佐藤真一著「南三陸から 2011.3.11~2011.9.11」(発売・日本文芸社)は、昨年の9月30日発行。この写真集を私は、早めに購入しておりました。ですが、はじめて見たときには、各種の震災報道写真と比べると、ずいぶん地味な写真集だなあと思っておりました。
もうすぐ東日本大震災から一年が経とうとしております。
あらためて、この写真集をひらいて、
大震災を乗り越えるための希望が写しこまれていることに、
遅まきながら、気づかされました。
私は失礼にも、大震災の情報を得ようと、この写真集にむかておりました。最初は、大津波被害が(枚数もそうですが)抑制をもって写されていることにもどかしさを感じておりました。どうにも私には、被災された方が、それを乗り越えようとする視線にまでは、思いもよらなかったのでした。
時間をおいてから、改めてひらくと、
3・11大震災前の、街全体の鳥瞰写真やら、電車が走っている光景やらが、かけがえのない風景として、はじめに置かれていることに気づかされます。そして、大津波が襲う写真も、凛とした選択で数枚が抑えてられており、
そう思ってみると、
被災した瓦礫の中の光景も、
瓦礫の写真が並ぶ、そのつぎには、
その間をぬって歩き始める住民の姿を、
まるで、これから伸び始めるようとるす姿として
写しこまれているのに気づくのでした。
私は何を見ていたのだろうと、恥ずかしくなってきます。
避難所体育館の様子も、小学校の卒業式でしょうか、
卒業生の後ろには、住民のひとたちがまとまって写る集合写真。
どれもが、この大震災を「乗り越えられる」と、地域の記憶として
共有してゆく意志を、あたたかくすくいとっておられました。
あらためて、
「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)の言葉を噛みしめます。この本で、南三陸志津川病院におられた菅野武医師は、こう語っております。
「医者としてできたのは医療行為ではなく、励まし寄り添うということだけでした。」
「ちなみ五階にあった食べ物は柿ピーが数袋と二リットルのペットボトルの水三、四本だけ。・・柿ピーは一人二粒ほどです。僕が食べたのは半かけらくらい。・・・弱っている患者さんが横たわっている現実が、健康な人たちの自制心を保ったんじゃないでしょうか。自分より弱者を支えることで、自分たちが生かされていると実感できたんだと思うんです。」
「・・他人のために一生懸命に尽くすことで、自分の崩れそうな心を支えられました。たぶん僕が一人ぼっちで避難していたら、精神的に崩れ落ち、茫然とした挙句に自殺したかもしれません。そのくらいの怖い体験でした。」
大震災のときに、偶然にも、菅野医師の奥さんは、お産で仙台へ行っておりました。
「・・僕が救出されたのは三日目、13日の午後です。最後の患者さんとヘリに乗り込みました。・・・実家の仙台に戻ったのは、患者さんを見届けてからです。・・実は仙台に帰ってから、ずっと眠れなかったんです。余震が怖いし、津波の映像を見ると居ても立ってもいられない。思わず、テレビのリモコンを投げつけたりしていました。しかし、息子が生まれたらウソのように眠れるようになったんですよ。振り切れていた針が戻されたというか、ようやく精神的に平常になれた。それまでは正直いって、南三陸町に戻るなんて無理だと思っていたのが、もう一回行ってみようという気になったんです。」
「僕が南三陸町に戻って活動したのは、4月15日までのおよそ一ヵ月です。15日には南三陸町の仮診療所が立ち上げられましたし、私の後任の自治医大卒の医師が来ることが決まったので仙台に戻ったわけです。その間は、避難所の体育館で寝袋にくるまって横になっていました。あの時期でも、やっぱり余震が怖かった。4月7日には、余震と呼ぶには大きすぎる地震があって、揺れるだけでなく、体育館の天井からパラパラ粉が落ちてきました。このままパネルの下敷きになって死ぬんじゃないかとヒヤヒヤしました。」
「特に印象に残っているのは、イスラエル医療団の皆さんのことです。彼らは三月の下旬にやってきてくれて、いろんな活動に協力してくださいました。任務を終えて南三陸町を去る直前、オフィールさんという医療団の幹部の方が、被災した医者と話がしたいって申し入れてきたんです。・・・オフィールさんは熱心に聞き入ってくださり、深くうなずいてから、こうおっしゃいました。『そういう自分や他の医師を責めるんじゃなくて、むしろそういうときに頑張れた人たちに眼を向け、大いに褒めることが大切だ』イスラエルの医療団は、それこそ銃撃戦のさなか、多数の死人が出るベースキャンプで活動してきたそうです。・・・オフィールさんのような百戦練磨の軍医でも、今回の津波の爪痕を見ると、もう鳥肌が立って仕方がない。こんなふうに、すべてが流されて無くなってしまう状況は、どれだけ激しい戦争の場でも見たことがない。だけど、そういう中だからこそ、医師は医療行為ばかりでなく、真のリーダーとして振る舞いたいものだと、静かにお話になったんです。
『真のリーダーとは、周囲のみんなに明日を生きる希望を与えることができる人のことだ』思いがけず彼は、僕が震災当日の病院の五階の会議室で、あれこれ悩みながら行ったことを評価してくださいました。その中でも、みんなで寄り添ってがんばろうと、旗を振ったことが医療行為以上に大事だったんだとおっしゃるんです。・・・・」
このように語る菅野武氏を思い浮かべながら、
