和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

水田三喜男の関東大震災。

2024-04-19 | 安房
戦後の大蔵大臣で、安房郡出身の水田三喜男氏(1905~1976)に、
水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(日経新聞社昭和46年)があります。
そのはじまりは、ちょうど安房郡の山間部の曾呂村からはじまっております。引用。

「明治38年千葉県の南端、曾呂村に生まれた。・・・

 旧曾呂村は、嶺岡山脈の南麓を東から西へ通じる一本道を
 中心とした500戸余りの山村である。火成岩の風化した
 粘土層におおわれていて、いわゆる『水持ち』がいいために、
 200メートル以上の高いところまで水田化されている。
 その代わり絶えず地すべりを起こして、
 役人泣かせで有名な地帯となっている。

 嶺岡山は『東西四里、春草繁茂、処々に清水を生じ牛馬飢渇の患いなし』
 と古書にもいわれているとおり、わが国酪農の発祥地として知られている。

 国主里見氏によって牛馬の放牧地として開かれ、
 のちに徳川幕府の管理するところとなり、
 八代将軍吉宗によって、オランダ牛やインド白牛など、
 初めて外国からの種牛が放牧されるようになった。・・・

 毎年5月、馬捕りの行事が行なわれ、山の上には
 遠近の人々が集って大変なにぎわいであったといわれている。
 幕府の役人が来て、牛馬の売買を見定めする場所を陣屋と称した・・
 ・・・・・・

  みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも

  と古泉千樫が詠った嶺岡山はこの陣屋からわずかばかり東へ寄った
  ところである。春になって柔らかい草を得るために、
  冬山は今でもよく焼かれている。・・・・      」(p11~12)


この水田氏が北條にある旧制安房中に入学しております。

「・・中学の1年生になった。大正8年の4月であり・・
 この年、今の館山市に初めて汽車が開通し・・・  」(p20)

その安房中の寄宿舎にいた水田氏ですが、
関東大震災を、ここで経験しております。

「大正2年9月1日、関東地方一円は大震災に襲われた。
 房総半島の西南側、特に北条、館山を中心として、
 およそ建物と名のつくものはことごとく倒壊した。

 寄宿舎も校舎も一瞬のうちに倒れたが、  
 小山内という博物の先生が一人身代わりとなられたためか、
 生徒の全員は奇跡的に無事だった。

 北条の海岸にあった堀田伯爵の別荘から救援の依頼があり、
 渡辺勇君と私と4人の寄宿生が駆けつけて、
 天井や壁の下敷きになっている人たちを助け出し、
 代わる代わる人工呼吸を行なったが、若い伯爵夫人のみは
 とうとう息を吹き返さなかった。・・・・

 夜中になって津波が押し寄せるという情報が伝わってきたので、
 寄宿生はその晩みんなで山の方へ逃げ出した。
 嶺岡山の生家は幸いにも倒れていなかった。・・・
 
 戸外に仮寝の小屋をみんなで作っている最中であった。
 その翌日からこの山の中にも流言蜚語が飛ぶようになり、
 男たちは日本刀をもち出して自警団をつくった。
 隣村を社会主義者らしいものが通ったというような
 情報が伝わるたびごとにわけもわからず色めき立ったものである。
 こんな騒ぎのなかで私は最愛の祖母をなくした。・・・・  」


最後に、関東大震災後の水田氏を語っている箇所を引用。

「・・震災のあと、5年生は連日先頭に立って、
   跡片付けや復旧工事の手伝いをしたので、
   満足な授業もなく受験勉強もできないままに
   卒業するはめとなった。果たして
   上級学校への受験生はこの年枕をならべて討ち死にした。
   私もその一人であったが、全員の討ち死にによってあきらめられた。

   5月ごろから東京に出て受験生活にはいるつもりで
   身辺の整理をしているところへ或日突然郡役所から
   辞令が届いてびっくりした。代用教員に任命され、
   郡内の千歳村小学校に勤務を命ずるというのである。

   私が高校受験に失敗したことを知って、
   父が私には無断で郡長に頼んだ結果であることがわかった。
   父は一学期だけでもいいから赴任してくれという。
   いろいろな事情をきいて父の顔を立てないわけにもいかなくなった。
   ・・・・・・・

   わずか8カ月の勤務ではあったが、私には月給をもらって
   世の中に出た初めての経験であり、貴重な体験であった。

   最初は、関係者の顔を立てればいいと思ったまでのことであり、
   受験勉強を主として生徒に教えることを従とするつもりで赴任
   したのであったが、実際に子供を預かってみるとそんな無責任
   なこともできなかった。

   教えることの興味が少しずつ出てくることに伴い、
   責任感も次第に強まっていくことを意識して私はおそれた。

  『このままでいけば来年も落ちるに違いない。やめるなら早い方がいい』

   と決断して、中学の先輩である堀江さんというお寺の住職に
   相談し、私の後任となることも承知してもらってから辞表を出した。」


「 大正14年4月、水戸高等学校に入学した。・・・
  特に代用教員の時、陰になり陽になって私を庇護し、
  励ましてくれた先生方が、よかった、よかったと
  祝福してくれたことが身に沁みてうれしかった。
  中学の同級生たちもこの年は一斉に上級学校へ入学した。 」(~p38)


注: ちなみに、年代からして、登場する郡長は大橋高四郎。




 


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