神戸在住、恋するスタジオ・フォトグラファー、ときどきドキドキ、ホンニョホニョン日記!

元銀塩・スタジオ・フォトグラファーである吾輩が日々、感じ、考え、体験したことをのんびり書き連ねていく日記形式のブログ。

村上春樹さんの「象の消滅」、いいねえ。

2011年01月20日 00時53分31秒 | 
平成の現代において
小説家の立場というか、
現在の小説の存在価値というものが
よくわからない。

昨今の小説には、
セックスの描写は必須になっているけども、
っていうか
過激な描写がある方が、
妙に
名作などともてはやされたりするような気がする。

村上春樹さんの小説も
現代的でハイブロウでスノッブだと思うのだが、
現代の夏目漱石氏と評価する向きもある。
また、
ノーベル文学賞もとるだろうと目されている。

しかし、
ポピュラー文學としては大いに評価はできるけども、
はたして文學なんだろうか?
別に愚弄しているわけではないのだが、
そもそも、
文學という定義がわからない。
太宰氏作品もいくつかは文學だろうけれども、
「人間失格」は文學になるのかな。

よくわからないのだ。
クラシック音楽とポップスの違い、
最高傑作と駄作の違い、
売れる売れないの違い、
つまりは
その境界線と言えるものがあるならば、
ぜひともそれを知りたいものだ。

本質的に芸術の存在価値はなんなのだ?
「太陽の塔」が後世に残るモニュメントだというのはわかる。
しかし、
子供が地面に書く落書きは
芸術ではないのか?
「モナリザの微笑み」が人類の遺産だというのはわかる。
しかし、
素人のママが撮る
ピンボケのわが子の写真は芸術ではないのか?

要は表現ではなかろうか。
表現という作品を通じて
受け手はインスパイアーされ、
魂の中で何かが発酵し、副産物が拡がる。
そしてまたそれは
ひとつの潮流として発信者たる表現者に還元され、
あた新たな表現が生まれる。
表現者と被表現者とのつながりにおいて
その組み合わせの数ほど、
個々の芸術というか
個々の作品、個々の表現が発動するし存在する。
つまりは
その源として、
各々の芸術家というか表現者は
一体全体、
何を訴えたいのか
何を表現したいのかを
私は常にわかりたい。

村上氏の作品には
ストーリーの筋として
誰かを、または何かを探すというテーマと
パラレルワールドのような
別世界、または別次元、異空間へのリンクがあるように思う。
そこにメッセージがあるのかないのか知らないけれども、
村上氏の
なんとも言えない
のんびりした余裕の表現力が
個々の作品を魅力的にしている。
その点においては
確かに芸術的だし、
現在の日本で村上氏を上回る作家はいないことだろう。
(いるなら、だれか教えて!)
しかし、
村上氏は
一体全体、その表現という以前の
っていうかその奥の、
っていうかその深みの向こうに
どんなメッセージを内包しているのかを
私は知りたいし、理解したい。

村上氏のキャリアの中で
ユニークな装丁の
「像の消滅」
これは
アメリカのペーパーバック本を連想させる
一見、チープそうに見える本だけども、
かつての日本の文壇の大御所の
文學の先生という感じではなく、
書いて書きまくる
バイタリティのある、
アメリカの通俗作家のノリでとらえた
村上春樹という感じで
とても好感が持てる。

文學の先生ではなく、
ペーパー・バック・ライターでいいではないか。
だからもし、
ノーベル文学賞とか受賞されたとしたら、
それはそれで素晴らしいことだけども、
その時点で文学の定義を変えるべきだろうね。
もしかしたら、
太宰氏の後期のほとんど病んでいる退廃的な作品は、
夏の読書感想文のリストからは排除されるかもしれない。
これは、
ノルウエーの森が文學かどうかという
テーマへと続くのできりがないからここではやめる。

ジョン・アップダイクが
村上春樹氏の一連の小説には
目を通していると
「像の消滅」のはしがきに
村上氏ご自身が直接書いているのだから、
村上氏は、
きっとただものではないのだろう。
すごいね。
コメント
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