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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

厄除け。

2009-04-11 | 詩歌
井伏鱒二著「厄除け詩集」(講談社文芸文庫)の最初に置かれている詩は「なだれ」なのでした。
 
   峯の雪が裂け
   雪がなだれる
   そのなだれに
   熊が乗つてゐる
   あぐらをかき
   安閑と
   莨(たばこ)をすふやうな恰好で
   そこに一ぴき熊がゐる


私には、どうも、この詩が巻頭に置かれることの意味がわからずにおりました。
そして、分からずにいるからか、何となくも気になっていたようなわけです。
もしか、と思い浮かぶ文がありました。
さって、平凡社から最近「幸田文の言葉」というシリーズで3冊の本が出ております。最後は「幸田文 きもの帖」で、この4月6日が初版発行日となっております。そのあとがきは、青木玉。あとがきのはじまりは、こうでした。

   今年のお花見はいつになるだろう。
   ビルが立並ぶ東京の片隅に居て、
   季節の変化を直(じか)に知る便りとは、
   桜の開花ではないかと思う。
   冬のコートから身軽になって、
   滞っていた外に出る用に気が動く季節を知らせてくれる。
   ・・・・・・・

 「幸田文 しつけ帖」
 「幸田文 台所帖」
 「幸田文 きもの帖」
という3冊が、2月・3月・4月と月に一冊づつ発売になっておりました。
私は、最初の2冊を読んだのですが、魅力がありました。
そこで、あらためて幸田文著「崩れ」を読んだのです。

その「崩れ」の十一は「・・かねてから心組にいれていた、長野県北安曇郡小谷(おたり)の稗田山崩壊と、浦川姫川の暴れを見にでかけた」とはじまります。

さてっと、ここが肝心な箇所なので、状況を詳しく引用してゆきます。

「稗田山が突如崩れて、浦川ぞいに大土石流を押し出したのは、明治44年8月8日午前3時頃で、夏ではあってもまだ真夜中の熟睡時だったという。・・このときは連日快晴で、しばらく雨らしい雨はなかったという。ここがちょっと、気をつけておくべきところかと思う。長雨のあととか、集中豪雨とかいうのではなくて、お天気続きなのだから、雨による崩壊でないことは明らかでらう。
この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ約八キロ、高さ河床から約三百メートルのところまで、ほぼ一キロの厚さですべり落ち、その莫大な量の土石が大音響とともに浦川の谷に落ちこみ、浦川はたちまち埋めつくされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原型をとどめぬ姿になってしまった。さらにこの新平原は下流に移動し、行手にあるものは田畑も人家人命も、すべて押しつぶし呑みこみ、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢のあまり対岸の大岸壁に打当ると左右にわかれ堆積し、堆積の長さおよそ二キロ、高さ六十五メートルにも及び、ために姫川は堰止められて、湛水の長さ五キロという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地をひたした。・・・崩壊からはじまって、二転三転、しつこく続けられた災害である。破壊家屋二十七、失われた人命二十三、十キロにもわたって変貌した土地。・・・」

こうして災害の状況を再現して書きすすめたあとに、
こうあります。
「だがここにそうした思いを、からりと晴れ上らせる、これまた感動の強い話をきいた。」として幸田さんの出会いが語られるていたのでした。

「ふと行ずりに逢った人である。足ごしらえをした働き支度で、背負子を負って、軽々と歩いていた。なにぶんにも人のすくない村道で、人に逢えばうれしい。こちらが小腰をかがめると同時に、あちらも会釈してくれた。ただそれだけで行過ぎたのだが、きけばこの人いま六十六歳、災害のときはお母さんの胎内だった。稗田山の崩れは午前三時でまだまっ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ごうっという土石流の轟音でおどろいたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。どういうわけでそうなったのかはわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打上げられ、無事みごとに助かったのである。なぜ転々する土石の急流の上で、土中に捲きこまれることなく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下のなかで、どうして錯乱もせずに無事にいられたか、気丈でもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。こんなこわい目に逢ったのは、たいへんな悲運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運といえよう。凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである。・・・・・崩壊と荒涼と悲惨ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。」

ここまで読んで来て、私は「厄除け詩集」の巻頭の詩を思い浮かべたというわけです。さて、幸田文は続いて、こういう言葉も引用しておりました。

「『そのとき埋まってしまった家々も、その家の人達も、いまもってそのままになっています。掘り起こすこともできないほど深く埋ったのです』自然のした葬り、とでもいえばいいのだろうか。言葉もない。指し示された方向へむいて、ひそかに冥福を念じた。・・・・」

コメント
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