和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

意外に、執筆者では商売にならない。

2018-09-29 | 短文紹介
雑誌「新潮45」が終わるのか。
そう思って、
手近かにある雑誌「新潮45」をもってくる。
最近の各号の特集の題名を並べてみる。

6月号・『朝日の論調ばかりが正義じゃない』

7月号・『こんな野党は邪魔なだけ』

8月号・『日本を不幸にする「朝日新聞」』

9月号・『「茶の間の正義」を疑え』

10月号・『「野党」百害』


ちなみに、終刊に追い込まれたテーマは
8月号の『「LGBT」支援の度が過ぎる』杉田水脈
そして10月号の
特別企画『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』


特集の題名のどこが悪い。
読みたくなるタイトルが並ぶ壮観。
もう、こんなタイトルが読めなくなる無念。

改めて思い出すのは、齋藤十一氏の
この場面でした。

「『新潮45』の第一回編集会議というべき、
創刊にあたっての初顔合わせで、編集長以下
編集スタッフ四名を自室に呼んで、
齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。
昭和59年(1984年)12月28日のことである。

『他人のことを考えていては雑誌はできない。
いつも自分のことを考えている。
俺は何を欲しいか、読みたいか、
何をやりたいかだけを考える。
これをやればあの人が喜ぶ、
あれをやればあいつが気に入るとか、
そんな他人のことは考える必要がない』

『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、
あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。
したいんだけど、素人だから、手に負えない。
そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませる
ことができるようなものにするのが編集者の役目だ』

・・・・・
実際、『新潮45』の編集会議においても、齋藤さんが、
いかにタイトルにこだわっているかを痛切に
思い知らされると同時に、雑誌記者にとって
タイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し
叩き込まれたという思いが強い。
・・・

『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。
広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』

『むつかしい人、偉い人に原稿を頼む必要はない。
自由のきく執筆者を揃えよ、ということ。
要するに、題が重要になる。
こちらでタイトルを持っていって、
その通りに書いてもらうことだ。
意外に、執筆者では商売にならない』

『羊頭狗肉が一番いけない。
これだけはやらないでくれよ。・・』

以上は、伊藤幸人「人間、いかに志高く」からの引用。
それが掲載されているのが
「編集者 齋藤十一」(冬花社)p167~172。

ちなみに、伊藤幸人氏の文の最後はというと、

「齋藤さんから教えられたのは、
単に『編集とは何か』ということではなかった、と思う。
『人間、いかに志高く生きるべきか』という根源的なテーマだった。」


はい。あらためて、6月号からの特集の題名を並べながら、
その『根源的なテーマ』を思っておりました。



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