うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

歯磨きチューブ

2007年01月24日 | ことばを巡る色色
内緒だけれど、秋あたりから3日に一度、できれば2日に一度エントリーを書こうと思っている。これはかなりつらい課題。日々の出来事を曝してしまったり、シリーズで書いていくということのない私にとって、まず、「お題」を決めるというのが辛い。落ち着いて書こうと思うと、やはり1時間は自由になる余裕が欲しい。それを作り出すのが辛い。30分だと何とかなるのだけれど、1時間の、予定の入っていない時間の空き地を作るのが辛い。ちびたチューブを絞るような所業だ。しかし、苦しい思いをしてもこの課題をこなしたいと思う。
辛い思いはいつか、くるりと快感に逆転する。自分を追い詰めるということが快感であるということを体が記憶すると、安易なラクチンなことでうる楽しさなど、本当に薄っぺらなものだと思えてしまうから、厄介だ。
高価なものはお金を出せば買える。そうやって手に入れることは全くつまらない。私のような人間が大金持ちになったとしても、かえって物を手に入れることに飽きてしまうだろう。物であれ、目に見えぬものであれ、手に入れるということは、それを「知る」ということであろう。より知るために手元に置いておきたい、何故こんなにもひかれて仕様がないのかを知りたいということ、その奥にあるものを丸ごと飲み尽くしたいということであろう。それが容易であってはならないのだ。ばかばか植民地を増やすようなまねをしては駄目なのだ、と、私には思えてしまうのだ。

いいものはいい。それは素直な心だ。そうして、よくないと思えるものが、ある日いいと思えてしまう。それも真実だ。なぜか、とても嫌っていた物への評価が変わると、大きく振り子が揺れてとても好きになってしまう。それもまた、気になっていたという心の現われなのだろう。そのどちらも受け入れる心を持っているのがいい。

先週末、強行軍で上京。↑のように書いてるけど、東京疲れで更新できなかった。東京のとある下町のとある店の前、宵闇迫り、店は閉店時間を過ぎてかたく閉まっていた。人気のないショーウィンドウをぼんやり見ていると、たくさんの紙袋を持ったおばちゃんが近寄ってきて、「探しものなの?」と聞く。「ええ」と答えると、知り合いに聞いてあげようと言ってくれ、私は携帯番号をメモしてお願いした。身なりはきれいでこざっぱりとしたおばちゃんだったけど、たくさんの紙袋の中身は海苔の缶だったり、新聞紙だったり。不思議なこともあるものだ。半信半疑だったのだけれど、おばちゃんの知り合いから連絡があり、私の探し物に手を貸してくれえることになった。探し物の神様がわたしを見捨てなかったのか、それともこれは私の醸す「人徳」か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする