和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

その声を聞くと、私も、思わず。

2018-07-07 | 詩歌
大岡信と谷川俊太郎の対談
「詩の誕生」(岩波文庫)に、

谷川】 そうだとすると、
詩と言葉のどちらが先に誕生したかと考えれば、
詩のほうが先なんじゃないかな。
うちの犬がときどき遠吠えしているのなんか聞くと、
あれは詩じゃないかと思うよね。

大岡】 犬の遠吠えってのはほんとうにそう思うね。
何に対して訴えてるのかわかんないけど、
実に悲痛なものだね。

谷川】 だから言葉ってのは、もしかすると
そういう詩的な感情をからめとるものとして
出てきたというふうにも言えるかもしれない。

いまわれわれは、言葉というのは物に名前をつけるとか、
何かと何かを区別するとか、非常に明示的なものとして
出てきたもののように思いがちだよね。
だけど案外そうではなくて、明示するよりも先に、
非常に曖昧なものをからめとろうみたいなさ。
区別するよりも先に総合して受けとめて、
それを人にも伝えようというような感じがあるんだな。
そうだとすると、言葉より詩が先といえるんじゃない?

大岡】 そうね。かりに
『詩』と名づけることのできる。ある思いだね。
(p51~52)


そういえば、地元の神輿の渡御が
この7月14日にあるのでした。
毎回神主が出張してきて、
組み立てた神輿にミタマを入れるのでした。
神社の奥の扉をひらくときに、
神主が、大きな声で、それこそ、
言葉にならない、おごそかな叫びをあげて、
奥の間の扉を開くのでした。

もう一つ思い浮かべたのは、
清水幾太郎著「私の心の遍歴」でした。
その関東大震災に被災して
家が潰れて、それから避難する様子を
書いた箇所に、それはありました。

「私たちは、間もなく、動き出しました。・・・
群衆の中に融け込んでからも、私は時々、
妹と弟との名を呼びました。いくら、呼んでも、
反応はありません。けれども、私が呼ぶと、
群衆の流れの中から、同じ肉親を呼ぶ声が
ひとしきり起って来ます。それも無駄だと判ると、
再び以前の沈黙が戻って来ます。
沈黙が暫く続くと、どこからともなく、
ウォーという呻くような声が群集の流れから出て来ます。
この声を聞くと、私も、思わず、ウォーと言ってしまうのです。
言うまいとしても、身体の奥から出てしまうのです。
言語を知らぬ野獣が、こうして、その苦しみを現しているのです。
私たちは、ウォーという呻きを発しながら、
ノロノロと、暗い町を進んで行きました。」
(「私の心の遍歴」の「大震災は私を変えた」から)


「詩の誕生」のなかの「犬の遠吠え」から、
清水幾太郎の「言語を知らぬ野獣が・・」を、
私は、思わず思い浮かべておりました。
コメント
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