1月14日の成人の日は、東京も房総にも雪が降りました。
その雪のニュースを見ながら、地震・津波の日時を思いましたので、
今回は、それについてです。
関東大震災は、9月1日の午前11時58分。
東日本大震災は、3月11日の14時46分。
どちらも、昼間のできごとでした。
けれども、いつもそうとはかぎりません。
阪神淡路大震災は、 1月17日の午前5時46分です。
そして、和田町真浦の威徳院に記録碑がある元禄地震は、
元禄16年11月23日(1703年12月31日)の
午前2時ごろでした。
午前2時ごろの地震と津波は
どのようなものだったでしょうか?
三陸海岸大津波では、昭和8年の津波の作文がありました。
昭和8年3月3日午前2時30分頃、田老に大津波が襲いました。
その時のことを、尋常小学校6年の牧野アイさんが作文に残してくれています。
その前半の箇所を引用します。
「 ガタガタとゆれ出した。
そばに寝ていたお父さんが、
『地震だ、地震だ』
と、家の人達を皆起して、戸や障子を開けて外に出たが、又入って来ました。
けれどもおじいさんは、
『なあに、起きなくてもいい』
と言って、平気で寝て居ました。すると、だんだん地震も止んできました。
お父さんは、それから安心した様子で火をおこして、みんなをあててくれました。
ちょうど体があたたまったころに、お父さんが、
『なんだかおかしい。沖がなってきた、山ににげろ』
と言いますから、私は惣吉を起しました。
お母さんにせんちゃんをそわせて、静子と二人で表に出る時、おばあさんは火を消して
いましたし、お父さんは、『提灯を付けろ、付けろ』と、さわいでいました。
表へ出て見ますと、町の人々が何も言わないでむすむすと(無言で)山の方へ行くので、
『静子、あべ(行こう)』
といったら、
『やった(いやだ)、おらお父さんといく』
といって、家に入って行きました。
仕方がないから私はだまって家の前に立っていると、そこへ玉沢さんのとし子さんが
真青な顔をして来ましたので、二人手をとって山の方をさして逃げました。
木村さんのへいの所で人が沢山こんでいたので、落合さんの方へ行こうとしたけれども、
又もどって木村さんのところを人を押し押しして、ようやくのことで山に逃げ登りました。
山に登った時土のような物が口に入りましたが、私はそんなことは平気で、笹にとっつきながら赤沼山のお稲荷さんの所まで行くと、みんながもっと登って行くので、私達もはなれないように、ぎっしり手をとって人の後について山のてっぺんまで上って火をたいてあたりました。 ・・・・ 」
これは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)で、簡単に読むことができます。
全文を読みたい方は、手にとってみてください。
さて、吉村氏は、アイさんの作文全文を引用したあとに、
「悲惨な内容をもつ作文である。ただ一人取り残された少女の悲しみがよくにじみ出ている秀れた作文でもある。この作文を書いた少女は、現在田老町第一小学校校長の夫人として同町に住んでいる。49歳とは思えぬ若々しい明るい顔をした方だった・・・家には、祖父、父、母、父方の叔母と、妹静子(小学校二年生)、弟惣吉(六歳)、妹せん(二歳)とアイさんの八人がいた。そのうちアイさんをのぞいて、七名の家族が死亡してしまったのである。
アイさんが、とし子さんという娘にうながされて逃げなかったら、他の家族といっしょに死んでいたことはまちがいない。
アイさんの家は、海岸から120メートルはなれた町の中に建っていた。・・・
津波によってすべてを失ったアイさんの生家は、破産した。そして孤児となったアイさんは、田老村の叔父の家に引きとられ、その後宮古町に一年、北海道の根室に五年と、親戚の家を転々とした。アイさんは成人し、19歳の年には再び田老にもどり翌年教員の荒谷功二氏と結婚した。ご主人の荒谷氏も、津波で両親、姉、兄を失った悲劇的な過去をもつ人であった。
荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐しさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。
『子供さんはいやがるでしょう?』
と私が言うと、
『いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます』
という答えがもどってきた。 ・・・・ 」
吉村昭氏のこの本「三陸海岸大津波」は、
1970年(昭和45年)に新書(題「海の壁」)として出版されました。
そして、1984年に文庫となります。ながらく絶版でしたが、
20年後の2004年になってあらたに文庫化されたのでした。
それから、7年後に東日本大震災がおこります。
まだ、
書きたいことはありました。
荒谷アイさんのその後のこと。
その娘さんの荒谷栄子さんのこと。
そして、文春文庫の解説を書いていた
高山文彦氏の新刊のこと。
その雪のニュースを見ながら、地震・津波の日時を思いましたので、
今回は、それについてです。
関東大震災は、9月1日の午前11時58分。
東日本大震災は、3月11日の14時46分。
どちらも、昼間のできごとでした。
けれども、いつもそうとはかぎりません。
阪神淡路大震災は、 1月17日の午前5時46分です。
そして、和田町真浦の威徳院に記録碑がある元禄地震は、
元禄16年11月23日(1703年12月31日)の
午前2時ごろでした。
午前2時ごろの地震と津波は
どのようなものだったでしょうか?
