ブラッドベリの「火星年代記」感想、第二弾。
っていったって、ようやく半分(400頁ほどの半分)を越えたところ。
どうしてこの本をSFだと思ったのだろう。
ようやく半分を過ぎただけで、
すべてを読んだわけではないけれど、
この本はあらゆる人文科学を網羅している歴史書であり、哲学書なのだ。
この本、夏前に買っていたのだが、
ずっと忘れていた。
溢れかえっている書斎の底にあったのを見つけて、
テーブルの上に置いていたのだが、
先に娘が途中まで読んでいたようだ。
そこで吾輩がインターセプトしたものだから、
くまなく探していたようだ。
で、吾輩は鞄に隠し持っていたのだが、会社に置き忘れて来たと嘘をついた。
そして高一の娘としばらく「火星年代記」談義で花が咲き、
火星人の特殊な能力を多少、誇張し、
第一次から第三次ロケット隊が、どのように失敗し、隠蔽されたのかを、
娘の読解力を補足するように話をしていたら、
中一の息子が、ぜひとも「火星年代記」を読みたいと主張しだした。
既得権を主張する娘と読む権利と知識欲を主張する息子、
そして「火星年代記」は会社に置いてあると嘘をつく吾輩。
エゴとエゴのぶつかりは、火星でなくても、ささやかな家庭でも起こる。
しかし、悪いことはできないものである。
みんなが寝静まってからみようとしていたのに、
吾輩が先に寝てしまった。
ある新開地に使者が訪れ、パイオニアたちが訪れる。
そして利益を拡大、膨張させようと考える連中、
その後に来るのは、
宗教家。
この流れはもしかしたら、
別天地を求めて、占有権を主張する開拓民と原住民であるインディアンとの
葛藤や争い、その罪の意識、歴史の浅さの劣等感、
つまりは
米国民として、贖罪のつもりでブラッドベリは「火星年代記」を描いたのかもしれない。
火星という舞台を地球に置き換える、
または火星人をインディアンに置き換える、
さらには、火星や火星人を日本に換えてしまう。
そうすると、実に興味深い考察が浮き上がってくる。
などと考えて、まだ半分だけれども、感想の第二弾を終える。
しかし、
確かにこの本、読んだはずなのに、どうして記憶がないのだろうか。
不思議である。