の良い娘を持つと聞いて、使いを出しました。快諾の返事がありましたので、多田の姫君を重時の妻として迎え、二人は仲睦まじく暮らし初めましたが、父も母も、安心したのか、相次いで亡くなったのでした。
それから、3年が過ぎた頃、姫君は、熊野詣にお出かけになりました。この時、熊野には、七条天下の宮(又の名を高松の中将殿)が、同じく参籠されていました。天下の宮は、姫君の花の姿を見るなり、一目惚れをしてしまい、そのまま都に帰って、恋の病に伏してしまったのです。
天下の宮は、乳母の太夫に、
「軍勢を揃えて、明石を討ち、姫奪い取るぞ。」
と、言いましたが、太夫は、
「いえいえ、明石という者は、文武の名を馳せた武士ですから、そう簡単に、討ち破ることはできないでしょう。ここは、舅の多田刑部を呼び出して、姫を取り返す様に申し付ければ、嫌とは言わないでしょう。」
と、悪知恵を授けるのでした。天下の宮は、早速に多田を召し出して、
「やあ、多田の刑部よ。お前の聟の明石を討ち、姫をこの中将に嫁がせよ。その返礼には、播磨六カ国を与える。」
と、命じたのでした。多田の刑部は、これをお受けすると、飛んで帰り、四人の子供達を集めて、こう言いました。
「天下の宮様からの宣旨というのは、明石を討って姫をくれよという事であった。この命令を引き受けて来たから、お前達で、明石を討つ相談をせよ。」
これを聞いた、太郎は、
「父上の御諚に背くわけではありませんが、六カ国はさて置き、例え日本国をくれると言われても、婿殿を討つことなどできません。どうか思い留まり下さい。」
と、願い出ました。多田は、大変腹を立て、二郎に問い正すと、二郎も同じ返事でした。多田はいよいよ怒って、
「なんと不甲斐ない奴原じゃ。おまえたちを出世させる為に、色々知略を巡らせているというのに。ええ、今日よりは、親子の縁は切ったぞよ。」
と、言い捨てると、奥へ入ってしまったのでした。太郎・二郎の兄弟は、これを菩提の機会として、出家をすると、修行の旅に出てしまったのでした。この兄弟の心の内の哀れさは、何に例えん方もなし。

つづく


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ⑥ 終

2014年06月23日 12時43分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ⑥ 終

  さて其の頃、常陸の国の国主、佐竹の形部左衛門殿は、毎年欠かさず熊野詣をされていました。今年も、栗本房、尚信法印を先達にして、熊野へと向かわれました。佐竹殿を初めとして、お供の者一千七百余人は、やがて三つの御山に籠もられました。すると、夜半になって不思議な事が起こりました。御内陣の中から、金色の光が輝き出したのです。人々がこの光を拝んでいると、権現様が顕れました。ところが、予想外にも、権現様は、遥か末座に座っていた横曽根の平太郎という者に対して合掌をなされて、又陣内へと戻られたのでした。これを見ていた、佐竹殿は腹を立て、栗本房と尚信に向かい、

 「私はこの山に、毎年参籠しているというのに、たいした利益も無い。ましてや、御房達の様な聖人に対して奇蹟が起こったのなら、恨みも無いが、あの様な、卑しい人夫風情に、後光が射し、その上権現が、礼拝までするとは、いったいどういうことか。こんなものを、信じてられるか。もう帰るぞ。」

 と怒鳴るのでした。栗本房も尚信も、佐竹殿をなだめて、

 「確かに、仰せはご尤もです。佐竹殿は既に二カ国の立派な主であり、位の高いお家柄であるのに、相手にされず、道端の死人を弔う、あの様な卑しい男に礼拝するというのは、きっと何か、特別な事情があるに違いありません。もう二三日、お籠もりあって、夢のお告げをお待ちになった方が良いと思います。」

 と、進言したのでした。佐竹殿は考え直して、山籠もりを続けることにしました。そうして三日目の明け方に、御内陣から、お声がして、一首を詠じました。

 「千早振る 玉のすだれを 巻き上げて 念仏の声を 聞くぞ嬉しき」

 これを、聞いた佐竹殿は、有り難や有り難やと、念仏を三遍唱えたのでした。熊野権現は喜んで、もう一首を詠ずるのでした。

 「卑しきも 高きも並べて 頼みつつ 南無阿弥陀仏と 言うぞ 嬉しき」

 佐竹殿は、これを聞くなり、

 「ははあ、これより、私は念仏の行者となります。」

 と答えると、夢が覚めました。早速、栗本房と尚信法印に、夢のお告げを話すと、二人は、

 かの平太郎を呼んで、話しを聞くように勧めました。佐竹殿が平太郎を招きましたが、平太郎は、そんな高い身分の人と同席はできぬと、固辞しました。そこで、佐竹殿は、自分から平太郎に近付くと、

 「この間は、どうしてあの様な、霊験を受ける事ができたのか。」

 と、尋ねたのでした。平太郎は、こう答えました。

 「いや、なんの心当たりもありませんが、只、私は最近、親鸞上人様の弟子となり、一大事を授かって、念仏行者となったのです。それからは、身分の高い人を羨まず、身分の卑しさは気にせず、自分に辛く当たる者がいても敵対せず、明けても暮れても、只、一心一向に念仏を唱えるだけです。ひょっとすると、このことが、今回の不思議な出来事の原因かも知れません。」

 これを、聞いた佐竹殿も、二人の山伏も、頭巾篠懸を金繰り捨てて、この平太郎の弟子となったのでした。佐竹形部左衛門は、それから平太郎を伴って、上洛なされ、今回の霊験を奏聞しました。御門が、

 「此の度の、希代の霊験。どうすれば、その様に神慮に叶うのか。」

 と問うと、平太郎は畏まって、

 「ははあ、この頃、常陸の国へ親鸞上人がいらっしゃいましたので、常々説法をうけまして、一大事を授かりました。これ以外に、心当たりは御座りません。」

 と答えたのでした。すると、御門は、

 「そもそも、仏の加護を願うのに、神慮による霊験を受けるのは何故か。」

 と聞きました。平太郎は又、畏まって、

 「去れば、神と言いますのも、その根源は、仏様でいらっしゃいます。例えば、伊勢大神宮を御神(おんじん)と拝めば、五智の如来を拝むことであります。外宮四十末社は、弥陀如来。内宮八十末社は釈迦如来。ですから、伊勢道(いせみち)を四十八町に踏み分けますのは、弥陀仏の四十八願を表しているのです。」

 と、申し上げるのでした。御門は、感心なされて、

 「おお、平太郎は、大変な知者である。」

 と言うと、忝くも平太郎に、「神仏上人」という名を下されたのでした。驚いた平太郎は、

 「親鸞様を、上人とはお呼びこそすれ、私は神仏房で結構です。」

 と辞退するのでしたが、綸言汗の如し。平太郎は、神仏上人となって、常陸へとお帰りになられたのでした。

  さて、其の頃、都では不思議な事件が起きていました。突然に三日の間、洛中は真っ暗な闇に包まれたのでした。大に驚いた御門が、天文の博士に占わせてみますと、博士は、

 「むう、これは、都に御座あるべき上人様が、いらっしゃらないので、天の咎めが下っているのです。」

 と答えるのでした。御門が、

 「急いで、親鸞上人を、都へ戻す様に。」

 と、宣旨なされると、直ちに勅使が、常陸の国へと急行しました。勅命を受けた親鸞上人は、鹿島の神主に笈を負わせて、都へ向うのでした。さて、その道中、相模の国、国府津(こうづ:神奈川県小田原市)という所に来ますと、背丈五尺ぐらいの大関が、がき苦しんでいるの会いました。親鸞上人が、その指で、「帰命尽十方無礙光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)と書くと、直ちに文字が顕れ、大関の命は救われたのでした。今に至るまで、帰命堂というのはこのことです。(真楽寺帰命堂)親鸞上人は、ここで七日間、御法談をなされました。それから、親鸞上人が箱根の御山を越えようとする時、箱根権現は、60歳ぐらいの尼公となって顕れました。箱根権現は、他力易行の念仏を授かると、親鸞上人を様々にもてなすのでした。京までの途次、これ以上に様々の不思議なことがありましたが、ようやく都にご到着になった親鸞上人は、早速に参内されました。御門は、

