乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

今日未明 中村芝翫丈がお亡くなりにならました。芝翫茶と桜を捧げます。

2011-10-10 | 乱鳥徒然 Rancho's room.


        今日未明

        中村芝翫丈がお亡くなりになられ(てしまい)ました。

        心よりご冥福をお祈りいたします。



        わたくしにとっては、歌舞伎役者さんの中でも片手に入る、好きな役者さんでした…。

        もう一度見たいと言う夢叶わず…。

        芝翫丈が演じられる好きな演目が、とても多くありました。

        これからは芝翫丈のお舞台が拝見できないのは、とても悲しいことです。



        今月 衛星劇場で富十郎さんとの共演『お江戸みやげ』を楽しみにいたしておりました。

        中村芝翫丈のこの演目舞台も、好きなものです。

        録画し、手元に置いておこうと思います。



        芝翫茶と桜を捧げます。

        合掌




        



        今月は御園座に福助丈、南座に橋之助丈が出演されています。

        役者さんは大変だなと感じます。

        お舞台の成功を祈願しております。

        福助さん、橋之助さん、

        お疲れになられませんように…。





      



   

 人間国宝で歌舞伎俳優の中村芝翫さんが死去 83歳
 テレビ朝日系(ANN) 10月10日(月)14時19分配信

 人間国宝で歌舞伎俳優の中村芝翫(しかん)さんが、10日未明、肝不全のため亡くなりました。83歳でした。

 関係者によりますと、中村芝翫さんは2005年に肝臓がんが見つかり、治療を続けてきましたが、今年1月に体調を崩して入院していました。午前0時50分、肝不全のため都内の病院で亡くなりました。83歳でした。中村芝翫さんは、1928年に5代目中村福助さんの長男として生まれ、1967年に7代目中村芝翫を襲名しました。名女形として知られ、「菅原伝授手習鑑」など数々の演目に出演し、人気を博しました。1996年には功績が認められ、人間国宝に認定されていました。

 最終更新:10月10日(月)14時33分




   




 芝翫茶(しかんちゃ)


   江戸時代、大阪の歌舞伎役者、三世中村歌右衛門(俳名 芝翫)が好んで用いた気味を帯びた茶色。

   広く女性の間に流行した。

   芝翫茶(しかんちゃ) 色見本



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121;『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』から「竹取物語 燕の子安貝」(吉田幹生先生)など 146ページまで

2011-10-10 | 読書全般(古典など以外の一般書)




 121;『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』から「竹取物語 燕の子安貝」など 146ページまで






『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』から「竹取物語 燕の子安貝」など 146ページまで  

 鈴木健一編

 三弥井書店

 平成23年8月 

 P.363

 2800円



 



 土曜日、

 例の美人の先生の古典講義で、『竹取物語』の三人目から五人目を聞く。

 前回と今回で繰り返しおっしゃっていたことは、『竹取物語』は本来 三人だったが、のちに二人を付け加えたということ。

「三」という数字には意味があり云々の話は度々聞き、活字でもあるが、風吹ジュン似の先生もそのことをおっしゃっていた。

「グリム童話」に出てくる複数の話にしても、「伊勢物語の九十九髪」にしても、三人目の娘や息子は出来がいいことを思い出す。




 日曜日、

 たまたま『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』「竹取物語 燕の子安貝」(吉田幹生先生)を読んでいて、興味深い記述が多くあった。

 その中のひとつ、求婚社の人数について書かれた箇所があった。




 虫麻呂歌集の菟原(うない)処女伝説 (万葉集 9 1809・1810・1811  親魄に逢う蔵書様

  ウィキペディアより ▼ 

 菟原処女の伝説(うないおとめのでんせつ)とは神戸市東部に伝わる、二人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男たちが後を追って死んだという伝説である。古くは『万葉集』に歌が残されており、奈良時代から語られていた。
東灘区御影塚町の処女塚、灘区都通の西求女塚、東灘区住吉宮町の東求女塚は彼らの墓と伝えられる。しかし実際の築造時期はそれぞれ異なっており、事実とは考えられず、この地方の豪族を葬った墓と見られる。中央区脇浜町には乙女塚古墳があるが関連は不明。
あらすじ [編集]

 神戸の東部から芦屋にかけてが、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていた頃の話である。
葦屋の菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な益荒男が彼女を深く愛し、妻に迎えたいと激しく争うようになった。処女が母に語らく「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます。」と嘆き悲しんで死んでしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て、後を追った。菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって、後を追った。
親族たちは集まって、この事を長く語り継ごうと、娘の墓を中央に、男の墓を両側に作ったという。





     1809 省略 (万葉集 9 1809・1810・1811  親魄に逢う蔵書様


     1810 反歌

 芦屋の菟原娘子の奥つ城を行き来と見れば音のみし泣かゆ     『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』「竹取物語 燕の子安貝」(吉田幹生)写す

     1811 反歌

 墓の上の木の枝なびきけり聞きしごと千沼壮士にし依りにけらしも 『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』「竹取物語 燕の子安貝」(吉田幹生)写す




 上 (1809・1810・1811)に見られるように、妻争い伝承においては,一人の女性を巡って複数の男性(通常は二人)が争い その勝者が女性を手にいれるというのが一般的な形であったと書かれている。    46ー47




 一方、古典講座と同じく、はじめの求婚者三人と後の二人に求める品の内容がかなり変化する。

 また、後の二人は駄洒落的なことばあそびで締められており、付け加えられたと考えることもできるのかもしれないと感じた。



『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』「竹取物語 燕の子安貝」(吉田幹生先生)ではなぜ燕なのかといった点を詳しく解説しておられ、講座を受けた翌日のこの箇所を読むことができた偶然を喜んでいる。







 今回は『鳥獣虫魚の文学史 2 鳥の巻』の途中までですが、古典講座記録と合わせて,記録してみました。

 今日も題などの記録だけで失礼いたします。

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