「文藝春秋」(2006年12月号)に佐藤優氏が米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」の書評をしておりました。そのはじまりが、印象鮮やかです。
「評者は外交官稼業のかたわらモスクワ大学哲学部で神学・宗教哲学を教えていたことがある。そのときロシアの学生たちが身に付けた速読術を目の当たりにした。一日に学術書ならば五百頁、小説ならば千五百頁くらい読む。米原万里さんは『受験の丸暗記地獄から解放された頃から速度は面白いほど伸び、ここ20年ほど一日平均七冊を維持してきた』(333頁)と書くが、これはハッタリではなく、プラハのソビエト学校で覚えたのであろう速読法と思う。」
もったいないのでもう少し、つづけて引用します。
「読書には他人の頭で考えるという面がある。読書家と話していても独創的な知性と出会うことは少ないのであるが、米原さんは常に自分の頭で考え、自分の言葉で表現する人だった。また、他者の内在的論理を正確にとらえる公正な精神をもっていた。」
それでは、米原さんは佐藤優氏をどう読んでいたのか。
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」(文藝春秋)の中の「私の読書日記」。
そこにこんな箇所。
「ムネオ事件に連座して検挙された元外務省主任分析官、佐藤優(現在起訴休職中)の傑作獄中記『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んだ」(p260)
「何よりも東京拘置所生活の克明な描写。『512日間の独房生活は、読書と思索にとって最良の環境だった。学術書を中心に220冊を読み、思索ノートは62冊になった』。類い希なる作家の誕生は、生来の才能が獄中で研ぎ澄まされたおかげかも。私も拘置所に行きたくなった。」(p262)
米原さんの引用箇所は「国家の罠」のあとがきにありました。
その次には、佐藤優氏がこう書いております。
「その中で繰り返し読んだのが、『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)、『太平記』(長谷川端訳、新編日本古典文学全集54~57巻、小学館)、ヘーゲル『精神現象学』(樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー)だった。『精神現象学』からは、当事者にとって深刻に見える問題が、学術的訓練を積んだ者にとっては滑稽に見えることもあるという、ユーモアの精神を学んだ。
『聖書』について、私は神学部時代から新約聖書にはかなり親しんできたが、旧約聖書と旧約聖書続編は、今回、獄中ではじめて本格的に読んだ。独房で所持できる書籍は三冊以内であるが、『聖書』は別枠(拘置所用語では『冊数外』と言い、宗教経典、辞書、学習書は特別の許可を得て七冊まで所持できる)なので、いつも手許に置き、毎日、預言書に目を通した。ヨブ、エゼキエルなどイスラエルの予言者が時空を超え、独房に現れ、私の目の前で話しているような印象をもった。」
ちょうど、獄中の読書というのに興味を持ちました。
そういえば11月7日朝日新聞の丸谷才一連載「袖のボタン」に
「戦前の講談社は、知識人の目から見れば俗悪低級な出版社にすぎなかった。たとえば豊多摩刑務所は、月刊誌の閲読はすべて禁止していたが、『キング』『講談倶楽部』『雄弁』などの講談社刊行物は安全無害なので例外だったという。(佐藤卓己『「キング」の時代』)」とあります。
近頃読みかじった臼井吉見編「柳田國男回想」(筑摩書房)にも
獄中の読書が登場しておりました。
「1930年に、それから32年から34年へかけての間に、私は豊多摩の『官本』で『雪国の春』を読んだ。やはり初版本で、さんざんに読まれてきたらしく、ひどく乱暴に製本しなおしてあったが、その製本も、だれか既決囚の一人の手になるものだったにちがいない。・・私は『狐のわな』などに今さらに驚いた。その前後からときどき柳田國男を読むようになったと思う。とはいっても、学問として読んだのではない。・・・」(p99)
これは中野重治の文「穏やかなきびしさ」から引用しました。
中野重治といえば「本とつきあう法」というのがあり(これは向井敏さんの引用箇所が思い浮かびます)。
それは、芳賀矢一・杉谷代水著『作文講話及文範』『書簡文講話及文範』を中野重治が紹介した箇所でした。
「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本で楽しんで読み、出てから古本屋で見つけてきて今に愛蔵している。僕の持っているのは縮刷版だ。発行は冨山房だ。」
せっかく中野重治が登場しましたので、もうすこし
「座談会 詩人の軌跡――堀口大學の世界」の中で林房雄氏は、こう語っておりました。
それは長谷川巳之吉の第一書房から出した「月下の一群」の話でした。
「不思議な話ですけれど、その豪華版の初版を刑務所の中にいる私に差入れてくれたのが中野重治ですよ。中野も自分で読んだものを入れてくれたのでしょうがね。おかげで獄中が非常に楽しかった。・・・」
もう一度、「柳田國男回想」にもどりますが、そこに志賀義雄の『獄中で読んだ柳田先生の本』という文があります。
「3・15事件以後、18年間監獄につながれ、読書はひどく制限された範囲しか許されなかった。半年前のものでも、古新聞の一きれがもし手にはいったら、どんなにむさぼり読むだろうかとみずから想像したような境遇だった。そこでも『海南小記』その他の柳田先生の本だけは何冊か読むことができた。それはくりかえし読んだ。戦争末期の予防拘禁所の四年間は、新約旧約聖書までも敵国の宗教書といって禁止していたのだから、ほかに読む本がろくにないありさまで、柳田先生の本を『くりかえし』読むといっても、その程度は世の常の何十倍もであった。いまでもそのときつくった数十冊のノートを保存している。」(p96)
あまり、獄中の話ばかりになりました。
