イタリア・トマトのすべて | |
大隈 裕子 | |
中央公論新社 |
南米からきたトマトという果菜はすんなり果菜としてイタリアで食されてきたわけでない。トマトより早く栽培されていた茄子でさえ、「狂気をもたらす果実」と評価されていたという。
一世紀を越える観察を経て、ようやく食材となるわけであるが、この本を読んで二つのことを思い出した。
1、近世の英国で紅茶という嗜好品は、最初、リューマチなどの薬として扱われ、スプーン一杯が銀一杯と等価だった。
つまり王族、貴族の嗜好品として登場した紅茶が、労働者階級のカフェに浸透するまで数世紀かかったという話。
今、100パック入ったパックの紅茶が1000円もしないけれど、それが銀と等価だったら、タイムマシンで当時の英国にタイムスリップすれば、私はブルジョアだ!
2、中学の同窓に、初めて米国に醤油を輸出した会社の経営者の一族がいる。
食品を輸出入するということは、結構、大変みたいで、自由の国アメリカでも、すんなりなんでもパスするわけではないみたいだ。
特に食品添加物などは、日本とアメリカの基準が違うようだ。
醤油は日本で数百年も食されているということで、フリーパスみたいだったという話を聞いた。
21世紀のこの日本で、ありとあらゆる食品を味わうことができる。
しかし、それが可能になるためには、ひとつひとつの食材と人間世界との壮大なストーリーがあるのだ。
そのために何かを犠牲にしたこともあるだろう。瓢箪から駒のような発見もあるかもしれない。
時代、文明、文化によっても、食材の評価は変る。当然。
この贅沢な日本で、そういったことを子供たちにきちんと伝えるために、いい教本になるような気がします。