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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と安房の海の時代。

2024-03-31 | 安房
関東大震災の安房では、
『 鉄道も、陸運も全く杜絶した 』
そして、
『 ひとり海運にのみよったのであるから、
  此の間は全く海の時代である。
  安房でなければ出来ないことであった。 』
            ( p276 「安房震災誌」 )

関東大震災の安房を、あらためて、
海という視点から、見てゆきます。

大橋高四郎安房郡長は、関東大震災当日にどうしたかというと、
県庁へと急使を出し、安房の山間部の村へも急使を出しました。
陸上からの急使を派遣した後に、海運へ頼みを託しております。

「 ・・・真先に県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
  医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。

  そこで、館山にある県の水産試験場に、ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。

  笹子場長は郡長の依頼に懸命盡力したが、
  ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
  その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
  二隻ともどちらも即刻の間に合はなかった。

  しかし、一方機関の修繕を急がせ、他方軽油を所在に求めて、
  2日の夜半漸く出帆準備が出来た。汽船の準備は出来たが、

  震災の為めに海底に大変動があり、
  且つ燈臺は大小何れも全滅して了った。
  此の際航海の危険は、いふを俟たない。・・・

  ところが場長の激励と船員の侠気とで、
  遂に3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行した。

  鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。

  海底の隆起と陥没と、・・危険の中に鏡丸は天祐によって、
  無事に千葉に着いた。そして翌4日の午後8時15分には、
  又無事に館山に帰航したのであった。

  鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、
  そして県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。

  是れが千葉からの最初の応援であった。
  郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。  」( p257~258 )


時系列的に、もう一度おさらいするのに、
千葉県庁へと急使に立った重田嘉一の手記を見ると、
重田氏が県庁へと辿り着いたのは、2日午後1時半。
その時の、県庁の指示は
『 帰ってふさ丸を千葉に回航せしめよ 』との命だった。そして、
重田氏が『 北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。 』

        ( p251 『大正震災の回顧と其の復興』上巻 )

この県庁の指示を待つことなく、先回りしての理解で、郡長の指揮のもと、
『 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行 』していたのでした。

さらに次には、郡長が鏡丸に乗船して千葉へゆくことになります。

「 ・・・米は焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
  日を経るに従って欠乏甚だしく、7日の夜に至っては、
  全く絶望状態に陥った。殊に総説に掲げたる

『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、

  各所に掲げた掲示で、人心の安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・是れまで郡長に信頼して飢と戦って来た罹災民は、
  いかに失望するであろう。失望の結果、又如何なる事態を惹起するであろう。

  ・・・・郡長は決意を深く秘めて、翌8日の払暁、
  鏡丸に乗じて上縣し、つぶさに郡民の窮乏を訴へ、
  而かも米の欠乏甚だしきを以て、直ちに米9000俵の
  急送を懇請したのである。

  すると県も之を容認して、米5000俵を給興するに決した。
  且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく、
  徴発命令2通を交付された。そこで、郡長は9日に直ちに
  帰任して、汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。

  そして、その翌10日であった。突如県よりは更らに
  米1000俵、増加配給する旨を通達された。・・・・・

  震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、
  是に至って漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。」
  
                 ( p262~263 「安房震災誌」 )
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