私は佐藤信一さんの写真集を、もう一度、ひらいております。
この写真集にも、しっかりと、明日を生きる希望が写されている。
そう思いながら。
もうすぐ東日本大震災から一年が経とうとしております。
あらためて、この写真集をひらいて、
大震災を乗り越えるための希望が写しこまれていることに、
遅まきながら、気づかされました。
私は失礼にも、大震災の情報を得ようと、この写真集にむかておりました。最初は、大津波被害が(枚数もそうですが)抑制をもって写されていることにもどかしさを感じておりました。どうにも私には、被災された方が、それを乗り越えようとする視線にまでは、思いもよらなかったのでした。
時間をおいてから、改めてひらくと、
3・11大震災前の、街全体の鳥瞰写真やら、電車が走っている光景やらが、かけがえのない風景として、はじめに置かれていることに気づかされます。そして、大津波が襲う写真も、凛とした選択で数枚が抑えてられており、
そう思ってみると、
被災した瓦礫の中の光景も、
瓦礫の写真が並ぶ、そのつぎには、
その間をぬって歩き始める住民の姿を、
まるで、これから伸び始めるようとるす姿として
写しこまれているのに気づくのでした。
私は何を見ていたのだろうと、恥ずかしくなってきます。
避難所体育館の様子も、小学校の卒業式でしょうか、
卒業生の後ろには、住民のひとたちがまとまって写る集合写真。
どれもが、この大震災を「乗り越えられる」と、地域の記憶として
共有してゆく意志を、あたたかくすくいとっておられました。
あらためて、
「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)の言葉を噛みしめます。この本で、南三陸志津川病院におられた菅野武医師は、こう語っております。
「医者としてできたのは医療行為ではなく、励まし寄り添うということだけでした。」
「ちなみ五階にあった食べ物は柿ピーが数袋と二リットルのペットボトルの水三、四本だけ。・・柿ピーは一人二粒ほどです。僕が食べたのは半かけらくらい。・・・弱っている患者さんが横たわっている現実が、健康な人たちの自制心を保ったんじゃないでしょうか。自分より弱者を支えることで、自分たちが生かされていると実感できたんだと思うんです。」
「・・他人のために一生懸命に尽くすことで、自分の崩れそうな心を支えられました。たぶん僕が一人ぼっちで避難していたら、精神的に崩れ落ち、茫然とした挙句に自殺したかもしれません。そのくらいの怖い体験でした。」
大震災のときに、偶然にも、菅野医師の奥さんは、お産で仙台へ行っておりました。
「・・僕が救出されたのは三日目、13日の午後です。最後の患者さんとヘリに乗り込みました。・・・実家の仙台に戻ったのは、患者さんを見届けてからです。・・実は仙台に帰ってから、ずっと眠れなかったんです。余震が怖いし、津波の映像を見ると居ても立ってもいられない。思わず、テレビのリモコンを投げつけたりしていました。しかし、息子が生まれたらウソのように眠れるようになったんですよ。振り切れていた針が戻されたというか、ようやく精神的に平常になれた。それまでは正直いって、南三陸町に戻るなんて無理だと思っていたのが、もう一回行ってみようという気になったんです。」
「僕が南三陸町に戻って活動したのは、4月15日までのおよそ一ヵ月です。15日には南三陸町の仮診療所が立ち上げられましたし、私の後任の自治医大卒の医師が来ることが決まったので仙台に戻ったわけです。その間は、避難所の体育館で寝袋にくるまって横になっていました。あの時期でも、やっぱり余震が怖かった。4月7日には、余震と呼ぶには大きすぎる地震があって、揺れるだけでなく、体育館の天井からパラパラ粉が落ちてきました。このままパネルの下敷きになって死ぬんじゃないかとヒヤヒヤしました。」
「特に印象に残っているのは、イスラエル医療団の皆さんのことです。彼らは三月の下旬にやってきてくれて、いろんな活動に協力してくださいました。任務を終えて南三陸町を去る直前、オフィールさんという医療団の幹部の方が、被災した医者と話がしたいって申し入れてきたんです。・・・オフィールさんは熱心に聞き入ってくださり、深くうなずいてから、こうおっしゃいました。『そういう自分や他の医師を責めるんじゃなくて、むしろそういうときに頑張れた人たちに眼を向け、大いに褒めることが大切だ』イスラエルの医療団は、それこそ銃撃戦のさなか、多数の死人が出るベースキャンプで活動してきたそうです。・・・オフィールさんのような百戦練磨の軍医でも、今回の津波の爪痕を見ると、もう鳥肌が立って仕方がない。こんなふうに、すべてが流されて無くなってしまう状況は、どれだけ激しい戦争の場でも見たことがない。だけど、そういう中だからこそ、医師は医療行為ばかりでなく、真のリーダーとして振る舞いたいものだと、静かにお話になったんです。
『真のリーダーとは、周囲のみんなに明日を生きる希望を与えることができる人のことだ』思いがけず彼は、僕が震災当日の病院の五階の会議室で、あれこれ悩みながら行ったことを評価してくださいました。その中でも、みんなで寄り添ってがんばろうと、旗を振ったことが医療行為以上に大事だったんだとおっしゃるんです。・・・・」
このように語る菅野武氏を思い浮かべながら、
私は佐藤信一さんの写真集を、もう一度、ひらいております。
この写真集にも、しっかりと、明日を生きる希望が写されている。
そう思いながら。