 「京洛中において、衆生済度をしてください。」

 とお頼みになりました。こうして、親鸞は、西洞院、押小路の東側(京都市中京区二条西洞院町663付近)の辺りで、御説法を始めたのでした。神仏上人は、早速に佐竹殿を、親鸞上人の所へ連れて行き、一大事を与えてもらいました。こうして佐竹殿と神仏上人は、常陸の国にお帰りになり、稲田の里にお寺を建て、布教をしました。さて、親鸞上人は、それからも広く御説法されましたが、御年満九十の年に、西方安養極楽世界へお帰りになりました。東山(善法院)にて弔いが行われ、お骨は大谷に納められました。大谷本願寺というのは、この時にできたのです。親鸞亡き跡を継いだのは、如信上人です。(孫:嫡子善鸞は勘当された)それより代々、知識が輩出し、浄土真宗は、日本第一の宗旨として栄えるのです。真宗に、宗旨変えをしない者はありませんでした。

 おわり

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ⑤

2014年06月21日 19時08分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ⑤

 親鸞上人は、ある時人々を集めて法談をするために高座を飾り付けました。国中から老若男女が門前に市をなす程に集まり、上人の御説法を今や遅しと待っております。やがて、親鸞上人が高座に上がられて、法話が始まりました。

 「さて、正月というのは、歳徳神(としとくじん)と言いまして、広く人々がお祝いを致しますが、その根源を尋ねてみますと、阿弥陀如来でいらっしゃいます。そういう訳ですから、私の法では、貧富にかかわらず只、念仏を唱えよと言うのです。又、七月には、精霊を祀りますが、そこでは、輪廻から解脱するために、七仏通を唱えることが重要です。(七仏通誡偈)ですから、それぞれの家で先祖を祀る必要は無いのです。さて又、修多羅(しゅたら)の経というものは、月を指差すその指の様なものです。あれが月だよと、指指しますが、次に見る時にはもう、指は必要無いでしょう。仏も同じこと、念仏以外の雑行(ぞうぎょう)は、いらないのです。八万諸経は、それぞれに仏を指し示していますが、すべて阿弥陀仏に集約され、五輪卒塔婆でさえ、阿弥陀の誓願に叶うものですから、なんの障りも無いのです。ですから、只、一心一向に、南無阿弥陀仏、お助け下さいと、信心深く唱えなさい。そうすれば、地獄に落ちるなどということは、決してないのです。」

 誠に有り難い説法に、鹿島の大明神も、二十丈(約60m)ばかりの大蛇になって聞き入っていました。それから明神様は、三十ばかりの男と姿を変えると、

 「大変有り難い教えです。」

 と、頭を垂れて、礼拝をなされるのでした。親鸞上人は、すぐに鹿島大明神の化身であると見抜くと、

 「おお、お気の毒に。五衰三熱の苦しみのために、ここまでいらっしゃったのですね。さあさあ、そうであれば、早速に、他力本願の易行念仏(いぎょうねんぶつ)をお授けいたしましょう。」

 と、御十念をお授けになったのでした。すると、大明神は、立ち所に五衰三熱から逃れることができたのでした。大明神は、有り難や有り難やと礼拝されると、

 「見たところ、ここには御手水水(ごちょうずみず)が出るところがありませんね。それでは、私が御報謝いたしましょう。」

 と、仰ると、鹿島の方を手招きなるのでした。すると、忽ちに井戸が湧き出で、滝の様に流れ出しました。(神原の井戸)更に手招きをされると、今度は、神馬に跨がって大天狗が現れました。大天狗は、御簾と御帳を抱えてきました。大明神が、

 「どうぞ、これをお使い下さい。」

 と、親鸞上人に献げますと、上人は、忝しと受け取って、

 「それでは、此上は、法名を授けることにいたしましょう。」

 と、鹿島大神宮に『釈信海』(しゃくしんかい)という法名を授けたのでした。大明神は大変喜んで、鹿島へとお帰りになったということです。ところが、その頃、鹿島神宮では社人達が大騒ぎをしていました。ご神前の御簾や御帳が無くなってしまったのです。慌てふためいている所へ、今度は、昔からある七つの井戸の内のひとつが、突然消えてしまったという知らせが入りました。人々は、いったい何が起こったのかと、話し合いましたが、埒も明きません。

 「御簾と御帳は、人が盗むということもあろうが、井戸がなくなるというのは、いったいどういうことだ。これは、天下に災いがある兆しではないか。あるいは、我々社人に何か災難が起きるのかも知れない。大明神にお供え物をして、ご託宣を伺う外はあるまい。」

 ということになりました。お供えをすると、やがて、十四五ぐらいの子供が、託宣を口走り始めました。

 「我は、この社の神霊なり。五衰三熱が苦しいので、親鸞上人に会いに行き、他力易行の念仏を授かった。その上、釈信海上人と法名を受けた。それで、親鸞上人に、井戸や御簾を報謝としてお渡しした。これからは、よくよく、親鸞上人を尊んで拝むように。」

 或る神主は、この託宣を知識に種として、早速に親鸞上人の御弟子となり、後々、都までお供をされたということです。兎にも角にも、親鸞上人の尊さは、何にも比べ様がありません。

 つづく

Photo (別板:東大本より)

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ④

2014年06月21日 09時58分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しんらんき ④

さて、越後の国府に流されていた親鸞上人は、ある時、共の者も連れずに只一人、常陸の国へ向かわれました。親鸞上人は、自ら笈を背負い、道中の所々で逗留しながら説法をして回りました。やがて、常陸の国笠間郡稲田と言う所にお着きになられると、ここに草庵を結ばれ、布教活動をされたのでした。(西念寺:茨城県笠間市稲田)
それはさて置き、其の頃、常陸の国には、山伏が多数おりました。山伏達は、

 「この上人が、来てからと言うもの、山伏の霊験を頼る者がいなくなった。」

 と愚痴をこぼしていましたが、中でも妙法坊という山伏は、

 「この上は、この坊主を殺害して、山伏達の瞋恚の怒りを静めよう。」

 と考え、触書を書いて国中に回しました。やがて、恨みをもった山伏達が大勢集まってきました。その数は総勢24名でした。妙心坊が、

 「皆さんお聞き下さい。親鸞とやらが、この国に来てよりこの方、山伏を頼りにする者も居なくまりました。こんな無念なことはありません。なんとかしてこの上人を殺害して、我々の法術を繁盛させようではありませんか。」

 と言うと、人々は喜んで、親鸞を待ち伏せして殺すことにしたのでした。親鸞上人がいつも通るという山道に、待ち伏せして、今や遅しと待ちましたが、その日は、親鸞上人は山道を通らず、遥か下の谷を通られました。山伏達は悔しがって、今度は谷に下って、上人が来るのを待ちました。するとその日は、上人は山道を通られます。次に山伏達は、山と谷に分かれて待ち伏せをしましたが、とうとう親鸞上人はお通りになりませんでした。山伏達は、集まって、

 「やはり、この上人は、通力自在だ。」

 と、騒ぎましたが、妙法坊が、

 「いやいや、皆さん聞いて下さい。そもそも、稲田の草庵を踏み破って討ち入り、吊し上げて首を掻き切ってやるつもりだったのですから、こうなったら、稲田の里に攻め込みましょう。」