ここから、中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」(山と渓谷社)へと、つづけたい誘惑にかられました。それはまた別の機会があったら。
「評者は外交官稼業のかたわらモスクワ大学哲学部で神学・宗教哲学を教えていたことがある。そのときロシアの学生たちが身に付けた速読術を目の当たりにした。一日に学術書ならば五百頁、小説ならば千五百頁くらい読む。米原万里さんは『受験の丸暗記地獄から解放された頃から速度は面白いほど伸び、ここ20年ほど一日平均七冊を維持してきた』(333頁)と書くが、これはハッタリではなく、プラハのソビエト学校で覚えたのであろう速読法と思う。」
もったいないのでもう少し、つづけて引用します。
「読書には他人の頭で考えるという面がある。読書家と話していても独創的な知性と出会うことは少ないのであるが、米原さんは常に自分の頭で考え、自分の言葉で表現する人だった。また、他者の内在的論理を正確にとらえる公正な精神をもっていた。」
それでは、米原さんは佐藤優氏をどう読んでいたのか。
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」(文藝春秋)の中の「私の読書日記」。
そこにこんな箇所。
「ムネオ事件に連座して検挙された元外務省主任分析官、佐藤優(現在起訴休職中)の傑作獄中記『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んだ」(p260)
「何よりも東京拘置所生活の克明な描写。『512日間の独房生活は、読書と思索にとって最良の環境だった。学術書を中心に220冊を読み、思索ノートは62冊になった』。類い希なる作家の誕生は、生来の才能が獄中で研ぎ澄まされたおかげかも。私も拘置所に行きたくなった。」(p262)
米原さんの引用箇所は「国家の罠」のあとがきにありました。
その次には、佐藤優氏がこう書いております。
「その中で繰り返し読んだのが、『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)、『太平記』(長谷川端訳、新編日本古典文学全集54~57巻、小学館)、ヘーゲル『精神現象学』(樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー)だった。『精神現象学』からは、当事者にとって深刻に見える問題が、学術的訓練を積んだ者にとっては滑稽に見えることもあるという、ユーモアの精神を学んだ。
『聖書』について、私は神学部時代から新約聖書にはかなり親しんできたが、旧約聖書と旧約聖書続編は、今回、獄中ではじめて本格的に読んだ。独房で所持できる書籍は三冊以内であるが、『聖書』は別枠(拘置所用語では『冊数外』と言い、宗教経典、辞書、学習書は特別の許可を得て七冊まで所持できる)なので、いつも手許に置き、毎日、預言書に目を通した。ヨブ、エゼキエルなどイスラエルの予言者が時空を超え、独房に現れ、私の目の前で話しているような印象をもった。」
ちょうど、獄中の読書というのに興味を持ちました。
そういえば11月7日朝日新聞の丸谷才一連載「袖のボタン」に
「戦前の講談社は、知識人の目から見れば俗悪低級な出版社にすぎなかった。たとえば豊多摩刑務所は、月刊誌の閲読はすべて禁止していたが、『キング』『講談倶楽部』『雄弁』などの講談社刊行物は安全無害なので例外だったという。(佐藤卓己『「キング」の時代』)」とあります。
近頃読みかじった臼井吉見編「柳田國男回想」(筑摩書房)にも
獄中の読書が登場しておりました。
「1930年に、それから32年から34年へかけての間に、私は豊多摩の『官本』で『雪国の春』を読んだ。やはり初版本で、さんざんに読まれてきたらしく、ひどく乱暴に製本しなおしてあったが、その製本も、だれか既決囚の一人の手になるものだったにちがいない。・・私は『狐のわな』などに今さらに驚いた。その前後からときどき柳田國男を読むようになったと思う。とはいっても、学問として読んだのではない。・・・」(p99)
これは中野重治の文「穏やかなきびしさ」から引用しました。
中野重治といえば「本とつきあう法」というのがあり(これは向井敏さんの引用箇所が思い浮かびます)。
それは、芳賀矢一・杉谷代水著『作文講話及文範』『書簡文講話及文範』を中野重治が紹介した箇所でした。
「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本で楽しんで読み、出てから古本屋で見つけてきて今に愛蔵している。僕の持っているのは縮刷版だ。発行は冨山房だ。」
せっかく中野重治が登場しましたので、もうすこし
「座談会 詩人の軌跡――堀口大學の世界」の中で林房雄氏は、こう語っておりました。
それは長谷川巳之吉の第一書房から出した「月下の一群」の話でした。
「不思議な話ですけれど、その豪華版の初版を刑務所の中にいる私に差入れてくれたのが中野重治ですよ。中野も自分で読んだものを入れてくれたのでしょうがね。おかげで獄中が非常に楽しかった。・・・」
もう一度、「柳田國男回想」にもどりますが、そこに志賀義雄の『獄中で読んだ柳田先生の本』という文があります。
「3・15事件以後、18年間監獄につながれ、読書はひどく制限された範囲しか許されなかった。半年前のものでも、古新聞の一きれがもし手にはいったら、どんなにむさぼり読むだろうかとみずから想像したような境遇だった。そこでも『海南小記』その他の柳田先生の本だけは何冊か読むことができた。それはくりかえし読んだ。戦争末期の予防拘禁所の四年間は、新約旧約聖書までも敵国の宗教書といって禁止していたのだから、ほかに読む本がろくにないありさまで、柳田先生の本を『くりかえし』読むといっても、その程度は世の常の何十倍もであった。いまでもそのときつくった数十冊のノートを保存している。」(p96)
あまり、獄中の話ばかりになりました。
ここから、中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」(山と渓谷社)へと、つづけたい誘惑にかられました。それはまた別の機会があったら。