「濱口梧陵小傳」をひらくと、絵が途中にある、
ちゃんと描いたままのカラーになっているのがありがたい。
その絵は、「安政の津波実況」として
脇に解説があります。そこを引用。
「この図は養源寺に保存されている『安政聞録』(和本51枚綴)に見開きで描かれており、安政元年(1854)11月5日広村大津波の時、遭難者の一人古田庄右衛門がその実況を模写したものである。宵やみせまる混乱の中を逃げまどう群集のために梧陵が危険を冒して、田んぼの中の十数の稲むらに火を放ち、その逃げ道を示した実況である。」
その絵の実際の様子を、濱口梧陵の手記の現代語訳から引用してみます。
「・・元気な者を励まし逃げ遅れている者を助け、災難を避けようとした瞬間、怒濤が早くも民家を襲ったと叫ぶ者があった。私も急いで走っている中、左の方の広川筋をふりむいてみると、激しい波はすでに数町(一町は約百十メートル)川上まで遡り、右の方を見ると、人家が崩れ、流されていく音が痛ましくて肝を冷やした。
一瞬で潮流は、半身をのみ込み、沈んでは浮かび、やっとの思いで一つの丘陵にたどり着き、背後のようすを眺めると、潮流に押し流されている者があったり、流れている材木につかまり一命を取りとめている者がいたり、悲惨な状態は見るに忍びなかった。しかし、こういうあわただしい状況で、救助の良策をとることができなかった。いったん八幡境内に避難して・・・・また、あわただしくその場を去り、再び八幡宮の鳥居のそばに来た頃には、すでに日は完全に暮れてしまっていた。そこで、松明(たいまつ)をつけて、元気な者十余名にそれを持たせて田や野原の道を下り、流された家の梁や柱が散乱している中を越えて進むと、命の助かった者数名に出会った。なお進もうとしたが、流されてきた材木が道を塞ぎ、歩行も自由にならない。そこで、従者に退却するよう命じて、道ばたの稲むら(刈った稲または稲藁を積み重ねたもの)十余りに火を放たせ、それによって、漂流者に、その身を寄せて安全な場所を表示しようとした。この計画はむだではなかった。この火を頼りにして、辛うじて命が助かった者も少なくなかったからである。このようにして、一本松に引き返してきた頃、激しい大きな波がやって来た。その前に火をつけていた稲むらが、押し寄せてきた波に漂いながら流れている情景は、ますます天災が恐ろしいものであると感じさせられた。波濤の襲来は前後四回に及んだが、考えてみるとこの時が最大であった。」(p28~30)
どうしても、東日本大震災の映像とダブらせて読んでしまいます。
ちゃんと描いたままのカラーになっているのがありがたい。
その絵は、「安政の津波実況」として
脇に解説があります。そこを引用。
「この図は養源寺に保存されている『安政聞録』(和本51枚綴)に見開きで描かれており、安政元年(1854)11月5日広村大津波の時、遭難者の一人古田庄右衛門がその実況を模写したものである。宵やみせまる混乱の中を逃げまどう群集のために梧陵が危険を冒して、田んぼの中の十数の稲むらに火を放ち、その逃げ道を示した実況である。」
その絵の実際の様子を、濱口梧陵の手記の現代語訳から引用してみます。
「・・元気な者を励まし逃げ遅れている者を助け、災難を避けようとした瞬間、怒濤が早くも民家を襲ったと叫ぶ者があった。私も急いで走っている中、左の方の広川筋をふりむいてみると、激しい波はすでに数町(一町は約百十メートル)川上まで遡り、右の方を見ると、人家が崩れ、流されていく音が痛ましくて肝を冷やした。
一瞬で潮流は、半身をのみ込み、沈んでは浮かび、やっとの思いで一つの丘陵にたどり着き、背後のようすを眺めると、潮流に押し流されている者があったり、流れている材木につかまり一命を取りとめている者がいたり、悲惨な状態は見るに忍びなかった。しかし、こういうあわただしい状況で、救助の良策をとることができなかった。いったん八幡境内に避難して・・・・また、あわただしくその場を去り、再び八幡宮の鳥居のそばに来た頃には、すでに日は完全に暮れてしまっていた。そこで、松明(たいまつ)をつけて、元気な者十余名にそれを持たせて田や野原の道を下り、流された家の梁や柱が散乱している中を越えて進むと、命の助かった者数名に出会った。なお進もうとしたが、流されてきた材木が道を塞ぎ、歩行も自由にならない。そこで、従者に退却するよう命じて、道ばたの稲むら(刈った稲または稲藁を積み重ねたもの)十余りに火を放たせ、それによって、漂流者に、その身を寄せて安全な場所を表示しようとした。この計画はむだではなかった。この火を頼りにして、辛うじて命が助かった者も少なくなかったからである。このようにして、一本松に引き返してきた頃、激しい大きな波がやって来た。その前に火をつけていた稲むらが、押し寄せてきた波に漂いながら流れている情景は、ますます天災が恐ろしいものであると感じさせられた。波濤の襲来は前後四回に及んだが、考えてみるとこの時が最大であった。」(p28~30)
どうしても、東日本大震災の映像とダブらせて読んでしまいます。