 と言いますと、心得たりとばかりに二十四人の人々は、稲田の里へ急行して、親鸞上人の草庵を二重三重に取り囲んだのでした。山伏達が、我先にと争っていると、親鸞上人が現れました。皆水晶の数珠をつまくりながら、念仏をお唱えになっておられます。どこにも気負った所も無く平常心そのままです。二十四人の山伏は、逃がさぬぞとばかりに取り囲んで、太刀を抜き放ちました。しかし、山伏達は思わず、親鸞上人のお姿を尊く感じて、切り込むことができません。いったいどうしたことかと、思っていると、なんと不思議なことに、空から花が降り始め、異香が漂い、菩薩がご来迎されたのでした。親鸞上人のお顔は、金色の光で輝き、そのお姿は、阿弥陀如来として顕れたのでした。妙法坊を初めとして二十四人の山伏達は、持つ太刀もへなへなと取り落として、忽然と仏事に目覚めたのでした。人々は皆、頭を地に付けて、

 「さても、有り難し、有り難し。上人様が仏様でいらっしゃるとは、露にも知らず。このような事を思い立つ事の浅はかさよ。」

 と、涙を流して、

 「これからは、悔い改めて、上人様の教えに従いますので、どうか御法話下さい。」

 と懇願するのでした。すると、親鸞上人は、元のお姿にお戻りになり、

 「おお、容易いことです。そこで、よっく聞きなさい。阿弥陀の本願は、どのような悪人、女人であろうとも、南無阿弥陀仏を念じさえすれば、必ず極楽へ救い取るという誓願です。あなた方が、どんなに大悪人であっても、一心一向に、南無阿弥陀仏と唱えるのなら、成仏は疑いありません。南無阿弥陀仏。」

 と、お話になり、念仏を唱えるのでした。二十四人の山伏達は、頭巾、篠懸を金繰り捨てると、皆々そろって弟子となりました。まったく、親鸞上人の御法力は大変なものです。中々、言葉には尽くせません。(関東二十四輩)

 つづく

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ③

2014年06月20日 20時05分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 しんらんき ③  

ある時、都周辺の碩学(せきがく)が集まって、こんなことを話し合ったのでした。

 「この頃、法然や親鸞の教えが、どこでも、もてはやされているのは心外である。此奴等の教えが正しいとはとても思えない。」

 「こんなに人々を引きつけるのは、きっと魔法の様なものを使っているのに違い無い。怖ろしいことだ。このことを奏聞して、遠島にさせてやろう。」

 そうだそうだ、この二人をやっつけようということになり、早速に参内すると、

 「近年、法然、親鸞は、日夜朝暮に、専修一行(せんしゅいちぎょう)の法という教えを説き広めています。洛中の老若男女貴賤を問わず、夥しい人々がこの法談を聴聞するために集まって来ます。この二人は、魔法を使っているのです。このような群衆を放置しておいては、国の乱れに繋がります。何とかして下さい。」

 と、口々に奏聞するのでした。御門はこれを聞いて、

 「一宗と一宗の争いであるなら、嫉みの訴えとも考えるが、全ての宗派が揃って、そのように申すのであれば、釈尊の教えに反する教えなのであろう。この二人の僧を、島流しとせよ。」

 と、宣旨するのでした。碩学達は、喜んでそれぞれの寺へと帰って行きました。そして、法然上人は、土佐の番田(はた)(高知市)へ、親鸞上人は、越後の国府(こくぶ)(上越市:五智国分寺)への流罪が決まったのでした。

  法然上人は、親鸞上人に、

 「さて、今までは、ひと所に流されるものと思っていましたが、そうではなくて、互いに遠い国に別れ別れとなるとは、誠に名残惜しいことになりました。」

 と涙ながらに言うのでした。親鸞上人も、

 「愚僧も、内々、御一所にと思っておりましたが、残念ながら、上人様は土佐の番田へ、愚僧は越路へと聞いて、大変心細く思っております。」

 と、涙ぐんでいます。やがて、法然上人が、

 「さて、現世は、老少不定(ろうしょうふじょう)。遅れ先立つ事もあるでしょうから、必ず西方安楽世界で、お会いいたしましょう。」

 と言えば、親鸞上人は、

 「そうですね。あちらの世界でお会いいたしましょう。」

 と、互いに袖に縋りついて、嘆き合うのでした。住蓮房、安楽房を初め、多くの弟子達は、この有様を見ると、

 「ああ、明日からは、法然上人とも、又親鸞上人とも、一体どなたを、拝めばよいのですか。」

 と、一同、声を上げて泣き叫ぶのでした。まったく、釈迦の御入滅の場面を見る様です。二人の上人は、会者定離の習いは、今更驚くことでもないと、それぞれに最後の説法をするのでした。

 「互いに恋しいと思うのなら、片時も怠らず念仏を唱えましょう。そうすれば、安養安楽世界に救われるでしょう。さらば、さらば。」

 と、二人の上人が立ち別れる時、弟子達は、法然、親鸞の衣の袖に縋り付いて、声を上げて泣くのでした。やがて、法然は土佐の番田へ、親鸞は越後の国に流されたのでした。

  それからというもの、何人も、念仏した者は、一族郎党諸共に罪科に問われる事になったのです。都の人々は、王意に背くことはしませんでしたが、口は閉じて、内心では念仏を唱えて暮らしたのでした。住蓮房と安楽房は、法然、親鸞上人に別れた後、しばらく呆然としていましたが、咎めがあろうとも、念仏をやめようとはしませんでした。或る日、念仏禁制を取り締まる武士達が、この念仏の声を聞き付けて、寺中へ踏み込んで来ました。

 「念仏禁制と触れているのに、念仏するとは、お上を軽んじるのか。」

 と、二人の僧を縛り上げました。時の奉行は、二人を投獄すると、参内して事件の奏聞をしました。宣旨の内容は、斬首でした。早速に二人の僧は、五条河原に引き据えられてしまったのでした。二人は、

 「上人達には、ご心配をかけますが、我々が一足先に、彼の岸でお待ちいたしましょう。」

 と覚悟を決めると、声も高らかに念仏を唱え始めたのでした。その時、一人の太刀取りが近付いて、こう問いました。

 「このような災難に遭っても、念仏さえ唱えれば、助かるのか。」

 安楽房は、これを聞いて、

 「おお、これは良いお尋ねですね。魂には、永遠の家はありませんし、五体の主も永遠ではありません。どうして、念仏することが、悔いになりましょうか。『一念弥陀、即滅無量罪』と言うのですよ。あなた方の様に、咎深き人間も、一心に阿弥陀仏を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、その罪は、たちどころに消えて、成仏することができるのです。」

 と、念仏の尊さを説くのでした。しかし、太刀取り達はやがて、後ろに廻り、

 「御房、何度、念仏をお唱えても、この太刀先には敵うわけがない。この太刀を受けて見よ。」

 と言うなり、お首をバッサリと刎ねました。二人の首は、前に飛んで落ちましたが、その首が念仏を三遍唱えたのでした。人々は、驚いて、奇蹟が起きたと、心の中で念仏を唱えました。太刀取りは、その人々の様子を見ると、

 「ええ、何が奇蹟だ。念仏している所を討ったので、そのように聞こえたのにすぎぬわい。只の気の迷いだ。さあ、獄門に上げるぞ。」

 と息巻いて、二人の首を、五条河原に曝したのです。ところが、不思議な事に、二人の太刀取りの一人は、突然血を吐き、今一人は、泡を吹いて、ばったりと倒れてしまったのでした。驚いた人々が、御僧達の首を見ていると、一人の首には後光が射し、もう一人の口からは、青蓮華(しょうれんげ)が顕れました。まさに菩薩が来迎したのでした。この有様を見た人々は、有り難し、有り難し、これこそ菩薩だと、拝まぬ人はありませんでした。