三陸海岸大津波では、昭和8年の津波の作文がありました。
昭和8年3月3日午前2時30分頃、田老に大津波が襲いました。
その時のことを、尋常小学校6年の牧野アイさんが作文に残してくれています。
その前半の箇所を引用します。
「 ガタガタとゆれ出した。
そばに寝ていたお父さんが、
『地震だ、地震だ』
と、家の人達を皆起して、戸や障子を開けて外に出たが、又入って来ました。
けれどもおじいさんは、
『なあに、起きなくてもいい』
と言って、平気で寝て居ました。すると、だんだん地震も止んできました。
お父さんは、それから安心した様子で火をおこして、みんなをあててくれました。
ちょうど体があたたまったころに、お父さんが、
『なんだかおかしい。沖がなってきた、山ににげろ』
と言いますから、私は惣吉を起しました。
お母さんにせんちゃんをそわせて、静子と二人で表に出る時、おばあさんは火を消して
いましたし、お父さんは、『提灯を付けろ、付けろ』と、さわいでいました。
表へ出て見ますと、町の人々が何も言わないでむすむすと(無言で)山の方へ行くので、
『静子、あべ(行こう)』
といったら、
『やった(いやだ)、おらお父さんといく』
といって、家に入って行きました。
仕方がないから私はだまって家の前に立っていると、そこへ玉沢さんのとし子さんが
真青な顔をして来ましたので、二人手をとって山の方をさして逃げました。
木村さんのへいの所で人が沢山こんでいたので、落合さんの方へ行こうとしたけれども、
又もどって木村さんのところを人を押し押しして、ようやくのことで山に逃げ登りました。
山に登った時土のような物が口に入りましたが、私はそんなことは平気で、笹にとっつきながら赤沼山のお稲荷さんの所まで行くと、みんながもっと登って行くので、私達もはなれないように、ぎっしり手をとって人の後について山のてっぺんまで上って火をたいてあたりました。 ・・・・ 」
これは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)で、簡単に読むことができます。
全文を読みたい方は、手にとってみてください。
さて、吉村氏は、アイさんの作文全文を引用したあとに、
「悲惨な内容をもつ作文である。ただ一人取り残された少女の悲しみがよくにじみ出ている秀れた作文でもある。この作文を書いた少女は、現在田老町第一小学校校長の夫人として同町に住んでいる。49歳とは思えぬ若々しい明るい顔をした方だった・・・家には、祖父、父、母、父方の叔母と、妹静子(小学校二年生)、弟惣吉(六歳)、妹せん(二歳)とアイさんの八人がいた。そのうちアイさんをのぞいて、七名の家族が死亡してしまったのである。
アイさんが、とし子さんという娘にうながされて逃げなかったら、他の家族といっしょに死んでいたことはまちがいない。
アイさんの家は、海岸から120メートルはなれた町の中に建っていた。・・・
津波によってすべてを失ったアイさんの生家は、破産した。そして孤児となったアイさんは、田老村の叔父の家に引きとられ、その後宮古町に一年、北海道の根室に五年と、親戚の家を転々とした。アイさんは成人し、19歳の年には再び田老にもどり翌年教員の荒谷功二氏と結婚した。ご主人の荒谷氏も、津波で両親、姉、兄を失った悲劇的な過去をもつ人であった。
荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐しさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。
『子供さんはいやがるでしょう?』
と私が言うと、
『いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます』
という答えがもどってきた。 ・・・・ 」
吉村昭氏のこの本「三陸海岸大津波」は、
1970年(昭和45年)に新書(題「海の壁」)として出版されました。
そして、1984年に文庫となります。ながらく絶版でしたが、
20年後の2004年になってあらたに文庫化されたのでした。
それから、7年後に東日本大震災がおこります。
まだ、
書きたいことはありました。
荒谷アイさんのその後のこと。
その娘さんの荒谷栄子さんのこと。
そして、文春文庫の解説を書いていた
高山文彦氏の新刊のこと。