アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

外交官アーネスト・サトウの日本における業績 5 伊勢崎市との関わり4鈴木巌恭

2017年06月08日 | Weblog

鈴木巌恭は保泉村の蘭方医で、名は巌恭、宇を寅郷、真齊と号した。

父を良琢といい、代々医業した家柄であるが、それまで漢方医だったのであるが、

巌恭は江戸に出て二宮桃亭について蘭方を学んだのであるが、「その術大いに進み、

治療に独特する所有り」と記録にある。

修業して村に帰り、父のあとをついで医業にたずさわった。

当時の知識人はいずれも文藻家として、

何らかの文芸をたしなみ、文人つき合いしたもので、巌恭もまた俳諧に、漢詩文に深い造詣があり、

この地方文苑の常連であった。

文政二年に木島村の俳人紫陌が、関西旅行に旅立つことになった時、

保泉村長洲寺僧卵童が催主になって、盛大な送別会が催された。

会するもの数十人、そして俳人は句を、詩人は作詩を為さなければならないとしたが、

当然、厳恭もこの席にあって、送別詩をおくっている。

送玄々齊西遊 

暁発天涯遠色開(暁に発す天涯遠色開く)

伝聞岐路幾雀嵬(伝え聞く岐路幾雀嵬〈さいかい〉と)

待君行詠山川勝(君を待つ行詠山川の勝)

句々括嚢持贈来(句々嚢に括り持ちて贈り来れ)

厳恭は邸内に多くの竹を植えて楽しんだと記録にある。むかしから医者は竹をきらったもので、

それは藪医者と呼ばれたからである。それは竹の清節をよろこんだからと云われる。

また言う、貧民の治を請うものあれば、力を尽してこれに応じ、その費を受けなかったという。

 撰文は、金井烏州である。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