 つづく

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ②

2014年06月19日 19時02分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しんらんき  

内裏において、善信房が歌の名誉を受けたことは、まるで仏の化現を思わせる様な出来事でした。さて、ある時、善信房は、修行のため六角堂(紫雲寺頂法山)にお籠もりになりました。すると不思議な事に、満月の夜に、観音様が白衲(びゃくのう)の袈裟をお着けになって、善信房の枕元に立たれたのでした。観世音は、有り難い事に四句の文をお授けになったのでした。

「行者宿報設女犯(ぎょうじゃ しゅくほう せつにょぼん)

  我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょ しん ひぼん)

 一生之間能荘厳(いっしょうしけん のう しょうごん)

 臨終引導生極楽」(りんじゅう いんどう ごくらく)

 (そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。)

 「これは、私の誓願である。一切の衆生にこれを説き聞かせなさい。」

 と仰ると、観世音は、掻き消す様に消えたのでした。善信房は、夢から覚めると、かっぱと飛び起きました。それから、善信房は、思う所があって、黒谷(京都市左京区岡崎:光明寺)の法然上人を尋ねました。すると、法然上人は、こうお話になるのでした。

 「昨夜、不思議な事に、六角堂の観音様の夢を見ました。」

 そうして、授かったという四句の文をお書きになったのでした。それは、善信房が授かった四句の文とまったく同じものだったのです。こうして、善信房は、法然上人と師弟の契約をなされたのでした。時に、善信房、御年二十九歳のことです。善信は大変優秀であったので、どちらが師匠でどちらが弟子か分からない程でした。

  さてその頃、九条の月輪殿(関白太政大臣九条兼実)は、法然の説法をご聴聞なされて、仏智にお近づきになっておりました。その日も、沢山のお供を連れて、黒谷へお参りになりました。月輪殿が、法然上人に

 「この間は、都合がわるくなって、お参りすることができませんで、申し訳ありません。」

 と言いますと、法然上人は

 「何処に居ようと、心にさえ掛けておられるのなら、阿弥陀の本願から漏れることはありません。阿弥陀の本願と言うものは、『本は、凡夫の為、予ては聖人の為』(歎異抄の引用)にあるのです。」

 とお話になったのでした。九条の月輪殿は、仏法に深い理解がある殿上人でありましたので、

 「これは、誠に有り難いお話です。この上は、どうか御弟子の中からお一人、私に戴きたい。それを菩提の知識とし、後世の成仏を願いたいと思います。」

 と願いました。法然上人は、

 「委細、承知。」

 と答えると、善信房を呼んで、九条殿へ移るようにと命じたのでした。善信房は涙を流して

 「どうして、その様なことを仰せになられるのですか。思いも寄らない事です。」

 と、断りましたが、法然上人は、

 「おまえの気持ちも尤もなことではあるが、これも私の義ではないぞ。これこそ六角堂の観世音の教えなのだ。六角堂で授かった四句の文の説く所は、まさにここだぞ。何の疑いがあろうか、早く用意しなさい。」

 と迫るのでした。善信房は、法然上人とは離れがたく感じましたが、四句の文の教えを考えれば、観世音の教えに逆らうわけにもいかず、法然上人のお計らいと自分を、無理矢理に納得させて、九条殿へとお移りになられたのでした。九条の月輪殿は、大変にお喜びになって、そのまま、娘の玉女(玉日)を、坊守(ぼうもり:真宗僧の妻)に備えたのでした。

  親鸞上人は、こうして真宗という法を確立なされて、一向専修の法を、お説きになられました。都中の老若男女が貴賤を問わず、こぞって聴聞にやってきたので、夥しい人々が、親鸞上人の説法を聞いたのです。親鸞上人は、高座に上がられて、第十八願をお説きになられました。

 「説我得仏 十方衆生(せつがとくぶつ じっぽうしゅじょう)

 至心信楽 欲生我国(ししんしんぎょう よくしょうがこく)

 若不生者 不取正覚」(にゃくふうしょうじゃ ふしゅしょうがく)

 「この文は、『もし、私が仏になる時、すべての人々が、心から信じて、少しも疑わずに、仏の国に生まれたいと願って、念仏を唱えたのに、もし、救われ無かったのなら、私は、決して悟りを開きません。』と言っているのです。又、いろいろな修行も一切やめて、一心一向に念仏を唱えなさいという教えは、神にお祈りをするなということではありません。何故かと言えば、神も仏も、これは、水と波の違いでしかありません。神というのも元々は仏様なのです。仏様は、衆生を済度する為に、あちらこちらに神々として顕れて下さり、色々な奇蹟をなされるのです。ですから、水を指して仏と言ったり、波を指して神と言ったりしますが、一滴万水、根本は只一つなのです。このように考えて行きますと、根源の阿弥陀如来を念ずれば、神様にも必ず通じていることになるのです。特に、皆さんの様に、愚痴無知の人々は、未だ目にもしない遠い未来のことを念ずより、今現在の利益を、身に余る程願いますが、そうした祈誓の為に、神様は、五衰三熱の苦しみを味わっておられるのですよ。明けても暮れても六塵の煩悩にまみれて、いつまでもこの国に居たいと願っている人ばかりですが、この世は、一休の世界と言って、一休みをする国でしかないのです。永遠の国である後世での成仏を願わなければ、あっと言う間に、地獄へ落ちてしまうのですよ。そんな悲しい事にならない様に、私は、皆さんに説法をしているのです。さあ、皆さん。この教えを信じ、雑行雑修(ぞうぎょうざっし)の心を振り捨て、一心一向に「南無阿弥陀仏、助け給え」と念じなさい。もし、念じた人が一人でも地獄に落ちたのなら、私はその人に替わって八万地獄に落ちるでしょう。南無阿弥陀仏。」

 親鸞上人のお話を聞いた人々は、弥陀如来の化現であると、皆涙を流して拝むのでした。

 つづく

 


忘れ去られた物語32 古浄瑠璃 親鸞記 ①

2014年06月18日 16時30分23秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

  真宗のご本家、東本願寺は、親鸞伝の最高峰である「親鸞伝絵」以外の親鸞伝を、極力排斥した。親鸞に関する人形操りの上演中止どころか、正本の出版すら禁止したのである。これは、説経が寺社仏閣と仲良しなのと対照的なことである。説経者は、例えば関蝉丸神社に身分的に属していて、上納金も納めていた。納めなければ、興行は出来なかったからである。説経者はその点、定められたメッセンジャーであったのかもしれない。これは、単なる想像だが、浄瑠璃者は、そういう意味で自由者だったのかもしれない。東本願寺は、神聖な親鸞伝が、文芸的に書き替えられて行くのも我慢できなかったし、有料のありがたい『親鸞伝絵』を自分たちで、独占しなければならなかった。しかし、親鸞記物は、名を変え、品を変えて次々と世に送り出されたようである。裏を返せば、親鸞上人には絶大な人気があって、ドル箱だったということが言えるのだろう。 

 古浄瑠璃正本集第1の13には、版元も刊期も太夫も不明の古活字本「しんらんき」(龍谷大学蔵)が収録されている。古活字であることから、寛永年間(1630年代)の作品と推定されている。

 

しんらんき

  天竺(インド)では天親(てんしん)菩薩、唐土(中国)においては、曇鸞(どんらん)がいらっしゃいますが、日本では、天親の親と、曇鸞の鸞とを合わせて、親鸞上人がお生まれになったのです。その由来を詳しく尋ねることにいたしましょう。
 さて、神武天皇より七十七代、後白河の院の御代のことです。天児屋命(あめのこやね)の末裔で、大織冠鎌足より二十一代、皇太后宮大進(こうたいごうぐうだいじん)日野有範(ありのり)という公卿がありました。有範卿には、子供が一人おりました。松若丸と言います。松若丸が九才の春のことです。有範卿は、こう考えました。
『さて、比丘(びく)は、洛陽の風の前で、生死の境を滅却するのだという。それに比べて、私は貪瞋痴(とんじんち)の三毒に迷い、煩悩に捕らわれて、彼岸へ到達することなど、覚束ない。我が子を慈鎮和尚(じちんかしょう:慈円)の弟子にすることで、これを菩提の種として、後世の成仏を願うことにしよう。』
 そして、松若丸は、叡山へと送られることになったのでした。慈鎮和尚は、松若丸にご対面なされると、

