和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ペロッとした一枚の紙切れ。

2021-11-21 | 先達たち
「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三)日経プレミアシリーズ。
はい。新書でした。そこで
小山さんが、アメリカやイギリスの図書館の様子を指摘しておりました。

小山】・・・アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
大事な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。

 少しカットして、その次に

梅棹】 ・・・ほんとにおどろくべき話やけれど、わたしが
始めるまで、自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。
発表したものが全部どこかへいってしまうんやな。

もう古い話やけど、わたしが還暦のときに自分の著作目録という
ものをこしらえて、それを桑原武夫先生のところへ持っていった。
そしたら桑原さんは、『こんなもんつくって、大迷惑だ』って
言いながら『場外大ホームランや』って。・・・・・・・・・

・・・桑原先生は
『みんな真似しよう思っても、もういまさらでけへんやろ』って。
ほんとに信じられない話だけど、みな自分が書いたものを残して
なかったわけです。

自分でやらなければ、だれも残してくれない。
わたしは中学校のときのものから残っている。
ガリ版やけど、中学校のときのもあります。・・・・(p80~82)


ここに『ガリ版』が登場しておりました。

川喜田二郎著作集別巻には
「ある小集団の発生――梅棹忠夫君との交友から」(p64~67)
がありました。この別巻にはまたこんな箇所があるのでした。

「1964年に愚著『パーティー学』で、
次いである仲間の集会で暫定的に『紙キレ法』と称して説明したら、
同席の友人梅棹忠夫さんが、私の用意したガリ版刷り資料の
一隅に自筆した『KJ法』という一語を指さし、『これにせよ』と
すすめてくれたのである。それに端を発し、
翌年1月にこの名を正式に定めた次第だった。・・・」(p252)

はい。ガリ版についてはこれまでにして、最後に、
川喜田二郎氏による梅棹忠夫について、引用しておくことに。

「梅棹君と私とは、お互いに対照的なほどちがっていた。
中学時代の登山では、彼はチームワークがうまく、私はへただった。
・・・梅棹君は文学青年で私は哲学青年だった。
彼は万事スッキリ好みなのに反し、私や後輩の川村俊蔵君などは
万事ゴツゴツと野暮ったかった。
彼は気分の高揚するときと落ちこむときとの波の上下が極端だった。
・・・・・・・・

しかしその彼が、国立民族学博物館の仕事にかかり出してからは、
高揚したレベルのまま安定しているようである。
それに、時おり話しあっていると、ずいぶん人間的成長が感じられる。

やはり人間は誰しも、自分が真剣に取り組んでいる仕事を通じて
成長するものだと思わずにはいられない。・・・」(別巻・p66)

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