和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

新書4冊並べ。

2010-08-23 | 他生の縁
新書はそんなに読んでいないので、
イザ、読み返そうとすると、すぐに揃います。
ということで、4冊を棚に並べてみました。

  北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)
  竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)
  松岡正剛著「多読術」(ちくまプライマリー新書)
  柴田光滋著「編集者の仕事」(新潮新書)

松岡正剛に「知の編集工房」(朝日新聞社)という本があり、
そのはじまりは、こうでした。

「映画監督の黒澤明はつねづね『映画の本質は編集である』と言っている。国立民族学博物館の梅棹忠夫館長はずいぶん前から『編集という行為は現代の情報産業社会の夜明けを象徴する』と主張してきた。神戸製鋼のラグビーを七連覇に導いた平尾誠二は『ラグビーは編集だ』と表明した。いったい、ここにのべられている『編集』とは何なのか。・・」

また「あとがき」のはじまりというと、

「この本は『編集工学』という方法に関する入門書となることをめざしつつ、『編集は人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である』という広いテーマを展開した試みになっている。・・」

さてっと、柴田光滋氏の新書は、その編集者の体験談となっておりました。そこに「タイトルには毎回苦心惨憺」(p37)という箇所がありました。では引用。

「単行本にする原稿を読みながら編集者はまず何を考えるのか。・・・タイトルと判型をどうするかが頭のなかを駆け巡ります。なぜなら、この両者が本作りの方向性を決定するからで、いずれもが最初に固まれば、作業の一つひとつは大変でも、ブレは生じにくい。・・・小説のタイトルはそれを含めて作品であって、著者の聖域に近い。・・・しかし、文学者以外の著者の場合、通常、タイトルは編集者が考える、いや捻り出すものです。これが実にむずかしい。・・下手をすると考えるほどに負のスパイラルに陥りかねません。」

ここで、あらためて、4冊の新書の題名を見直したりします。

北村薫著「自分だけの一冊」は副題が「北村薫のアンソロジー教室」となっております。帯には「読むだけなんてもったいない編む愉しさもある」。そして「まえがき」には「【マイ・アンソロジー】を作るのは、難しいことではありません。そして、【アンソロジー】は、作った「自分」の「今」を語ります。」

うん。ブログの書き込みをしていると、まして、私は本の引用の書き込みに偏してしるわけなので、アンソロジーという言葉には惹きつけられるものがあります。
この北村薫氏の新書で興味深いのは、句集や歌集に言及している箇所でした。
実感がこもります。

「『古今』や『新古今』みたいな勅撰集だと配列に工夫する。つまり、歌集なんかだと、名作ばかり並べてもいけないんです。超傑作ばかりだと、読者が疲れてしまう。駄作ではないんだけれど、『これはいいな』程度のものが入っていないと傑作がきらめかない。・・句集や歌集を読み、自分の眼を通した時には見落としていたのに、その中から誰かが一句、あるいは一首を抜き出して見せてくれると、輝きにうたれることがあります。良いアンソロジーには、そういう力もある。」(p48)


「選句は創作だ――というのは、俳句の世界では普通にいわれることです。アンソロジーにも、そういうところがある。誰が水にもぐるかで、採って来る魚は変わる。そこが面白い。前にもいったと思いますが、アンソロジーは選者の個性を読むものです。」(p164)


引用といえば、竹内政明著「名文どろぼう」。その帯には著者の写真とともに、「名文を引用して、名文を書く技術」とあります。はじめにこうありました。「引用とは他人のフンドシで相撲を取るようなものだから、題名は『フンドシ博物館』でもよかったが、それではあんまりなので『名文どろぼう』とした。」

そこの「はじめに」での最後の言葉が

「書いていて楽しかった。日本語にまさる娯楽はないと思っている。」とありました。

今日も暑いですね。毎日汗ばかり。
それではと、
「書いていて楽しかった」というブログを書いていけますように。
新書4冊をならべて、そんなことを思います。
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