「おお、なんと容顔美麗の子供であることか。どう見ても、只人には見えない。おそらくは、菩薩の再誕であろう。」
 

と、感嘆して、その場で出家させると、お名前を、善信房とお付けになったのでした。 

 ある時、慈鎮和尚のお歌が、都の噂となりました。その歌というのは、こうです。
 

「我が恋は 松の時雨の 染めかねて 真葛が原に 風騒ぐらん(なり)」(新古今和歌集1030)
 

あまりに評判になったので、御門までも、
 

「そもそも、知識の大僧正が、恋をすることがあるのか。それ、勅使を立てて、子細を聞いてまいれ。」
 

と、言う程です。その時、三条右大将が進み出でて、
 

「お言葉ですが、歌人というものは、『行かずして名所を知る』と言う喩えもありますので、一先ずは、座主(ざす)のお心を、お試しあってはいかがでしょうか。」
 

と進言しました。御門も、尤もお考えになり、「雪中の鷹」というお題を出されて、叡山へと送ることになったのでした。 

 慈鎮和尚は、「雪中の鷹」の題をご覧になると、すぐに一首、お詠みになりました。慈鎮和尚は、その一首を善信房に持たせ、勅使と共に内裏に向かわせました。さて、内裏では三条の右大臣が、慈鎮和尚の御歌を吟じました。 

「雪降れば 身に引き添うる 鷂の(はしたかの) 手先(たなさき)の早や 白うなるらん」 

この返歌に、宮中の人々は、大変感心し、御門は、遣いの善信にも、一首を所望したのでした。突然の勅宣に、善信は驚きましたが、即座に、 

「鷂の 身よりの羽風 吹き立てて 己と払う 袖の白雪」 

とお詠みになったのでした。御門は、この歌にも大変感心されて、善信の氏を問いました。善信坊は、若狭の守と答えたので、御門は
 

「おお、それでは、そのような立派な歌が詠めるのも尤もなこと。そなたの祖父も師匠も、世に抜きんでた歌人じゃからな。」
 

と、勿体なくも、身につけていた白い御衣を善信房に下されたのでした。有り難しと喜んだ善信坊は、その白い御衣を、襟巻きにされると、御前を下がったのでした。今日に至るまで御開山大上人の御襟巻きと言うのは、この襟巻きなのです(正しくは帽子(もうす))。誠に、仏様の化身であると、善信房を拝まない者はありませんでした。
 

つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ⑥終

2014年06月01日 11時34分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ⑥終

さてその頃、中将殿は、牢獄から引き出されて、もう由比ヶ浜に引き据えられていました。

Tyuu16

敷皮を敷いて西向きに座り直して、中将殿は、

「さて、皆さん聞いて下さい。十二年もの長い間の牢暮らし、とうとう今日限りの命となりました。無念なことではありますが、暫しの猶予をお与え下さい。末期の一句の代わりに、成仏の御法を説いてお聞かせ致しましょう。」

役人達は、これを聞いて、

「おお、仰る通り、我々は、朝な夕なに、人を殺すのが仕事。有為も無為も分かりません。それでいて、又我々も、何時かは行かなければならない道ですから、成仏の道を聞かせて下さい。」

と、言うのでした。こうして中将殿は、話し始めたのでした。

「それでは、語って聞かせましょう。そもそも、仏法の始まりは、釈迦如来が霊鷲山においてお説きになられた事どもです。四十余年に渡ってお説きになったお言葉が、お経となったのです。それは、華厳経に阿含経、方等経に般若経等です。これらのお経に関して、四人の御弟子が釈尊にいろいろ質問しましたが、御釈迦様はこう答えたそうです。

『いろいろな経は、即身成仏を成し遂げる為の方便に過ぎない。つまり、家を建てるのに足場を造るようなものだ。それでは、誠の経を説くことにしよう。』

そうして、説かれたのが「法華経一部八巻二十八品」文字の数、六万九千三百八十余字の一字一字が、全て金色の仏体です。三世の諸佛の本願は、一切衆生が成仏する直道を顕すことなのです。ですから、愚痴も無知も、「妙法蓮華経」を唱えれば、法華経一部を読むのと同じ功徳が顕れ、即身成仏は疑い無いのだと得心なされなさい。」

これを聞いた、人々は、

「これは、本当に有り難いお経です。一時なりとも、執行を延ばしましょう。」

と、休んでおりますと、梶原が乗った馬が飛んできました。梶原は、

「それ、切るな。」

と、呼ばわるのでした。喜んだ役人達は、その縄も解かないで、急いで中将殿を、御所まで運びました。

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中将殿が、大庭に引き据えられると、頼朝は、

「中将を、この稚児に取らせよ。」

と言いました。摩尼王は、急いで走り寄ると、中将の縄を解き、醒め醒めと泣くばかりです。中将は、我が子とも知らずに、驚いて、

「どうして、そんなに悲しんでいるのか。」

と尋ねると、摩尼王殿は、涙をおさえて

「はい、私は、母の胎内で別れた嬰児です。母上様から、父上様のことをお聞きして、まだ生きていれば対面し、もう死んでいれば、弔おうと考えて、ここまで尋ねてきましたが、頼朝公のお情けにより、ここにこうしてお会いすることができました。うれしや。」

と、言うと父に飛びつきました。中将は、

「おお、さては我が子か。」

と、喜びの涙がこみ上げるのでした。それから、頼朝は、大橋の中将に本領の壱岐と対馬を安堵し、摩尼王を「左少将晴純」と任官して、四国九国を与えたのでした。親子の人々は目出度く筑紫に帰り、栄華に栄えたということです。これも偏に、法華経の功力であると、言わない人はありませんでした。

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おわり

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ⑤

2014年06月01日 10時35分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ⑤ 

鶴岡八幡宮に参拝した二人は、手を合わせて、

「南無や、八幡宮。私たちが、遙々筑紫より、この国までやって来たのは、母の胎内で別れた、父の大橋を探すためです。どうか、父に会わせて下さい。」

と、深く祈願すると、彼の法華経を取り出して、声高らかに読誦を始めたのでした。今では松若も、すっかり法華経を覚えていましたので、二人は、声を合わせて読誦するのでした。

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その場に居合わせた参拝の人々は、このお経を聴聞すると、帰ることも忘れて聞き入りました。人々は、

「なんと有り難いお経であることか。これを聞かないで、何を聞く。」

と、言って、折り重なる程に詰め掛けて、じっと耳を傾けるのでした。そこへ、右大将頼朝の御前様が参拝なされました。御前様は、この有様に驚いて、『これはまあ、不思議な事です。まだ幼い者が、この様に尊くもお経を読むとは、これはきっと、八幡様が顕れたに違い無い。』と、お考えになり、安藤七郎を呼ぶと、

「これ、七郎。ここに居る稚児を、ここに留めておくように。」

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と、言いつけて御所に急いで引き返したのです。御前様は頼朝公に、

「今、鶴岡八幡宮にお参りに行って参りましたが、大変不思議なことに、十二三歳の子供が二人、法華経を読誦して居るのに出合いました。このお経が大変素晴らしく心に沁みるのです。この稚児を、招いて、是非、ご聴聞して下さい。」

