和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

百年前の賢治

2023-06-26 | 思いつき
大正12年(1923年)の関東大震災から、今年が百年目の2023年。
そういえば、大正10年12月に宮沢賢治は岩手の稗貫農学校教諭になっています。
関東大震災の前には、賢治はどうしていたのだろうか?

大正11年3月頃、『精神歌』『黎明行進歌』『応援歌』など作り生徒と歌う。
大正11年11月、トシ没(24歳)『永訣の朝』『無声慟哭』群の詩を書く。
大正12年7月~8月、生徒の就職依頼のため青森、北海道経由樺太旅行。
詩『青森挽歌』『オホーツク挽歌』を書く。

年譜によると、当時の気象状況も載せておりました。
大正10年。大暴風雨で県下被害甚大
大正11年。この年も二度にわたり大暴風雨の被害甚大。
大正12年。この年、60年来の大風雪。
大正13年。この年、旱害のため県下五割減収。

    ( 宮澤賢治年譜 原子朗 )


大正12年5月には、稗貫郡立稗貫農学校が、花巻農学校となり開校式。

山折哲雄氏の文によれば、

「大正10年から15年までの期間、賢治は花巻農学校の教師をしていた。
 『春と修羅』をはじめ、つぎつぎと詩の大作を書いていたときである・・」

「 賢治は昭和元年に花巻農学校を退職して、花巻町の下根子で自炊生活を
  はじめた。そして『農民芸術概論』を書き、『羅須地人協会』を設立 」

   ( p14~16 「賢治の風光」佼成出版社・1985年 )

山折哲雄著「わが人生の三原則」(中央公論新社・2013年)の
本の最後に、賢治と中也とを並べている箇所がありました。
そのはじまりは、「風土と詩人」

「私(山折哲雄)の故郷は岩手県の花巻市です。
 宮澤賢治の生家から二、三百メートル離れたところに実家があります。
 両親などから生前の賢治について、よく話を聞かされて育ちました。
 ・・賢治の作品には子どものころから親しみ、自分なりに読んできました。」

「・・・賢治もまた何度か上京しました。
 しかし身体が強健でなく、生計を立てる手段もなかった賢治は、

 その都度、故郷に引き戻されてしまう。故郷脱出を諦めざるを得なかった。
 つまり異文化の世界へ水平移動をすることができなかったのです。

 その結果、水平方向を塞き止められた賢治のイマジネーションの奔流は、
 垂直方向の宇宙の高みへと翔け昇っていった。
 賢治の想像力の本質を、私はそう解釈しています。  」(p164)





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