教養の系譜をたどるための雛型。
そんな手ごたえを感じたので(といっても未読)書き込んでおきたいと思います。
まず身近な話題から。最近始まったNHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」は原案が田辺聖子さん。その田辺さんからはじめてみます。
足立巻一著「夕暮れに苺を植えて」(朝日文芸文庫)の巻末エッセイは田辺聖子さんが書いておりました。こんな始まりです
「この本の著者、足立巻一氏は、実をいうと個人的なことで申しわけないが、私の恩師なのである。四十年ほど前、私が在籍した大阪文学学校で、小説二組の担任講師でいられたのだった。そんなわけで氏のことを私は長年、〈 足立センセ 〉と呼び慣れていた。・・・」
そのエッセイの最後にこんな箇所
「〈 足立さん 〉の死は昭和六十年、神戸の須磨寺でのお葬式に、葬儀委員長の司馬遼太郎氏は、足立さんのやさしさを多くの人が享(う)けたことをいわれ、死者正者ともに表現がちがうだけ、足立さんのやさしさはいまも虚空にただよって人々の心をむすびつけている、というような意味の、しみじみした弔辞をのべられた。足立さんの人生をよく把握されたおことばだ、と参列した私は思った」
足立巻一著「虹滅記(こうめつき)(虹の左の虫には上にノが付く)」朝日文芸文庫の巻末エッセイは、ちなみに司馬遼太郎氏が書いておりました。
足立さんと出会った頃のことを、こう書いております。
「むろん、戦後である。敗戦によってひとびとの頭上の掩蓋(えんがい)が砕かれ、上は抜けるような青空だけになった。街は焼け跡で、たれもが平等に貧乏だった。それに大なり小なりアナーキーで、そのくせ陽気で、馬鹿笑いが似合っていた。同時に、あたらしい物事が競って興ろうとしている時代でもあった。経済は壊滅し、闇屋がはびこっていたものの、一方でいずれは足もとの確かな産業がおこることをたれもが信じていた。」
足立巻一著「立川文庫の英雄たち」(中公文庫)の解説は灰谷健次郎で、
そのはじまりはこうでした。
「司馬遼太郎は足立巻一の人と仕事を次のように評した。
ーーー俗世では仙人のように自己愛を捨て、それを芸術へと昇華していった。その生き方は空海の思想に通じる。かれの大作は、すべて六十代からはじまり、歳をかさねて作品に生命力があふれるようになった。明治以後、例のない文学者であった。
的確にして名言である。・・・」
朝日文芸文庫には足立巻一著「やちまた」が入っているようですが、そこに誰が巻末エッセイを書いているのか未読。ちなみに、新装版「やちまた」(河出書房新社)の解説は鶴見俊輔氏でした。
そのはじまりは
「足立巻一の著作のうち、私の読み得たものの中では、『立川文庫の英雄たち』と『やちまた』とが、二つの高峰であるように思う。・・・
『立川文庫の英雄たち』と『やちまた』とは、ともに学問上の仕事である。しかし、普通に学問として発表される論文とちがって、文章にあつみがあり、その記すことに対して著者自身が責任をもっているという感じがある。そのことが、明治以後の出版物の歴史についての数ある論文の中で、『立川文庫の英雄たち』を特色ある作品としている。
『やちまた』は、学者本居春庭の伝記である。これは二十歳のころから彼が書こうとして来たもので、何度もの試みの後に、四十年の後に初志を実現した。戦中戦後におけるその持続は美しい。その間に彼にはまよいがつきまとってはなれなかった。・・・」
伊藤正雄著「新版忘れ得ぬ国文学者たち」(右文書院)の解説は坪内祐三。
そこに
「例えば私は、この本を通読したあとで足立巻一の名著『やちまた』に初めて目を通した。『やちまた』に登場する足立巻一の神宮皇學館時代の恩師「拝藤教授」のモデルが伊藤正雄であることを、私は、足立巻一の一文「拝藤教授・伊藤正雄先生」(「人の世やちまた」編集工房ノアに収録)で知った。それから『やちまた』に目を通したわけであるが、そのあとでまた『忘れ得ぬ国文学者たち』を開き、皇學館時代の思い出を語った『伊勢に赴任した坊っちゃん』という一文を再読すると、一つの『感慨』がわいてくる。」
以上。
足立巻一をいまだ読んでいないのですが、読まなきゃと
私は思うだけは思うので、その思いをこうして書いておくことにしました。
ああ、私のブログは、こんな書き込みが続くだろうという感じです。
それは、読んでもいないのに、読みたいという思いを書き込むブログ。
うんうん。こういう思いつきなら何とか続きそうです。