と勧めるのでした。頼朝は、梶原源太景季に命じて、その二人の稚児を、急いで連れて来る様に命じました。早速に源太は、八幡宮に行き、摩尼王を見つけると、

「それなる稚児。我が君、頼朝公がお召しである。早くこちらへ。」

と呼ぶのでした。摩尼王は、

「なんと、有り難や。これぞ、鶴岡八幡のお導き。」

と思って、源太に連れられて、八幡宮を出ようとしましたが、安藤七郎は、

「いやいや、その儘のお姿では、余りに見にくい。この衣装にお着替えなされよ。」

、上等な小袖と大口袴、それに水干を差し出すのでした。摩尼王は、

 「いや、旅の墨衣の儘で結構です。」

 と断りましたが、七郎が、

 「いやいや、御所にてのお経は、八幡宮のそれとは違いますよ。どうぞお着替え下され。」

 と、重ねて言うので、着替えることにしました。

 Tyuu12

 二人は、見違える程の美しい稚児の姿となって、御所の白砂に立ったのでした。さて、頼朝公はといえば、大紋の指貫に、木賊色の狩衣を着て、立烏帽子を被って、笏を手にしておられます。そして、居並ぶ武将は、和田、秩父、畠山、千葉、大山、長沼、宇都宮。その外の諸侍の数は知れません。頼朝が、二人の稚児を近くに呼び寄せます。摩尼王は、臆せず、御座の近くに上がり、法華経を取り出すと、高らかに読誦するのでした。

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 頼朝公を初めとし、御前の人々も、

 「なんと、有り難いお経か」

 と、涙を流して、感じ入りました。頼朝は、稚児をつくづくとご覧になって、

「その姿貌も、慈しい。お前は、継母にでも憎まれて家出した者か、それとも師匠に勘当でもされて、国を出てきた者か。何処から来たのか。望みがあるなら言ってみよ。」

と、問いかけるのでした。そこで摩尼王は、

「はい、これは有り難いお言葉です。私は、筑紫の者ですが、、私が、母の胎内にあった時に別れた父が、この国に居ると聞きましたので、父の行方を探すために、鎌倉まで来たのです。」

と話すと、頼朝は、

「ほう、そして、お前は何者であるか。」

と聞きました。摩尼王は、思い切って

「殿の御前で申し上げるのは、畏れ多いことですが、私の父と申すのは、筑紫の国は、大橋の中将です。殿のお怒りにより捕らえられていると聞いておりますが、もしも、まだご存命であるならば、どうぞ一度でも会わせて下さい。もしも、既に死んでおられるのなら、菩提を弔おうと思っております。もしも、まだ生きておられるのなら、どうかお慈悲をもって、お命をお助け下さい。我が君様。」

と、懇願したのでした。頼朝公は、

「なんとも、哀れなことであるな。その大橋のことならば、心配はないぞ。牢獄に繋がれてはいるが、今、呼びに行かせる。只今読誦したお経の布施として、お前に取らせるぞ。」

と、言うと、梶原源太を呼びつけて、

「先年、お前に預けておいた大橋の中将を、この稚児に取らせる。急ぎ解放して渡す様に。」

と命じましたが、源太は、驚いて、

「やや、今日、由比ヶ浜にて首を切ることになっております。」

と、言うのでした。労しいことに摩尼王は、

「ああ、なんと情け無い。どうせ切られるのならば、私が来る前に、切られてしまっていたのなら、こんなに悲しまなくて済んだのに。なんという浅い親子の契りでしょうか。」

と、泣き崩れました。御前の人々も皆、共に涙をぬぐいましたが、頼朝も可哀想に思って、

「ええ、梶原。急ぎ、助命に参れ。誅してはならぬ。」

と、命じたのでした。そして、梶原源太は、馬を飛ばして、由比ヶ浜へ急行しました。父の無事を願う摩尼王の心の哀れさは、言い様もありません。Tyuu15

つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ④

2014年06月01日 07時46分24秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ④ 

二人は、衣の袖を濡らしつつ、寺を立ち出でると、先ず、浜地へ降りて、便船を探しました。


《道行き》
 

漕がれ、筑紫を立ち出でて
名所旧跡、浦々を 

眺め越えさせ給いて 

波路遥かに押し隔て 

立ち返り、古里を 

心細くも、打ち眺め 

急がせ給いける程に 

思いを須摩の浦とかや(明石海峡) 

須崎に寄する波、分けて(兵庫県明石市須崎) 

兵庫の浦に、着きしかば 

陸(くが)に上がらせ給いつつ 

生田を越えて芦の屋の(兵庫県神戸市中央区) 

灘の潮焼く、夕煙(兵庫県神戸市灘区)

心細くも、打ち眺め 

我が父の命は 

池田の宿とかや(大阪府池田市) 

こうない、かちおり(?)打ち過ぎて 

山崎千軒、伏し拝み(京都府乙訓郡大山崎町) 

都の方を見給えば 

時雨に染むる秋の山 

父はと、問わば、恋塚の(京都市伏見区:恋塚寺) 

今ぞ、色めく、玉衣の 

散り敷く、庭の苔筵 

おきね(?)に勝る我が思い 

ようよう、急ぎける程に 

九重に着き給う(都) 

去れど、二人の人々は 

都に、定むる宿無くて 

清水へぞ参られける(清水寺) 

清水に着きしかば、祈誓を掛けて、伏し拝み 

夜と共に、転読し給いて 

夜もほのぼのと明け来れば 

ひと時なりとも鎌倉へ 

急ぎ行かんと思い立ち 

御堂を立たせ給いつつ 

麓に落ちたる滝壺は 

何、流れたる清水寺 

実に清水と打ち眺め 

Tyuu9  

歌の中山、清閑寺(京都市東山区) 

花山(山科区)、四ノ宮(山科区)、ちゅうせんし(?) 

関山を打ち過ぎて(逢坂の関) 

誰か、ここにて、松本の(滋賀県大津市) 

父に近江の国とかや 

鳰(にお)の入り江の浜風に(琵琶湖) 

志賀の浦の波立ちぬるを(大津市) 

心細くも打ち眺め 

野路(草津市)篠原(野洲市)の露を分け 

霧降掛かり、霞みて見ゆる鏡山(竜王町) 

馬淵、縄手(近江八幡市) 

惟喬皇子(これたかみこ)の憂き世の長を厭いて 

入りて、久しき、こしょうしゅく(?) 

年も積もるか老蘇の森(近江八幡市) 

川風、寒き旅人の 

小夜の眠りに、夢醒めて 

愛知川過ぎて、摺張り山(彦根市) 

今須、山中打ち過ぎて(岐阜県関ヶ原町) 

尾張の国に入りぬれば(愛知県) 

熱田の宮を伏し拝み(熱田神宮) 

何となる身の潮干潟(鳴海:名古屋市緑区) 

三河に架けし八橋を(愛知県知立市) 

父かと、人に、遠江(愛知県東部) 

浜名の橋の夕潮に(静岡県:浜名湖) 

刺されて、上がる海女小舟 

我が如く、漕がれて物や思うらん 

急がせ給いける程に 

島田を越えて、藤枝や 

宇津の山への蔦の道(静岡市駿河区) 

分けて、問うこそ、物憂けれ 

親故、旅を、駿河なる 

富士の煙を打ち眺め 

南は、滄海、満々として際も無し 

北は、松原、茫々たり 

裾の嵐は激しくて 

伊豆の三島に立ち給う 

明神を伏し拝み(三島大社) 

急がせ給えば、程も無く 

鎌倉にぞ着かれける 

 

 摩尼王殿は、松若に、

 「これから、鶴岡八幡宮に参拝し、父のご無事を祈誓しようと思う。」

 と言うと、八幡宮に向かわれたのでした。この二人の心の内の哀れさは、何にも例え様もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ③

