乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

96; 『日本の民俗信仰』宮本袈裟雄/谷口 貢 編著 他13名の先生方  八千代出版 2009年

2011-08-27 | 民俗学、柳田國男、赤松啓介、宮田登、折口信夫


95; 『日本の民俗信仰』





 宮本袈裟雄/谷口 貢 編著

 共著者
 宮内貴久/小島孝夫/八木 透/牧野眞一/森 隆男/蒲池勢至/西海賢二/鈴木岩弓/常光 徹/松崎憲三/古家信平/曽 士才/島村恭則

 八千代出版

 2415円  244頁

 2009年 6月発行





 民俗信仰で祀られる神仏は、生活の中に様々なかたちで見出すことができる。それらを考察していくことで、人々が生活の中で何を大切にしてきたのかについて理解を深めていけよう。民俗信仰の主要研究を民俗学の立場から示すとともに、民俗信仰が人々の生活の中でどのような意味や意義をもっているのかという現在的視点を盛り込んで論述




目次

1:民俗信仰の多様性と重層性
2:民俗信仰研究の歩み
3:家の神信仰―屋内神と屋敷神─
4:なりわいと民俗信仰
5:通過儀礼と民俗信仰
6:講と小祀の信仰
7:神社祭祀からみた民俗信仰
8:仏教と民俗信仰
9:山岳信仰と社寺参詣
10:宗教的職能者と民俗信仰
11:巫女とシャーマニズム
12:俗信と心意現象
13:現代社会と民俗信仰
特論1:沖縄の民俗信仰
特論2:華僑・在日朝鮮人と民俗信仰






        

 目次に著者名が記されてなかったので、新たに付け加える。



1:宮本袈裟雄    民俗信仰の多様性と重層性

2:谷口 貢     民俗信仰研究の歩み

3:宮内貴久     家の神信仰―屋内神と屋敷神─

4:小島孝夫     なりわいと民俗信仰

5:八木 透     通過儀礼と民俗信仰

6:牧野眞一     講と小祀の信仰

7:森 隆男     神社祭祀からみた民俗信仰

8:蒲池勢至     仏教と民俗信仰

9:西海賢二     山岳信仰と社寺参詣

10:鈴木岩弓     宗教的職能者と民俗信仰

11:常光 徹     巫女とシャーマニズム

12:松崎憲三     俗信と心意現象

13:古家信平     現代社会と民俗信仰

特論1:曽 士才   沖縄の民俗信仰

特論2:島村恭則   華僑・在日朝鮮人と民俗信仰






 8月27日

 朝からの外出予定だったが雨が降りそうだったので、『日本の民俗信仰』をゆっくりと読む。

 ここのところ、興味深い民俗学関係の書物の連続で、時間があっという間に過ぎる。

 今日も家事と家族との語らいの時間以外は、本で遊んでいた。


 運がいいことに、注文していた『近松全集』(全17巻20冊+補遺揃 21冊) が一日で届く。

 中を見ると美しい師、知らない話が多い…というか、ほとんど見たことがない今は演じられてないものが多い。

『近松全集』を引っ張り出しては眺め、一日中とろんとしたコーラルレッドな時間を過ごす。

 
 ところで 『日本の民俗信仰』…やはり興味深い箇所が多い。

 今までに読んだ先生のお話や、今までどこかで読んだ内容も多くあったが、楽しくてならない。

 特に宮田登先生の名を見ると、喜びはひとしお。この本でも、宮田登の三文字を見る機会が多かった。


 内容については今回も省かせていただきます。

 毎回、メモばかり、題名の記録のみばかりで申し訳ございません。

 もっと、時間が欲しい!………



 
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火伏せの祝い歌「霜柱 雪の棟木の氷梁 雨の樽木に露の茸草」詠み人知らずと「君が代」  宮内 貴久氏

2011-08-27 | 民俗考・伝承・講演


 民俗学者 お茶の水女子大学生活科学部助教授  宮内 貴久氏



 

 火伏せの祝い歌 



           火伏の歌 霜柱 雪の棟木の氷梁 雨の樽木に露の茸草      詠み人知らず    『日本の民俗信仰』八千代出版

                霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草       詠み人知らず    こだわりアカデミー


                        (山形県飯豊町   『日本の民俗信仰』八千代出版 34ページ)


 棟上後、造作工事に入るときに執り行なう儀式で呪い(まじない)歌として「君が代」を歌うということが伝承されているそうです。

「君が代」はお祝いの歌として伝えられてきたもので、その原型は題しらず、読人しらずとして古今和歌集で登場との事です。

 


  君が代は
  千代に八千代に
  さざれ石の
  巌(いわお)となりて
  苔(こけ)のむすまで




 国歌になるまでの君が代


 元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。

 仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。

 一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。

 江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す)に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる)、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた。




     


 教授対談シリーズ こだわりアカデミー  民俗学者 お茶の水女子大学生活科学部助教授  宮内 貴久氏より

『家相の民俗学』を上梓。 「君が代」は「まじないうた」だった?



