「岡野弘彦インタビュー集」(本阿弥書店・2020年)
というのが検索していたらあった。読みたくなり注文。
インタビューの聞き手は小島ゆかり。それが昨日届く。
「インタビューを終えて」で、小島さんは、
『一年間にわたってお話をうかがう機会を得られ・・』(p389)
『申し訳ないほど心をひらいておつきあいくださった』(p388)
とあります。
私が読んだのは、第一回「私の生い立ち・少年編」(p5~35)。
はい。これだけで、私は満腹。
はい。満腹の腹ごなしにブログに書きこみます。
小見出し「神主の家の子どもの役目」(p20)は
こうはじまっておりました。
「小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
白木の桶に若水を汲みに行くんです。
『今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水をくむかな』
と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
上流に向かって水を汲むわけです。
うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。
残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
それを五つのときからさせられました。
ちょうどその時間、夜中の一時くらいですが、
上の神社の森のお社から、村の青年たちを手伝わせて
元日のお祭りをしている父親の祝詞(のりと)の声が
川音に交じって聞こえてくるんです。」
場所はどこかというと
「私のところは三重県の伊勢の西の端です。
ちょっと北へ行くと伊賀、ちょっと西へ行くと大和です。
三つの国のちょうど境になるわけです。
そういうところへ荒い心霊を祭って、
国境の外から来る悪霊を追っ払う守り神にしたんだと思うのです。
伊賀や大和からの参拝者も多かった。・・・」(p24)
小学校の五年生とあります。
「僕は小学校の五年のときにすでに大峰山へ修行に行かされたんです。
・・・・ワラジで五十何㌔、一日歩きました。
朝の三時ごろ、洞川(どろがわ)の龍泉寺という寺の冷たい泉に浸かって、
御詠歌をうたう。それが行の始まりで、それらか行場行場を勤めて行く。
でも小学校の五年生なんて、わりあいに筋力がついているし、
身は軽いですから、大人とけっこう一緒に歩けた。
『東の覗き、西の覗き』もそう怖いと思わなかった。
中学五年のときは一人で吉野へ行って、
やさしそうな、兵庫県から来た先達に
『ご指導を願います』と言って、連れていってもらって、
二遍、行をしました。・・・」(p28~29)
はい。第一話の30ページを読むだけでも、
もう私は胸も腹も一杯になるようで、もうここまでにします。
そういえば、方丈記の鴨長明が思い浮かびます。鴨長明は
『久寿2年(1155)ごろ、京都、下鴨神社の神職の家に生まれ』
ということで、本棚からとりだすのは
ちくま学芸文庫の『方丈記』(浅見和彦校訂・訳)。
その年譜を見ると、
1155(久寿2)年 長明生まれるか。・・・
1172(承安2)年 父長継、この頃没か。
うん。浅見和彦氏の解説から引用することに。
「長明が生い育った下鴨神社は平安京の北東辺に位置する。
賀茂川と高野川の合流地点にあり、古くから平安京の≪水≫を
司祭する由緒ある神社であった。・・・・・
長明の父は鴨長継とった。長継は若くして有能な人物であったらしく、
早いころから下鴨神社の摂社(付属社)の河合神社の禰宜(ねぎ)を、
そして下鴨神社の最高責任者である正禰宜惣官という地位に昇って
いった人であった。・・・この優秀な父親が若くして突然、他界して
しまったのである。享年33、4歳。・・・」(p241~243)
浅見和彦氏は、この文庫の解説を
方丈記のはじまりの言葉から、はじめております。
そして次にこうありました。
「古来、古典文学の冒頭文には名文が多いが、
『方丈記』の書き出しほどの美しさは他にない。
美しさということでいえば、随一の美しさを
持っているといえるかもしれない。
この世にとどまるものはない。
川の流れに浮かぶ『うたかた(泡)』がそうであるし、
人間も住居も、すべていつかは消え果てるものである
というのである。いつまでもとどまり続ける
常住のものは何一つとしてない。
すべてのものは無常であるのだという認識は、
日本の中世に広く深く浸透していた。・・・」(p235)
はい。ここまで。それでは浅見氏の解説のはじまりを
引用しながら終わることに。
ゆく河のながれは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消え、かつむすびて、
久しくとどまりたるためしなし。
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