2014年05月31日 17時09分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 ちゅうじょう ③ 

  母から、初めて父の話を聞いた摩尼王は、

 「私には、父上様は居ないと思っていたのに、朝敵として、鎌倉へ連れていかれたのですか。なんと、悲しいことか。」

 と、泣き崩れました。涙ながらに摩尼王は、更に母に抱きついて、

 「父の形見はありませんか。どうか見せて下さい。」

 と言うのでした。御台様は、法華経一部を取り出すと、

 「これこそ、父の形見です。父が鎌倉へ下られる時、生まれた子が、男子ならば見せよと言って、残していかれたお経です。このお経こそお前の父だと思い、お山に持って帰り、この経を良く読み習って、父の菩提を弔っておくれ。」

 と言って、お経を摩尼王に渡しました。摩尼王はお経を胸に当て、顔に当てて泣くのでした。お二人の嘆きは、何に例えようもありませんが、漸く摩尼王は、涙を押し留めて、松若と共に、再びお寺へと帰って行ったのでした。

  さて、摩尼王はそれからというもの、法華経を日々に勉強し、一部八巻二十八品の六万九千三百八十余字のすべてを諳んずるまでになったのでした。法華経についての質問なら、言下に答えることができたので、寺中の若い衆徒はもとより、老僧に至るまで、摩尼王に並ぶことのできる者はありませんでした。

  さて、或る雨の日に、摩尼王は、松若にこう話すのでした。

 「松若よ。人として生まれてきて、親の行方も探さないのでは、鬼畜木石にも劣るとは思いませんか。私は、何とかして、鎌倉へ下って、父の行方を尋ねようと思うのです。」

 これを、聞いた松若も、

 「君が、御下向されるならば、お供いたしまする。」

 と、答えます。そこで二人は、髪は剃りませんでしたが、縹帽子(はなだぼうし)で髪を隠して、墨染めの衣を着て、松若が背負う経箱を用意しました。準備が整うと摩尼王殿は、

 「松若よ。よく考えてみると、露の命には定めも無い。道中に於いて行き倒れることもあるだろう。母上に、お話したいとは思うが、鎌倉行きを知られれば、それは人の親の倣いとして、反対するに決まっておる。そうでなければ、自分も連れて行けと騒ぐであろう。だから、このことは、誰にも秘密であるぞ。」

 と、口止めをして、夜陰に寺を忍び出るのでした。

 Tyuu6

 つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ②

2014年05月31日 11時47分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ②

  梶原源太景季は、中将殿を連れて、鎌倉へと向かうことに成功したのでした。

以下道行き》

 今ぞ、心を筑紫潟(有明海)

 名残の舟に取り乗り

 春風に帆を上げ

 浦々島々、打ち眺め

 波風に漂いて

 堺の浦に着き給う(大阪湾)

 堺、久しき、住吉の(住吉大社)

 松も昔と、打ち眺め

刧は経るとも尽きずまじ

亀井の水の流れ絶えぬぞ(天王寺七名水のひとつ)

尊っとかりけると、天王寺を伏し拝み

名所旧跡、里々を

打ち過ぎ行けば、これやこの

実に誠、世の中の

濁り無き身を石清水(石清水八幡宮)

神ものうじゅうしませと(?)

八幡の山を伏し拝み

時雨に染むる秋の山

急がせ給いける程に

 早や九重(京都)に入りぬれば

 はくしゅのちんしゅ(?)をふし拝み

 又、憂き事に粟田口(京都市東山区)

 大津の浦を早や過ぎて(滋賀県大津市)

 瀬田の唐橋、打ち渡り

 消ゆる思いは、草津の宿(滋賀県草津市)

 番場、醒ヶ井、柏原

 垂井、赤坂、打ち過ぎて(岐阜県大垣市)

 尾張の国に聞こえたる

 熱田の宮に祈誓を掛け(熱田神宮)

 憂き身は、何と鳴海潟(名古屋市緑区)

 三河の国や遠江(愛知県東部)

 尚、憂き旅を駿河なる(静岡県)

 富士の煙と余所に見て

 月も雲間を伊豆の国

 足柄、箱根、早や過ぎて

 急ぐに程無く、鎌倉にこそ、着かれけれ
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 さて、源太は鎌倉に着くと直ぐに父景時に、報告しました。喜んだ景時は、急いで御前に飛んで出ると、中将捕縛の報告をしましたが、頼朝は、

 「対面するまでの事も無い。そちに任せる。」

 と、だけでした。梶原は、急遽、牢屋を造らせると、そこに中将を押し込めておくことにしました。中将の牢生活は、その後十二年にも及ぶのでした。

  さて、一方、哀れだったのは、筑紫に残された御台所です。御台所は、中将殿の近況を風の便りに聞いて、悲しみに暮れる毎日でしたが、いよいよ、十月十日を迎えて、ご出産なされました。生まれたのは玉の様な男の子でした。名前は、摩尼王(まにおう)殿と言います。

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 摩尼王が七歳になった時、御台様は、

 『中将殿はが、鎌倉へ行かれる時に、言い残したことは、生まれた子が、男子であるなら出家させて、菩提を弔わせよということで会った。』

、思い出して、摩尼王を寺入りさせることにしたのでした。御台様は、九州で一番の学者が居るとされた鹿児島の光雲寺を選ぶと、下人の子ではありましたが、同年の「松若」をお供として付けて、送り出したのでした。

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  そうして寺入りした摩尼王殿は、まじめに学問に励んでおりましたが、その寺に居る沢山の稚児達は、摩尼王のことを、「親無し子」と指差して、何かに付けていじめるのでした。可哀想に摩尼王殿は、とうとう堪りかねて、里に戻りました。摩尼王殿は、母上に、

 「天地は陰陽和合と習いました。父と母が無くては、私は生まれません。私の父は、どこにいらっしゃるのですか。」

 と、流涕焦がれて縋り付くのでした。御台様は、何とも言葉に窮して、只泣くばかりでしたが、やがてこう話すのでした。

 「おお、その不審は、もっともじゃ。お前の父親というのは、この国を治めていた大橋の中将という、それはそれは立派な武将なのですよ。しかし、中将殿は、鎌倉殿の御機嫌を損じて、鎌倉へ送られました。もう死んでしまったのか、未だ生きていらっしゃるのかすら分からないのです。お前を寺に上がらせたのも、良く良く学問を究めて、お経を覚えて、父の菩提を弔う為なのですよ。」

 御台様の心の哀れさは、申し上げる言葉もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ①

2014年05月31日 10時47分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古浄瑠璃正本集第1の(10)は、「待賢門平治合戦」であるが、内容的には、説経「鎌田兵衛正清」とほとんど同じであった。次の(11)は、「阿弥陀御本地」であるが、後半の三段分しか無い。(24)にも別の「阿弥陀御本地」が収録されているので、これを読んだが、説経「法蔵比丘」と同じ内容であった。以上の様な次第で、これらは、訳出には至らなかった。

  古浄瑠璃正本集第1の(12)は、「大橋の中将」である。既に紹介した「はなや」や「むらまつ」「安口の判官」と同工異曲に、お家再興シリーズである。しかし、この刊期も版元も太夫も不明の作品は、「法華経」の法力をからめて、やや説経的なニュアンスが感じられる。この正本は、状態の悪い上巻三段分しか現存していないが、全体を奈良絵本によって補完することができる。なお、画像は、国文学研究資料館所蔵の奈良絵本(デジタル版)を利用した。

 ちゅうじょう 

 いまは、右大将、征夷大将軍頼朝公の御治世。鎌倉に御所を造営なされ、草木も靡くばかりです。元々平家方の武士であった「大橋の中将」は、平治の合戦で、頼朝を助けた恩賞によって、壱岐・対馬を給わっています。ところが、梶原景時(かげとき)は、この中将を陥れて、壱岐・対馬を手に入れようと、企んだのでした。景時は、御前に進み出でて、