みやうち たかひさ 1966年、岩手県生れ。89年、筑波大学第一学群人文学類卒業、97年、同大大学院博士課程歴史・人類学研究科文化人類学専攻単位取得退学。文学博士。同年、日本学術振興会特別研究員、2000年、聖徳大学人文学部日本文化学科専任講師に就任し、04年より現職。人間がいかに環境を認識し、生活の場である住居を造り上げてきたかを主要な研究テーマとし、全国各地で民俗調査と民家調査を実施。風水や民家・民具、文字文化などについて解明を進めている。共著に『都市と境界の民俗』、著書に『家相の民俗学』(ともに吉川弘文館)など。
2007年1月号掲載




民俗学として家相を調べる

──先生の『家相の民俗学』というご著書を拝見しました。なんでも、家相について民俗学的にアプローチした初めてのものだと伺っておりますが。

宮内 はい。これまで家相は俗信・迷信として捉えられており、学術的な研究の対象ではありませんでした。明治期に近代建築学が移入され、迷信撲滅運動の対象として研究されることはあったようですが、その歴史や実態に関してはほとんど把握されていません。

しかし家相を信じている人の存在や、現実に住宅建築に影響を与えている実情を鑑みても、その心意を考える、つまり家相を信じている民俗社会を研究することも必要ではないかと考えています。

──確かに、信じる信じないは別として、家相という考え方があるということは生活の中に定着していますからね。


山形県川西町の横山家家相図。これほどカラフルなものは珍しいという。家相見は渋谷常蔵。宮内氏は同氏についても研究、渋谷常蔵は、人から頼まれれば地祭り、家相・方位判断などを行ない、人々に「オギョウサマ」と親しまれていたとか<写真提供:宮内貴久氏>
寺小屋普及とともに、庶民にも急速に浸透

──ところで先生、家相という考え方はいつ頃からあるものなのでしょうか?

宮内 そうですね、日本を始め、東アジアにおける住居の吉凶に関する考え方は、3世紀頃中国の『管輅』(209-256)と『郭璞』(276-324)によって体系化された『風水』と呼ばれる思想の影響が大きいといわれています。風水は土地の気の流れと、地相と呼ばれる土地の相の陰陽を観察・判断し、その土地の人々に降り掛かる災禍を防ぎ、幸福を招くという考え方です。古来より墓地の建設、都市や城郭、村落の建設、住居とそれを取り巻く環境のあり方を判断する際に用いられてきました。

風水では、生きている人間の活動の場、つまり都市や住居を「陽宅」と呼んでおり、この陽宅風水が近世末期、家相という形で日本に定着したといわれています。

家相が一気に庶民にまで広まったのには、寺小屋が普及し、識字率が格段に上がったことや、書籍が流通し始めたといった社会背景が大きく影響しているんですよ。

──へえ。そもそもこの時代の知識人は教養として四書五経を学んでいましたから、易学としての素養もあったし、家相を受け入れる下地は十分にあったんでしょうね。


福島県大沼郡昭和村・只見町、茨城県つくば市・牛久市・岩井市、石川県輪島市などで、建築学者らなどと共同でフィールドワークを実施している。写真左は奥会津、写真右は茨城県桜川市真壁にて<写真提供:宮内貴久氏>
ところで、家相として広まったのは近世末期だそうですが、それ以前は住居等に関わる吉凶の考え方はなかったのでしょうか?

