のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

上野恩賜公園 2018 その3

2018年01月08日 06時53分53秒 | 写真


上野恩賜公園の中にあり、京都の清水観音堂がモデルとなっています。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められ
るようにつくられています。寛永八年(1631)天海大僧正により建立されました。御本尊も清水寺より迎えた千手観音像を大切に
祀っています。こちらの千手観音菩薩は重要文化財に指定されています。9月25日には人々の念のこもった人形に感謝をこめて、
人形供養が行われていて、郵送でも受け付けています。 


上野恩賜公園正面入口、石段を上った山王台広場に立つ西郷隆盛像は、1898年(明治31)に建立された。
作者は、彫刻家高村光雲(詩人・高村光太郎の父)。草履ばき着流しの散歩姿で愛犬とともに立つ姿は、上野のシンボル的存在。


江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の
処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と
称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊
士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。


不忍池の中心にあるのは弁天堂です。寛永二年(1625)―江戸の鬼門を護るため、京の比叡山延暦寺に倣って上野の岡に東叡
山寛永寺を創建した慈眼大師・天海は、常陸国下館城主・水谷勝隆という人に不忍池を琵琶湖に見立てて池の中に竹生島を模し
た小島を築かせ、竹生島宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を建てました。

最初のうちは文字通りの離れ小島で船を使って行き来していたようです。のちにだれでも気軽に往来できるように石橋が架けら
れました。

(上野恩賜公園 : 東京都台東区 2018.01.03 撮影)
 

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