そんな手ごたえを感じたので(といっても未読)書き込んでおきたいと思います。
まず身近な話題から。最近始まったNHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」は原案が田辺聖子さん。その田辺さんからはじめてみます。
足立巻一著「夕暮れに苺を植えて」(朝日文芸文庫)の巻末エッセイは田辺聖子さんが書いておりました。こんな始まりです
「この本の著者、足立巻一氏は、実をいうと個人的なことで申しわけないが、私の恩師なのである。四十年ほど前、私が在籍した大阪文学学校で、小説二組の担任講師でいられたのだった。そんなわけで氏のことを私は長年、〈 足立センセ 〉と呼び慣れていた。・・・」
そのエッセイの最後にこんな箇所
「〈 足立さん 〉の死は昭和六十年、神戸の須磨寺でのお葬式に、葬儀委員長の司馬遼太郎氏は、足立さんのやさしさを多くの人が享(う)けたことをいわれ、死者正者ともに表現がちがうだけ、足立さんのやさしさはいまも虚空にただよって人々の心をむすびつけている、というような意味の、しみじみした弔辞をのべられた。足立さんの人生をよく把握されたおことばだ、と参列した私は思った」
足立巻一著「虹滅記(こうめつき)(虹の左の虫には上にノが付く)」朝日文芸文庫の巻末エッセイは、ちなみに司馬遼太郎氏が書いておりました。
足立さんと出会った頃のことを、こう書いております。
「むろん、戦後である。敗戦によってひとびとの頭上の掩蓋(えんがい)が砕かれ、上は抜けるような青空だけになった。街は焼け跡で、たれもが平等に貧乏だった。それに大なり小なりアナーキーで、そのくせ陽気で、馬鹿笑いが似合っていた。同時に、あたらしい物事が競って興ろうとしている時代でもあった。経済は壊滅し、闇屋がはびこっていたものの、一方でいずれは足もとの確かな産業がおこることをたれもが信じていた。」
足立巻一著「立川文庫の英雄たち」(中公文庫)の解説は灰谷健次郎で、
そのはじまりはこうでした。
「司馬遼太郎は足立巻一の人と仕事を次のように評した。
ーーー俗世では仙人のように自己愛を捨て、それを芸術へと昇華していった。その生き方は空海の思想に通じる。かれの大作は、すべて六十代からはじまり、歳をかさねて作品に生命力があふれるようになった。明治以後、例のない文学者であった。
的確にして名言である。・・・」
朝日文芸文庫には足立巻一著「やちまた」が入っているようですが、そこに誰が巻末エッセイを書いているのか未読。ちなみに、新装版「やちまた」(河出書房新社)の解説は鶴見俊輔氏でした。
そのはじまりは
「足立巻一の著作のうち、私の読み得たものの中では、『立川文庫の英雄たち』と『やちまた』とが、二つの高峰であるように思う。・・・
『立川文庫の英雄たち』と『やちまた』とは、ともに学問上の仕事である。しかし、普通に学問として発表される論文とちがって、文章にあつみがあり、その記すことに対して著者自身が責任をもっているという感じがある。そのことが、明治以後の出版物の歴史についての数ある論文の中で、『立川文庫の英雄たち』を特色ある作品としている。
『やちまた』は、学者本居春庭の伝記である。これは二十歳のころから彼が書こうとして来たもので、何度もの試みの後に、四十年の後に初志を実現した。戦中戦後におけるその持続は美しい。その間に彼にはまよいがつきまとってはなれなかった。・・・」
伊藤正雄著「新版忘れ得ぬ国文学者たち」(右文書院)の解説は坪内祐三。
そこに
「例えば私は、この本を通読したあとで足立巻一の名著『やちまた』に初めて目を通した。『やちまた』に登場する足立巻一の神宮皇學館時代の恩師「拝藤教授」のモデルが伊藤正雄であることを、私は、足立巻一の一文「拝藤教授・伊藤正雄先生」(「人の世やちまた」編集工房ノアに収録)で知った。それから『やちまた』に目を通したわけであるが、そのあとでまた『忘れ得ぬ国文学者たち』を開き、皇學館時代の思い出を語った『伊勢に赴任した坊っちゃん』という一文を再読すると、一つの『感慨』がわいてくる。」
以上。
足立巻一をいまだ読んでいないのですが、読まなきゃと
私は思うだけは思うので、その思いをこうして書いておくことにしました。
ああ、私のブログは、こんな書き込みが続くだろうという感じです。
それは、読んでもいないのに、読みたいという思いを書き込むブログ。
うんうん。こういう思いつきなら何とか続きそうです。