宮内 そうですね。住居等に関して『どうあるべきか』、という世界観、具体的にはどのような土地を宅地として選べば良いのか、空間の相互関係はどのようにあったら良いか、といった考え方は洋の東西を問わず、古代からあるようです。

厳しい自然環境から人々は家族の生命や財産を守るため、さまざまな工夫をしてきましたが、そうした努力に関わらず、人知を超えた災難に見舞われることもありました。災難の理由が分るものがある一方で、不可解なこともある。そういったとき人々は住居のあり方取り巻く環境について考えをめぐらせ、この世界を支配し統括する原理を知りたいと願わずにはいられなかったのでしょうね。

──確かに。平安時代に陰陽寮や陰陽師が活躍していたのもそうした願いが背景にあったのかもしれませんね。

フィールドワークで、家庭に眠る家相図を発掘

──ところで先生、家相のご研究はどのようにアプローチされているのですか?

宮内 古い書籍や文献をたどることもしますが、学生時代からさまざまな地域をめぐり、家相図を収集したり、各ご家庭に残る家相図や家相に関する資料などを拝見させていただくという、フィールドワークも大事にしています。

実際、家相によって建築されている住居も結構ありますし、地域の名士が教養として家相や姓名判断の知識を学んでいたということも分りました。

──名家の方々は、地域の相談役としてさまざまな行事の日取りを決めたり、姓名判断をしたりする必要があったのでしょうね。

ちなみに、そういった知識はどのようにして学んだのでしょうか?



宮内 おそらく、書籍を通じてでしょう。

フィールドワーク中にある土地の名主さんに「家相図ありますか」と伺ったところ、おもむろに風呂敷包みを持って来られて、結びを解いてもらうと桐の箱が出てきて、中を開けてみれば家相図、家相書、易学書、姓名判断に関する書籍が入っていた、なんてこともままあります。

ちなみに家相図には、家相図の作者名や肩書きが記されているのですが、易学者だけでなく、陰陽師系宗教者や、神道・仏教系の宗教者、中には 『風水師』『建築哲学』という肩書きも見受けられるんですよ。

──家相は多種多様な方々によって広められ、庶民の生活になじんでいったんですね。

ちなみに、確か、平成5年頃に住宅金融公庫が戸建て住宅を新築した方に行なったアンケート調査によると、家相による位置や方位、時期などを考慮された方は、全国で50・7%いらっしゃるとのことでした。また、現在でも家相や風水への関心は結構高いようですね。

宮内 ええ。私が研究を始めた頃、「風水」といっても誰にも分ってもらえなかったのですが、近頃ではごく当り前に出てくる言葉になっています。

本来、風水は敷地形状や傾斜、建物といった、地形的なもので吉凶を判断するものだったのですが、日本では狭い住宅事情を反映してか、それが台所や鬼門、主寝室の位置などを判断するようになり、近頃ではワンルームマンションのインテリアや家具の配置などで風水を意識して暮らすこともあるようです。

──だんだんとミニマムな世界になっているようですね。


茨城県つくばみらい市で行なわれた上棟式では、鬼門の方角に向けて弓矢が向けられている(写真上)。
写真右下は福島県奥会津地方で大工に伝承される秘伝の「番匠巻物」。建築にまつわる儀礼次第や工事の日どりの吉凶が書かれており、本来は「ゆめゆめ他者に見せるべからず」と大切にしまわれたもの。
写真左下のように上棟式の際、供え物の前で広げられることもある<写真提供:宮内貴久氏>
大工秘伝の巻物に伝承される「まじないうた」

──フィールドワークだと、さまざまな方の「家に対する思い」に接することになりますね。

宮内 そうですね。例えば奥会津地方の大工には、地鎮祭や上棟といった儀礼次第のほかに、『まじないうた』が伝承されていたりします。そういったものを研究してもおもしろいのではと思っているんですよ。

──例えば?

宮内 「霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草」と、すべて雨冠で始まる歌がありまして、それは火伏せの歌でした。また驚いたことに、棟上後、造作工事に入るときに執り行なう儀式で「君が代」を歌うということが伝承されていたんですよ。

イデオロギーの問題とは別に、ご存知だとは思いますが、そもそも「君が代」はお祝いの歌として伝えられてきたもので、その原型は題しらず、読人しらずとして古今和歌集で登場しています。

──苔のむすまで…、ですから、確かに建物の歌にはぴったりですね。

宮内 はい。そういった伝承されるものを見ることで、人々が、どんなにか安寧な生活を望んでいたことがよく分るんですよ。

──なるほど。家相もそうした願いが反映されているものの一つですね。

宮内 はい。よく家相を研究しているというと、「家相は科学的統計ですね」とか、はたまた「家相なんて非科学的な迷信ですよね」など、いろいろなご意見を頂戴するのですが、私が研究しているのは「家相は科学的か」ではなく、家相を通じて、人々が何を思って、何を望んでいたかを知ることなんです。

