外山滋比古著「乱読のセレンディピティ」(扶桑社)が
出ておりました。さっそく読了。ああ、楽しかった。
うん。私はまるで柴田トヨさんの詩を読んだ気分(笑)。
詩といえば、谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)は、
最初に、「選者の言葉」として「初々しさ」という2頁。
最後には、大岡信・茨木のり子対談「美しい言葉を求めて」と
小池昌代の「水音たかく 解説に代えて」と
宮崎治の「茨木のり子略年譜」。
その小池昌代さんの文のはじまりに、
リルケの『マルテの手記』からの引用がありました。
そこを引用。
「リルケは『マルテの手記』のなかで次のように書いた。
『詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。
人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは
八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を
集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、
おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。
詩は人の考えるように感情ではない。
詩がもし感情だったら、年少にしてすでに
あり余るほど持っていなければならぬ。
詩はほんとうは経験なのだ』(大山定一訳・新潮文庫)。
茨木のり子は、そのように、蜜と意味を丹念に集め、
それらがゆっくりと蒸留されるのを待って
一編を書いた。とても贅沢な詩人である。」(p362)
年譜によると
茨木のり子は1926年(大正15年)生まれ。
ちなみに、
外山滋比古は1923年生まれ。
もどって、
「乱読のセレンディピティ」は面白かった。
たとえば、こんな箇所
「いくら賢い人でも、乱読すれば、
失敗は避けられない。しかし、
読めないで投げ出した本は、
完読した本とはちがったことを
教えてくれることが多い。
失敗をおそれない――
それが乱読に必要な覚悟である。
・ ・・・・
人間は失敗によって多くのものを学ぶ。
ときとして成功より大きなものが
得られることもある。そう考えると、
乱読が、指定参考書などより
実り多きものであることがわかる。」(p79~80)
出ておりました。さっそく読了。ああ、楽しかった。
うん。私はまるで柴田トヨさんの詩を読んだ気分(笑)。
詩といえば、谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)は、
最初に、「選者の言葉」として「初々しさ」という2頁。
最後には、大岡信・茨木のり子対談「美しい言葉を求めて」と
小池昌代の「水音たかく 解説に代えて」と
宮崎治の「茨木のり子略年譜」。
その小池昌代さんの文のはじまりに、
リルケの『マルテの手記』からの引用がありました。
そこを引用。
「リルケは『マルテの手記』のなかで次のように書いた。
『詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。
人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは
八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を
集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、
おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。
詩は人の考えるように感情ではない。
詩がもし感情だったら、年少にしてすでに
あり余るほど持っていなければならぬ。
詩はほんとうは経験なのだ』(大山定一訳・新潮文庫)。
茨木のり子は、そのように、蜜と意味を丹念に集め、
それらがゆっくりと蒸留されるのを待って
一編を書いた。とても贅沢な詩人である。」(p362)
年譜によると
茨木のり子は1926年(大正15年)生まれ。
ちなみに、
外山滋比古は1923年生まれ。
もどって、
「乱読のセレンディピティ」は面白かった。
たとえば、こんな箇所
「いくら賢い人でも、乱読すれば、
失敗は避けられない。しかし、
読めないで投げ出した本は、
完読した本とはちがったことを
教えてくれることが多い。
失敗をおそれない――
それが乱読に必要な覚悟である。
・ ・・・・
人間は失敗によって多くのものを学ぶ。
ときとして成功より大きなものが
得られることもある。そう考えると、
乱読が、指定参考書などより
実り多きものであることがわかる。」(p79~80)
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