和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と安房の海の時代③

2024-04-02 | 安房
「千葉県安房郡誌」(大正15年6月・千葉県安房郡教育会)の記述に

「 維新前の経済状態は之を詳にし難きも、
  古来安房国の石高は十万石と稱せられ、
  農業は産業上重要なる位置を占めたり。

  然し米穀は概して需要を充たすに足らず、
  遺憾ながら自給自足の状態にてはあらざりき。

  天然漁業に適したる本郡が、
  古来漁業を以て全国に聞え、
 『 安房は水の国 』との稱ありしも、
  蓋し天然的の理由のみにはあらざるべし。

  即ち江戸幕府時代には交通不便ながらも、
  海産物を江戸に輸送し、それによって
  所謂房州の経済状態は維持されたるが如し。
  従って生活の質素なりしは当然と云ふべし。・・ 」( p442 )

という記述があります。
さて、関東大震災の余震がたびたび来る中にあって、
海運の重要性は、躊躇を許さないものがありました。

昭和8年8月発行の「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
元安房郡社会教育主事・鈴木保氏の「戦場の如き慰問品の陸揚げ」
と題する文がありました。最初の方には、こうあります。

「・・倒潰家屋の片付、交通整理、応援団体の指揮等一通り済んだ
 9月の下旬頃から、全国各地から陸続として慰問品が寄贈される、
 依って慰問品係が専任された。・・・ 」

「 ・・或る日の午後3時頃と記憶する。
 大阪商船会社北京丸は海岸遠く碇を下ろして、
 船長は事務所を訪れた。

 大阪方面より関東災民に寄贈すべき慰問品を本船に満載してゐる。

 明日の午前12時迄に引取って貰ひたい、
 本船は明日正午当港を出帆すべきにより、
 同時刻までに引取を完了せざるに於ては、
 本船は他の地方に之を輸送すべし、

 と云ふ意味の通告であったと記憶する。
 郡長は桟橋会社の楼上から沖に碇を下ろして居る北京丸を望み、
 何か決するところがある。
 
 我等は五、六千噸もある大商船に満載せる慰問品、
 全部を貰ひ受けて災民に頒ちたいといふ、希望は満ち満ちてゐる。
 ・・・・

 大橋郡長は決する所あり、館山町長を召致して、町民一戸一人
 賦役の方法を以って明日正午までに引取り方を交渉した。
 同町長之を快諾、直ちに町民に向って、総動員令を下したのである。

 郡は東京通ひの小蒸気船一、二艘(300噸位)
 外に渡航船(荷物運送船)数隻を徴発して、萬全を期した。

 翌朝夜の未だ明けやらない東雲の頃より、
 屈強の船頭を各受取船に乗り込ましめ、
 無二無三、本船より移荷せしめた。

 そして数十隻の艀舟によって海岸に運ぶ、
 人夫は陸上にあって艀舟の来るのを今や遅しと
 手ぐすね引いて待ってゐる。・・・・・

 時しも震災の為海底隆起し加之干潮の為
 艀舟より陸上までピシャピシャ波を徒渉
 せなければならぬ、不便此の上もなかった。

 大きなる荷物、重き菰包、擔ぐ者背負ふ者、
 誤って水中に落す者、格納所まで二町乃至三町の間、

 多数の人夫の往復、さながら戦時輸送の実景を見るが如き心地がした。

 我等は陸揚は兎も角、本船からの引取完了を心痛し、
 遠く本船内の活動を慮ること刻一刻、正午を期し 
 黒煙を吐きつつ北京丸の出帆を眺めた。

 その時引取船上の人々の疲れ切った体にも、
 使命を果した朗な顔が双眼鏡のレンズに映ずるを見、萬歳を叫んだ。
 ・・・・・      」 ( p887~890 )

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