──そうですね。明治以来、迷信視され続けた家相が、なぜ今日も生き続けているのかを明らかにするためには、住み手の考え方や立場を重視して論じる必要がありますものね。

宮内 はい。かつて家相判断はその対価が米俵1俵-2俵という大変高価なものでした。それにも関わらず、人々は家族の禍福や行く末を案じ、家相を判断してもらってきました。そういった史実をみると、昔も今も変らない子孫繁栄を祈る気持ちや、平安が続くようにとの願いがひしひしと伝わってきます。

──その通りですね。

それにしても、私達人間は、どんなに科学が進歩しても分らないことがまだまだあるものなんですね。


 


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95; 遊子館歴史選書2 絵で見て不思議!『鬼ともののけの文化史』 笹間良彦著 2005年 遊子館

2011-08-27 | 民俗学、柳田國男、赤松啓介、宮田登、折口信夫


  


94; 遊子館歴史選書 2  絵で見て不思議!『鬼ともののけの文化史』

        


 笹間良彦 著

 笹間 良彦 (ササマ ヨシヒコ)  
 1916年東京生まれ。文学博士、日本甲冑武具歴史研究会会長


 遊子館

 2005年11月

 1,890円 240P 


 鬼と魑魅魍魎が織りなす異形の世界。

[目次]

   1 鬼の文化史(鬼学ことはじめ;奈良・平安時代の鬼;動乱期の鬼;鎌倉・室町時代以降の鬼)

   2 もののけの文化史(擬人的もののけ;蛇のもののけ;獣類のもののけ;鳥類のもののけ;湿生類のもののけ)


        




        
        

        
        




 昨日は家事以外は何もせず、ただひたすら 『鬼ともののけの文化史』を読みふけっていた。

『鬼ともののけの文化史』を見ながら『太平記』を引っ張り出したり、『古語大辞典』『日本古典文学大辞典』などを調べると思いの古か時間がかかる。

 謡曲の話も多く、楽しい時間を過ごすことができた。


 今回もメモだけで失礼申し上げます。






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8月27日 1969年『男はつらいよ』、1896年 宮沢賢治誕生、1576年 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ没

2011-08-27 | 乱鳥徒然 Rancho's room.



 

 1969年8月27日 - 映画男はつらいよシリーズ第一作『男はつらいよ』が公開。

『男はつらいよ』渥美清主演は 山田洋次原作・監督

 テキ屋稼業のフーテンの寅さん(車寅次郎)

 1969年から1995年12月23日までの48作と、1997年11月22日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇と続いたらしい。
 
 全国か吉を廻る寅さんだが、高知県と富山県と埼玉県では撮影が行われていないのは、残念。

『男はつらいよ』はテレビドラマにもなっていたらしい。

 企画段階でのタイトルは『愚兄賢妹』という番組名だったそうだ。

 この賢妹 諏訪さくら役をを演じる倍賞千恵子は、見るたびにとても美しいと感じる。


 


 ウィキペディアに名台詞が載ってたので転載させていただくことんした。

 「それを言っちゃあお仕舞いよ」

 ケンカの際においちゃんが言う「出てってくれ」に対して寅次郎が返すセリフ。第1作で渥美清がとっさに放ってしまったアドリブだったが、セリフの持つ意味に感心した山田洋次がその後脚本に多用するようになった。


「相変わらず馬鹿か?」

 柴又に帰ってきた寅次郎が、備後屋などの顔なじみと交わすあいさつ。これも、もともとは渥美清のアドリブであった。


「貴様、さてはインテリだな?」  

 寅次郎が言い合いで負けたときや、自分が理解できないことを言われたときによく使用する。寅の知識や才覚が、半生の中で身についたことを証明する台詞とも考えられる。

「結構毛だらけ猫灰だらけ」 

 商売の啖呵から派生している、寅次郎の口癖。投げやりになったり、すねている際などに吐くこともある。その後にお尻の周りは糞だらけと続く場合が多い。


「四谷赤坂麹町、チョロチョロ流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立ち小便」 

 寅次郎が的屋商売でよく使う口上である。



   


 1896年8月27日

 詩人・童話作家、宮沢賢治(1896-1933)誕生。


   


 1576年8月27日

 画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃-1576)

   




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