 「我が君様に申し上げます。ご存知の通り、筑紫の国の大橋の中将は、元より敵の武将です。平治の合戦の時、君を討ち取る謀(はかりごと)は様々ありましたが、これを生き抜いてきたのも、君のご運の強さ故であります。しかし、この先、中将を生かしておくならば、再び謀反を起こすかもしれませんぞ。我が君様。」

 と、言うのでした。頼朝は、これを聞くと、

 「それでは、梶原に、三百余騎を与えるから、筑紫に下って、大橋を退治せよ。」

 と、命ずるのでした。景時は、急いで館に帰ると、嫡子の源太(梶原景季:かげすえ)に、こう言うのでした。

 「源太よ、よく聞け。お前は、これから、筑紫の国に下向せよ。大橋の中将を退治するのだ。」

 そうして、源太は与えられた三百余騎を率いて、筑紫へと向かったのでした。筑紫に着いた源太は、こう思いました。

 『有名な武将である中将殿と、直接にやりあっては、適う相手ではないぞ。』

 そこで、源太は、軍勢を村々に隠すと、郎等を四五人連れて、鎌倉の使者として、中将殿と対面するのでした。源太は、

 「中将殿、鎌倉へ御出仕下さい。頼朝公がお待ちです。」

 と、告げますと、中将は、

 「おお、かねてより、鎌倉へ出仕しなければと、考えていた所でした。源太殿のわざわざの御下向、誠にありがとうございます。それでは、早速に鎌倉に参りましょう。よろしくお願い致します。」

 と、言うのでした。源太は、

 「鎌倉での事は、何事も、某にお任せ下さい。」

 と、さも頼もしげに答えるのでした。

 Tyuu1

 それから、中将は、一間所へお入りになり、御台所に、

 「よいか、御前。よく聞きなさい。鎌倉よりの使者源太が御下向になり、鎌倉に出仕せよとの命令だ。私は、元より平家方の者であるから、鎌倉において、殺されるであろう。お前の胎内には、七ヶ月の嬰児がいるが、もし男子で生まれたのなら、この法華経を、形見に渡してくれ。もし女子ならば、お前に任せる。名残惜しいことだ。」

 と、話すと涙に暮れました。これを聞いた御台所は、

 「なんという情け無いことでしょうか。あなたが十六、私が十四の春より、ずっと一緒に暮らして来たというのに、あなたが、鎌倉に行ってしまったら、私は、どうやって暮らしていけばよいのですか。」

 と泣き崩れる外はありませんでした。この夫婦の人の別れの哀れさは、言い様もありません。

 つづく

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忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ⑥ 終

2014年04月24日 15時07分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ⑥ 終

 罪も無い秋友を讒言によって陥れた本江の左衛門師方は、一旦は栄華に栄えました。翌年の夏の頃のことです。南面の花園でくつろいで居た師方は、弦王丸が助命された事を聞いて、飛び上がって驚きました。直ぐに小二郎を呼びつけると、

「弦王丸が助かったというのは、本当か。何としても、弦王丸を殺せ。」

と、命ずるのでした。小二郎は、

「傍に仕える友定兄弟は、一騎当千の強者ですから、正面切っても、そう簡単に討ち取ることはできないでしょう。私に良い考えがあります。上野山の山賊に化けて攻め込んで、宝物などをわざと取り散らせば、我々の仕業とも分からないでしょう。」

と、再び策を弄するのでした。師方が、流石は小二郎などと褒めるので、小二郎は更に、

「それでは、内々に二十人程の手勢を下さい。」

と、頼みました。こうして、小二郎を総大将とする二十四人は、山賊に化けて上野山へと向かったのでした。

 小二郎達は、夜の更けるの待って、僧正の宿坊へと忍び込みました。友定兄弟は、物音に気が付いて、物陰から良く見てみると、屈強の男どもが忍び込んで来るではありませんか。

「狼藉者。逃がすな。」

と言って、斬り掛かりました。小二郎は、これを見るなり、松明を投げ出して逃げ出しました。弦王丸と友定兄弟は、これを最期と覚悟して戦ったので、夜盗に化けた、小二郎方の者達は、大勢討たれてしまい、その中の一人が生け捕りにされました。僧正は、

「おそらく、上野山の夜盗であろう。」

と言いましたが、友定は、

「いや、この者達には何かもくろみがあるようです。水火の責めをして吐かせてやろう。」

と、睨むのでした。すると、その男は、

「命を助けてくれるのなら、正直に申します。私は、河内の国、本江の左衛門師方の家来です。」

と、命乞いをするのでした。これを聞いた人々は、

「師方の家来が、なんで盗賊に一味しているのだ。」

と、問い正すと、この男は、これまでの師方の悪巧みを、全て白状したのでした。人々は、

横手を打って、納得し、

「成る程、これで分かった。これこそ天の恵みである。この男は、まるで夏の虫だ。全く誠実な者には、必ず仏神の助けがあり、罪の有る者は、自ずとその身を焼くというではないか。今夜の夜討ちがなければ、敵を知ることはなかっただろう。」

と、言って喜び合いました。そして、僧正が、

「急いで上洛し、この者を証拠として、早速に奏聞したしましょう。」

と言うので、一同は、急いで上洛するのでした。都に着いた一行は、直ちに参内して、この件を奏聞するのでした。公卿達の詮議があって、その証拠を示すようにとあったので、僧正は、かの捕虜を御前に引き出して、小二郎の武略によって、別当定吉を滅ぼしたことを始めとして、終わりまでの子細を、証言させたのでした。御門は、

「今はもう、疑う所は無い。師方を討て。」

と宣旨が下り、兵一千余騎を下されたのでした。

 直ちに、弦王丸は、河内の国へと押し寄せて、師方館を一千余騎で取り囲み、鬨の声を上げるのでした。弦王丸は、

「只今、ここに押し寄せた大将軍は、秋友が一子、弦王丸である。御門よりの宣旨を受け、本江の左衛門師方を成敗いたす。早や早や、腹を切れ。」

と、名乗りを上げます。師方は、

「かかれ、討て」

と下知をしますが、多勢に無勢、とうとう全滅です。諦めた師方は、小二郎に、介錯を頼んで自刃しようとしましたが、弦王丸は、生け捕りにさせました。

 人々は、師方と小二郎を絡め取ると、再び上洛して、奏聞するのでした。御門は、

「この者達二名は、そちに取らせる。先ず、秋友を至急、呼び戻せ。」

との宣旨です。早速に父、秋友は、都に召し戻され、弦王丸との涙の対面をするのでした。そして、御門から、

「罪も無い武士を、長い間、流人にして申し訳無かった。以前の本領は、全て安堵する。」

と宣旨が有り。本領安堵の御判が下ったのでした。秋友は、友定に、

 二人の罪人の首を、大掻きに掻き落とせ」

 と、命じました。人々が、師方と小二郎を、河原に引き据えると、師方は、きっと顔を上げ、

 「ええ、いまいましい。今、このように首刎ねられても、死んでも尚、鳴る雷となって、呪ってやる。」

 と、喚きます。小二郎は、これを聞いて、

 「なんと、浅ましいお心でしょうか。この世では、首を切り落とされても、来世では、必ず成仏して下さい。南無阿弥陀仏・。」

 と、諫めるのでした。取り囲む武士達は、

 「ええ、つべこべ言わすな。」

 と、ばっさりと、首を打ち落としてしまいました。その後、秋友は、元の場所に数々の館を建てて、富貴の家と栄えたのでした。昔の家来達も、我も我もと戻って来ました。あんまり沢山の人々が集まったので、馬が立つ場所さえ無い程でした。かの秋友の心の内はいかばかりだったでしょうか。感激しない人はありませんでした。

 (寛永二十年(1643年)やなぎのばば 藤吉開板)

 おわり

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