成田幸子・・・宇宙、自然、私

今そして流れの中で

あるがままに・・・

2012年05月29日 22時37分29秒 | 感じるままに

先日ゲシュタルト療法のファシリテーターの研鑽の場でファシリテーターをやりながらワーク中に少し抜けて自分が気になる用事(約1分くらい)をしていた。自分にとってはとても自然な動きだったのであまり意識せず記憶にもとどまらなかった。参加者からのフィードバックで、「あの時なんで抜けていったの?」という質問と指摘があり「そういえば抜けたわ~」という程度の認識。ワークの流れから多少抜けても問題にならない流れだったし、クライエントも自分の感覚に浸っていたので双方に問題の無い状況だったのだが・・・。その出来事を振り返ってみるとそこには周囲の目を気にせずあるがままの自分がいた。それは私にとって「超・・自然体」。そして新しい自分との出会いの瞬間だった。

今月末までに学会に抄録を提出しなければならないが、焦るわけでもなく、気にかけすぎているわけでもなく自由にマイペースで生活している自分がいる。まだ完成しておらずこんなにのんびりしていていいのかしら・・という思いも出てくるが完璧を目指しているわけでもないので気は楽なのである。何事も等身大よりも一歩前進・・くらいがいいのかもしれない。

仕事ー遊びー研鑽ー自己探求それぞれ適当(ほどよい加減)がいい。


ゲシュタルト療法・・・

2012年05月27日 07時13分10秒 | 感じるままに

ゲシュタルト療法と出会ってからそろそろ30年近くになる。感覚が過敏になりバランスをとりずらくなったりと色々な事があったけど今あらためてゲシュタルト療法の魅力を感じている。実存して今ここを感じ取る。そこから起こってくる気づき、癒しのパワーはとてもダイナミック。ファシリテーターの数だけゲシュタルト療法のスタイルがある・・とも言われているくらいオリジナリティがある。この枠にはまらない自由さがいい。形があってないような。これからは今まで以上に枠にはまらずこの療法の良さを展開していきたい。


いつもと違う状況で・・・

2012年05月21日 22時05分36秒 | 感じるままに

今朝は皆既日食。外では近所の学生が広場に集まって今か今かと待っている。テレビは開始時間が近づくにつれてアナウンサーの声が高くなり・・・何だか朝から慌ただしい。いつもとは違う空気感。昼でもなく夜でもない微妙な感覚。太陽と月が重なり合う事で地球の磁場にも影響が出てくるせいなのか。。。いつもの朝の感覚と違う違和感。何だか居心地が悪い。馴染みのない感じ。皆既日食と共にこの異様な感覚も数百年に1度しかお目にかかれないのだろう。。。


気が付けば・・・

2012年05月15日 23時24分56秒 | 感じるままに

食事をしていてふと「最近お肉料理を食べていない」事に気づいた。食卓に並んでいるのは野菜がメイン、そしてお魚。完全に玄米菜食とはいかないけれど肉類・乳製品はほとんど無い。1月に玄米菜食もどきを初めて数か月たちその生活にかなりなじんできたのだろう。開始直後はその変化に多少の違和感とストレスを感じたけれど、最近はあまり意識せずとも自然とそうなってきている。お肉を食べても以前のように美味しい!!と感じなくなってきているような。。。続けることで自然と嗜好が変わり玄米菜食に馴染んできたようだ。「継続は力」・・・その言葉の意味が今はストンと収まる感じ。時々は脱線しながらそして無理せず自然に続けていきたい。


届きそう・・・

2012年05月12日 20時49分28秒 | 感じるままに

今日は夕方ごろから「何かに手が届きそうでいて手が届かない・・・」かなり曖昧な状態の中にいる。今はまだ手が届かないけれども「何か」が届きそうなところにある。その「何か」がハッキリしそうな・・・感覚の中にいる。色々なものがそぎ落とされて形がボンヤリと見えてきそうな・・・こなさそうな・・・そんな曖昧な感覚。この得体の知れない「何か」を前にしてとても居心地が悪い。見えそうで見えない、届きそうで届かない。もう少しでハッキリしてストンと腑に落ちてきそうな・・・。何とも居心地が悪く、せっかちな私は「早くスッキリさせてよ」と叫びたくなる。何時・・・その「何か」と向かい合おうか?  今すぐ・・・、それとももう少し時間をおいてから・・・、さあさあどうしましょう!!  そうこうするうちに「何か」についていた殻が「ボコン」とそぎ落ちてただそこにあったりして・・・。  


存在する事

2012年05月06日 22時17分55秒 | 感じるままに

かなり年配の俳優の中でその場の存在自体がもうすでに絵になっている人がいる。たとえば大滝秀治さんなんかもその一人だ。立っているだけで絵になっている。そういう存在の仕方は凄い。色々な事を経験してそれらをしっかりと咀嚼し消化して身体の一部にしてきて存在しているだけでその深さがあふれ出てくるのだろうと推測するのだけれど・・・。ここ数日テレビで「わが母の記」という映画の宣伝が流れていた。その中に出てくる樹木希林演じる母の表情・存在の仕方に圧倒された。宣伝のワンシーンでこの存在の仕方をしているのだから他も見てみたいと思い映画館へ足を運んだ。存在感だけに魅了されて映画を見に行くというのはどうしたものか?と自分の行動に疑問を持ちつつどちらかといえばただただ本能(直観)に沿って選んた。物語は淡々と進み母と子供のゲシュタルト療法的に言えば未完の問題を扱っていて、時々笑いがあり涙がありで、どちらかというあまり大きな気持ちの動き(号泣とか・・)は無かった。ところが終わってからジーンと心に迫ってくるものがあって映画館を出てからその映画の話し(感想)をしようと思うと涙が出て止まらなくなる。心の奥底が揺さぶられてジワジワと悲しみ・辛さ・一言では表せない感覚がわき出てくる。映画を見てから昼食を摂ったのだけれど、その話をしたいけれども話をすると大衆の中でボロボロ涙が出てきてしまうし、かといって別の話をしようとしてもあまりのインパクトの強さにどうしても映画の話に戻ってしまう。なんとも居心地の悪い中での昼食となってしまった。もしかするとこの映画は他にも色々な事を訴えかけているのかもしれない。機会があればまた見てみたい映画である。