ひょっとしたら、ありがたいことには、
私たちは、新聞コラムの魅力の恩恵に
あずかった最後の世代かもしれませんね。
生徒の頃には、深代惇郎氏の天声人語。
そのあとなら、石井英夫氏の産経抄。
そのあとには、竹内政明氏の編集手帳。
うん。どなたか、こんなコラムがあるよと
そっと教えてくだされば、これを撤回して
ありがたく読ませていただくのですけれど。
これが、コラムの小休止であってくれれば。
戦争を知らない子供たちが、いるように、
東日本大震災を知らない子供は出てくる。
そのように、時代は流れてゆくのですね。
竹内政明氏の「編集手帳」は、東日本大震災を
読売新聞の一面コラムで書き残してくれました。
ここに、震災翌年2012年5月22日のコラム全文
を引用してみることにします。
東京スカイツリー 竹内政明
インタビューの名手といわれたコラムニスト、いまは亡き
青木雨彦さんはご婦人が相手でも、必ず年齢を尋ねた。
年齢で人間を計ろうとしたのではないという。
『そのひとの人生の句読点を知りたいのである。たとえば、
日本が戦争に敗けたとき、そのひとはいくつだったか』
(タイやモンド社「冗談の作法」)
終戦に限るまい。〈 人生の句読点 〉と呼べそうな
出来事は誰にでもあるだろう。東京オリンピック、大阪万博、
何をおいても東日本大震災・・・・きょうの
『東京スカイツリー』開業もあるいはそうなるかも知れない。
目標の高さ634メートルに到達したのは震災の1週間後、
昨年3月18日のことである。翌日の紙面では、
『死者、阪神大震災を超す』『福島第一原発で連日の放水』
といった記事の陰に小さく報じられている。
僕が、私が、何歳の頃だったな――いまの子供たちが
いつか大人になって句読点を振り返る日が来るだろう。
そのとき、活気に満ちて暮らしやすい世の中であればいい。
遠くから眺めると、天上の鍼灸師が大きな手で地表に
刺した鍼(はり)のようでもある。
傷つき疲れた国を癒やす鍼のような。
竹内政明氏は2017年に体調不良で第一線から引退して
いるようです。東日本大震災の時も、その後も、コラムには
句読点のようにして震災への記述がありました。
3月12日にテレビで「Fukushima50」が放映されて、
私ははじめて観させていただきました。ちょっと
見過ごしてしまいそうな、一場面があるのでした。
竹内政明氏のコラムにも、吉田昌郎氏が登場します。
こちらも引用させてください。
戦死 竹内政明
山笑う春、山滴る夏、山粧(よそお)う秋、山眠る冬。
俳人の長谷川櫂さんは詠んでいる。
〈 山哭(な)くといふ季語よあれ原発忌 〉(句集「柏餅」より)
吉田昌郎(まさお)さんが食道がんで亡くなった。
58歳という。官邸や東京電力本店からの指示が混乱、
錯綜し、寝ぼけたような命令も飛んでくるなかで、
東電福島第一原子力発電所の所長として最悪の事態
を回避すべく、現場で陣頭指揮にあたった人である。
現場と東電本店を結んだテレビ会議で吉田さんは
突然立ち上がり、カメラに尻を向けてズボンをおろした。
パンツの中にシャツを入れ直す。
カメラの向こうには当時の菅直人首相もいた。
作家の門田隆将さんが吉田さんの談話を交えて綴った
『死の淵を見た男』(PHP研究所)にある。
自分が感情を爆発させれば部下が動揺する。
パンツの尻を向けることで、
もろもろの不満を腹にのみ下したのだろう。
がんと被曝に因果関係はないとしても、
過労とストレスが命を縮めたのは間違いない。
暴れ狂う原子炉と格闘した末の戦死である。
長谷川さんの造語であるらしい『原発忌』
という言葉が、
悲しくもこれほど胸に迫る人はいない。
(2013年7月11日)
以上2つのコラムは、どちらも中公新書ラクレ
「竹内政明の『編集手帳』傑作選」(2018年)で読めます。
じつは、gooブログの自身の昨年ブログを教えてくれるメールを
珍しく読み直したら、2020年3月13日に「震災コラム。震災歌集。」
と題して書き込みをしておりました。
すっかり忘れていたので、他人のブログを読ませてもらったようでした。
そこでは、竹内政明氏の2011年3月12日のコラムが引用されていました。
はい。それに触発されて、今日のブログです。
女性にも年齢を聞くという考えに賛成です。年齢がわからなければ、話題もですが、言葉遣いもどう対応していいかわかりません。なぜ女性には年齢を聞いてはいけないなどという馬鹿なルールを作ったのでしょう。年齢こそがその人の人と成りを最も雄弁に語るのに…。
カミナリビコ2さん。
要約なんかしなくていい。
という言葉が好きで、
そのかわりに、引用が多くなりました。
二つのコラムを、引用しちゃいました。
うん。これじゃ満腹ですよね(笑)。